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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と②【本編】


山下の「すずさん」と空襲と②
~「ほんの通りすがりに」 昭和20年7月22日の出来事~

山下空襲P-512nd略英訳0323

その日は夏らしい晴れた日曜日になりそうでした。前日、台風由来の低気圧は激しい風雨をもたらしましたが、既に日本の東に去りました(補注)。

よい天気、それは低空で襲ってくるアメリカ軍戦闘機にとっても、安全な飛行と獲物を見つけ出す良好な視界を保証するものでした。

「朝10時頃だった」と菊池浩平さんは言います。
前日の21日に菊池さん宅で不幸があり、山下町の本町通り南側に面した家の前は朝からお葬式の準備のために人があわただしく集まっていました。

藤巴力男さんによると、防空警報のサイレンは東谷国民学校(現東谷小学校)に備え付けられており、後に学校に隣接する東谷農協に移されましたが「その日は鳴らなかった」そうです。空襲警報が鳴ったら本町と下財の間のカラミ(鉱滓)の山に掘った共同防空壕に隠れるか、裏の古城山に逃げる算段だった模様です。

古城山は空襲による山火事を予測して樹木が全面伐採され、獅子山城跡の郭の段築造成がすべて見渡せる状態になっており、はからずも「昔ここに本当に城があったのだなあ…」との感慨をいだかせる景観になっていました(この伐採の反動で山は平成11年頃までイバラを含む濃密なブッシュに変わってしまい、城跡(いわゆる「山下城」)は“城郭研究者泣かせ”でした)。また登山口にあたる山麓の郭群は食糧不足のために畑地に耕作されました。子ども達も手伝って石拾いをしたそうです。

また藤巴さん曰く、この昭和20年7月頃には、既に東谷付近の高空を北上するB-29戦略爆撃機の編隊を何度も目撃していて、「また舞鶴に行きよるわ」とか「また(能勢)妙見参りかいな」などと言い合っていたとのこと。(B-29は日本の遥か南方、サイパンやグアム等のマリアナ諸島から飛来し、紀伊水道を抜けて阪神地方を爆撃したらそのまま北上を続け、北摂~丹波、京都付近で右廻りに東~南方向に転じて紀伊半島を抜けてマリアナ諸島へ帰還するようなコースをとったようです。)

さて、22日の午前中、まだ子どもだった菊池浩平さんは通りに面した縁側に座ってお葬式の準備を眺めていましたが、いきなり「だああっ!」と頭上低空を西から東へ横切る2機編隊の米軍戦闘機に驚かされました。山下の西隣、山ノ原地区の稜線上から突然敵機が出現した感じだったようです。縁側から見えたということは、戦闘機は本町通りと古城山の間の上空あたりを東方向に向かって通過したのでしょうか。
この時、藤巴さんによれば「敵機が来る、来る、来る!」との緊張感があったようですから、飛行機が見える前に迫り来る爆音が聞こえたかもしれません。

菊池さんがあわてて本町通に出て、たったいま東に去った2機を確認しようとすると、なんと、笹部地区上空の太陽方向(逆光で地上から視認しにくい)で「ピャッと」一瞬で反転(菊池さんの手まねから推測すると、ロール→背面飛行→宙返り、を組み合わせた180度反転か?)して機首を本町通りに向け、ふたたびこちらに迫って来るではありませんか!。「今度は狙われてる!」
急いで屋内に退避(当時菊池さん宅はワラ葺き屋根だった)したとたん「バリバリバリバリバリッ!」と激しい機銃弾が降り注いで来ました。タタキ(台所?)の上に立っておられた菊池さんのお婆さんの「両足の間」を弾丸が通り抜けて着物が瞬時にボロボロになり、弾丸はコンクリートのタタキで跳ね返って屋内をスピンしながら跳ね廻り、雨戸の戸袋の横桟に「横向き」にレリーフのようにめり込みました。

冒頭画像の左上写真は菊池さんが保管しておられたこの時の12.7mm機銃弾です。先端が鋭利で大きく、「ピストルの弾丸のイメージ」から比べれば2~2.5倍くらいの印象があります。(映画「この世界の片隅で」において、機銃掃射を受けたすずさんの持っていた袋やその中身が瞬時に粉々になるシーンがありましたが、この銃弾の大きさや「お婆さんの着物」の状態からリアルな表現だと感じます。)

菊池さん宅の奥の納屋は瓦が30枚ほど破損し、内部は屋根の葺き土が噴射されて土煙がもうもうとたちこめ、向こう側が見えないほどでした。画像右下は山下町の旧自治会館でこの時の状況を説明している菊池浩平さんです。

米軍機が攻撃して来た方向、すなわち本町通りの東側にあたる笹部地区の田畑には薬莢がボロボロ落ちていました。(米軍戦闘機の機銃は主翼内に6~8挺装備されており、翼下の孔から薬莢を吐き出しながら射撃します)

本町通りに面した何軒かの家の母屋や庇の瓦は、通りの南側、北側ともに破損していました。
一方、弾丸の熱が何かに燃え移ったのでしょうか。本町通り南側のAさん宅裏の蔵から煙が出始めてあわてて皆で消火活動に走ったようです。
同じく本町通り北側のBさん宅裏の便所が銃弾で破損し、その西隣、Cさん宅では裏の風呂の鋳物製焚き口が破損しました。南北通りに面したCさん宅のオモテにはちょうど来客があって、その方が縁側に腰掛けながら畳に「片手をついて」おられたところ、その方のまさに脇腹と手の間を弾丸が通り抜けたということです。あんな大きな弾丸が高速で当たったら、穴があくくらいでは済まなかったと思われます。

結局、間一髪の差でしたが「ニワトリ一匹死なへんかった。当たらんモンやなあ。」と菊地さん。
原喜代治さんによると町内には1mおきくらいに弾痕が残っていたそうです。

被害はやや本町通りの中心付近に集中しているようです。東西120m、南北50mくらいの範囲です。菊池さん宅では銃弾が「お婆さんの両足の間を抜けて床に当たった」ことから、米軍機は、よくガンカメラ映像にあるように、降下をかけながら本町通り中心付近を集中射撃してから途中で機体を引き起こしたのでしょう。
2機編隊のうち一機だけが射撃したのか、両機とも射撃してきたのかわかりません。そもそも敵機を観察している余裕はありませんでした。

この昭和20年7月頃には、相次ぐB-29による爆撃とは別に、一般に「グラマン」「艦載機」などと呼ばれた小型のアメリカ軍戦闘機が、地上にある「目立つもの」「動くもの」なら何にでも攻撃してくる状況になっていました。単なる脅しではなく、女性、子どもであっても容赦なく「一人でも多くの日本人を殺しておきたい」といった意思が感じられる攻撃ぶりでした。

民家といえば「村落」が主体の当地方にあって、山下町や下財は小さいながらも密集した町割を持つ「都市」で鉄道駅もありました。低空飛行で獲物を物色していた米軍飛行士から見れば「おっ」と少し目立つ存在ではあったでしょう。
お葬式の準備のために菊池さんの家の前に集まっている人々も見えたかもしれません。
しかし菊池さんによると、山下町にはもうひとつ目立つ要因があったと言います。

もともと伊丹の飛行場近くの神津(かみつ)にあった「神津航空」という航空機製造工場がこの頃東谷村周辺に分散疎開していました。その疎開事務所が本町通り中央のDさん宅裏にあったというのです。「伊丹市史」によれば、昭和19年暮頃から伊丹の飛行場周辺にあった航空機工場を中心とする軍需工場が、予想される空襲に備えて「分散疎開」し始めたようです。
事務所自体は普通の民家の間借りで、特に目立つものではありませんでしたが、分散した各工場で出来上がった製品の受領や出荷手続きのために神津航空のトラックが本町通りに複数駐車、待機することがありました。この7月22日も10台くらいのトラックが待機していたというのです(藤巴力男さんによれば2~3台くらいだった)。
トラックには飛行機の絵柄をデザインした社章が描かれていました。おそらく米軍機は本町通り中心付近にいたこのトラック列を見つけて襲いかかって来たのだろう、とのことです。(菊池さんによれば直交する南北通りにも駐車していて、そのためか、南北通り付近の民家の被害が、敵機の進行方向に直交するものの、50mもの長さにわたります。)
この時のトラックの被害については不明です。

この日の米軍機による攻撃はこの「一航過」だけだったのかどうか?。

原喜代治さんによれば「この時に」山下町の西隣にあたる山ノ原の水田に爆弾が投下されて爆発したというのです。あとで皆で見に行ったら水田に「噴火口」のようなクレーターが出来ていたそうです。
藤巴さんによれば、爆弾は2発落とされて、うち1発が爆発したとのこと。
場所は山ノ原の「鳴尾ゴルフ場(ここも食糧増産の畑地になっていた)5番ホール直下の崖下の細長い水田」だったといいますから、段丘崖下の大路次川に面した平野部の最南端、初谷川との合流点のやや下流の右岸(西側)付近のようです。(冒頭画像左上参照)クレーターの直径は「二間(4m弱)位」の印象でした。
昭和25年の米軍撮影の空中写真を実体視(ステレオ)して確認しましたが、爆撃痕跡とはっきりわかるような円形のクレーターは確認出来ませんでした。ただ、付近に1箇所だけ、1辺7~8m位のちょっと目立つ矩形の凹部らしきものが見えますが…。

この場所が東谷国民学校(現東谷小学校)のちょうど西側にあたるので、藤巴さんは米軍機が学校を狙って投弾したのがハズれたのでは?と推測しておられます。
この「歴史ロマンシリーズ」の「東谷小学校について」の回にあるように、この校舎は付近でまれに見るような立派な鉄筋コンクリート建築でした。昭和25年の空中写真でも、他を圧して目立っています。国内でも多くの学校が米軍戦闘機の攻撃を受けており、米軍側の機銃掃射のガンカメラ映像なども残っています。

ではこの日、通りすがりに山下町を襲ったアメリカ軍戦闘機はどこから来たどの部隊だったのでしょうか?。
自治会館の聞き取り調査では「グラマンが」「艦載機が」などという言葉が飛び交っていました。
当時一般の日本人にとってB-29以外の機銃掃射をかけてくる小型米軍機はたいてい「グラマン」「艦載機」と呼ばれていたようです。
この呼び方は本当は、日本近海に現れたアメリカ海軍機動部隊の航空母艦から発進された、アメリカ海軍空母航空団、あるいはアメリカ海兵隊所属のグラマンF6F(ヘルキャット)、チャンス・ヴォートF4U(コルセア)、カーチスSB2C(ヘルダイバー)などの戦闘機や爆撃機を「総称」したようでした。
映画「この世界の片隅に」で呉を襲う小型の艦載機群がまさにそれです。
いずれも青~紺色系の色に塗装された単発機で、機首は円筒形の空冷エンジンでした。
実際の「グラマン」F6Fの機体は、暗青色の太い「ボテっ」としたイメージです。

ただ、この聞き取り調査で菊池さんがただ一人、「ロッキードが」とおっしゃっていたのが印象的でした。日本人にとって大戦中の「ロッキード」といえば、昭和18年、前線視察中の山本五十六搭乗機を撃墜したアメリカ「陸軍」のP-38(ライトニング)戦闘機のイメージが強いでしょう。
その機体は双発双胴、というより三胴の特異な形状でしたが、液冷式エンジンを持った無塗装ジュラルミンの「銀色のスリムな機体」でした。

結論から言うと、「グラマン」ではなく「ロッキード」と言った菊池さんの表現の方が目撃印象として真実をうがっていたかもしれません。この日、山下町を襲ったのは空母からの艦載機ではなく、陸上から発進したアメリカ陸軍航空軍の「銀色でスリムな液冷式エンジンを持つ機体」の戦闘機でした。
翌日、7月23日の朝日新聞大阪版1面中央に「P51約二百機で近畿、中國へ來襲」と見出しが出ています。
ノースアメリカン社製のP-51D(マスタング)戦闘機。遥か南の硫黄島からやって来たのでした。翼の下に外部燃料タンクを着けるため爆弾は搭載していませんが、ロケット弾は装備していました。

③につづく。

(補注:北本朝展 @ 国立情報学研究所公開の天気図に拠りました。戦時中は天気図、気象情報は非公開でした。

冒頭画像は即席安易ながら、戦後の昭和25年の米軍撮影による空中写真と模型(プラモデル)を合成してみたもの。機体の位置や塗装、装備は目撃談や硫黄島に展開した部隊から推測しましたが、季節や天候、時刻も含めてかなり大味な再現ではあります。
また、攻撃した米軍関係者側も存命中かもしれず、簡単な英訳文をいれてみました。

最後に、本稿執筆中の平成二十九年二月、原喜代治さんが逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。)

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