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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十三回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十三回

☆米軍P-51戦闘機の “あの日の置き土産” のこと

☆またもや新出‼「塩川長満宛 織田信長黒印状」のこと

[昭和20年7月22日の “落とし物” ]

7月を迎えて、本格的な夏空が広がるようになりました。

7月の空といえば、ある「戦争に関する記事」がネット上で目につきました。
(昨今、「戦争」や「銃弾」といった言葉が、なにやら遠い昔ではないような世相となってしまいました…)

ともあれ、以下ひょっとしたら消されてしまう可能性があるので、複数リンクを貼らせていただきますと、朝日新聞デジタルでは

https://www.asahi.com/articles/ASQ6B758LQ6BPTLC00S.html

また、museumunewsさんという方のツイッターでは(開かない場合は「新しいタブで開く」)

https://mobile.twitter.com/museumnews_jp/status/1535492985840107520

記事は、愛媛県西予市卯之町の「民具館」の特別展において、戦争末期の「1945年7月22日」に町内岩木の桑畑に落下したという「米戦闘機グラマン」の補助燃料タンクが初めて展示された、というものです(上画像右下)。

さて、「1945年(昭和20年)7月22日」といえば、ご記憶の方もおられるでしょうか。
5年前の当連載でもお伝えしましたが、 山下町の本町通りが「硫黄島から飛来した2機編隊の米陸軍のP-51戦闘機」に機銃掃射されたのと「同じ日」なんですね。

シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と②【本編】

なお上記の朝日新聞デジタルや、民具館の説明パネルにおいては、目撃者証言から「グラマン」(空母から発進する米海軍、もしくは海兵隊の「F6F ヘルキャット戦闘機」)の画像パネルで説明されていますが、当日の関西~中国、四国の状況

シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と③【本編】

や、展示されているタンクの形状や色から、

これはやはり、米陸軍のP-51 マスタング戦闘機のもののように見えたので、一応民具館さんに問い合わせてみました。

平成9年(1998)の川西市山下町における聞き取り調査においても、一人の機体目撃者の方が「ロッキードのP-51」(実際は「ノースアメリカン」製)と、ほぼ正しく証言された以外は、皆「グラマン」「艦載機」と証言しておられ、どうやらそれが当時の「米軍の単発戦闘機全般の呼称」だったからです。

なお、今回の展示がなされている宇和民具館さんのサイトはこちら。

https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/uwachonomachinami/uwa_mingu/index.html

同じく、宇和民具館の公式インスタグラムはこちら

https://www.instagram.com/uwamingukan/

今回、やはり他の方々からも「これはP-51の補助燃料タンクでは?」という問い合わせが寄せられ、実際に民具館まで確認に訪れた人も居られたようです。
学芸員の方からはその後丁寧なメールを頂き、6月18日に新たにアップされたインスタグラム画像において、説明パネルも「グラマンF6F」から「P-51」に差し替えられ、さらに7月15日の写真ではP-51の模型や航空写真を活用したビジュアルな展示工夫も加えられていました。

模型の主翼端や垂直尾翼に「白い帯」を伴ったマーキングは、 同日山下も襲ったと推測される硫黄島の第21戦闘機航空団(21st Fighter Group、 https://7thfighter.com/21stfg/index.htm )のうちの第531戦隊(531st Fighter Squadron、 https://7thfighter.com/531st/photos/index.htm )のもので表現されています。

ともあれ、7月22日当日に 第21戦闘機航空団の一部が香川県高松を攻撃していた情報までは得ておりましたが (506thfightergroup.orgサイト中の”Number 39 (FC #243) 22 July 45″参照)、今回さらに愛媛県西南部にまで足跡が確認されたはこびとなりました。

そういえば2017年の東谷ズムにおいて、証言だけで再現したP51のプラモデルも、「タンクを切り離し後にすべきか?装着状態にすべきか?…」と悩んだ記憶があり、はからずも今回、初めて「当日の実機の一部」を見たわけですが、戦後生まれの自分にとってもなにやら ” 初対面 ではない” かのような「不思議なデジャブ感」がありました。(聞き取り調査においても、当時実際にP-51戦闘機を「しっかり視認」されていたのは、山下町のKさん一人だけでしたから…)

あと余談ながら、民具館のある卯之町(現 西予市)は、 十代の頃に読んだ司馬遼太郎の小説「花神」に 「二宮敬作」や「楠本イネ」ゆかりの町として登場していて、私はそのくだりがとても好きでしたので、頭の中で”桃源郷” のイメージを抱いておりました。

こんなかたちでリンクするとは…

[新たな “塩川氏による多田鉱山支配” を示す史料が出現]
さて、もう1つの話題です。

今春、昨年の7月1日に宮内庁が新たに公開した「塩川長満書状」( 「稙通公別記 紙背文書」のうちの2枚)の解説文を、豊能町のページに掲載したばかりでしたが、なんと今年の4月にもまた、京都市の画廊 “ギャラリー 創”様のツイッター上において、

新出の「塩川長満宛 織田信長黒印状」

が紹介されていたのを見つけて超驚きました。

これは天正七年(1579)に塩川長満が、荒木村重包囲網の一環である「七松砦」(尼崎市、上画像参照)に駐屯していた時のものである可能性がありますが、あるいはひょっとしたら天正四年(1576)の可能性もあるかもしれません。

それはともかく、今重要なのは、この手紙に織田信長が塩川長満から「青い顔料」である「紺青」(こんじょう)を送られていた事が記されていたことです。

「紺青」は多田鉱山で採れる「藍銅鉱」(azurite)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E9%8A%85%E9%89%B1 

或いは 「青鉛鉱」(Linarite)

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Linarite

から精製して作られます。色の「彩度の高さ」がおわかりいただけますでしょうか。

さて、摂津 塩川氏が「紺青」を織田信長に贈っていたことは、やはりこれまで「高代寺日記」のみに記されていたわけですが、そのことが今回「一次史料」から実証されたのみならず、これはさらに、

「塩川氏による多田鉱山支配を示す一次史料の出現」

という意義においても、非常に画期的な出来事と思われます。

ともあれ、第2会場へ参りましょう。
https://note.com/tohbee_/n/ne495a03cb2af

(つづく 2022.7.5 文責 : 中島康隆)

#織田信長 #塩川長満 #多田銀銅山 #空襲 #機銃掃射 #P-51

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