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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第八回 番外コラム : 人生色々、飛び道具だって色々…


シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第八回

番外コラム : 人生色々、飛び道具だって色々…

 

大変ご無沙汰致しております。またまた連載が遅れに遅れて申し訳ありません。本来この回はシリーズ「山下の「すずさん」と空襲と⑥ ~日本(東亜)麻工業・多田工場の場合~」を予定していましたが、4月から継続していた調査が難航しております。昭和20年7月24日に起こったこの空襲では死者までもが出ているため、どこの部隊の飛行機が多田を空襲したのか、なんとか機銃掃射のあった日までに解明しようとしましたが、同日に西日本でなされた空襲の数があまりにも多く、部隊を確定出来ぬまま、ついに終戦の8月15日さえ過ぎてしまいました。よって、調査の方は引き続き継続するとして、連載としては徐々に本来の摂津塩川氏関連の話題にシフトしたいと思います。勝手ながら宜しくお願い致します。

 

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また遅ればせながら、6月4日は東谷ズム2017第2会場「戦国1日博物館」にも多数お越しいただき、ありがとうございました。今回はいつもの塩川氏関係の展示に加え、長テーブル1つ分の「空襲コーナー」も設けましたが(上写真)、おおむね好評でホッとしました。展示をご覧になって空襲当時を思い出された方々、あるいは初めて知った東谷周辺の空襲に驚かれた方々、「火垂るの墓」との意外に近い関係に注目された方々など、様々な反応がありました。第1会場ではドローンが飛行していたようですが、ここ第2会場でも怪しき4発機が低高度から睥睨(へいげい)しておりました。

 

さて、今回の展示を通じて、新たに得られた戦時中の出来事を記しておきますと

*       当時「木炭バス」が運行されていたが、山下の北口(一庫から)の坂はよう登らなんだ。(映画「この世界の片隅に」でも同様のシーンがありました。)

*       当時、本町通りには(航空機製造関連の)トラックが確かによく停まっていた。

*       現・山下自治会館の場所に当時蔵があり、中に大量のベアリング(航空機に使う?)が保管されていた。

*       昭和20年7月22日の機銃掃射で、弾丸が裏手の物干し台にあった盆栽を貫通して室内の箪笥に飛び込み、引出しの中の衣類をグチャグチャに引っ掻き回して止まっていた。弾丸はその後兄のオモチャになった。

*       昭和20年6月5日に墜落した飛行士の捜索には2日程かかったように思う。弔いは笹部の大昌寺でおこなわれた。

*       大昌寺にアメリカ兵の遺体が安置されていると聞いたので見に行ったら、日本の飛行士だった。本堂に横たわる遺体を縁の外から覗き見た。遺体はきれいなままで、血なども付いていなかった。飛行士の服装をしていたが、飛行帽はかぶっていなかった。顔は丸顔ではなく、面長だったように思う(前回紹介した当時9歳だった山下のA子さん。前回触れた飛行第56戦隊の小野傳(つとむ)軍曹も面長なので顔写真(高木晃治「飛燕B29邀撃記」所収)を見て頂きましたが「うーん、そこまでは…」という感じでした)

*       B-29が2~3機ほど来て、山下周辺に大量の銀紙を降らせた。これは無線妨害のためらしい。(これは特定の長さに切られたアルミ箔と思われ、電探欺瞞紙、チャフ(chaff・米)、ウィンドウ(window・英)などと呼ばれたものです。電波警戒機(レーダー・六甲山などにあった)に反射してしまうので、空中に大量散布すると、あたかもB-29の編隊がそこここにいるように見えます。性格上、夜間戦闘機の迎撃を撹乱するため、大阪や神戸の夜間爆撃が行われた昭和20年3月あたりの出来事でしょうか?。なお「無線妨害のため」というのは機密(レーダー)保持のために、あえてそういう話が広められたのかもしれません。)

 

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番外コラム : 人生色々、飛び道具だって色々…

 

さて、改めまして今回のテーマに移りますが、執筆のきっかけは山下町で見せていただいた米軍の機銃弾の「重量感」でした。

冒頭の比較画像の中央⑤番の鉄錆色の部分が、昭和20年7月22日にアメリカ陸軍のP-51戦闘機から山下町に撃ち込まれた、ブローニングM2の12.7mm(0.5インチ)機銃弾の弾芯です(菊池浩平氏所蔵)。往時は外側をさらに丹銅製の被甲(点線部)がかぶっていたようです。

画面に定規をあてて頂いて、左上のスケール(10mm)を実寸に調整していただくと大きさが感じられるかと思います。ずっしりと重いこの物体を手にのせてみた時、なんとなく以前城跡で表採した「昔の飛び道具」の遺物と並べて比較してみたくなったのです。

時代は違えど、似たような目的の道具たち。そこから何か人間の業(ごう)みたいなものが浮かび上がって来るような気がしたのです。

 

[縄文時代の石鏃]

比較画像の左端①は向山城跡東斜面で表採した、縄文時代と思われる石鏃(矢じり)です。向山は古城山と谷を隔てて北西に隣接する、「向山トンネル」の上の山です。山頂は造成されており単郭の砦跡を呈しています。獅子山城(いわゆる山下城)の北西側の死角をカバーする出郭として、最初塩川国満時代に築かれたと思われます。山頂は旧一庫(ひとくら)村と山下町(天正以前は笹部村)との境界になっており、当城の初見記事、「細川両家記」の天文十年の項に記された塩川伯耆守のたてこもる「多田一蔵城(ただひとくらのしろ)」のメイン部分はひょっとしたらこちら側であったかもしれません。

郭は「折れを伴う低い土塁」を持ち(木内内則氏の御教示による)、南西側には「折れを伴う横堀」を構えるという近世的な構造を持っていて、このあたりは塩川長満時代、おそらく天正六~七年頃の「荒木村重の反乱」の時に改修されたと推定しています。この時、能勢郡の能勢氏が荒木方に付いたので、この砦は「毛利・本願寺方」に対する「織田方」の最前線になってしまったのです。

獅子山本城に比べて遺物は少なく、戦国時代のものはわずかに土師器皿片数個体分と、薄手の白磁片2個体分を表面採取しています。また向山は別名「甘露寺山」とも呼ばれ、現在山下町にある甘露寺が平安時代以来、ここにあった可能性もあるので、(補注1)そういった古い時代の遺物が散在していないか、砦周辺の斜面を念入りに調べていたところ、この石鏃に出会ったというわけでした。ちょっと古すぎましたが。

石鏃は砦の東側の堀切に面した斜面上、土塁の天端から2~3m下で見つけました。ガラス片の様に薄く鋭利に割れる「貝殻状断口」をもったサヌカイト製で(豊能町の小嶋均氏の御教示では二上山産か?とのこと)、山の基盤岩を構成する風化した泥質岩とは全く異質で、小片ながら目立っていました。おそらく山頂付近にあったものが16世紀の砦構築の際に土塁内に入り込み、長年の雨に洗われて再び地表に顔を出したのでしょう。

縄文時代については全く不勉強ながら、鈴木道之助「図録・石器入門事典(縄文)」によると、この石鏃の形状は底辺が一直線で矢本体に接続する茎部を持たない「平基無茎鏃」にあたり、縄文時代「草創期」から、近畿地方では「前期」に一般的に出現するそうで、この遺物1点だけで判断するのは危険ながら、ざっと1万3000年前~5000年程前のものでしょうか。この向山辺りは今でも猪や鹿に普通に出会うので、時間を超越したような不思議な印象を受けます。同書から引用すると「日本における弓矢の存在が明らかとなるのは、縄文時代の開始とほぼ同時期であり」「(石鏃の)出現当初は(槍や投げ槍の先端に使われた)尖頭器や有舌尖頭器とともに発見されるが、しばらくすると有舌尖頭器は全く消滅し、尖頭器も極端に減少してくる。これは、当時の人々にとって弓矢は有効な狩猟具であると認められ、ごく短期間に広範囲に採用されていったことを示している。」

日本において、この「弓矢という新しい飛び道具」に目覚めたのは縄文人だったというわけですね。よくある「縄文人の復元イラスト」などでは、集落での生活や、草原での狩猟のシーンが描かれていますが、向山の山頂~尾根線のような急峻な山岳での縄文時代の狩猟を想像してみると、ちょうど「マタギ」とか、ヨーロッパアルプスの氷河の中から発見された「アイスマン(Oetzi the Iceman)」の復元レプリカような姿、装備を想像してしまいます。そういえば「アイスマン」も5000年前の人で、この石鏃と同時代人かもしれません。彼も弓矢やをもっており、戦士であったのかとも推定され、彼自身の体内に矢尻が残存がしていて、弓矢で殺害されたようです。こんな時代から人類は飛び道具を使って殺し合っていたとは…。また5000年後に自分がこんなかたちで「世界的有名人」になってしまうとは…。人生というのはわからないものです。

なお縄文時代の弓の遺物は結構出土しているようですが、矢の遺物には調べたかぎり見当たらず、画像左端の矢は想像図です。

 

(補注1)現在山下町西南にある甘露寺の寺伝によれば、もともと城山には平安時代中期に延暦寺の源信(恵心僧都)、源満仲の子源賢(美女丸、円覚)草創の「月光山薬師寺」なる寺院があり、その後断絶したということです。貞和年間(1345-1349)には付近に「源頼仲」の館があり、館に泊まった廻国中の玄誉慧公和尚が、霊夢に導かれて山上の荒廃した寺院跡を発見します。玄誉は頼仲に出家を勧め、寺を再興させ、寺の名も「大雨山甘露寺」と改めました。しかし後に、塩川伯耆守が山に築城する際に寺を「他所」に移しました。

伯耆守は寺の宝物も没収し、これが原因で病や霊夢に祟られました。そこで鎮魂のために城内に「十王房」なる堂を建てたようです。

実は獅子山城の東三郭~東五郭にかけて、わずかながら東播産の須恵器の甕片や、15世紀以前とおもわれる土鍋の口縁部など、平安末~室町中期の、獅子山築城以前の遺物が散見されます。

山岳寺院は山頂を神聖なものとして自然のままに残してその南に建てられることが一般的です。現在主郭の南部が郭面に削平された岩盤を露出しており、ここが元々山頂だったのでしょう。したがって獅子山城の東三郭~東五郭あたりが位置的に旧甘露寺跡だったと私は考えています。

甘露寺は天正五年に光誉上人により再興されます。現在観光バス会社のある「平井」の丘も「甘露寺山」(あるいは「家老(かろう)が居た」)と伝わっており、塩川長満時代の甘露寺はここにあったのでしょう。時期的に城下町建設時にあたるので、塩川氏としては北の町口の防衛を意識した建設かとおもわれます。城下町における「寺院」は有事の際の砦になるのです。残念ながら平井の丘は調査もなされず、道路建設で破壊され、工事前に寺の遺物と思われる、付近に転がっていた室町時代頃の一石五輪塔や小石仏が現在城山登山口集められてに祀られています。甘露寺が現在地に移転したのは豊臣時代の慶長年間です。

現在、甘露寺西の大路次河畔の段丘崖下には慶長頃を思わせる技法の瓦片が散在しています。

 

[火縄銃の弾丸]

さて、時代ははるかに下って戦国時代の飛び道具に移りましょう。比較画像の②、③は獅子山城跡で表採した塩川時代の鉛製の鉄砲玉です。表面が酸化して白くなっていますが、少し削ってみると本体は銀色を呈しており、ずっしりと重いものです(これによく似たものは城跡にたくさん落ちていますが、たいていは干からびた鹿のフンなので御注意を)。②は東三郭の北端で、③は東五郭西南角付近で見つけました。重量はそれぞれ7.7g、9.4gで、「二匁玉」に属するようです。

同じ銃弾ながら右隣のブローニングM2の400年先輩にあたります。

なお、「戦国時代の城跡で火縄銃の弾丸が見つかった」というのは、まあ当然といえば当然の出来事ではありますが、ここ塩川氏の獅子山城跡から見つかった銃弾はちょっとだけ「歴史的意義」があります、というのは少し大げさでしょうか。この城は、知られざることながら「日本銃砲史」のある重要な局面の「舞台裏」にちょこっと顔を出しているのです。

 

16世紀半ば、戦乱の続く時代の中で、まだ「鉄砲」という道具の可能性は未知数でした。

「これは本当に役に立つのか?それともただのオモチャに過ぎないのか?」

ちょうど近代の軍隊が「航空機」というものに初めて出会った時もこれと同じ疑問にぶつかったことでしょう(その結果を日本人はイヤというほど思い知らされますが)。

そんな中で、獅子山城にはこの道具を先進的に取り入れた、ある重要人物が訪れているのです。鉄砲の歴史を語る時、彼なしでは成り立たない人物。えっ?織田信長でしょうって?。いやいや、これは信長が当地を訪れる、まだ30年も前の物語…

その人物とは、「足利幕府管領・細川晴元」その人です。

 

醍醐寺の理性院厳助(げんじょ)の日記「厳助往年記」天文十八(1549)の四月の項に「廿六日。右京兆(晴元)出陣丹波越。摂州多田塩香城逗留云々」とあります(「塩川」は当時「しおこう」と発音していたのでしょうか?)。「細川両家記」にも「四月廿六日に京より晴元多田塩川城へ御下向有」「五月廿八日に晴元は多田一蔵より三宅城へ御入有也」の記載があります。細川晴元が塩川国満の獅子山城に滞在したのは天文十八(1549)の四月二十六日から五月二十八日までの一ヶ月もの間。足利家管領たる者がここでいったい何をしていたのでしょう。

 

実は細川晴元はこの時配下の三好長慶の反乱を受けて、劣勢、凋落しつつありました。晴元や彼の腹心と言うべき三好政長(宗三)に対して反感を抱いていた三好長慶はじめ畿内の多くの国人衆が反乱。政長の(息子政勝の篭城する)榎並城(現大阪市城東区)を包囲していました。晴元側の国人は今や少数派となり、塩川国満もその1人だったのです。この年正月二十四日には、三好政長に率いられた塩川勢が三好長慶方の池田の町を焼き討ちしたり(細川両家記)、三月には柴島(くにじま、現大阪市)城をめぐる両軍の戦いがあり(細川両家記)、塩川宗英が戦死(高代寺日記)しています。既に三好政長は獅子山城に頻繁に出入りしていたことでしょう。

今や細川晴元は榎並城を救援しなければ自らの立場も危うくなりました。この四月は、まず近江に出向いて観音寺城の六角定頼に援軍を頼み(「厳助往年記」ほか)、再び京に戻って今度は山陰道~丹波経由で摂津に入り、ようやく獅子山城まで達したというわけなのでした。

 

細川晴元が塩川国満の支援を受けてこの城に逗留したというのは思えば皮肉な運命でした。

16世紀前半の畿内中の戦乱というのは、複雑でとても書ききれませんが、細川家の内紛が核になっていると言えるでしょう。その中でかつて塩川国満は細川晴元の宿敵、細川高国派でした。国満の「国」は高国から与えられたものです。そもそも8年前、国満がこの獅子山城を築いて篭城したのは「細川高国(既に滅亡していた)派残党」としての晴元への反乱だったのです。当時晴元は獅子山城を包囲させ、その寄せ手には三好長慶や三好政長までもいました。

時代が変わって、その晴元や政長が今この城に滞在している…。国満は目上の晴元を当然ながら獅子山城山頂の主郭の館に滞在させたことでしょう。主郭から見つかる輸入磁器片や土師器皿の破片(当連載第1回の画像参照)には晴元が使ったものも混じっているかもしれません。また以前の「番外コラム:獅子山の城から、海が見えた!?」にて、主郭から大阪湾が少しだけ見えることを述べましたが、晴元もここから「堺沖の海」を感慨深く眺めたのではないでしょうか。なぜなら、かつて三好氏の支援を受けて育った晴元は少年時代を阿波の国ですごし、そこから海を渡って堺の町を足がかりにして畿内に進出して来たのです。その彼は今、三好長慶に背かれて危機を迎えています。そしてもうひとつ、堺を通じた出来事がありました。

 

さて、ここからが本題ですが、この劣勢の晴元にも1つだけ心躍る出来事がありました。憂鬱な彼もこの1点に関してだけは心がウキウキしていたのではないかと思われることです。

獅子山城に到着する直前、彼はおそらく人生で初めて自分の「鉄砲」というものを手に入れていたのです!。

 

晴元の書状が京都の本能寺に残っています。「種子が嶋より鉄放馳走し候て此方へ到来す。誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候。、御届あるべく候。なほ古津修理進申すべく候。恐々謹言。四月十八日 晴元  本能寺」(本能寺文書)。

この「誠に悦喜せしむる」は単なる社交辞令ではなく、晴元が本当にニヤニヤしている気がします。最新のオモチャをゲットした「男の子」とはそういうものです。

本能寺と晴元の複雑な関係、そして種子島での鉄砲生産状況などから、この文書が書かれた年代は天文十八(1549)年と推定されています。これが事実なら、晴元が獅子山城に到着するわずか8日前のことです!。彼は、京か六角氏と打ち合わせをしていた近江の出先で鉄砲を受け取ったのでしょう(なお文中の「古津修理進」は人名で晴元のスタッフ)。

これも皮肉な運命ですが、晴元が幕府で強力な地位にあった12年前、いわゆる「天文法華の乱」が起こり、本能寺は晴元の指示で延暦寺や六角氏らの軍に焼き討ちされ、7年前まで堺の町に追放されていたのです。しかし本能寺は以前から堺の町のみならず、船を通じて種子島にまで信徒を増やしていました。鉄砲の生産地、種子島では領主種子島時尭さえ法華宗徒でした。つまり、本能寺は鉄砲の生産地に強力なコネがあったのです。今、彼の手元にある鉄砲は本能寺が堺を経て海路、種子島から取り寄せたのでしょう。その海が、ここから見えていたわけです。

 

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なお、若き織田信長は晴元より2年早く、天文十六(1547)年に橋本一巴(この人物についてはほとんど不明)から鉄砲の稽古を受けています(信長公記)。信長自身、法華宗とは親密で、法華宗の宿敵延暦寺を焼き討ちしたり、彼自身が本能寺で死ぬ事実を考えると、信長が最初に手に入れた鉄砲も、ひょっとしたらこの「本能寺ルート」だったかもしれません。

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細川晴元や彼の軍勢が獅子山城に到着するや否や、三好政長は晴元側の伊丹親興と共に軍勢を整えて、三好長慶側の西宮や尼崎などをさかんに攻撃します。しかし晴元自身は獅子山城に一月以上も留まっていました。

以下は全くの状況からの想像ですが、多忙だった晴元は獅子山城で、鉄砲を入手してから初めて、それを試してみる「時間的余裕」を得たのではないでしょうか?。この新兵器の特性を知る必要もあったでしょうし、得意げに塩川国満にも披露したかもしれません。主郭から堀切を越えればすぐに山中で、動物や鳥を標的にして練習するのも手軽だったはずです。と、すれば笹部村や一庫村にまさに「晴天の霹靂(雷)」のような轟音が響き渡り、村人は驚いたことでしょう。ともかく、多忙な彼が当時まだ珍しかった鉄砲というものを入手してから8日後に獅子山城到着し、一月あまりも逗留したのです。

 

晴元は五月末に獅子山城を出立。先に三好政長が占拠していた三宅城(現・茨木市)まで前進します。六月には六角氏の援軍到着を待たないまま、強引に出撃した三好政長が三好長慶側と「江口の戦い」で衝突しますが惨敗。政長は戦死。晴元は彼が擁した足利義晴と共に近江に亡命してしまいます。ここに細川晴元政権は崩壊しました。

 

七月には三好長慶が上洛。初の「戦国大名による政権」ともいえる三好政権が誕生し、歴史は「近世」へと大きく進みます。そして「近世化」したのは政事体制だけではありませんでした。

十月には執拗な細川晴元が足利義晴と共に京を見下ろす東山に中尾城を築城して再び抵抗。翌天文十九年(1550)五月に足利義晴が病死しますが、すでに将軍職を引き継いでいた息子の義輝(当時義藤)が篭城に参加。七月十四日には市街で三好、細川両軍の小戦闘がありました。筆まめな公家、山科言継(ときつぐ)がこの戦いを「禁裏築地之上」で見物していてその日記に記していました。三好軍は1万8千人の大軍だったようですが、晴元軍はゲリラ戦に転じたのか「細川右京兆(晴元)人数足軽百人計出合、野伏有之、きう介(三好弓介)輿力(与力)1人鉄|に当死、云々」と伝聞記事を書いています(|は縦棒)。

大軍に対して新兵器を持った少数の「足軽」「野伏」で戦うあたり、ちょっと幕末の長州藩の「奇兵隊」(身分が低い・軽装・新式銃・ゲリラ戦)の出現を思い起こさせます。

そして「「弓介与力一人」とあるだけで名前が分からないのが残念だが、文献史料のうえでは、この無名の侍こそわが国で最初に鉄砲で撃たれて死んだ記念すべき人物である」(鈴木眞哉「鉄砲と日本人」)とあるように、遂に「銃弾による死者」という新しいかたちの犠牲者が出たのです。

 

この連載は今年に入ってから銃撃のことばかりを取り上げてきました。前回は山下上空でB-29の機銃弾幕で撃墜された日本の戦闘機乗りのことを書きました。16世紀以来、現在に至るまで、銃弾で死んだ日本人は何人いるのでしょう。しかしその「第1号(少なくとも記録上の初見)の人物」は、細川晴元の足軽部隊が撃ったのでした。細川晴元はこんなかたちで日本の鉄砲の歴史に名を残しました。繰り返し述べますが、1年前に晴元は鉄砲を入手してわずか8日後に獅子山城に入り、一月以上もここに逗留していたのです。

 

さて、ねばり強かった晴元も結局この11年後に三好長慶に降服。失意の中幽閉状態で死去します。実質最後の室町幕府管領でした。

 

[銃弾は城内で鋳造していた]

細川晴元の鉄砲の威力は、ともに戦った足利義輝をも魅了しました。宇田川武久氏の「鉄砲伝来」によれば、義輝は3年後の天文二十二(1553)年五月二十六日、上州新田郡金山城の横瀬雅楽助成繁に鉄砲一挺を送っています(由良文書)。義輝の送り状に添えられた側近大館晴光の書状によると、この鉄砲は義輝の東山霊山城内において、「南方」(宇田川氏によれば堺のこと)から鉄砲鍛冶を呼び寄せて作らせたもの、とあります。

他人に進呈する程ですから、すでに城内の鍛冶工房では鉄砲の量産が始まっていたと推測されます。

獅子山城でも、少なくとも武具を修理する鍛冶工房くらいはあったでしょう。

さて、比較写真の中央一番下の④は山頂の主郭南西部採取した鉛です。飛来してひしゃげた弾丸ではありません。重量は4.2gしかなく、底が平らです。これは鉛から弾丸を鋳造する際に、床などにポタっと落ちた雫と思われます。戦国時代の城跡ではしばしば鉛の塊(インゴット)や土師器の容器に流し込まれた鉛、銃弾の鋳型、熱いものをつかむヤットコなどが見つかっています。溶かした鉛を鋳型に流し込むと、ちょうど串団子のような形状が出来上がります。これをプラモデルのようにハサミで切り離してヤスリをかけ、球状の弾丸に仕上げたのでしょう。

ここに戦国時代末期、戦闘中の城内における銃弾の鋳造などに関しての、当時少女だった人の大変興味深い証言があります。「雑兵物語」と共に「口語体」で書かれた珍しい戦国ドキュメント(共に岩波文庫からも出ている)「おあむ物語」です。以下にご紹介しましょう。

 

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江戸時代前~中期の正徳年間(1711~15)、ある場所(土佐か?)に老人がいました。彼の名前は未詳です(この物語の写本はさらに十数年後の享保十五(1730)年のものが最古です)。老人は孫たちを集めて昔話をしました。戦国時代の篭城戦の話もしました。この話は彼自身の体験談ではありません。老人がまだ八歳頃だった寛文年間(1661~72)、近所にいた「彦根ばば」とあだ名される老女から聞かされた話です。老女は「おあむ(ん)様」と呼ばれていました。老尼を意味する「御庵」のことと考えられています。この寛文年間に「八十余」で亡くなりました。彼女は天正年間の生まれでした…。

 

私は「こどもあつまりて、おあむ様むかし物かたりなされませ、といえば」という、この物語の冒頭文がとても好きです。上記の正徳年間の「老人」はこの「こども」の一人だったのです。これに続いて「おれが親父は…」と「おあむ様」は語り始めます。彼女は自分のことを「おれ」と称したのでしょうか(私も昭和55年頃、岐阜県多治見市あたりでローカル電車に乗っていて、近くの座席にいた老女が「オレはよう…」と自分のことを語っていたのを懐かしく覚えています)。

「おあむ」の父は山田去暦といい、石田三成の家臣でした。一家は三成の居城、近江の佐和山城下(現彦根市)にいました。父は三百石取りの身分でしたが、彼女が詳細に語る衣食など、当時の生活は貧しいものでした。「おれが兄様は折々山へ鉄砲うちにまいられた」とあり、文脈からこれは武士としての武芸の鍛錬よりも、食糧の確保のようです。彼女は当時の貧乏話を語った上で「今時の若衆は…」と現在(寛文年間)の若者の衣食の贅沢ぶりを批判します。こういったフレーズは「永遠のテーマ」でしょう。

慶長五(1600)年、関が原の戦いが勃発、十五~六歳だった「おあむ」は父や家族と共に、西軍の基地となった美濃の大垣城へ詰めます。「家族ごと篭城する」というのは、近代の戦争から見れば不思議な感じがしますが、これは「城下町」の存在理由と同じく、「人質」の意味もあったのでしょう。彼女曰く「我々母人もそのほか家中の内儀むすめたちも、みなみな天守に居て鉄砲玉を鋳ました」(これ、「現代語訳」でなく「ほぼ原文のままの表記」です。もっとも江戸時代中期の写本ですが)。戦闘状態の城内では女性たちが鉄砲玉を鋳造していたのがわかります。このあたり、昭和20年の軍需工場における「女子挺身隊」などの情景とちょっと重なってしまいます。

彼女は他にも数多くの興味深い体験を語っています。

例えば「いし火矢(大砲)」を撃つ際、轟音と衝撃で城内の者が驚かないように「触れ(予告)」が回った事。石火矢は天守から発射されたらしく、射撃の反動で建物も「ゆらゆら」揺れて気を失う婦人まで現れたためでした。が、そのうち皆慣れてきてなんとも思わなくなりました。

また、味方が斬獲してきた「敵の首」は天守に集められ、札を付けたり「お歯黒」を施したりして整えるのも女性たちの仕事でした。「首もこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に寝たことでおじゃった」と語っています。

また落城直前、悲劇が起こります。「鉄砲玉来りて、われらおと々(弟)十四歳になりしものにあたりしそのま々ひりひりとして死んでおじゃった。扨々(さてさて)むごい事を見ておじゃったのう」。流弾に当たった彼女の弟が体を痙攣させて死んでゆく光景が眼に浮かぶようです。

結局、落城寸前に山田去暦一家は城からの脱出に成功、土佐へ逃れることができ、この不朽のドキュメントは後世に残されました。しかし、「おあむ」たちが銃弾を鋳造したり、敵の首に化粧を施した舞台である「大垣城天守」のほうは戦乱で焼け落ちて今はありません。天守を焼いたのは徳川勢ではなく、B-29の編隊でした(昭和20年7月29日。国宝でした)。戦後、鉄筋コンクリートで外観が復興されています。

 

なお「おあむ」が大垣城攻めの東軍の大将として指摘している武将「田中兵部(吉政)」(このことから彼女が佐和山城攻めと混同しているという指摘もある)は歴史上、石田三成を生け捕りにした人物として有名ですが、実は摂津・塩川氏とも浅からぬ「ご縁」があります。

塩川氏滅亡後の天正十一?~十三年にかけて、摂津国を奪った羽柴秀吉は、甥の三好孫七(当時「信吉」、後の豊臣秀次)に旧塩川領や、美濃へ追い出した池田恒興、元助らの領地を与えた形跡があり、行政官として秀次を補佐したと思われる田中吉政が、近江八幡に去り際の天正十三年に、塩川領だった多田院や清澄寺(清荒神)に「寄進を保証する」文書を残しているのです。他に「武家事記」にもこの時分の吉政のエピソードがあります。また、塩川長満の兄であった「運想軒」とも関係が深く、運想軒自身の「日記」から多く引用している「高代寺日記」にもしばしば登場します。おそらく運想軒~田中吉政を通じて多くの塩川浪人たちが豊臣秀次に再仕官したと思われます。

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[米軍のブローニングM2 12.7mm機銃弾の鋼製弾芯(core of .50 Browning Machine Gun)]

画像中央⑤は、本連載「山下の「すずさん」と空襲と②」で紹介した、昭和20年7月22日にP-51戦闘機から山下町に機銃掃射された時の銃弾の「芯(鉄錆色の部分)」です(菊池浩平氏所蔵)。

銃に疎い私は、本稿執筆まで、この鉄の塊が、薬莢から飛び出た「銃弾そのもの」だと思い込んでいました。実際の銃弾(ブローニングM2普通弾)はこの「弾芯」の外側を銅合金の「被甲」が黄色の点線の位置まで覆っており、被甲と弾身の間、紫色の部分に「鉛合金」が充填されていたようです。わざと先端がつぶれやすく広がる素材を使うことにより、人体など「軟らかい」標的へのダメージを増やし、かつ硬い鋼製の弾芯によって強靭な標的をも貫通出来るという、おぞましくも、「よく考えられてる道具」ではあります。

先日のNHKスペシャル「本土空襲 全記録」において、奈良県王子駅でP-51の機銃掃射を受けた女性の体内から、「潰れた鉛の塊」が摘出されていたシーンがありましたが、その意味がこれでわかりました。私は、「鉛の弾」なんて西部劇以前の話だろうと勝手に思い込んでいました。今でも弾丸は鉛が主な素材なのですね。

⑤の弾丸の方は、山下町の菊池さん宅台所の「タタキの床(コンクリート製?)」で跳ねかえったあと、屋内あちこちにぶつかってから止まったようですから、その間に被甲や鉛の部分は剥がれてしまったのでしょう。

これは同時に、②、③の火縄銃の弾丸についても考えさせられます。鉛が素材として選ばれた理由として「比較的安価」「鋳造が容易」「比重が大きい(標的への衝撃が大きい)」などは推測していましたが、加えて「人体内部で潰れやすく、与えるダメージが大きい」という理由もあるとすれば、これもなかなかおぞましい道具です。

なおブローニング12.7mmの機銃弾としては「焼夷弾」も何種類かあり、これには先端内部の鉛の代わり、種類によっては弾芯部分をも含めて「焼夷剤」が充填されています。山下への機銃掃射の時に火災を発生させた家がありましたし、前回の連載において、B-29搭載の機銃弾の説明として、「弾丸は徹甲弾(穴をあける)、炸裂弾(爆発する)、曳光弾(弾道を見せる)が一定比率で装填されていました。」と記しましたが、この「炸裂弾」は「焼夷弾」と訳した方が適切だったようです。山下上空で目撃されたB-29との空中戦で、日本の邀撃機が一瞬でオレンジ色の炎に包まれたのも、米軍の「焼夷弾」が燃料タンクに命中した、と考えることができるでしょう。

それにしても、このブローニングM2機関銃がアメリカ軍に制式採用されたのが80年以上前の1933年で、今現在も日本の自衛隊を含む第一線で「現役」であるという、恐ろしく息の長い存在なのには驚きます。それどころか、戦時中日本の陸、海軍が使っていた日本製機関銃の中にも、このM2をベースにして開発されたものがあり、こういった現象は「敵」「味方」「中立」といった概念についても考えさせられます。

また開発者のジョン・ブローニング(Jhon Moses Browning)は1855年~1926年の人ですから、日本の年号で言えば嘉永末~安政初頭生まれなのですね。日本がB-29どころか、たった数隻のペリー艦隊の圧力に屈して「日米和親条約」を締結した頃です。

 

ちなみに日本は16世紀末には「御朱印船」で知られる末次船など、独自の洋式帆船などを建造出来る技術がありました。徳川家康も伊達政宗も洋式のガレオン船を建造しており、後者は支倉常長の使節に太平洋を横断させています。洋式帆船には「水密甲板」や大砲が撃てる「ガンデッキ」がありました。が、江戸時代の「天下太平」はこうした「艦砲射撃が出来る船」の建造自体を禁止することによっても成立しました。日本の支配者が住む「近世城郭」という、石垣の上に木造建築を載せた垂直的建造物は、銃弾はともかく、質量の大きな砲弾に対処した防御施設ではありません。そのことは大坂冬の陣で大砲を多用した徳川氏が誰よりも知っていました。湾に面した広い江戸城を攻撃するとすれば、「艦砲射撃」が最も有効かつリスクが低かったでしょう。幕府は大名たちに大型の軍船(安宅船など)の建造を禁じ、一般にも建造を赦した船は、外洋航海用も含めてすべて「甲板のない」、つまり戦艦たりえない弁財船(樽廻船、北前船などで知られる大和型船)などの和船だけでした。弁財船の、一見甲板状に見える中央のデッキは、板を畳のようにはめてあるだけでした。

「大きな飛び道具が使えない船で成立していた平和」は19世紀のアメリカ人の外圧によって一瞬で崩壊。日本は幕府を筆頭に180度方針転換。洋式船建造ラッシュが起こりました。

 

[米軍のHVARロケット弾]

画像右端⑥はアメリカ軍の艦載機やP-51戦闘機などがしばしば搭載していたロケット弾、HVAR(High Velocity Aircraft Rocket)の模型です。縮尺は黄色の「0―1M」参照。

以前の連載「山下の「すずさん」と空襲と②~③」でお伝えしたように、昭和20年7月22日のP-51による山下空襲の際、山原の水田で爆発があったことから、この時ロケット弾が撃ち込まれた可能性があります。さらには、これは東谷国民学校(現小学校)を狙ったのではないかとも推測しています(この頃の学校の「校舎」は軍需工場の分散疎開場所として利用される事もありました)。

この日関西地区を襲ったのは硫黄島に展開する3つの航空団のうちの第21戦闘機航空団(21st Fighter Group)所属の戦闘機で、ロケット弾攻撃が事実ならば、山下を襲った2機は、この航空団で唯一HVARを扱っていた第531戦隊(531st Fighter Squadron)所属の戦闘機と思われます。両翼下に2つの増槽と共に計6発のHVARを搭載していました。この戦隊のP-51はプロペラスピナー、主翼端、垂直尾翼の帯が「白」に塗られています。先日のNHKスペシャル「本土空襲 全記録」でも、この戦隊の機体がちょっと映っていました。

東谷村に比べると、格段に空襲が多かった豊中の空襲体験談を読むと、7月30日に「小型爆弾」(P-51のHVARと思われる)で家族を失った人の凄惨な体験談があり(大阪教育大学教育学部付属池田中学校郷土研究部歴史班「豊中空襲の記録第1~2集」など)、つくづく山下には命中しなくて良かったと思いました。また、7月30日には豊中市岡町にP-51が撃墜されており、そのプロペラが現在、大阪市森之宮の「ピースおおさか(大阪空襲を語り継ぐ平和ミュージアム)」に展示されています。

 

参考までに、HVARと縄文時代の矢(想像)を並べてみました(冒頭画像右端)。なお、ロケットの歴史は古く、火箭と呼ばれる「ロケット花火」状の武器は、中世後期の中国やヨーロッパにはあったようです。

 

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