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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十五回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十五回

佐々成政のニュース等から~

①    再録、古城山・車谷に眠る「元・石垣の築石たち」

②    天正十四年、能勢郡の本当の“領主”は「佐々成政」だった!

③    中世・大昌寺復元の試み ~開祖は越中・立山寺から来た~

④    塩川氏と関わる“きっかけ”となった“ある紀州の城”。告知を兼ねて。

[はじめに]

またまたいつもながら、すみません。今回「越後・村上」の事を書くことを予告してしまったのですが、一月にある“ニュース”が飛び込んで来ましたので、急拠、そのお隣の「越中」、及びその関連で「能勢」、「中世大昌寺」ほかの話題に差し替えさせていただきました。宜しくご了承下さいませ。

なお、前回の「山名禅高」特集において、特に鳥取城主時代の記述に色々「誤り」等ございました。例えば山名豊国が髪を落として「禅高」になったのは、おそらく城を追放された「天正八年秋」であろう事。但馬の山名惣領家と山名禅高との記述が、混同されている事等々…。こちらも訂正、加筆のうえ、「前編・後編」に分割して再アップしたいと存じます。こちらも宜しくお願い致します。

① 再録、古城山・車谷に眠る「元・石垣の築石たち」

さて、冒頭は昨年の連載第十一回、「出現?! 「艮(うしとら)櫓」復元の試み」において触れた、“崩落石垣痕跡”の話題の「焼き直し」ですが…。

獅子山城(いわゆる山下城)主郭の北東隅、尾根線を遮断する「二重大堀切」を見下ろす「土塁」の北端に位置する通称「櫓台」外側は、かつては高さ5m程の「石垣」で構成されていたと考えられます。しかし、その石の大半は、人為的な破却や、この430年間にわたる自然崩落等により、ことごとく失われて見ることが出来ません。そして現在、主郭北西下を流れる「車谷」の沢の中に、城から崩落してきた「元・石垣の築石(つきいし)」が点在している、という話題に触れました。

たまたま最近、車谷を訪れると、ちょうど「冬枯れ」で水量が少なく、かつ、まだ下草が生えていなかったため、この崩落してきた築石たちの様子が、大変よく見えましたので、あらためて画像をアップさせて頂きます(上の画像①~③)。

石々の間には、時折、わずかながら「瓦片」を見出すこともあります。現場(②)に立つと、獅子山城主郭に部分的ながら「織豊系の石垣や瓦葺建築が存在していた」ことが、「質と量」で実感できます。そして、これでも現在に至るまで、相当量の石が大路次川まで流れて失われてしまったことが類推されます。

また、これも連載第十一回で触れましたが、古城山を構成する“基盤岩”自体は、風化が著しく、剥離し易い“頁岩”(けつがん)が主体で、これらは城の“石材”として、使われていません。わざわざ「人の手」によって、大路次川河川敷や段丘などから、強靭で大径の「円礫」たちを城山まで運び上げて、礎石や石垣に使いました。そして今再び、城山から車谷まで崩落した円礫たちが、昔を思い起こさせるべく、流水に洗われています(画像②、③)。

一方、この光景とは対照的に、「大堀切」下より上流側(画像①)の沢は、山の基盤岩である、比較的小径な頁岩等の礫が主体で、こちらが車谷の「本来の自然の」姿です(補注)。城の影響を受けた、画像③との“岩相のコントラスト”が顕著です。両者を見比べると、そのボリュームの“差”から、「本当に“石垣”があったんだー!」が実感されます。(なお、斜面は急で、近づくのは“危険”です。)

石材の供給源であったと思われる、大路次川は、1980年代に上流側に完成した「一庫ダム」によって、砂礫の供給が止まってしまい、河川敷の堆積状況が相当変わってしまいました。また平成十四年から、鮎を川に返すべく、ダム直下に人工的に大径の礫を投入しているようです。画像④は大路次川のダム湖の上流、猪名川町“千軒キャンプ場”付近の“礫相”の様子です。上流なので、青灰色の“丹波系”堆積岩が、幾分角張っていますが、岩々全体の組合せは、およそ③における円礫群に近いかと思います。また、意外かもしれませんが、ここではダム下流では見られない、明黄灰色の“花崗岩質の砂”が豊かです(④左上)。例えば、ここよりさらに上流側、能勢町の田園の間を流れる大路次川河川敷は基本的に“黄色い砂”で構成されているのです。

これもあまり知られていませんが、実は大路次川の源流はなんと丹波の国、現在の京都府亀岡市に属する畑野町地区なのです。能勢町以北の大路次川は、およそ半分以上が剣尾山などを構成する花崗岩体の間を流れてきます。そしてもたらされた良質の砂は、昭和30年代までは一庫付近でも採取されていました(藤巴力男氏による)。かつての大路次川河川敷は、幾分“黄色がかっていた”のです。

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(補注)

なお、車谷では、A地点より上流側にも、わずかながら、やや風化した花崗岩~閃緑岩主体の「人頭大以上の円礫」が見られます。これらは、山の稜線上に薄く乗っている「大阪層群」という軟らかい堆積層中に含まれていた円礫が、谷底まで崩落してきたものと思われます。こういった地層は主に大和団地や光風台の上面、鳴尾ゴルフ場の上面等に広く分布しています。まだ山地がこんにちのように隆起→侵食される直前、稜線レベルにかつて広がっていた「太古の平原」の名残です(隆起準平原)。そして花崗岩~閃緑岩で構成された、こんにちの「高代寺山」や能勢北部の「剣尾山」などは、当時からすでに平原より2~300mあまり高い「山」として、円礫を供給していたのでしょう。この「ややくたびれた」礫たちは、おそらく、「百数十年ぶり」くらいに“河川礫再デビュー”をはたした石たちです。たかだか430年前の、“城由来の新人たち”のように“ピチピチ”してはいませんが…。

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② 天正十四年、能勢郡の本当の“領主”は「佐々成政」だった!

[2019年1月4日の“Yahooニュース”にて]

「(佐々)成政、 肥後拝領 早々に内定 秀吉の九州平定10日後 書状に記述(北日本新聞)」という見出しが出ていました。「北日本新聞」は富山市で発行されている北陸地方の新聞です。(出来れば、まず記事そのものをお読み下さい。「Yahooニュース」はそのうち削除されてしまうと思われるので、「北日本新聞」、「バックナンバー」で検索→「2019年1月4日」分を選択→「文化(富山)」面(表示されなければ「もっと見る」をクリック)で閲覧可能です。)

「佐々成政」(さっさなりまさ)は、戦国武将としては、塩川氏や、前回取り上げた「山名豊国」などよりは、ずっと「有名どころ」の部類に入るでしょう。一般的には

「織田信長の家臣で、北陸地方攻略を担当。信長の死後は「反りの合わない」羽柴秀吉に服従せず、柴田勝家や後に織田信雄、徳川家康らと組んで、秀吉に対して執拗な抵抗を試みる。その過程で有名な「冬の北アルプス越え(さらさら超え)」を敢行するが、最終的に秀吉に降服。なんとか死罪だけは免れて、秀吉から「ラストチャンス」として「肥後(現・熊本県)平定」を任されるも、結果、肥後の国衆たちの叛乱を招いてしまう。遂に秀吉から「もう、ゆるさない!」とばかり、その責任を問われ、尼崎で切腹させられた、“悲運の武将”…」と、いったところでしょうか。

森田誠一氏の「日本近世人名辞典」中の「佐々成政」の項は「秀吉は統一政策として、信長の遺臣をつぎつぎに排除していった。成政を国人の蟠踞する肥後に、厳しい条件を付して封じたのは最初から佐々成政と国人らを一挙に整理する目的の政略だったといえよう」といった文で締めくくられています。

この他、歴史ドラマ的には、「反秀吉を貫いた」、「織田家に忠実で、剛直な職業軍人」、「コワモテで笑わない」、「腫れ物のような」、「どうせ、俺なんて…(と、いつもスネたような)」人物造形のようです。安っぽい演出だと「猿めが!増長しおって!!」(by柴田勝家)の後方で、滝川一益、佐久間盛政と共に「うなずきトリオ」をやらされているような、あの“図式”です。

 

[文書は、佐々成政に肥後一国が与えられた初見]

さて、この新聞記事は、佐々成政に自身による、新たな書状の写しが確認されたというものです。

書状は富山県の歴史研究家、故・木倉(きくら)豊信氏が、県内の実業家、故・筏井(いかだい)寿夫が所蔵していた原本を昭和十二(1937)年に書き写し、後に東京大学史料編纂室に寄贈していたもの。今回、富山市郷土博物館(富山城の復興天守内)の萩原大輔学芸員の調査により、その存在が明らかにされました。そして、その内容から、秀吉が九州を平定したわずか「十日後」である「天正十五(1587)年五月十八日」には、成政に肥後一国を与えることが内定していた、ことが判明しました。成政への肥後宛てがいは、これまで「五月二十八日」付の「秀吉書状」(名護屋城博物館所蔵・「豊臣秀吉文書集」2206)が最古でしたが、今回これを10日遡ることになりました。

佐々成政は、この二年前である天正十三(1585)年八月に、越中に侵攻してきた羽柴秀吉に降服したばかりです。そして彼の領地、越中一国は「新川(にいかわ)郡を残して」没収され、秀吉の「御伽衆」になっていました。書状には、この新川郡を、今回の肥後と引き換えに、秀吉に返上することも記されていました。

[実際は、秀吉から“厚く信頼されていた”佐々成政]

今回、北日本新聞のバックナンバーを取り寄せてみたのですが、記事はなんと「1面トップ」扱いでした!。佐々成政が、21世紀の富山県において、いかに愛されている存在かを実感しました。

佐々成政については不案内でしたので、今回の書状を確認された、萩原大輔氏の「武者の覚え 戦国越中の覇者 佐々成政」(北日本新聞社、2016年)などを購入してニワカ勉強してみました。

ここで成政のことを詳しく述べる余裕はないのですが、自分自身、これまで、「後世の創作物による成政のイメージ」に相当引きずられていたことを知りました。羽柴秀吉に粛清されたという、「結果論から造形」されたようなそんな“人物像”が、心のどこかに宿っていたわけです。

しかしながら、同書を読むと、どうやら良質な史料に基づく成政像は、必ずしも「反秀吉」であったとは限らず、勇気と大胆さを兼ね備えて、秀吉から一目置かれていた「有能な軍人」でありながらも、同時に意外にも「柔軟性」、「先進性」に富み、幾分「オッチョコチョイ」な面すらある印象をも受けました。おそらく、「ユーモアのセンス」なども備えていた魅力的な人物でもあった気がします。

どうやら秀吉は、成政の「軍事面」のみならず、その「人間的魅力」や「人望」を生かした「政治力」や「外交力」をも高く買っていたようなのです。有名な「さらさら越え」で徳川家康と会見したエピソードなども、ルートには諸説あるものの、真冬に山越えで、富山と浜松の間を短期間で往復した事自体は史実のようです。相手の懐に飛び込んで「人間、会って話せばわかる」ことを幾分信じていた、大胆な外交官。そんな印象を受けました。まあ、最期はその「楽天的」な部分が、アダとなってしまったようですが…。

成政はしばしば、「天正十三年の降服で「新川郡」を残して越中国を没収された」などと表現されるので、所領が「十分の一くらいに減らされたのかな?」なんて思っていたら、なんと越中国の「東半分」が丸々「新川郡」だったのです。「新川郡」の石高を調べてみたら、近世の正保期で「十八万石」もありました!。さすがに秀吉は「外山(富山)令破却」(微古文書)とあり、富山城を接収、破却して、成政を大坂への強制住まいとしましたが、あれだけ秀吉に抵抗したというのに、秀吉の処置は「実に寛大」だったのです。翌十四年正月には、「羽柴」の名字と官位を与えられ「羽柴陸奥侍従」と「公家成」までさせています(黒田基樹・「羽柴を名乗った人々」)。

そして、秀吉の「御伽衆」になったということは、「一旦、アンタの身柄は確保するけど、俺のブレーンになってくれ。悪いようにはしないから」という意味だったのでしょう。「御伽衆」就任の時期は、前回触れた「山名禅高」より一足早いくらいですが、石高は圧倒的に高かったと思われ、九州で再び“城持ち”大名に戻す予定だったようです。

今回の北日本新聞の記事は、確認された書状の意義を「秀吉は朝鮮出兵の重要な軍事拠点になる肥後を、かなり早い段階で成政に割り当てることを決めていた可能性は高く、信頼の厚さをうかがえる」と記しています。萩原氏は、上記「武者の覚え」において、秀吉と成政との不思議な関係を「奇妙な蜜月とでも、呼ぶほかなく」と表現されています。

[加えて成政には、大坂での生活費として、「能勢郡一職」が与えられていた!]

さて、今回、特に注目したいのは、新聞記事の中ほどに、「(今回の成政による)書状は「執庄公」と呼ばれる人物に宛てたもので」~「「執庄公」の妻子たちが成政領の摂津国能勢郡を訪問する件について、成政の家臣とみられる塩屋監物に連絡するよう指示している」と、記されていることです。秀吉は、越中新川郡を安堵していただけではなく、成政に、(大坂での?)生活費として、なんと「能勢郡」を与えていたのです!。

書状は(天正十五年)五月十八日付で、文中に「摂津國能勢郡前々(さきざき)拜(拝)領候」とあり、文脈から、成政の能勢郡領有が、肥後拝領以前から、以後にわたって継続されていたことがわかります(萩原氏ご教示による)。

さて、本連載は当初から、川西市史や猪名川町史に採用されている「多田雪霜談」における、天正十二~十四(1584-86)年の「塩川氏 対 能勢氏の戦い」というものは、史実における天文十四~天正八(1545-1580)年の戦いを「再構成した創作物」であり、能勢氏自体、天正八年に一旦滅亡しているので、この戦いや、その結果としての「塩川満の切腹」などは「フィクション」であることを繰り返し強調してきました。また連載第八回においても、「羽柴秀吉は天正十一年から、摂津国を乗っ取りはじめ、五月に池田氏を美濃に、天正十三年には高山右近を播州明石に、中川秀政を同じく播州三木に追い出し、摂津一国を含む能勢郡は秀吉のものになります。同年「九月朔日」「能勢郡一職八千五百石」が秀吉子飼いの脇坂安治に与えられますが(龍野図書館所蔵文書)、脇坂氏は程なく大和高取に転封となります(脇坂記)。さらに天正十五年、秀吉は九州征伐で薩摩の島津氏を降服させ、遠方の島津氏を上京させるための「在京賄料」として、摂津、播磨などから合計一万石を与えます。この中に秀吉の直轄領である能勢郡「五千百弐拾六石九斗五升」が含まれていたわけなのでした(島津家文書)。」とご紹介していました。

最後に触れた「島津義久」は、正式には、佐々成政「刑死」の二ヶ月近く後である「天正十六年七月五日」(島津修理大夫入道宛知行方目録)に宛がわれています。それで「能勢郡」は、「天正十三年秋」に能勢領有をドタキャンされた(??)「脇坂安治」の後、再び豊臣家に収公されていたのだろう、と推測していたのでした。しかし実際には「脇坂安治」と「島津義久」との間に、この「佐々成政」が入っていたわけで、これでちょうど「パズルの空白部」が埋まったわけなのでした。加えて「佐々成政による能勢領有」の時代は、まさに「多田雪霜談における、塩川氏 VS 能勢氏の合戦」の時代とカブっています。合戦は「天正十四年四月、十月、十二月」とされているのです。もはやこの「合戦物語」は引導を渡されたも同然です。

[灯台もと暗し]

それにしても「摂津・能勢郡」と「佐々成政」との「意外な取り合わせ」に驚かれた方も多いのではないでしょうか。私も、恥ずかしながら、昨年秋頃に初めて知りました。たまたま、秀吉が天正十六(1588)年閏五月十四日付で、加藤清正と小西行長などに宛てた書状、つまり「佐々成政処刑の日」に複数発給された告発状(「豊臣秀吉文書集」2505~2511)を眺めていたら、そのひとつの条文に(天正十三年夏の成政降服後)「不便ニ被思召、摂津国能勢郡一色(職)ニ妻子堪忍分として被下、~」(文脈から「大坂での家族の生活費として便利な様に、近くの能勢郡まで与えてやったのにもかかわらず~」というニュアンス)の一節が目に止まって驚きました。(今回、萩原氏のご教示で、既に秀吉が「肥後一揆」への対処に苛立っていた前年の、天正十五年十月廿一日付の文書(「豊臣秀吉文書集」1366,1367)等に、能勢郡に関する同様の記述がある事を知りました。)

“摂津の戦国史”に詳しい方々の間でも、成政の能勢領有を知っている人は“稀”な気がします。それで、これは連載に書いておかなければ、と思っていた矢先の今回“Yahooニュース”だったのです。あらためて図書館で「富山県史(昭和五十五~七年発行)」を見てみると、既に通史においてさえも「能勢郡」と「佐々成政」との関わりにちゃんと触れられていました。富山県の方々や、佐々成政を調べている人たちには、この事をずっと前から知っていたようなのです。ちょっと不思議な気もしますが。

[微かながら、能勢郡の“光景”も見えるような]

今回確認された書状(写し)が特に興味深いのは、上記の秀吉による告発状類などとは違って、佐々成政自身による書状であることと、「書状は「執庄公」と呼ばれる人物に宛てたもので」~「「執庄公」の妻子たちが成政領の摂津国能勢郡を訪問する件について、成政の家臣とみられる塩屋監物に連絡するよう指示している」(北日本新聞)とあることから、微かながらも、能勢郡の領有形態の“光景”が垣間見られる史料であることです。

萩原氏によれば「執庄公」はまだ謎の人物のようです。字面や文脈からはなんとなく、豊臣家の直轄地を管理している存在のようにうかがえますが。またその人物がわざわざ「家族ごと」能勢郡に来るというのも、そういった関連の「公務」でしょうか?。

「家臣とみられる塩屋監物」というのも興味深い存在です。大坂に滞在していた成政に代わって、能勢郡のどこかに常駐して直接に徴税の実務などに携わっていたのでしょう。そういえば、成政滅亡後に秀吉から能勢郡を「在京賄料」として宛がわれる薩摩の島津氏も、能勢郡における二人の担当家臣の名前が判明しています(「東郷村誌」所収の天正十九年九月二十八日付の野間神社本殿棟札。この件は次回後編にてご紹介します)。「塩屋監物」については不案内ですが、ネット情報ながら、Wikipediaなど複数のサイトにて「塩屋秋貞」という、飛騨国大野郡の国人で、塩の流通に関わった「武将兼商人」のことが紹介されています。塩屋秋貞は、かつて侵攻してきた甲斐・武田氏と戦い、後に越後・上杉氏に属し、本能寺の変後に「佐々成政に属した」とあります。「歴史の目的をめぐって」というサイトによれば、「上杉氏文書集」所収の天正十年の書状にも登場する実在の人物のようです。また、「houzanの気ままな人生2」というサイトでは、佐々成政に属した塩屋秋貞が、天正十一年に上杉勢に攻められて戦死した場所や石碑などが現地レポートされています。「塩屋監物」とは、その「塩屋秋貞」の一族なのでしょうか。

また、偶然なのかどうか、「塩屋」と言えば、織田信長のやはり“家臣でありながら商人をも兼ねていた”「塩屋伝内」こと「大脇伝内」や「大脇伝助」が連想されてしまいます。この二人については谷口克広氏の「織田信長家臣人名辞典」や「信長の親衛隊」(中公新書)中のP3およびP9などに詳述されています。もし「塩屋監物」もそういった「半商人的存在」であれば、年貢の換金→大坂への生活費調達などの運用にも長けていた人物なのかもしれません。

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以下は余談ながら、年貢の徴収と商人との関わりからの繋がりで。

山下町の東北角に、昭和30年代まで「大蔵」という旧町名が存在していました(連載第十二回の挿図①、②参照)。「大蔵」の由来は不明ですが、「蔵」→「土倉」→「金融業者」を連想させることから、往時はそういった性格の商人が軒を連ねていた「同業者町」だったと推測しています。当連載の第十二回において「次第に畿内から全国的へと拡大してゆく軍役やそれに伴う兵站に商人たちの関与はなかったか?。そういった商人たちを手近に住まわせる必要はなかったか?」ということを、“城下町”の存在意義の一端として述べたのですが、これは、「信長公記」における塩川氏の「鳥取城攻め」(天正九年)や「甲州征伐」(天正十年)などの“長期遠征”と、この山下の「大蔵」の双方を意識しての記述でした。その時、引用を怠ってしまいましたが、感銘を受けた、久保健一郎氏の「戦国大名の兵粮事情」(吉川弘文館)にそういった遠隔地への糧食調達の困難さや、買い付け、換金といった、「商人との関わり」が考察されています。「大蔵」が山下町の“上手”の“内山下”(現・下財町)近くに位置していたのも、単なる商売人ではなく、「年貢徴収」→「換金」→「遠隔地での買い付け」など、塩川氏の財政や軍事(兵站)などと密接に関わっていた存在だからではないかと、推測しています。“城下町”という存在は、しばしば、“戦術論”を核に論じられる城郭研究の影に隠れてしまいがちですが、実は兵站を含めた“戦略レベル”においては、軍事とも密接に関わっていたと考えられます。

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[「一圓雖不如意候郡候」]

この他、新聞に掲載されている、書状(写し)の画像によれば、成政は能勢郡のことに関して、ごく僅かながら「一圓(円)、不如意候郡候といえども」と軽く触れてくれています。「全体に不如意な土地」だけれど、宛先の「執庄公」に対しては「精一杯便宜をはかりますので」という文脈のように見えます。この「不如意」とはどういう意味なのでしょうか。単に「勝手のわからぬ土地」という謙遜なのか、それとも商売人の言う「儲かりまへんわー(本当は大儲けしている時でも)」に通ずるニュアンスなのか、あるいは、抵抗に会って収税に苦労したのか?(萩原氏談)。もし最後の意味でしたら、次のステップ「肥後平定」における苦労の「伏線」みたいで、ちょっと佐々成政に同情してしまいますが…。

(能勢郡といえば、かつての「石山戦争」において、講和成立後である、天正八年卯月十七日になっても、「能勢郡倉垣の奥殿」が「なまり四拾斤、金一分、刀一腰、大鉄砲一ちゃう」を石山本願寺へ差し入れしており(下間頼竜書状)、結局、信長が天正八年に塩川氏に命じて国衆の能勢氏や野間氏を謀殺させたように(補注)、「反織田」色の濃い地域ではありましたので。)

なお、“能勢の領有史”については、「佐々成政」より前の「脇坂安治」や、後の「島津義久」、あるいは「佐々成政」の後任として肥後入りした「加藤清正」と「小西行長」、そして土地を追われ、大和の羽柴秀長~秀保の家臣となっていた「能勢頼次」についても、色々興味深いエピソードがありますので、これについては次回に譲りたいと思います。

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(補注)「干城録」「寛政重修諸家譜」「能勢物語」「能勢郡旧領主並代々地頭役人記録」「高代寺日記」など。なお「高代寺日記」はおそらく間違って「天正年」の条に記している。

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[佐々成政と塩川氏は、“ほぼ同時期に滅亡”している]

不思議なご縁で、ほんのわずかの間だけ“お隣同士”となった、佐々成政と塩川氏でしたが、本稿を書いていて初めて気付いたのですが、実はその“滅亡”も、ほぼ同時期だったのでした。佐々成政は天正十六(1588)年二月に摂津尼崎で身柄を拘束され、五月十四日に切腹してこの世を去りました。一方の塩川氏は「高代寺日記」によれば、塩川長満の死を挟んで、天正十四(1586)年八月から、長満の猶子である辰千代(頼一)と、実子である愛蔵とが家督を争い、おそらくこれが起因となって、完成間もない「聚楽第行幸」の行なわれた天正十六年四月~六月にかけて、「京において、塩川家の改易」が決定なされたようです。(「高代寺日記」の記述は、幾分ボヤかしたかのように解りにくいものの、塩川家の家老「塩川吉大夫」と、既に豊臣秀次家臣となって聚楽第建設に携わっていた「塩川運想軒」の両者の「日記」から起こされているようです。)塩川氏が京で、「改易の沙汰を待っている」さなか、佐々成政が“一足お先に”という感じで逝ったような状況でした。

ともあれ、塩川氏の領地として残されていたと思われる、山下周辺の「川辺郡北部」から、佐々成政に宛がわれていた「能勢郡」にかけての一帯が、ほぼ同時に豊臣家に「収公」されました。

なお「聚楽第行幸」に関する記事としては、二次史料ながら唯一、「当代記」(史籍雑纂)にのみ、天正十六年卯月十四日条に「たゝのしほかう馬」(多田の塩川 馬)とあり、“塩川氏(家督を継いだ愛蔵か)の馬上参加”が記されています。記事の「信憑性」については、なんとも言えませんが、「京に居た」という状況自体は「高代寺日記」と符合しています。

③ 開祖は越中・立山寺から ー中世・大昌寺復元の試みー

さて、本章は佐々成政とは直接関係ないものの、ちょっと「越中」繋がりで、東谷地域と“ご縁”がある、もう一つの話題をご紹介します。

[佐々成政の命名による(?)越中新川郡の“立寺”のこと]

天正十五年五月まで佐々成政が領有していた、越中国新川郡眼目(さっか)村(現・富山県上市町眼目)に「立山寺」(りゅうせんじ)という曹洞宗の寺院があります。開山禅師は応安三(1370)年の大徹宗令。山門前に長く伸びる参道両脇の深い栂並木が有名なお寺で、近年も東宝映画、「散り椿」(木村大作脚本・監督、岡田准一主演)という作品において、撮影にも使われたそうです。動画サイト等にアップされている映画の予告編にもこの立山寺の栂並木が写っています。

さて、立山寺のホームページを見ると、「天正年間、佐々成政が富山築城のときに神通川の神を鎮めるため立山寺に祈祷を命じ~立山寺の山の字から一画とり、川の字にして立川寺(りゅうせんじ)と称せしめたといわれ~明治32年~立川寺の寺号を立山寺と改称した」という、「佐々成政によって寺名が改められた」エピソードが掲載されています。つまり、近世の初頭になって、佐々成政が「立山寺」→「立川寺」と改名させ、近代以降に再び「立山寺」に戻った、というわけですが、平凡社「富山県の地名」は、中世以前に既に「立川寺」の名称があったとしており、この成政命名の伝承は否定されています。加えて「続群書類従・二十九輯下」に「立寺年代記」という、ちょうど「高代寺日記」を百分の一くらいに圧縮したような編年書物があり、内容から「立寺」で作成されたものと推定されており、成立したのは応仁元(1467)年頃(中村一、群書解題・雑190)とされています。佐々成政の時代の100年以上に「立川寺」の名称があった傍証となっています。

[謎の地名「タテコ」]

さて、富山県の「りゅうせんじ」を何時、「立山寺」と書こうが、「立川寺」と書こうが、そんな遠くのお寺のハナシと、東谷の歴史と何の関係があるんだ?なんて言われそうですが、実は、越中の「立寺」における「川の字」の使用が、中世以来からあったという「傍証」のひとつ(?)が、なぜか、我が川西市東谷の「笹部」や「東畦野」に残っているのです。

平成九(1997)年頃、塩川時代の城下町復元考察のため、私は周辺を「聞き取り調査」で歩き回っていたのですが、その過程で「山下町」と南の「初谷川」に挟まれた東西に長い地域が「タテコ」と通称されていることを山下町の藤巴力男さんから教わりました(上の画像⑫)。しかも、「タテコ」の語源は一切わからない、ということが、かえって私には印象的でした。

連載第十回で触れましたが、「山下町」は天正初頭に成立した塩川氏による織豊期城下町で、それ以前の「笹部村」の西部が分離したものです。画像⑫は、昭和二十三(1948)年の米軍空中写真です。中央が「タテコ」にあたります。北は山下町南限の段丘崖、西と南は川、東は「大道」に挟まれ、ここが天正初頭の「山下町の分離」から取り残された「笹部村の西南端」であることがわかります。山下町の部分だけが整然とした「長方形街区」「短冊割り区画」「両側町」といった“近世的商業区画”に改装されていますが、これと対照的に、タテコには中世の面影が感じとれます。

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なお「大道」は、山下町から見野、東畦野、旧中山峠を経て、平野に向かう旧街道ですが、山下城下町と同時期に塩川氏によって開削されたと推定しています。道は、山下町の“外堀”と意識されたであろう「初谷川」に架かる「くろがね橋」付近において緩やかな“S字カーブ”を呈していますが、これは往時の“折れ”(クランク)の名残と思われ、⑫画像上に黄色で復元表示しています。また、山下町の最南部に「農人町」という旧町名がありましたが、これは、山下町成立の際に“立ち退かされた”笹部村農民の「代替居住区」に由来する町名かと推測しています。

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[“タテコ”には宝永四(1707)年まで「大昌寺」があった]

さて、東谷ズムの「三十三ヶ所巡りイベント」などでもお馴染みの笹部の「大昌寺」は、現在は平野神社の東隣の山麓部に位置していますが、表題の如く、大昌寺が当地に移転したのは18世紀初頭という、歴史的には比較的“最近のこと”なのです。宝永四(1707)年といえば、五代将軍、「徳川綱吉」治世の末期にあたり、大きな出来事としては、富士山が噴火して「宝永山」が出来たという、まさにその年にあたります。

大昌寺の旧跡地は、画像⑫の卍マークの場所、笹部村の通称“タテコ”地区の中心付近の旧字「古屋敷」にありました。東谷ズムのホームページで紹介されている大正時代の写真にも、背後に竹薮として写り込んでいます(画像⑨矢印)。

この大昌寺旧境内は、現在では、国道173号線「甘露寺南・交差点」の南側一帯、4車線道路面上“数m上空”にあったと思われます(合掌…)。Google Mapの現代の「航空写真」等で見比べてみて下さい。かろうじて“古屋敷”の東西境を南北に走る狭い旧道が残されています(画像⑦⑧⑩⑪⑫、黄色点線)。この道は、大昌寺由来記に記された「文禄三年古検地」の情報として「南北に六拾一間巾4尺八寸ノ地所東ト西ニアリ」に相当すると思われ、かつては大昌寺の“私道”であったのでしょう。画像⑧に見える“藪”は、昔の面影を残す数少ないエリアです。なお藤巴さんによると、戦前はこの古屋敷あたりは「古い墓石」なども転がっていたそうです。

[大昌寺旧地考2019]

私は平成十(1998)年に、「大昌寺、及び大安寺旧地考」と題した旧大昌寺の復元考察を、手書きのA3サイズ2枚にまとめて周辺の関係者に配っていました。参考としたのは、前年からの「聞き取り調査」の他、大昌寺で頂いた由来記のコピー(中に文禄三(1594)年の検地と延宝七(1679)年検地の情報を記す)や、「川西市史」所収の「多田神社文書」及び、「元禄五(1692)年 奥川辺村々寺社吟味帳」(以下「寺社吟味帳」と略す)、「高代寺日記」、元禄六(1693)年の「摂州多田荘巡礼三十三所観音霊場略縁起」(福本賀弘「かわにしの歴史を探る」所収)、「川西市の佛像」(島田清、川西市郷土史研究会)、昭和三十九(1964)年の地形図、昭和二十三(1948)年米軍空中写真、及び、現地における地形観察などです。画像⑤、⑥、⑫はその成果に今回、幾分加筆したものです。宝永の移転直前に調査された「寺社吟味帳」に、当時の境内の寸法や各建物などの寸法、屋根の素材が記されていることから、図⑤の建物の平面図を起こし、現在の大昌寺における建物配置などから全体を推定復元したのが図⑥です。少なくとも元禄五年にはこういった伽藍配置が、⑫の“卍”で記した褐色の区画に残されていたわけです。それは15世紀の“中世・大昌寺”の光景を偲ばせるものでもありました。

[宝徳二(1450)年に開山した大昌寺と、“立川”との関係]

さて、いつもの悪いクセで“前置き”が超長くなってしまいましたが、島田清氏の「川西市の佛像」(1972)から引用させて頂くと、

「大昌寺は宝徳二年三月(1450)、多田満仲十五代の孫、塩川伯耆守秀仲によってこの山麓に創建された。開山は、心崇良専禅師。心崇は越中の人で、大徹禅師に師事し、得法した後、多田山中で長養していた。秀仲はこれを請じて大昌寺を興させたもので、大昌寺が長い間、富山県中新川郡南加積村(現在上市町)立山寺末であったのはこうした関係からである。」

とあるように、笹部村の“タテコ”は、越中の立山寺と15世紀以来の繋がりがあったのです。今回、大昌寺さんに問い合わせると、お寺は今でも、根本的には「立山寺」の末寺だそうです。ただし遠方なので(島田氏も同書に記しておられますが)、とりあえず、開山禅師が兄弟子にあたる、池田の大廣寺の「客末寺」の形をとっているとのことです。なお、上記の「山麓(現在地)に創建された」というのは、既にご紹介しているように間違いです。また、大昌寺が「塩川秀仲によって心崇良専を招いて開山された」という記事は、寺がまだ“古屋敷”にあった元禄五(1692)年に調査、作成された上述の「寺社吟味帳」(幕府の公式記録)、及び、元禄六(1693)年発行の「摂州多田荘巡礼三十三所観音霊場略縁起」(民間のガイド本)の双方に記されています。

一方これらとは別に、20年前にコピーを頂いた大昌寺の由来記によると「開山ハ越中立川ノ龍泉寺ノ弟子ニシテ」~「安村家ニ寄寓シ安村ノ援助ニテ」~「安村家ノ西小高キ地ヲ開拓シ一寺ヲ建立シ之レヲ鶴林山大昌寺ト名ヅケ寳徳二年入佛成リ」~とあります。

まず、立山寺(りゅうせんじ)のことを「越中立川ノ龍泉寺(たてかわのりゅうせんじ)」と書いているのが興味深いところです。この由来記は、既に明治以降に書かれた「写し」でしたが、「りゅうせんじ」を「龍泉寺」と書くなど、古文書にありがちな「音はそのままで「適当な漢字」を当てている」部分は、おそらく“先代の”由来記の内容を、そのまま写したのではないかと思います。実際、越中に「立川」という地名は確認出来なかったので、やはり「立川寺」の音を「龍泉寺」に当てたことが、いつの間にか「立川の龍泉寺」という風に、変化してしまったように思います。

私は、大昌寺が立寺(りゅうせんじ)ゆかりの寺であることから、「大昌寺の代名詞」、もしくはその周辺地域が「通称」として「立川(たてこ)」と呼ばれたのではないか?と推定しています。

例えばこうした用法としては、織田信長が摂津塩川氏の事を「多田」と呼んだり(「信長公記」天正十年二月九日条ほか)、現在でいえば、内閣のことをあえて「永田町」と呼ぶ、あの機微です。なお“川”と“河”や、その読みである「かわ」と「こう」はしばしば混同されます。(補注)

また、図⑥に復元した境内内の「鎮守」とは、元禄五年「寺社吟味帳」の「一、鎮守壱尺五寸四面 板葺」とあるのを、元禄六年「摂州多田荘巡礼三十三所観音霊場略縁起」中の「寺内に白山権現の社あり」に比定したものです。これは曹洞宗の本山である、越前の「永平寺」や加賀の「総持寺」において、道元の故事に由来する、守護神が「白山権現」であること、が引き継がれていたのでしょう。一応“鬼門”と“白山の方角”を意識して“東北部”に復元配置してみました。開祖「心崇良専」による「北陸」への思いを偲ばせるかのように…。なお、現在の大昌寺には、既に白山権現は無いとのことです。

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(補注)

塩川氏も「信長公記」においては「塩」と表記されますし、「多田塩」(「厳助往年記」天文十八年四月二十六日)、「タゝノシヲカウ」(「尋憲記」天正元年三月十五日)、「たゝのしほかう」(「当代記」天正十六年四月十四日)という表記もあることから、ひょっとしたら「しおか」とハッキリ発音されず、「しおこぉ」とか「しおかぁ」のような曖昧な語尾だったのかもしれません。残念ながらイエズス会関連の記録に、塩川氏の名前は見出せませんが、もし塩川長満がキリシタンを保護していたならば、ルイス・フロイスが「津の国の徳の高いセニョール、”Xivocava Foquinocami-Dono”は~」(←筆者による捏造。念のため)なんて書いてくれて、当時の発音がわかったかもしれませんが…。

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[“古屋敷”の対岸の“立川”の地名]

さて、タテコの名前はこの笹部村内に止まらず、大昌寺のあった「古屋敷」のちょうど対岸、「東畦野村」に属する南一帯も「立川(たてこ)」と呼ばれたのか、⑫にも字名「上立川」が見えています(他に「中立川」、「立川長」あり)。古屋敷と上立川を結ぶ“橋”や“小道”もあり、これは「大道」以前の中世に遡る道で、“参道”も兼ねていたのではないでしょうか。

(A)    大昌寺の“向いであったから”、あるいはその“寺領の田畑があったから”「立川」と呼ばれたのか?。

(B)    あるいは川を挟んだ双方が、大昌寺建立以前から既に「立川」と呼ばれていて、そうだとすれば、「立川寺」との一致は単なる偶然なのか?。

私は一応、(A)説に傾いております。なお、大昌寺の寺領の記録としては、文亀三(1503)年、大昌寺の“永昌和尚”が一庫村“釜瀬”内の“山”を多田院に「永代寄進」しています(多田神社文書396)。この「山」は、現在の「向山」西側の斜面一体に比定しています。また「由来記」に記された延宝七(1679)年の検地記録によれば、近世の大昌寺は「田八畝九歩 畑七畝十二歩 ト續キニ 畑ニ畝七歩」を所有していました。なおこの寺領は一旦、「明治三年取上ゲ」られたとのこと。(まぁ、“明治維新”なんて実際ヒドイもんですわ…)

[記録は失われたものの…]

なお、大昌寺の由来記によると、寺は現在地に移転後の文政六(1823)年「大災ニ會(会)ヒ」とあるので、多くの文書などが失われたのでしょう(いわゆる、享保十二(1727)年の「山下焼け」とは別)。一方の越中・立山寺の方も、ホームページによると、昭和二十八(1953)年の火災で「宝物を全部焼失」したようです。大変残念ではありますが、考え様によっては、(今回の「佐々成政」のニュースのように)もし将来的に“立山寺文書の写し”などが見つかれば、中世の大昌寺や塩川氏などに関する新たな知見が、富山県から得られるかもしれませんね。

[大昌寺と佐々氏関係者との交流は??]

今回、佐々成政のニュースに触発されて、ついでながらというか、大昌寺の話題にも触れたわけですが、冒頭の“立川寺”の由来はともかく、佐々成政は“能勢郡”を2年間あまり領有していて、うち1年間は“越中新川郡”との双方を領有していました。能勢郡で領地管理にあたったと思われる「塩屋監物」など佐々家の関係者は、おそらく、大坂―池田―山下を経て、能勢郡の西郷や東郷に現地入りするのが、自然なルートです(余野や吉川は、池田―止々呂美を経たルートですが)。その途中、通過する「“山下”に新川郡の立川寺の末寺がある」という事実は、案外、彼らには“認識されていた”のではないかと想像されます。特に北陸ゆかりの者や、曹洞宗に帰依した家臣がいればなおさらです。参詣、宿泊、贈答、「ちょっと通りがかりましたのでご挨拶に…」、「あの辺で困ったら、大昌寺を頼れ」等々。昔の人々は、この手の遠隔地との繋がりや、その情報収集には、現代人よりずっと、敏感で積極的でした。また、佐々成政自身は、はたしてこの事を知っていたのかどうか。以上、妄想ながら…。

[笹部の地侍「安村氏」の館跡]

また、大昌寺の「由来記」で注目すべき記述として、寺院立ち上げを援助した領主の名前として、「塩川秀仲」ではなく、笹部の「安村家」の名が挙げられていることです。「安村氏」は、「高代寺日記」(下巻)には複数の「安村」が登場しています(なお「高代寺日記」(上巻)においては、長保五(1003)年条より、安村家の記事が登場し、おそらくその「家伝」等を元に編纂されたと思われますが、上巻については未検討です)。「多田神社文書287」上では、嘉吉元(1441)年十一月七日付で「安村仲勝」が「寄進 山原田事 合壱段者 在所堂前井土ニ在之」と山ノ原村の田地一反を多田院に寄進しており、年代から、この人物が大昌寺の建立者である可能性があります。ともあれ、大昌寺の「由来記」の記述から、この「安村家」とは、笹部村を本拠とする「地侍」であったのでしょう。

由来記文中における、大昌寺を「安村家ノ西小高キ地」に建立したという記述から、画像⑫中の、まさに「土井内」の部分が安村氏の居館跡と推定されます。画像からも、約75m四方の不等辺の矩形の区画が顕著に見てとれます。この最外部が“堀”を埋め立てた名残だとすれば、往時の館はおよそ「半町四方」程度の規模になります。

なお、「高代寺日記」天文十二(1543)年五月条に「安村仲成死ス七十才 大昌寺の普厳コレヲ葬サル 長子仲信アトヲツク」の記事があり、大昌寺と安村家の深い関係を示しています。

(これは余談ながら「高代寺日記」天正三(1575)年五月に「吉大夫 阿古谷ニ一寺ヲ立ル」の記事があります。塩川吉大夫家は、阿古谷(現・猪名川町)の地侍だったのでしょうか。)

[城下町「山下町」の防衛施設として再興]

元禄五年の「寺社吟味帳」中の大昌寺略歴のくだりにおいては、心崇以来、五人の和尚の名前を連ねた後、「五代目ニ断絶 天正年中塩川伯耆守長満公諸堂再興 中興開山積翁香禅師」という記述があります。これも以前、連載第十回の「“寺”もまた“城”」の項で触れましたが、塩川長満による「再興」とは、新しく築かれた城下町の“都市防衛”を意識したものと推察しています。画像⑫や、連載第十二回の画像①をご覧頂ければ一目瞭然ですが、旧大昌境内は、山下町の西南部外側の、南へ突出した段丘上に位置し、対岸の山原村や見野村へと通じる「町口」を抑える「要」でもありました。解り易い例えで言うと、大坂冬の陣における「真田丸」(寺町を包摂していた)のポジションに、ちょっと似ています。

なお「摂州多田荘巡礼三十三所観音霊場略縁起」にも「天正年中塩川伯耆守朝臣長満公諸堂再興」と、ほぼ同様の記事が記されています。これらは江戸前期の編纂史料ながら、川西市内の文献で「塩川長満」の名前がちゃんと記されている“稀な”記事です。これを「川西市史」の史料編に掲載して頂いているのは大変有り難い事なのですが、一方の「市史・第8巻」中の年表(P49)においては、この史料に基づいていながらも「笹部村大昌寺、塩川国満により再興される」と、わざわざ「国満」に書き換えられています。市史編纂において、いかに「多田雪霜談」(江戸後期成立か)が最優先で扱われていたかがわかります。

なお、塩川氏による城下町防衛に伴うと推定される「寺院の整備」としては、山下町の北西角(第十二回の図①参照)にあったと推定される「甘露寺」を「天正五年ニ再興」(寺社吟味帳)していることに加え、元亀二(1571)年に「善源寺」を平野村から笹部村の現在地に移転(寺伝、寺社吟味帳)させていることも同様かもしれません。

(ただし善源寺は、“町から離れすぎており”、これは当初の“都市計画”の東限ラインが、「平野神社裏の“謎の竪堀”」-「善源寺」-「第十二回の図①中の“U地点”」を結ぶ広大なものであったのではないかと“妄想”しております。“本能寺の変”がなければ、実現していたかもしれないという…。この件については、いつかまた述べたいと思います。)

 [安村氏が建立した謎の「大安寺」]

そして、これも元禄五年「寺社吟味帳」と、元禄六年「摂州多田荘巡礼三十三所観音霊場略縁起」記載の情報ですが、どうやら「安村氏」は永禄年間(1558-1570)、この“タテコ付近?”にもう一軒、「大安寺」なる寺院を建立しています。

なお、大安寺はその後いつしか廃絶しており、詳細な場所は不明です。「寺社吟味帳」には“笹部村”の条において同村禅宗同村大昌寺末寺大安寺」の一項が設けられています。敷地面積は「境内拾弐間ニ弐拾間」とありますから、大昌寺の6割強程。一方の「摂州多田荘巡礼~」では、寺を「山下慈眼山大安寺」としています。場所を「笹部村」とした「吟味帳」の方は、幕府による「公式検分」ですからこれは間違いないでしょう。しかし、民間ガイドである「摂州多田荘巡礼~」の著者の目には「山下の寺」と認識されたわけです。大安寺の場所を総合的に“タテコ付近?”と推測したのはそのためです。

寺院の建物は「吟味帳」には、藁葺で小ぶりな“弐間”ד弐間半”の「寺」と「観音堂」の2棟だけが記されていますが、「摂州多田荘巡礼~」では「春日明神の社あり」としており、本尊は「聖観音 御長六寸 定朝作」だそうです。

以下、大安寺の歴史として「吟味帳」においては「開闢年歴は永禄年中ニ塩川伯耆守家来安村勘重郎 開基開山祖宗和尚 其後貧地故住持不相定実名不知 中頃林香禅師在住 次ニ了幻在住 当住普忍」と記され、もう一方の「摂州多田荘巡礼~」においては「塩川伯耆守崇敬の寺也 仲勝宇治勘十郎造立す」と、あります。

大安寺を建立したのは「高代寺日記」にも多く登場する「安村勘十郎仲勝」でしょう。同記によれば天文十四(1545)年四月、安村助十郎仲信の子として生まれ、幼名は「三ノ助」。永禄六(1563)年五月に十九歳で元服、「勘十郎仲安」と名乗ります。元亀二(1571)年四月には「仲勝」になっており、禄高「三丁(町?)」分を増額され「嫡家也」、つまり安村氏宗家の当主となっています。翌、元亀三年十二月には「吉大夫 安村勘十郎 民部 右兵衛尉 四人ヲ老(おとな)トセラル 米地各ニ丁余ヲ増タマフ 祥光命タリ」と、塩川家の四家老の一人に任命されています。「祥光」とはこの年、四月に出家した晩年の塩川国満のことです。この頃には勘十郎にも「塩川」の名字使用が許されていたと思われます。末期の塩川家を「塩川吉大夫」とコンビで支え、天正七年三月、信長の鷹狩の接待を務め、胴服を拝領したり(信長公記)、天正九年二月の京における「馬揃」にも「橘(吉)大夫」と共に「信長の指名」(惟任光秀宛朱印状写、信長文書911)で参加している、「塩河(川)勘十郎」と同一人物と考えられます。家系は豊臣秀次→増田長盛→池田輝政→池田忠継家に仕え、大和郡山→姫路→岡山→鳥取と経て明治に至りました。残念ながら、鳥取藩士塩川家の「家系等、享保五(1720)子年、大火之節、焼失仕り、具(つぶさ)之儀、相分かり申さず候」(補注)とのことですが、織田信長の朱印状や増田長盛の書状は、明治までは保持されていた(!)ようです。

さて、一方の大安寺の方は、塩川家の滅亡に加え、安村家嫡流も離れてしまったことから、この「吟味帳」における「その後、貧しき地故に住持も相定まらず」の状況となり、元禄六(1693)年までは、なんとか存続していたものの、その後いつしか廃絶してしまったようです。

また、寺が建立された「永禄年中」とは、勘十郎の年齢を考慮すれば、永禄の末年(1569)に近い頃で、大昌寺同様、信仰面のみならず、構想中の「城下町の防衛計画」を意識しての「寺院建立」だったと推測しています。位置は不詳ながらも、“山原口”を抑える段丘上の大昌寺の西隣(画像⑫のX点、及び連載第十二回の図①)に、二つの寺院が“寺町状に”並ぶかたちを想定しました。

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(補注):明治六年の塩川知行家譜・塩川忠通家譜、鳥取県立博物館蔵。なお享保五年の鳥取大火は「石黒火事」と呼ばれています。

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④ 塩川氏と関わる“きっかけ”となった“ある紀州の城”。告知を兼ねて。

[紀州日高郡和佐に眠る「手取城跡」のこと]

さて、最後はちょっと告知をさせて下さい。去る3月8日、戎光祥出版より「図説、日本の城郭シリーズ12、戦国和歌山の群雄と城館(和歌山城郭調査研究会編)」という本が発売されました(定価2600円)。和歌山県を網羅した中世城郭の一般向けガイド本は珍しいので、ご興味ある方は是非お求め下さい。

と、言っても自分が出版にかかわったわけではないのですが、実は25年前、本書の冒頭の“カラーグラビア”において紹介されている「手取城」(日高郡日高川町和佐)という紀州国衆「玉置氏」の山城の「推定復元模型」(和歌山県立博物館蔵、1/500、監修:水島大ニ、白石博則)の製作に、某社の“模型職人”として携わりました。監修の白石氏には、その後も公私でも色々とお世話になりました。(なお手取城主の「玉置直和」は、天正十三年の秀吉による“紀州攻め”で降服しています。とって返した秀吉は、次に北陸の「佐々成政」を制圧したわけなのでした。)

模型製作当時、私は例の「平安京」と「鳥羽離宮」の模型(現・京都アスニー蔵)製作と並行していて、まさに“地獄の生活”だったのですが(しかも平安京は完成直前に職すら失った)、この「手取城の模型製作」の楽しさは忘れられず、その「続編」を個人でやってみよう、気になっていた塩川氏の「山下城跡」などを測量して、同じ1/500の縮尺で製作して、想像の中世城郭風の建物を乗せて、地元にでも寄贈しよう、3年もすれば出来るだろう、などと思い立ち、1994年末から城の実測を始めました。そして「参考までに」と見様見まねで、“塩川氏の歴史”を調べ出したのが、“人生のさらなる暗転”というか、現在に至る“腐れ縁の始まり”でした。通説の諸問題にぶつかり、模型製作は1年あまりで凍結したまま…、あとはこの連載で色々とお伝えしている通りです。まあ、そんなキッカケを与えてくれた“南海の城”でした。もし、書店で見かけられたら、是非手にとってご覧下さい。

 (次回、能勢郡の領有史は後編へと続きます)

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