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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十六回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十六回

~「1583年のイエズス会日本年報」に記されていた“塩川氏減封”の記事 ~

①イエズス会が伝えた塩川領没収記事

②没収直前の塩川氏の元々の領地

③奪われた30000クルザードとは

④羽柴氏による摂津への圧迫

⑤忘れられていた三法師と寿々はどうなった?

⑥具体的にどこが奪われたのか

(A)多田院周辺

(B)清澄寺(清荒神)周辺

(C)多田鉱山周辺

[はじめに]

さて、「東谷ズムホームページ」において告知がなされていますが、来たる令和元年六月二日(日)開催される「東谷ズム令和元年 ラストイヤー」が、ひとまず定期イベントスタイルでの開催の最終会となります。第二会場(山下町自治会館)における「戦国1日博物館」も今回でひとまず“最終回”ということになります(来年以降については全く“未定”の状況)。当日は古城山主郭において「“獅子山ノ城”石碑除幕式」も開催されます。どうか万障お繰り合わせの上、ご来場頂き、忌憚なきご意見等賜れば幸いに存じます。

①イエズス会が伝えた塩川領没収記事

今回、またしても大作(汗)になってしまいました。見つけた記事は、かなり重要なものと思われ、なんとか実証を、と試みて手を広げ過ぎました。どうか、一気にお読みにならず、文庫本のように、一週間くらいかけて章段ごとにお読みいただければ、と願います。

[フロイス「日本史」に書かれた、荒木村重の乱後の「没収地配分」に関する記事]

前回、ルイス・フロイスの「日本史」など「イエズス会関連の史料」において、「塩川長満」の名前が見出されていない点、同じ摂津衆でありながら、キリシタンである「高山右近」との差が著しいことに少し触れました。ただ、名前こそ見出せないものの、これは塩川氏らのことであろう、と思われる記述は一応あるにはあるのです。例えば以下の記事などです。

「信長と荒木の戦争の結果、信長は池田の所領を他の大身たちに与えたが、この奥方の所領である余野もその中に含まれていた。」(「日本史」第十五章(第一部三九章)における「余野の地について」)

これは高山右近の夫人(洗礼名ジュスタ)の実家である、余野のクロダ殿の未亡人の所領が、天正六~八(1578-80)年の、荒木村重の乱に加担したことにより、戦後、領地没収の対象となったというくだりです。現在「豊能郡豊能町」の役場のある「余野」は、近代以前は「能勢郡余野村」でした。領主「クロダ(クロン)殿」は、東隣の高山(三島郡)の高山飛騨守の影響で、永禄期からキリシタンに改宗していましたがこの時点では故人。この未亡人(マリア、ジュスタの母)は“摂津池田氏”の娘でした。

本稿では何度も述べているように、塩川長満は荒木村重の謀反に加担しなかった(「信長公記」における描写、「中山寺文書」ほか)ため、戦時中~戦後において、荒木方から没収された、能勢郡の領有、もしくは代官職に任命されています。例えば以下の史料などがそれを記しています。

「木代内八幡善法寺領事、荒木時も代官にて十分一を取候て、無異儀納所候由候、総別八幡之儀取立之儀候間、如有来相渡可然候、猶菅屋九右衛門尉可申候也 (天正七年)十月廿三日 信長(朱印) 塩川伯耆守とのへ」(石清水文書)

この朱印状は、“荒木村重が有岡城を出て尼崎城に移った一ヶ月余り後”という時期に発給されており、既に有岡城側からは内応が相次いで“落城が見えてきた”といった時勢でした。織田信長は、荒木村重が持っていた石清水八幡宮寺内の善法寺領「木代荘」の代官権(この時代にまだ“荘園制度”が残っていたのですね)を没収し、塩川長満に与えています。木代荘はまさに上記「余野」の南隣に位置し、文明年間に三百二十五石の年貢を得ていたようです(木代庄年貢算用状)。季節的には、まさに「収穫期」における宛てがい、というわけで、塩川氏には急遽、三十石あまりの臨時収入があったことになります。なお信長は、この二ヵ月後に石清水八幡宮寺を検分し、痛んだ社殿の修理を指示しています(信長公記)。

以上は、荒木氏からの没収ですが、塩川氏にはこの他にも、戦後に“能勢郡の没収地”が宛がわれた史料があります。

「荒木摂州 信長公へ御敵ヲ被仕候刻 色々御忠節仕候 其働功ニ能勢郡有馬郡為御加増拝領仕候由承候」(岡山池田文庫、塩川甚助奉公書)

「天正八年庚辰 三月八日 従塩川伯耆守以和儀招テ山下城 能勢諸将被毒殺 今年より領知没収セられ則 伯耆守当郡ヲ御代官せられて収納」(江戸中期の「能勢郡旧領主并代々地頭役人記録」)

これらの史料も塩川氏の能勢郡領有、もしくは代官任命を記しています。よって、上記のフロイス「日本史」における「他の大身たち」には、荒木氏の後任となった池田恒興父子、及び、“塩川長満”の存在も「フロイスの脳裏には意識されていた」と類推されます。“イエズス会の史料における塩川氏の記述”は、せいぜい「これくらいしか」知りませんでした。

[「イエズス会日本年報」においては?]

さて、ルイス・フロイスが渾身の集大成「日本史」を編纂するずっと前の段階では、イエズス会においては宣教師らによる個別の書簡によるレポート(「日本通信」)等があり、また、両者の中間的段階として、1579(天正七)年からは日本を訪れた巡察使ヴァリニャーノの指示で「日本年報」という、各地からの書簡を年ごとに責任者が取りまとめたレポートの形で、本部に向けて発信されました(柳谷武夫「編輯者のことば」イエズス会日本年報 上)。これは「日本史」に比べて“ひとまわり生々しい”ややリアルタイムに近い史料です。そしてこれら書簡や年報は1598(慶長三)年、年次にまとめられて本国ポルトガルのエヴォラ市において活版印刷されました(冒頭画像左下)。「耶蘇会日本通信」と訳されていますが、原題は“Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreurão dos Raynos de Iapaõ & China aos da mesuma Companhia da India,& Europa,desdo anno de 1549 o de 1580”(日本 シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡(その第2編は1581-89年分))という長いものです(当時“J”及び“U”は「大文字」がなかったので、“I”及び“V”で記されています)。同書中の「日本年報分」は、既に戦前の段階で、村上直次郎による日本語訳が出されていました(昭和44(1969)年に再び公刊)。

なお、ルイス・フロイスは、天正四(1576)年、後任のニェッキ・ソルディ・オルガンティーノと交代して九州に下っているので、以下に紹介する畿内分1583-84年の年報や書簡は、京の南蛮寺や高槻のセミナリオに駐在していた、オルガンティーノらが畿内から発送したレポートを、最終的にフロイスが九州において編纂したものです。

[1584年1月20日のルイス・フロイス書簡に記された河内、摂津の状況]

「かくの如くして河内国を取り上げ、津の国においても同様にし、昔よりの領主のそこに残ったものは瀬兵衛Xefioye(中川清秀)の一子(秀政)と高槻のジュストのみであった。」

これは1584年1月20日(天正十一年十二月十八日)長崎発のフロイスからインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡の一節です。Xefioyeの一子、つまり(賎ヶ岳の戦いで戦死した)中川清秀の子「中川秀政」と「高山右近」以外の摂津の領主は追い出された、とあります。私はこの記事と、「高代寺日記」における「獅子山城」の記述が天正十一年十月二日を最後に途絶えること、そして塩川領であった多田院や清荒神、多田鉱山などが天正十三~十四年にかけて、羽柴氏領になっていること(後述)から、本稿の当初(連載第一回など)においては、天正十二年の初頭には塩川氏は地元から引き剥がされたのではないか?と、推定していました。しかしその後、第十一回、第十四回を経て、城の所有形態(武装要素のみ破却された可能性)をも含めて、やはり天正十四年春までは、「在地」を保っていた、と思い直すに至りました。要するに、上記のフロイス書簡の記事は、「摂津と河内の状況を大雑把にまとめた文脈」における一節であったようです。そして、うかつにも見落していたのですが、この書簡のわずか12日前に書かれた「1583年のイエズス会日本年報」には、もう少し“領地没収”の詳細に迫った描写がなされていました(冒頭画像)。と、いうわけで、お待たせしました!。これが今回連載の“メイン・ディッシュ”です。

[「1583年のイエズス会日本年報」に記された、もう一人の摂津衆]

「彼(羽柴)はもと津の国に領地を有した貴族を悉く追ひ、その収入を家臣に与へたが、ジュスト(高山右近)と他の一人の貴族には従前の収入を与へて厚情を示した。ただし異教徒であった他の一人より三万クルサド余を取上げ、ジュストには特別の恵を与へた。」

この記事が記された「1583年の日本年報」は、冒頭に「1584年1月2日(天正十一年十一月三十日)付、パードレ・ルイス・フロイスよりイエズス会総会長に贈りたるもの」と記されています。この情報をフロイスにもたらした畿内からの書簡の到来や、フロイスによる、年報としての「取りまとめ」の作業を考慮すると、記事内容となった事象は少なくみても、1~2ヶ月は遡る可能性があるでしょう。

そして、「この三万クルザードを取り上げられたもう一人の異教徒」(doutro que era gentio lhe tirou mais de trinta mil cruzados de renda)とは、「塩川長満」しか考えられません!。「池田恒興、元助父子」は、この年(和暦)五月末~六月初頭にかけて美濃国に転封されており、羽柴秀吉が所領を安堵した摂津衆は、「高山右近」の他には「中川秀政」だけです。イエズス会史料に記された、唯一の「塩川長満に限定される記述」が、こともあろうに「減封」だったとは!。

「高代寺日記」における、天正十一年「十月二日 祝門中悉(ことごとく)獅子山ニ集テ興(宴会)アリ」の2ヶ月弱後、フロイスが九州においてこの「1583年の日本年報」を書き終えていた、というタイミングです。この「宴会」の華やかなイメージとは裏腹に、天正十一年から滅亡する天正十六年までの「高代寺日記」における塩川氏の記事は、とにかく「覇気」がありません。これも減封の影響でしょうか。なお、一応、「(天正十一年)十二月三屋四郎 河合某納所タリ」及び「(天正十二年)十二月大癸卯 三屋 谷 河合 安村 納所タリ」と、「納所」(年貢徴収)の記事があるので、幾分の領地は確保していたようです。そして、この年代における「塩川氏減封」を検討してみると、他のいくつかの史料に「整合性」を見出すことが出来ます(後述)。

フロイスはまた、こうも書いています。

「彼は自分が従えた諸国では、たとえ本来の領主がいたとしても、大きい倉(複数)を建てさせ、その中に多数の収穫を収納せしめ、それを売却して金や銀に換えては己が宝物に加えた。」(「日本史」第2部74章)

なお上段画像右下の赤線で示した部分が、1598年エヴォラ版における塩川氏減封のくだりで、上の村上直次郎氏の邦訳に対応しています。このエヴォラ版はポルトガルの国立博物館“Biblioteca Nacional De Portugal”のサイトで閲覧出来ます。こういう点においては「いい時代になったものだ…」と感心します。

②没収直前の塩川氏の元々の領地

ここからしばらく、「計算」ばかりの記述が続きます。“こういうのが苦手な方”は、ざっと流して下さい。ちなみに私はといえば、“超苦手”です。

[秀吉に所領を減封される前の塩川氏の石高は?]

まず、塩川氏の所領は、元々どのくらいだったのでしょう?。少し時期を遡って、天正二~三(1574-75)年、織田信長の下で摂津の国衆たちを支配した、「荒木村重体制」を眺めてみましょう。「荒木略記」(群書類従)の記事に

「摂州如此荒木一家才覚として相随候よし信長聞召。城主ども被仰付候。伊丹を在岡と名改。摂津守居城被仰付。高槻に高山右近。茨木に中川瀬兵衛。兵庫の花くまの城に荒木志摩守。能勢には能勢十郎。多田には塩川伯耆守。其儘在住。有馬郡三田に荒木平大夫。大和田に阿部仁右衛門。尼崎之城に摂津守嫡子新五郎被召置。何も国中之儀摂津守に相随候様に被仰付其通御座候」

荒木村重の有岡(在岡)を中心に、衛星都市のように国衆たちの城と城下町が形成されるという記述です。一方、「寛永諸家系図伝 荒木氏」(内閣文庫)にも目を転じてみましょう。こちらにおいては、同様の記述に加え、摂津衆たちの所領の「石高」が記されています。

「此ゆへに一国みな帰服す、こゝにをひて村重信長の命をうけて功ある者を賞して食邑をわかつ、池田久左衛門尉池田の城を領す、本地五千石なり、村重五万石をくはへさづく、高山右近将監(後南坊と号す)高槻の城を領す、本地四万石なり、中川瀬兵衛尉茨木の城を領す、本地四百石なり、村重四万石をくハへさづく、塩河伯耆守多田の城を領す、本地三万石なり、荒木志摩守(のち安志と号す)花隈の城を領す、本地三千石なり、一万五千石をくはへさづく、荒木平大夫(のち木下備中守と号す)三田の城を領ず、食邑一万石なり、安部仁左衛門大和田一万石を領す、能勢十郎能勢一万石を領ず、異母弟荒木吹田吹田(ママ)を領す」

塩河伯耆守は「本地三万石」とあります。(ちなみに「多田雪霜談」においては「二万八千石」です)高槻、茨木は、塩川氏よりひとまわり多い「四万石(以上)」とあります。興味深いところでは、「池田城」がまだ廃城になっておらず、「池田久左衛門尉」に五万五千石が与えられていることです(補注)。勿論この「池田城」は、荒木村重が毛利方に寝返る、天正六年までには廃絶、もしくは縮小されていたと思われます(「信長公記」における「古池田」の表現)。

(補注)

池田城跡は主郭の発掘調査において、Ⅰ期~Ⅴ期までの5つの段階が検出されています。(「池田城跡 ―主郭の調査―」1994)

[豊臣期における、旧塩川領の石高は]

さて、塩川氏の「本地三万石」という記述ですが、この値を検討する為に、「兵庫県の地名」(平凡社)に列挙された、「豊臣期の各村の石高」を、「荒木村重体制下の塩川領であったと思われる範囲」内で“合算”してみました。「豊臣期の各村の石高」とは“文禄三年の検地”、もしくは“慶長十年の摂津国絵図”に記されたもの、例外的に両方とも無い場合は“元和、もしくは正保期の検地”における値を用いました。また「塩川領であったと思われる範囲」とは「現・川西市域」、「現・猪名川町域」、「現・宝塚市域内の“旧川辺郡相当域”」に属する村々です。ただし「“○○新田”など江戸期以降に開発された村」や、「戦後、池田元助に宛がわれた久代村(旧荒木領か)」の石高は加えていません。さらに重要なところで、「多田鉱山の産出量」も、そもそも塩川段階では資料自体がなく、加えようがありません。また、天正元年、もしくは七~八年に塩川氏に加増された「能勢郡(吉川を含む)、有馬郡」における権益も加えていません。これらは天正九年には、織田家、もしくは尾張池田氏に収公された可能性があるからです(後述)。

この条件で合算してみると、旧東谷村域合計が2093石、それ以外の川西市域が4566石、猪名川町域が6248石、宝塚市域が5445石となり、「合計18352石」となりました。

これは基本的に文禄~慶長期の値ですので、天正初頭には、これよりひとまわり少なかったでしょう。これに“鉱山産出収益分”を加えた値が、「寛永諸家系図伝 荒木氏」が記した「三万石」ということになるのでしょうか。(なお、天正元年に塩川氏が滅ぼした(高代寺日記)能勢郡吉川村は、天正十六年段階で170石(島津家文書)です。)

[豊臣期の能勢郡の石高は]

もうひとつ、「寛永諸家系図伝」に記された、能勢氏の「能勢一万石」についても検討してみました(補注1)。

能勢郡は「天正十三 九月朔日」付で脇坂安治に「摂州能勢郡一職八千五百石」が宛がわれており(龍野図書館所蔵文書、豊臣秀吉文書集1607)、また「脇坂記」(続群書類従所収)においても「同(天正)十三年乙酉五月、安治伊賀国より摂津国能勢郡にうつされて、采地壱萬石を領す」とあります。なお、脇坂氏への能勢領宛がいは、前回触れたように、越中で降服した「佐々成政宛て」に急遽変更されたと思われますが、能勢領が「一万石弱」であったということがわかります。

また、天正十六年に島津義久に宛がわれた能勢領は、能勢東郷を主とした「五千百二十六石」(島津家文書)でした。これに、「島津領とならなかった能勢西郷」における、文禄、慶長期の石高を足してみました。それは、上記の塩川領合算とおなじ手法で「大阪府の地名」(平凡社)に記載された、該当村々の石高を合算したもので、小計「4831石」になりました。これに、上記、島津領を足してみたら、合計「9957石」となりました。つまり、能勢郡全体で、ほぼ「一万石」といえそうです。(補注2)

能勢領で検討したかぎりにおいては、「寛永諸家系図伝」における石高の値は、ひとまず信頼が置けそうに思います。後世の史料ながら、「摂津一職」として国を統括していた(信長公記)村重の後裔の荒木家(幕臣)が提出した(「荒木略記」と同時期の)情報であり、ここから、荒木村重段階においても、大雑把な「指出」など、摂津国における領地把握に関する行為がなされたのではないかとも類推されます。ともあれ、本稿においてはひとまず、天正二~三年段階における「塩川領」は、ざっと「三万石」と把握して、検討を進めてみることにします。

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(補注1)

なお「能勢物語」(長沢本)においては、足利義昭を追放した織田信長を、「悪役」として強調しています。よって「能勢頼言」は天正八年九月、織田方の塩川長満に誘殺されるまで、畿内に進出してきた信長に「一切従わなかった」という筋立てになっているのです。この点は上記「荒木略記」における記述に反し、状況からも「非現実的」であり、あくまで物語上の創作と思われます。最後は本能寺で信長を討っている有様です。(ただし天正八年に滅んだ能勢氏の浪人が、隣国の明智家に仕官したことは、ごく自然にあったでしょう。)

ともあれ、能勢氏は将軍家「奉公衆」の家柄であり、三好氏との繋がりも強かったことから、織田体制の中では「野党色」が強く、離反を繰り返した可能性があり(能勢郡旧領主并代々地頭役人記録など)、それが尾を引いて、結局、天正八年における、能勢氏謀殺の主因になったのでしょう。

(補注2)

余談ながら、前回見落してしまったのですが、能勢郡にはこの他「天正十五年九月廿四日」付で、「水野忠重」に「能勢郡内参千五百七拾四石」が与えられており(下総結城水野家文書)、「能勢郡旧領主并代々地頭役人記録」にも「天正十五丁亥年 御領主 水野惣兵衛尉忠重」の記載があります。この水野領と翌年島津氏に宛がわれた領の合計は、役「八千七百石」となり、脇坂氏に提示された「能勢郡一職八千五百石」に近い値ですので、両者は「ある期間、並存」していて、また、水野氏に宛がわれた地域は、島津領に名前の無い「能勢西郷」であったことが推定されます。また、水野氏に能勢領が与えられたのが、佐々成政の肥後領有の年であることから、成政へ宛がわれた能勢領は、肥後と引き換えに豊臣家に収公された可能性も出てきました。これは前回連載の補足ながら。

③奪われた30000クルザードとは

引き続き、本章においても“計算の話ばかり”が続きます。苦手な方は、どうか、読み飛ばして下さい。

[塩川氏から奪われた「三万クルザード」とは、いかほどか?]

では、「1583年のイエズス会日本年報」に記された

「ただし異教徒であった他の一人より三万クルサド余を取上げ、ジュストには特別の恵を与へた。」

における「三万クルザード」(trinta mil cruzados)とは、石高に換算したら幾らくらいなのでしょうか?。実は、これが中々厄介でした。

[高山右近への褒賞を記す、日欧の史料から考える]

参考となる記述に「イエズス会日本年報」中の「1582年11月5日付、口ノ津発、パードレ・ルイス・フロイスが信長の死につきイエズス会総会長に贈りたるもの」の項において

「ジュスト右近殿には、自領高山に接近せるノシノコウリNoxinocoreと称する一年に二万クルサド以上の収入ある地が与えられた」(村上直次郎氏が「高山」を「高槻」としているのは誤り)という記述があります。これは上記「1583年のイエズス会日本年報」における「ジュストには特別の恵を与へた。」に相当する記事でしょう。

この、高山右近に対する褒賞の日本側の記録が以下に相当します。

「能勢郡之内参千石、江州佐久間分之内千石、都合四千石、御知行不可有相違之状如件、

天正十 六月廿七日 惟住五郎左衛門尉 長秀(花押) 羽柴筑前守 秀吉(花押) 池田勝三郎 経(恒)興(花押) 柴田修理亮 勝家(花押)  高山右近助殿」(塚本文書)

イエズス会が記した「ノシノコウリ」とは能勢郡を指しており、これは、山崎の戦いで先鋒を務めた高山右近に対し、その功績により、いわゆる「清須会議」において、四人の宿老の署名で、「能勢郡内の三千石」を含む「合計四千石」が与えられたことを記したものでした。ちなみに「江州佐久間分之内千石」とは、二年前の天正八(1580)年、追放された「佐久間信盛」から没収、収公されていた“織田家の直轄領”を指すので、「能勢郡内の三千石」の方もやはり、天正九~十年以来、“織田家の直轄地”となって、おそらく“池田恒興管理下”となっていた、能勢郡から捻出されたと思われます。

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既に、荒木村重の乱における功績により、天正七~八年にかけて、塩川長満に能勢郡、有馬郡の領有、もしくは代官職が宛われていたことに触れましたが、これらは両郡とも、結果からおそらく「一年間限定」ほどであったようで、織田家直属の菅屋長頼(九右衛門)により収公され、池田恒興、元助の管理下に移行したと思われます(有馬郡に関しては「善福寺文書」、「余田文書」など)。また「能勢郡旧領主并代々地頭役人記録」においては

「天正九年辛巳 御代官 菅谷九右衛門殿 郡代 小川作左衛門 土方孫七 水谷与三」及び「天正十壬午年~御代官 高山右近殿」の記述があります。なお菅屋長頼は本能寺で死んでいます。このほか「能勢物語」(真如寺本)には天正十年におけるエピソードとして、能勢郡に池田信輝(恒興)が「制札」を立てた話が出ています。

*[吉川井戸城跡について]

また考古学的資料としては、能勢郡吉川の「吉川井戸城」跡には、築石の“面を揃えた”本格的な“石垣”が残存し、軒平瓦には「有岡城」、「三田城」と同氾、もしくは極めて酷似する氾があります。この城は、元々、天正元年に塩川氏に滅ぼされた「吉川城」(高代寺日記)の跡と思われ、豊能町の小嶋均氏による発掘調査(2001)においては下層に「火災痕跡」が見出されています。それを、荒木氏、もしくは尾張・池田氏段階で、“織田家直轄の城”として、改装されたのではないでしょうか。

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[2万クルザードとは、“能勢郡全体の出来高”を表わしている?]

まず、上記、村上直次郎氏による邦訳は「ノシノコウリNoxinocoreと称する一年に二万クルサド以上の収入ある地」となっていることが肝要です。そして、例のエヴォラの活字版における、このくだりは、ポルトガル語においては以下のようになっています。

“A Iuſt Vcundono deraõ (ジュスト右近殿に与えられた)de nouo muito boa renda (新しいとても良い知行地を)pegada com Tacayama feu lugar proprio(本貫地である高山に接した), chamada Noxinocóre(ノシノコーリと呼ばれる) , que lha renderá mais do vinte mil cruzados cada anno(毎年2万クルザード以上をもたらすところの)”

厳密にみれば、フロイス(もしくは、元になった畿内からの書簡)は、高山右近に2万クルザードが与えられた、とは言っておらず、右近に与えられた「能勢郡とは年間2万クルザード以上を生み出す土地」と言っているのに過ぎません。イエズス会側が、右近に実際与えられた三千石(もしくは近江領を含めた四千石)という額を知っていたのかどうか、あるいは恒例の(?)、右近を“もちあげるレトリック”として、わざとこのような表現を用いたのか、という可能性もあるかもしれません。

なおクルザードと石高の換算については、時期や地域差、交換率の変遷、さらには記録者の間違いや誤写、誤植の可能性まで含めて、様々な情報があって戸惑ってしまいました。

[慶長初頭のクルザードに関する記述]

たとえば、白峰旬氏は論考“「十六・七世紀イエズス会日本報告集」における軍役人数(兵力数)の記載について” (ネット上でPDFダウンロード可)において、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」(I期-3巻、231頁)に「慶長4~同6年の時点で「毎年3500クルザードに相当する五千石の収入」と記されているので、3500クルザード=5000石であり、この数値をもとに計算すると1クルザード=1.4石(計算上、小数点第二位を四捨五入した)ということになる。」と考察されています。

ただ、この換算値を用いると、塩川氏から没収された三万クルザードは「四万二千石」となり、高山右近に与えられた能勢の二万クルザードは「二万八千石」となり、明らかに数字が膨らみすぎてしまいます。「慶長4~同6(1599-1601)年」といえば、“塩川氏の減封”から20年後にあたり、“交換レート”が相当変わっていた、ということでしょうか。

[天正十年、明智光秀が安土城でバラまいた黄金は何クルザード?]

さて、再び前述の、高山右近に2万クルザードが与えられた、ことをレポートした「1582年11月5日付、口ノ津発、パードレ・ルイス・フロイスが信長の死につきイエズス会総会長に贈りたるもの」を見ると、本能寺の変の直後、安土城に入った明智光秀が、城中の金銀をばら撒く有名な記事があります。その一節に

「高貴な人達には各々金の一両ychirios一千すなはち七千クルサドを与へた」

という記述があり、ここから「金一両:7クルザード」という交換率が導き出されるようです。(この「金一両:7クルザード」という考察は、桐野作人氏のブログ「膏肓(こうこう)記」において知りました。同ブログ2006年12月18日条のコメント覧においては、クルザードと金、銀との交換率に関して、複数の方々との間で、有益な討議が交わされていて、参考にさせて頂きました。)

[「日本史」に記されたクルザードの記事]

他に、松田毅一氏が「豊臣秀吉と南蛮人」(朝文社)の8頁において、「フロイスは四十三クルザードが天正黄金一枚と書いている」と書かれています。「一枚」という単位は“ichimais“の訳と思われ、「天正大判一枚は十両」なので、ここから「金一両:4.3クルザード」との比率が導きだされます。この換算値はしばしば引用されるようです(上記「膏肓記」コメント覧でも引用されてる小葉田淳氏の「金銀貿易史の研究」(法政大学出版局)など)。ただ、この記事は、フロイス「日本史」にある記述のようですが、該当部分をまだ確認出来ておらず、年代を把握していません。

[天正九年の京での「馬揃え」の記事においても]

この他、「1581年4月14付、ルイス・フロイス師が同日本に在留する一司祭に宛て都より送った書簡」中における、天正九年の京での“馬揃え”の記事において

「(参加者)各人は異なった工夫を凝らさねばならなかったし、少なくとも千五百万金クルザード以上を費やさぬ者はこの祭に出てはならぬと命じられた。従って、中位の殿(トノ)たちは黄金五、六枚(イチマイス)を費やし、他の者たちは十枚、十五枚、二十枚、また別の者はさらに多くを費やした」(東村博英氏訳、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」所収)

との記述がありますが、これは中々「判じ物」です。「黄金五枚」とは「五十両」ですから、上記の「金一両:7クルザード」で換算すれば「350クルザード」相当となり、「千五百万金クルザード」(エヴォラ版で確認すると、“~menos de mil & quinhentos cruzados douro,dahi pera tiba,~”のあたり?)の意味がよくわかりません。この記事に関しては、諦めて退散致します(汗)。

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なお余談ながら、この「馬揃え」には、塩川家を切り回していた両家老、「塩川勘十郎」と「塩川吉大夫(橘大夫)」が、信長の指名で参加している(惟任光秀宛朱印状写、信長文書911)ことは、本稿では幾度かお伝えしています。塩川氏末期に「伯耆守長満」(病気だった??)の代わりに活躍するこの二人については、しばしば“謎”とされていますが、「高代寺日記」を素直に読めば、元亀三年十二月に「安村勘十郎、吉大夫、民部、右兵衛尉」と共に任じられた「家老」に他なりません。そもそも吉大夫の後裔が元禄九(1696)年に岡山・池田家提出した「塩川源太郎奉公書」(岡山・池田家文書所蔵)において、その四代前である「高祖父塩川吉大太輔生国摂津河辺郡多田庄者塩川伯耆家来ニ罷在(まかりあり)」と記されてあって、塩川伯耆の「家来」だったことが記されているのです。

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[あとは、黄金と米との換算率さえ解れば…]

あとは黄金と米の石高の換算率が解れば、塩川氏から没収された石高がわかります。これは有り難いことに「日本史資料総覧」(村上直・高橋正彦監修、東京書籍)中のP146に「中世物価俵」というものが掲載されていました。その天正十一年の項目をみると、「多聞院日記」及び「妙心寺文書」から導き出された数値として「金一両:米2.8~3.5石」、あるいは「金一枚(十両):27~36石」が提示されています。両者から、金一両の範囲を最大「2.7~3.6石」とし、これに上記イエズス会「1582年11月5日付、フロイス書簡」における「金一両:7クルザード」をあてはめてみました。

[塩川氏が没収されたのは12000~15000石ほどか?!]

すると、“高山右近に与えられた「能勢郡は年間2万クルザード以上を生み出す土地」”というのは「七千七百石~一万二百八十石以上」ということになります。これは「天正十三 九月朔日」付で脇坂安治に宛がわれた「摂州能勢郡一職八千五百石」(龍野図書館所蔵文書)に非常に近い値です。

さらに塩川氏から没収された「3万クルザード」を計算すると、「一万一千五百七十石~一万五千四百二十八石」ということになります。つまり、「塩川氏が没収されたのは12000~15000石前後か?」ということになります。

[「1クルザードは米一俵」という情報も]

この他に、クルザードと米の「俵単位」における交換率に関する別の情報もありました。それは、ルイス・フロイス「日本史」(第二部九十七章)において、天正十五(1587)年の「バテレン追放令」に関連する記事の中にある「約一万クルザードに該当する米一万俵」(松田毅一・川崎桃太訳)という記述です。つまり「1クルザード:米一俵」というわけです。但し、残念ながら、「石」と「俵」の関係が一定ではないらしく、これが問題です。

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なお、1603(慶長八)年にイエズス会が公刊した「日葡辞書」(岩波書店)おいては、さすがに「具体的な交換率」のような「日々変動する数値」は記されていないようです。例えば 「一石(Ichicocu)」の項では、「桝と呼ばれる量器で百回計った総量」としか記されていません。また「一俵」、「一両」、「一枚」、「一斗」、「一升」などの項目はありますが、“一石と一俵”の比率を知る手掛かりは記されていません。

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目下「一俵」に関する手掛かりに出会えていないのですが、wikipediaによると、「戦国時代から江戸時代にかけての1俵が2斗(0.2石)から5斗(0.5石)の範囲で、地域差、時代差があった」とのことです。

要するに「1クルザード(=1俵):0.2石~0.5石」という巾があったわけで、この範囲で換算してみると、高山右近に与えられた「能勢郡は年間2万クルザード以上を生み出す土地」とは、“四千石~一万石以上”の土地、ということになります。前者“四千石”は、右近に与えられた実値(近江分を含めて・塚本文書)そのものですが、やはりフロイスの「“能勢郡全体の石高”について述べたような文脈」から判断すると、後者の“一万石”の方が近いように思われますが、いかがなものでしょう?

ここから「塩川氏から没収された3万クルザード」から換算される“六千石から一万五千石”の範囲のうち、後者「一万五千石」の方が近いのでは(?)ということになります。

[取り合えず、没収額の“結論”として]

さて、前項で検討した「日本資料総覧」のデータとも考え合わせると、目下の結論として、塩川氏は、天正十一年に羽柴秀吉によって、その所領

「三万石の内から、一万二千~一万五千石分を没収された」

ということになりそうです。

④羽柴氏による摂津への圧迫

ようやく「計算地獄」から脱することが出来ました。ここからは、羽柴秀吉による、摂津入部の光景を概観してみることにします。

[池田恒興父子を追い出し、代わりに三好孫七郎(後の羽柴秀次)が]

天正十一(1583)年四月、羽柴秀吉は柴田勝家、織田信孝を滅ぼします。彼にとって大きな障害は消えました。今や彼は、“不要となった仮面”を剥がして、ストレートに“やりたい放題モード”に突入しました。

五月末には、天正八年以来、荒木村重の後任として摂津に入部していた池田恒興、元助、照政(後の輝政)父子を、滅ぼした「織田信孝領であった美濃」と引き換えに、摂津から追い出します。塩川氏にとって、縁戚関係を結んでいた池田氏が去ったわけです。既に「清須会議」の段階で抱き込んでいた池田恒興には、「織田家・大坂城」を含む摂津三郡を加増して与えていたので、秀吉は言わば“2ステップ”を以って、待望の“大坂城の地”を得たわけです。やり方が上手いというか…。

「五畿内をもって外構へとなし、かの地の城主を以って警固となすものなり。故に、大和には筒井順慶、和泉には中村孫平次、摂州には三好孫七郎秀次、茨木には中川藤兵衛秀政、山城の槙島には一柳市介直末、洛中洛外を成敗するところは半夢斎(前田)玄以なり」(「柴田合戦記」、桑田忠親校訂)

秀吉は今や、京を含む山城、河内、播磨、丹波、近江二郡、和泉の一部を手中に収めました。そして摂津は当時「三好孫七郎信吉」といった甥の「秀次」に支配させました。

[有馬郡三田城の受取と「塩儀」なる人物]

摂津から出て行く池田氏と、入れ替わりに入部する秀次との状況を示す好史料があります。

「尚以、其方事、兵庫ニ残候て、政道巳下、堅可申付、三田へハ人を可遣候、兵庫城・三田城両城可請取之由、得ニ其意候、塩儀遣候て、早々可請取候、猶追而可申越候、恐々謹言 筑前守 秀吉(花押) 五月二十五日 三好孫七朗殿」(兵庫県史所収、福尾猛市朗氏文書、なお本史料の存在は20年前、山崎敏昭氏に御教示いただきました)

これは年次を欠いていますが、日付けはまさに池田氏転封の「五月」であり、「天正十一年」に間違いないと思われます。池田氏管理下にあった「三田城」と「兵庫城」の羽柴氏への受け渡し直前に書かれたようです(日付から、秀吉自身は近江・坂本城に居たようです)。有馬郡においてはこの五月末まで「池田元助の去り際の発給文書」が複数見られ(兵庫県史、三田市史)、それらは六月以降、美濃において見られるようになります(岐阜県史、なお発給文書は「元助」によるものが大半で、既に彼が家督を相続していたのでしょう)。また兵庫城は荒木元清の花熊城を廃して、天正八年以来池田照政が入っていたと思われる城です。兵庫には「天正拾一年五月日」付で「筑前守在判」の禁制が発給されています(難波創業録)。これもやはり、坂本城において発給したものでしょう。

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なお、改易時の「城の受取とは」、江戸時代においても武装の下に行なわれた、緊張感を伴う軍事的行為でした。乃至政彦氏の「戦う大名行列」(ベスト新書)から引用させていただくと、江戸期における「改易の手順は次の通りである。まず領地を召し上げる城主の身柄を幕府が拘束する。そのうえで幕府は周辺諸藩に軍法を明確にして、軍勢の動員を指令する。諸藩は公儀の軍役としてこれに応じる。軍勢は武装行列をなして目的の城へと移動する。四方八方からやってくる大軍を前に、改易対象の城兵は手も足も出ない。」とのことです。「多田雪霜談」や、周辺寺院などにおける、塩川氏の「山下落城」伝承は、こうした「改易の光景」が増幅されて「塩川国満の切腹」にまで膨らんだものと考えています。

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話を戻して、上記書状の本文における、「お前は兵庫に残って政治を取り仕切ること。三田城の受け取りの方は、さっさとその「塩ナントカ」を派遣してやらせなさい」という秀吉の緊張感と焦りが感じられるでしょうか。そして、三田城の受取役を名指しされている「塩儀」とは、しばしば「摂津塩川氏」と解釈されることが多いのですが(高田義久氏「赤松有馬氏年譜」など)、やはり「他家の者」に任せる任務としては不自然です。そして「高代寺日記」においては、まさにこの年の始め、天正十一年二月条に「同月(塩川)吉太夫ヲ招テ三好孫七へ雇分ヲ議セラルゝ 可也」の記事の後「三月朔日 運想 孫七へ雇分タリ」の記述があります。なお、藤田恒春氏の「豊臣秀次」によれば、三好孫七郎はこの年まだ「十六歳」で、ちょうどこの二月~三月にかけて伊勢の瀧川氏の峰城攻め(賎嶽合戦記上)や、美濃口へ派遣(岐阜県古文書纂五)されており、まさに秀次が“賤ヶ岳の戦い”の渦中にあったという時期です。

さて、「塩儀」とは、私にはこの秀次スタッフになったばかりの「塩川運想軒」こそが第一候補と思われます。正式な「仕官」ではなく、今日風の「嘱託」に近いニュアンスでしょうか。実はこの「塩川運想軒」という不思議な存在は私にはずっと“謎”でした。今、彼の“肩書き”について問われれば、「根来あがりの傭兵隊長(フリー)」と答えたいところです。時期的には「根来くずれの」と言った方が正確かもしれません。現在で言うところの「民間軍事会社」です。まさに「中世と近世の狭間」にのみ存在した“変な奴”ですが、彼が一足早く、羽柴家内部に入り込んでくれたおかげで、塩川氏の“滅亡”はやや“ソフトランディング”で済んだと思います。彼についてはまた稿をあらためて書いてみたいと思います。

[池田氏の美濃転封は、決して穏やかに行なわれたものではなかった]

この時期の羽柴秀吉による摂津、ひいては五畿内からの他家の締め出しについては、中村博司氏が「豊臣秀吉と茨木城」(「よみがえる茨木城」所収)などに詳細に書かれています。また、中村氏の講演レジュメ「豊臣政権と茨木城」(茨木市立図書館蔵のシンポジウム冊子)には、この“池田氏の美濃転封”に関する「イエズス会日本年報」における以下の衝撃的な記事が引用されています。

「羽柴には同盟すれば叛くことができると考へて恐れた三人の大身があった。第一は信長の義兄弟池田紀伊守殿(恒興)Iqueda Quinocamidonoで、津の国のほとんど全部を領し、もと荒木のであった城に居り、大坂の城をもその手に押へてゐた人であるが、これに美濃国を与へ、現に領してゐる地を悉く渡すことを命じた。これは大いに彼の意に反したことであったにかかはらず、止むを得ず諾したが、彼の出発する時必ず通過すべき坂本の城に羽柴が居った故、その際城中にて彼に対して謀るところあらんことを慮り、池田は三つの条件を出した。第一は羽柴が数レグワの間彼と同行すべき人質を出すこと。第二は美濃より彼の甥が千人を率ゐて出迎へること。第三は彼がよく武装した兵千五百人を伴ふことであったが、悉く承諾を得て、甚だ立派に武装した兵を率ゐて美濃国に向ひ、今は同国を領有してゐる。」(村上直次郎訳「1584年の日本年報」)

「坂本の城」は、明智光秀の旧領が「清須会議」において丹羽長秀に宛がわれ、柴田勝家滅亡後はその旧領を丹羽長秀に与えたので、今や秀吉の城でした。大坂城と同じやり口です。また、「必ず通過すべき坂本の城」とあるのは、本稿第五回でご紹介しましたが、下坂守氏が「近江の城と信長」で述べられた「京―山中越―坂本城―[船便]―佐和山城―岐阜」という、信長が確立した最短ルートを意味するのでしょう。

また、「高代寺日記」におけるこの年「九月」の項に(月が間違っているかもしれませんが)「九日 尼ヶ崎ニ使ヲ遣ス 池田氏ヲ労フ(ねぎらう)」という記事があり、塩川氏にとっても悲報である(池田元助は長満の娘婿)、“池田氏転封に対する「労い」”を記したものと思われます。なお、池田父子は翌年、小牧・長久手の戦いにおいて戦死してしまうことは言うまでもありません。

[秀次を補佐した田中吉政]

「田中吉政」は一般には“関が原の戦いの後、石田三成を生け捕りにした武将”として知られてきましたが、近年はその“関が原の戦いの通説”自体も大幅に“崩壊”しそうで、目が離せない状況です。

それはともかく、田中吉政は「高代寺日記」に頻出する人物であり、本稿でもしばしば触れています。彼の登場が多いのは、彼が摂津に入部した若き秀次の筆頭補佐であったからで、近年の研究においては、吉政は北近江において宮部長熙(継潤)の家臣出身で、秀次が宮部継潤の養子であった頃からの縁のようです(太田浩司「田中吉政の出生と立身」)。

摂津における“三好孫七による“行政”は、実質、田中吉政が取り仕切って代行していたと思われ、例の塩川運想軒による仲立ちを含めて、滅亡後の塩川浪人が近江に転封した“羽柴秀次に多くが再仕官出来た”ことも、言わば、田中吉政を通じてでした。近年では杉尾(猪名川町)の元・多田院御家人、平尾氏が、秀次の刑死直後である文禄四(1595)年十月、三河・岡崎城主となった田中吉政の家臣となっていたことが公表(宮川吉久知行宛行状・「川辺郡猪名川町における多田院御家人に関する調査研究3」所収(2017))されましたが、「高代寺日記」に記された諸状況や、連載第十三回でお伝えした「塩川十兵衛」に関する情報とも整合していて、「やはりそうだったか…」という印象です。

さて、山鹿素行が延宝元(1673)年に著した「武家事紀」には、田中吉政が秀次の家臣として、摂津の「池田城」を受け取る際、“戦闘”があったことを伝えています。

「~秀次摂州池田城ヲ賜テ(池田初池田信輝(恒興)領之 信輝移岐阜城 秀次移池田城 秀次者信輝聟也)入部ノ初、池田庄入信輝カ足軽トモノ妻子ハ未濃州ヘウツラズ、其儀ニ付テ狼藉ノコト出来リ取込リ者アリ、吉政夜中ニ續松(ついまつ:たいまつ)ヲナケコミテ押入リ、賊ト力闘〆、ツイニ是ヲ撃殺、此時面ニ疵ヲ蒙テ~」(武家事紀)

後世の二次史料ながら、吉政が摂津「池田城」を受け取る際に、城下に居座り続ける恒興の足軽と格闘があり、顔に刀傷を受けたエピソードが紹介されています。池田恒興の転出が穏やかでなかったという緊張感は、まさに前述した「イエズス会日本年報」に記された状況と同じです。なお、この「池田城」(いけだのしろ)は「塩川城」などと同じく「池田氏の城」という意味で、おそらく恒興の「尼崎城」や「大坂城」、元助の「伊丹城」における出来事が混同されかと思われます。そして、有名な田中吉政の肖像画(無帽、白小袖のもので、信憑性は高いと思われる。個人蔵)においては、彼の鼻から口にかけてリアルな“刀疵”が描かれており、吉政が“木枯し紋次郎も真っ青”のご面相であったことがわかります。一般的な彼の「文官」のイメージと異なり、やはり「修羅場をくぐり抜けた戦国人」であったことが、この肖像画からも窺えます。

⑤忘れられていた三法師と寿々はどうなった?

[坂本城に“飼い殺し”された三法師とその母]

前々項で、「秀吉の坂本城」が出たので、ちょっとここで、2年前から止まっている「宿題」に触れてみましょう。

第五回連載のラストで私は、天正七年、岐阜に嫁ぎゆく塩川長満の娘“寿々”のことを想像して、「そして後に、この坂本の地は彼女にとってつらい思い出の地となります。それを含めて彼女はこの地を愛したのでしょう。晩年には隠棲の場所、そして墓所にさえなるのです。」と書きました。

実は、三法師こと織田秀信の母親の墓が、なぜ「大津市の坂本の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)」にあるのか?は、いろんな意味で「謎」なのです(サイト「近江の姫たち」において、滋賀県の井上優氏が紹介されていましたが、現在このサイトは無くなったようです)。しかし、この母子がこの坂本の地に「縁」があったことは、やはり「イエズス会の史料」が記していたのです。

まずフロイス「日本史」に以下の記事があります。

「彼(秀吉)は安土山にいた(信長の孫にあたる)少年(三法師)を同地から追い出し、地位も名誉もない一私人としてある田舎に留めしめるように命じ、彼が(後に)天下の主に取り立てられる希望を断たしめた。」(「日本史」第2部47章、松田毅一・川崎桃太訳)

一方、本件に関する「日本年報」の記述では、この「田舎」がまさに「坂本」であったと記しています。

「第一に天下の継嗣である信長の孫ははじめ安土山に置いて大いに尊敬したが、もと明智の城であった坂本の城に移し、一貴族をその傅(もり)とし、少しも厚遇しなかった。」(村上直次郎訳「1584年の日本年報」)

なお黒田基樹氏の「羽柴を名乗った人々」によると、翌天正十二年の小牧・長久手合戦の陣立書(浅野家文書など)に「織田三郎」とあることから、この時、三法師が秀吉に担ぎ出されて従軍しており、またこの頃までに元服して「秀信」(織田家の通字「信」の上に「秀」を乗せている)と名乗ったと推定されています。この時、秀信は、数えでわずか“五歳”ですが、秀吉にとっては「織田信雄を相手とする戦い」なので、「織田秀信の味方出陣」は、政治的に何かと「使えた」のでしょう。

さて、一方の母親、寿々の運命はといえば、この4年後の「1588年3月3日付・オルガンティーノ神父の手紙」に書かれています。この手紙とは、この日付の前年、天正十五(1587)年に突然発布された「バテレン追放令」によって畿内に居られなくなったオルガンティーノが、小西行長領である小豆島に潜伏中にしたためたものです。長い手紙の中でオルガンティーノは、秀吉の数々の淫乱ぶりを列挙、猛烈に批判しており、その中に「信長が有していたすべての見目よい妾たち、さらに信長の後継者で、信長と共に殺された嗣子城之介殿(織田信忠)の妻も己れのものとしました」(「日本史」第2部110章に“引用”されている。松田毅一・川崎桃太訳)と記しているのです。状況から、彼女は、秀吉の坂本城における「妾」にされていたのではないでしょうか。そして、坂本における苦難生活のうちに、いつしか聖衆来迎寺に安らぎを求めることになったのかもしれません。後に秀吉は、罪悪感もあったのか、秀信を、夭折した羽柴秀勝の後継者として、岐阜城主に取り立てました。この頃、おそらく秀吉の命令で(鳥取池田氏系図)、池田元助の未亡人である寿々の“妹”(慈光院)と共に、子宝に恵まれない「一条内基」の「北政所」になったと思われます(荒木略記)。また、彼女自身にも「美濃くに國厚見郡東嶋村之内五百石之事、令扶助之訖、全可有領知者也、 文禄弐 十月廿三日 秀吉朱印 岐阜中納言(織田秀信)母」(来迎寺文書)とあるように、秀吉から五百石が与えられています。そして、この朱印状が聖衆来迎寺に伝わったということが重要です。位牌と墓石と伝承だけではなく、実際に彼女は晩年をここで過ごしたのでしょう。

⑥具体的にどこが奪われたのか

[秀次は塩川領にも入部していたか]

さて、天正十一年五月末における、池田恒興父子領に羽柴秀次(三好孫七郎)が入部する際の、緊迫感について触れましたが、摂津国内で秀次が入部した領域は、旧池田領だけではなく、塩川領の一部であった可能性が、わずかながら、史料から窺えるのです。

要するに「1583年のイエズス会日本年報」に記された「ただし異教徒であった他の一人より三万クルサド余を取上げ」に相当するであろう、塩川領の候補地が3ヶ所あります。それは、(A)多田院、(B)清澄寺(清荒神)、そして(C)多田鉱山です(一般的には「多田銀銅山」ですが、塩川時代はまだ銀を産出していなかったと思われるので、本稿においてはこの呼称を用います)。

(A)多田院周辺

[多田院への寄進状から]

「以上 多田院備中殿江五拾石御祈(寄)進之事、如前々、無相違様ニと、只今御代官衆へ申理、不可有異議由候条、有其御意得、不相替可有御寺納候、猶専香へ申渡候、恐惶謹言 天正十三年九月十五日 田中久兵衛 吉政(花押) 多田院御坊中」(多田神社文書)

例の三好孫七郎こと、羽柴秀次の政務を代行していたと思われる「田中吉政」から「多田院御坊中」に向けた寄進状です。

「信仰心が高かったんだなあ」などと言ってはいけません。彼は「領主側」であったから、“事務手続き”をしているのです。しかも日付が「天正十三年九月十五日」です。最末期の塩川氏がまだ“獅子山・内山下”に居たと思われますが、この時期は、七月に「関白に就任」した羽柴秀吉が、富山の「佐々成政」を降服させての凱旋後に、最初に大きな「国替え」を行なった直後にあたります。

摂津においては「高山右近」、「中川秀政」をそれぞれ播磨の明石(船上)、三木へ転封し、能勢郡へは、おそらく「脇坂安治」の入部予定が急遽、直前に降服した、佐々成政宛てに変更されたというタイミングにあたります。

かんじんの、「羽柴秀次」には、つい二十日余り前の「閏八月廿二日」付で、江州「四拾三万石」が宛がわれています(「古蹟文微」六)ので、今や「田中吉政」は、秀次の「八幡山城代家老」とも言うべき立場で、この書状は「摂津領引継ぎ業務」の文書なのです。ひょっとしたら、新任地である近江・八幡山の城で、バタバタしながら発給された可能性もあるでしょう。秀次からの「五十石の寄進分」を「如前々、無相違様ニと、只今御代官衆へ申理」、つまり羽柴秀吉直轄領の担当代官に申し渡したうえ、「ご了解を得ましたので、お納めください」という「去り際」の文書というわけです。(なお「多田神社文書」においては、年次不明ながら、豊臣期の代官として「下方定広」「平長俊」の名前があります。)

本件に関する史料としては「高代寺日記」天正十三年の項に「九月十五日壬子日 秀次五十石ヲ(多田)院ニ被寄 田中久兵衛判形アリ コレ運想件内意故ナリ」とありますから、既に秀次のスタッフとなっていた塩川運想軒からも、「何とぞ宜しく頼みます」と“念押し”があったのでしょう。

この文書の存在から、多田院周辺は、「天正十一年五月から同十三年閏八月まで、羽柴秀次領であった」と考えるべきでしょう。領主でなければ、しかも超多忙であったはずのこの時期に、こんな書状は発給しないでしょう。

塩川氏には「多田院御家人筆頭」というフレーズが“枕詞”のようについてまわりますが、この天正期における塩川氏は「“多田院御家人”を出自とする、多田荘を横領した国衆」と呼ばれるべき存在です。なお、塩川氏は国満時代の末期、天文十八(1549)年以降に“細川晴元政権”と共に凋落します。従って、永禄期の大半である三好政権の時代や、三好三人衆が大坂本願寺と同盟した“元亀争乱”の一時期には、多田院は、塩川氏の下から離され、三好政権や、三好氏に帰属する“摂津池田氏”の支配域であったようです(多田神社文書、高代寺日記)。しかし再び、天正六年(1578)末には、多田院が“荒木村重方の焼討ち”に会っており(穴織宮壱拾要記ほか)、加えて「天正十(1582)年九月朔日」に至っては、多田院と新田村の境界紛争を「塩川愛蔵」が「塩川之城」において裁許していることから(「多田院・新田村際目注記」(多田神社文書)、高代寺日記)、天正前半期には、多田院はもはや“塩川領内の一寺院”とでも呼ぶべき存在となっていました。よって、上記、田中吉政の「天正十三年九月十五日付」寄進状は、「天正十年九月朔日」以降、おそらく「天正十一年五月」の羽柴秀次摂津入部の際に、塩川領多田院が没収されていたと、ほぼ“一次史料を元に”、実証されるのです。

(B)清澄寺(清荒神)周辺

[清澄寺(清荒神)の場合も]

田中吉政による上記多田院宛て寄進状、と同様の文書は、清澄寺(現・宝塚市)にも残っていました。以下の二通は年次がありませんが、共に天正十三年のものと考えられており、やはりこれも羽柴秀次の「去り際の」寄進、及び税免除に関する書状です。

「清領之内を以、荒神江弐拾参石弐斗九升、孫七朗殿より御寄進之儀候間、不可有異議候、為其如此候、恐々謹言 八月十一日 田中久兵衛尉 吉政(花押) 清 龍蔵院 御同宿中」(清澄寺文書)

こちらは「孫七朗殿より御寄進之儀」とストレートに秀次の名前が出ています。

「態令啓候、仍其方御寺領之儀、如前々弐拾石之分、上様へ御帳二書除候間、被成其意候て、誰々参候共、右之通ニ指出等も可被作候、自然替儀候者、追而可申承候、恐惶謹言、 後八月廿三日 田中久兵衛 吉政(花押) 龍蔵院 御同宿中」(清澄寺文書)

こちらは「大日本史料」の“綱文”に「秀吉ノ臣田中吉政、摂津清澄寺龍蔵院ニ、二十石ノ隠田ヲ許ス」と説明されています。「収入から二十石分は羽柴家に提出する帳簿に書かずにおきますから、それに合わせて申告して下さいよ」という、まさに“引継ぎ時ならではの”好意というか、“口裏合わせ”の指示書なのです。しかし、以下に述べるように、清澄寺もまた、天正十一年以前は塩川領だったと考えられるので、この文書も、塩川領から清澄寺周辺が没収されていた傍証となるのです。但し、多田院における場合とは異なり、こちらは、多田荘に関する長い説明が必要なのです。

[天正六年末の“荒木村重の叛乱”で焼き討ちに遭った清澄寺]

さて現在、阪急宝塚線沿いの宝塚市域山麓に位置する、“清荒神”や“中山寺”が、昔は川西市域の山間部にある“多田神社”に“従属していた”存在で、“多田神社”もまた、奈良の“西大寺”の末寺であった、なんて言われたら、歴史好きな方でも「えっ?」と違和感を抱かれることでしょう。現在と中世とでは、行政区から、神社と寺院のありかた、あるいは立地など、多くの条件が変わってしまっているのがその「違和感」の理由です。では後世のベールを剥ぎ取って、中世の光景を考えてみましょう。

多田神社は明治の「廃仏毀釈」以前は“多田院”という釈迦如来を本尊とした、神仏習合の寺院でした。建立した「源満仲」も、まさか自分たちの末裔が、後世に「幕府」なんてものを創り、自分自身が“神”として崇められる日が来るなんて、思いもよらなかったことでしょう。境内には今でも「釈迦堂跡」の基壇が残っていますし(下段画像右上)、現在「西大寺」にある立派な鐘楼は、明治初頭に「多田院」から移築されたものです。

そして「清荒神」や「中山寺」も、かつては「多田院」と同じ旧「川辺郡」に属しています。そして現在は共に、長尾山山麓部に位置していますが、これは豊臣秀頼の時代に移転、再建されたもので、平安中期~天正六年には共に“山中”にありました。中山寺は現在の「中山」の8合目くらいにあった、平安期に建立された「山岳寺院」でした。だから“中山寺”なのです。そして中世の清澄寺(清荒神)の境内もまた、現在地である荒神渓谷の東の尾根上、標高150mの“売布きよしが丘”の場所にありました。この地の旧字名を“旧清(もときよし)”といいました。宅地開発により、遺構の大半が消滅しましたが、かろうじて金堂の基壇が保存されています(下段画像右下)。昭和四十五(1970)年、発掘調査が行なわれ、11世紀以来の伽藍が検出されました。そして戦国末期の火災で焼亡したこともわかりました(宝塚市史)。中山寺も同時に焼亡しており、これらの火災は天正六(1578)年十一月の「荒木村重の叛乱」時の兵火と思われます(中山寺金堂棟札、穴織宮壱拾要記)。

現在、乱勃発の直後である「天正六年十一月_日」付で織田信長から発給された「禁制」つまり「織田軍はあなたの領域内で、乱暴、陣取、竹木の伐採をしません」という“保証書”が「中山寺」に伝わっています(中山寺文書)。その宛名は「塩川領中所々」とあるだけです!。そう、中山寺は紛れも無く「塩川領」でした。おそらくこの「禁制」は緊急事態のさ中、急遽、複数が発給されて塩川領内に(おそらく清澄寺にも)配られたともの思われます。塩川氏は荒木村重の謀反に唯一、組しなかった摂津衆であった為、荒木方から、領内焼き討ちの“先制攻撃”を受けたのでしょう(補注)。塩川領内であったと思われる、川西市内の栄根寺、満願寺、多田院も「荒木村重の焼討ち」が伝えられており(穴織宮壱拾要記)、かつ、発掘調査によって戦国末期の火災痕跡が検出されています。いずれも「中世の多田荘と関連の深いエリア」内です。

清澄寺も、天正六年段階で多田院、中山寺同様、「塩川領」であったから焼討ちされたのでしょう。なお「兵庫県史」によれば、この時、清澄寺境内で唯一焼け残ったのが、上記、田中吉政が書状を宛てた「龍蔵院」だったとのことです。また、乱以前は四十九の坊があり、寺領が二十石だったようです(寛文五(1665)年清澄寺書上)。

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(補注)

「荒木村重の乱」と言えば、一般には、判で押したような「荒木村重が有岡城に籠城した」というフレーズやイメージが先行されます。まるで荒木村重が「今回、私は毛利・大坂本願寺方に付くことに決めた。よって城に籠ることにする。」と、イキナリ城門を閉めて引きこもったかのような映像が脳内で再生されてしまいます。これは、この事件が「信長公記」を著した、太田牛一の視点で語られていることが大きな原因です。要するに、近江の安土から西上して来た側の叙述なのです。救援の為、信長らが摂津に到達するまで40日かかっています。乱の当初の摂津においては、孤立して籠城を余儀無くされたのは塩川長満の方でした。「穴織宮壱拾要記」や複数の発掘調査等が示す火災痕跡は、荒木側の先制攻撃を伝えています。また、戦術的にもそのように行動するのが当然です。摂津国内で唯一自分に従わない塩川氏を放っておいて、織田の援軍が来るまで城に籠ってるなんて、そんなワケはありません。「穴織宮壱拾要記」や考古資料が伝えるように、まず、寄ってタカって塩川をボコボコにして、その後、織田信長の「大軍」が摂津に到着やって来たから、荒木村重らは「籠城モード」に転換したのです。

なお、17世紀後半~18世紀に成立した「陰徳太平記」は、史料としては警戒が必要なものですが、なぜか「塩川伯耆は織田の縁者だから、まずコイツを血祭りに上げよう」とこの時の「荒木側による塩川への先制攻撃」が記されていることは注目されます。「陰徳太平記」は明らかに「荒木略記」を参考、引用文献にしており、「荒木略記」における婚姻記事から「塩川は織田の縁者だから」と類推したのでしょう。実際には、原因と結果が逆、だと思われます。ちなみに「荒木略記」にはこの「荒木方による先制攻撃」は記されていません。(また、これは余談ですが、「多田雪霜談」中に「能勢には能勢十郎~」といったフレーズがありますが、これなども「荒木略記」における記述が、→「陰徳太平記」→「多田雪霜談」の順で「コピー」されたのでしょう。)

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[早くも大永三(1523)年、塩川国満が中山寺と清澄寺の境界紛争を裁く]

塩川氏は元々「多田院御家人」という、鎌倉幕府より任命された、本来なら“多田院、多田荘の護持・管理”にあたることで、地位を安堵された、一種“地頭”のような立場でしたが、他所における“荘園と守護・地頭”の関係同様、中世後半以降には次第に“領主様”へと変貌を遂げて行きます。実は、その、かなり初期段階における史料が、この「清澄寺との絡み」で、隣接する中山寺に残されています。

「当寺(中山寺)与 清澄寺 与 山之堺目論争之事、自清澄寺者、出対(出帯:提出)建武三(1336)年 并 延文四(1359)年之支証也、自当寺者、嘉禎三(1237)年之支証 并 貞治二(1363)年ニ佐渡守(佐々木道誉)之支証帰(毀)破之状出対(帯)之上者、任彼支証之旨、相論山楮去尾之事、不紛仲山寺知行者也、仍状如件、 大永三(1523) 五月十八日 国満(花押) 仲山寺」(中山寺文書)

これは塩川国満が(元服四年後、二十四歳の時)中山寺と清澄寺の境界争いを裁定した文書(案文か?、「川西市史」・熱田公氏による)です。文中にも記されているように、これは南北朝期である貞治二(1363)年に、中山寺と清澄寺の間で争われた「山林の境界紛争」が、はからずも160年後に再燃された、という状況でした。塩川国満は両寺の提出した証書を検討したうえ、結局、貞治二年における「佐々木道誉」による裁定どおりであるとして、今回も中山寺側の勝訴としています。

多田院や多田庄は鎌倉時代、北条得宗家の支配下にありましたが、この足利時代初期の頃は、“ばさら大名”として名高い、佐々木道誉が“多田院政所”の権限を握っていたようです。森茂暁氏の「佐々木道誉」(吉川弘文館)によると、彼は「延文五(1360)年十月以前」から「貞治元(1362)年八月」まで「摂津守護」であったと見られ、上記の貞治二(1363)年には実際には「赤松光範」に摂津守護職を奪われているようなのですが、道誉自身には貞治五(1366)年八月十日に多田院を「如元所返付也」(足利義詮御判御教書)されており、また史料上においても、その前後にも、多田院の支配権はずっと護持したようです。

さて、今ここで重要なのは、塩川国満がかつての佐々木道誉並に「多田院政所」の権限を行使しているということでしょう。

国満が裁定の拠り所とした「佐々木道誉下知状案」(中山寺文書)の本文においては、冒頭に「摂津国多田御祈祷所清澄寺与中山寺山内堺相論之事」と記されています。「多田御祈祷所」が清澄寺だけを指すのか、中山寺をも含むのかわかりませんが、少なくとも中山寺は多田院の末寺でした(永正七(1510)年の「知事高義書状案」、「中山寺性尊書状」、「塩川正吉(しょうきつ)書状」以上「多田神社文書」)。つまり、“多田院に従属する両寺”を、実質“「多田院政所」の権限を掌握した塩川国満”が裁いているというわけで、そもそも両寺が争っている「山林」は元々多田荘のものでした。多田荘は、周辺「平野部」に隣接する他の荘園(米谷荘、山本荘、加茂荘、小戸荘など)から、本来は室町幕府が持っている臨時税である「段銭(田地面積毎に賦課)」、「棟別銭(家毎に賦課)」の“徴収権”(多田荘分を含めて)を与えられていました。「加納庄々」と呼ばれる不思議なもので、小田雄三氏「摂津国多田庄と鎌倉北条氏」(名古屋大学教養部紀要)によれば、「(多田)院外からこの山野に入るについて、山子役(山手)を徴収するようになった」ことが基本にあるようです。つまり多田院は、周辺に貸し付けるほどの広大な山林を有しており、清澄寺や中山寺は、まさにその山中にありました。また少なくとも清澄寺は、寺領田地の段銭(つまり山林使用料)を多田院に支払っています(多田神社文書)。

塩川国満はその名からわかるように、細川高国政権を擁立する抗争の中で、多田荘を横領して“台頭”してきたと思われます。実は前述の、多田院が持っていた「段銭徴収権」は永正十一(1514)年以来、細川高国政権に奪われ、それは以後の細川晴元、細川昭元にも引き継がれました(「多田神社文書」、熱田公「川西市史」)。

弱体化する多田院の権限は、塩川氏に吸収されると同時に、末期の細川京兆家へも吸収されていきました。それらは清澄寺に対する支配権も同様であったと思われます。

そして、塩川国満の権力は、彼が乗り換えた“細川晴元”と心中するかたちで衰微していきました。多田院に対する権限は、三好政権時代には、手放されていたでしょう。しかし上記、多田院の項で述べたように、織田信長に帰属した天正初頭には、今度は、多田院や中山寺が「塩川長満領」に属するという、さらに強い、国衆としての権限で手中に戻ってきました。もはや「多田荘」という存在は消滅していました。故に荒木村重の乱の際、清澄寺が中山寺同様、「塩川領」の寺院であった為に焼かれたと解釈されるわけです。

話を、田中吉政の寄進状に戻しましょう。吉政の清澄寺龍蔵院宛ての書状は、清澄寺が、天正十三年八月まで羽柴秀次領であったことを表わし、清澄寺は、多田院に従属していたその歴史と、多田院の権限の衰微~移行状況、そして荒木村重の乱の火災痕跡から、天正初頭~天正十一年までは塩川領であったと推測され、つまり「天正十一年五月」に清澄寺周辺が塩川氏から三好孫七郎に没収さていたということになり、これもイエズス会の伝えた「没収された3万クルザード」の一環であったと推定されるわけです。

[多田院「加納庄々」も天正期には「塩川領」であったか?]

さて、「多田荘」が台頭してきた塩川氏に横領され、天正前半期には“塩川領”になったことを見てきましたが、それは「多田荘」のみならず、多田院が、多田荘周辺に隣接する他の荘園から「段銭」「棟別銭」の徴収権を持っていた「加納庄々」もまた、同様だったのではないでしょうか。

「加納庄々」とは具体的には「小戸(おべ)荘(醍醐寺領)」、「山本荘(松尾社領ほか)」、「加茂荘」、「米谷(まいたに)荘(賀茂別雷社領)」ほか、の荘園を指します。繰り返しますが、これらの地域は山野の少ない“平野部”に位置し、日常生活に欠かせない薪などは多田荘内に入山し、その代価として(小田雄三氏前褐書から)多田院に「段銭」「棟別銭」を払っていたという地域です。そして一般にこれらの荘園の“本所”(領主)は、15世紀前後から次第に史料から消息と断ち始め、その荘内に「多田荘に属する村」として「山本村」や「米谷村」、あるいは隣接する「河面(かわも・宝塚市)荘」内の「河面村」、変わったところでは「山本荘」内に「満願寺領」である「平井村」、など、多田院や満願寺の支配領域の名が史料に現れるようになります。いわば、多田荘が侵食してくる状況となり、多田院自体の弱体化を考慮すれば、これは塩川氏による「加納庄々」への横領にも見えます。加えて永正十七(1520)年には、細川高国が「山本荘の代官職」を請け負って(松尾神社文書)います。既にのべた通り、細川高国は永正十一年以降、多田院の持っていた段銭徴収権を横領しているわけですから、実質、段銭を奪われた被害者である多田院、塩川国満側としては、その“埋め合わせ”として、「加納庄々」から何らかの権限を横領したのではないでしょうか。そして、荒木村重の乱の際、小戸荘内の栄根寺が焼亡しています(川西市教育委員会「川西市発掘調査報告」)。天正初頭には、ここもやはり“塩川領”であったから、と類推されます。

そして、天正十一年五月、三好孫七郎(秀次)が、清澄寺を塩川領から取り上げていたとすれば、その南麓に隣接する「元・加納庄々」も同様であったでしょう。清澄寺の寺領の田地は、米谷荘域内部に出来た、“多田荘に属した米谷村”にありました。

よって、類推のレベルですが、塩川氏から奪われた「3万クルザード」の中には、現在の阪急宝塚線沿線に広がる、「旧・多田院加納庄々」エリアも含まれていた、とみています。

[補足ながら、安場村の場合]

「為三木郡替地、摂州河辺郡之内岩屋村百八拾石、やすば村弐拾石、合弐百石、令扶助畢、全可有寺納者也、 天正十三 九月十日(花押) 妙光寺」(妙光寺文書。豊臣秀吉文書集1621)

これは、日付と領域から、羽柴秀次の近江移転によって空いた両村を、中川氏の三木入部の代替え地として尼崎(?)の妙光寺に下された文書のようです。「岩屋村」は現・伊丹市ですが、やすば(安場)村の方は、現・「宝塚市川面」に相当します。JR福知山線の宝塚駅北側一帯にあたり、中世に多田院に段銭を収めた「河面村」に比定される可能性(近世・川面村の一部)があるので、ここも天正十一年五月まで塩川領であったかも知れません。

(C)多田鉱山周辺

[そして「多田鉱山」も、やはり?…]

さて、羽柴秀吉が塩川氏から没収した「3万クルザード」の候補地として、いわゆる“多田銀銅山”のエリアは外せないでしょう。(以下、基本「多田鉱山」という呼称で記します。)

そして、塩川領没収の典拠となるのは、幕末の編纂史料ではありますが、「文久四甲子(1864)年」の奥付のある「摂州多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」(山内荘司文書、猪名川町史所収、以下「来歴記」と略す)という書物です。多田鉱山の歴史が語られる際、この文献からしばしば引用されます。その冒頭には、現在の行政区でいえば、宝塚市、猪名川町、川西市、能勢町、豊能町、箕面市に分布する、“多田銀銅山”エリア内における、各々の「銅山」、「間歩」について、その開発史や開発者、採掘状況が、それぞれ「非常に簡潔にまとめられて」います。

そして、その最後を飾る「南切畑村山内 紺青(こんじょう)山間歩」の項に、以下の有名な記述があるのです。

「~天正度紺青石多分出候ニ付 豊臣公其絵所狩野山楽へ此場所ヲ賜ヒ、紺青製法之鉱山民此所ニ多数出来候由申伝フ。但此事狩野家ヘ承リ合セ候処 相違無之趣豊公御朱印今ニ彼ノ伝来罷在候由ニテ縫殿助水兵(岳)右写シ差越シ候左之通 “摂津国多田紺青之事 堀之可致進上由聞召畢 無由(油)断可申付事簡要 之旨被仰出候也 天正十四 六月三日 木村平三 ”右太閤御朱印 我家伝来也、多田郡司某応需写 狩野山楽九世縫殿印水岳」

「天正十四(1586)年 六月三日」付で、豊臣秀吉から絵師狩野山楽(木村平三)に“紺青(こんじょう)”の採掘権が与えられていう記述です。“紺青”とは、多田鉱山に産する、青鉛鉱、藍銅鉱、孔雀石などの鉱物を粉砕して精製された「顔料」です。非常に「彩度」の強烈な「青色」を放ち、華麗さが売り物の狩野派の絵師には欠かせないものです。

感心するのは、この幕末の執筆者の「取材精神」です。ちょっと「高代寺日記」編者に通じるものを感じます。「秀吉が狩野山楽に紺青石を与えた、という伝承があったので、山楽の末裔である狩野水岳に問い合わせたところ、やはり本当で、このような朱印状の写しを送って頂いた」というくだりなのです。なお、当間歩を有する「南切畑村」とは「切畑」地区を含む現・宝塚市に属する「南畑村」のことを指すのでしょうか。

[「天正十四(1586)年 六月三日」という微妙な時期]

さて、この年次は「“多田鉱山”は、天正十一年、イエズス会が記した没収額“3万クルザード”のうちに含まれるか?」という命題においては、多少微妙な時期ではあります。

もちろん、これは秀吉から狩野山楽に与えられた日付であり、羽柴家が多田鉱山を得たのは「天正十四(1586)年 六月三日以前のいずれか」ということになります。

羽柴秀次は、前年九月に近江に転出してしまっており、「引き継ぎ」の史料は残っていません。

一方の塩川氏はといえば、まさにこの前月「五月五日 愛蔵大坂ヘ初テ出仕 家僕六十余人同従フ」(高代寺日記)とあり、六月に塩川長満が「病旧也」、病に倒れています(同)。つまり、塩川家が“天正十四年春に獅子山―山下から退転させられた可能性”も一応ありますので(滅亡は天正十六年春)、この時に多田鉱山周辺が没収された、という見方も出来ます。ちなみに「多田雪霜談」における山下城の「落城」は、この年十二月です。また、第十四回において触れましたが、摂津多田郷の多田家(山下に居たか。「高代寺日記」天正五年条)に隠棲していた山名禅高(山名家譜)が、天正十四年四月には羽柴家に仕官(言経卿記)しています。

よってここでは、“羽柴秀吉が、天正十一年に塩川領から3万クルザード(一万二千~一万五千石)を奪ったならば、当然「多田鉱山」は見逃さなかっただろう”という類推に止めておきます。

[織田家関係者に「紺青」を進上する塩川氏]

塩川氏と多田鉱山の関わりについては、下財地域に「慶長以降盛んになった製錬業」(甘露寺縁起)と混同されて、塩川氏があたかも「鉱山王」であったかのような、実像以上の「過大な誤解」を生んでいますが、塩川氏が中世以来、多田鉱山の利権にあずかってきたこと自体は史実と思われます。

「高代寺日記」においては、既に明応八(1499)年の条に「昌慶(塩川秀満)ノ七十ノ賀行フ 家人青銅十疋ヲ以祝フ 前代モ代々ハ此祝有ト云伝フ」という記載があり、「青銅十疋」とは何やら“インゴット”を思わせる表記のように見受けられます。

さらに「高代寺日記」における「塩川氏の鉱山利権」をストレートに感じさせる記事として、前項でのべた「紺青(金青)」を進上する記事があります。ひとつは天正七年条に

「四月二十日戌申日 信長ヨリ森ノ蘭丸 中西権兵衛尉使トシ 守家作ノワキ指 銀千枚賜ル 家臣吉大夫 同右兵衛尉 民部 勘十郎 出向テ受取両人ヲ馳走ス 各帷子 単物二重 紺青ヲ与ラルゝ モテナシ両人退去」(補注1)

があり、また天正十年の武田氏滅亡後である

「五月三日 塩川吉大夫 同 勘十郎 信長へ帷子三ツ金青一合ヲ進ス 返状アリ」(補注2)

の記事があります。

「紺青」に関しては、ネット上において、鶴田榮一氏による詳細な「多田銀銅山の紺青および緑青について」という論考のPDFファイルをダウンロード出来るので、是非そちらをご参照下さい。鶴田氏同論から引用させていただくと、多田銀銅山に関する、伝承以外の、まさに“初見”記事として、

「「扶桑略記(1037)」「百錬抄(1037)」を初見とする11世紀初期である。すなわち、「百錬抄」に「長暦元年(1037)四月摂津国能勢郡初献銅」とあり、「扶桑略記」に「長元十年(長暦元年 1037)八月奉幣七社奉献摂津国貢銅上分 長久二年(1041)摂津国紺青献上」とあり、これを多田銀銅山の顔料に関する初見とし、史料からは鉱山の稼業とほぼ同時期に、多田銀銅山における顔料の歴史も始まっている」(傍線は筆者による)と、あります。なお、この直後、朝廷は銅、紺青、緑青の三種を貢進させる供御所「能勢採銅所」を設立します。能勢採銅所は、小槻家の管理の下、中世には半私領化しながらも朝廷の供御所として鉱産物を供給しますが、南北朝期には産銅が枯渇し、米、銭を納める荘園と化し、永正年間には細川高国、能勢十郎に横領されてその後消滅したようです(近畿地方の荘園、講座・日本荘園史)。

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(補注1)

これは荒木村重の有岡城包囲中の記事で「信長公記」において「四月十八日」にあたります。塩川長満は信長と共に「古池田」に居たので、「森乱」ら使者は「獅子山城」に来たのでしょう。塩川家の四家老が出迎えているあたり、「一旦荒木方となった、高槻城や茨木城が織田軍の城将によって接収されている」(信長公記)状況と「扱いの差」がわかります。なお「高代寺日記」の編者は明らかに「甫庵・信長記」を参考、引用しているので、やや注意が必要です。塩川に下されたのは「信長公記」において「銀百枚」ですが、「甫庵」における「千両(=百枚)」という記載から、「銀千枚」と間違えた可能性や、「森蘭丸」表記などは問題です。また、塩川側が「銀をもらって、紺青で返礼」している点は、“塩川氏時代に多田鉱山が銀が産出していなかった一光景”として興味深いものです。

(補注2)

これは甲斐遠征から帰還直後にあたります。なお「信長公記」の太田牛一の自筆本である「池田文庫本」には二月九日付の出陣を指示する「条々」中、「多田可出陣事」の脇に「塩川勘十郎・同橘大夫」と注記があり、この両家老がそろって甲斐遠征を率いていたことがわかります。あと、これは余談ながら、度々進物にあらわれる「帷子(かたびら)」とは、やはり、山下町内の「呉服町」あたりで購入したのだろうか?などと妄想してしまいます。

(補注3)

なお、猪名川町史などに、ほのめかされていますが、「織田信長」が畿内に進出した際、多田鉱山を直轄し、塩川氏はその「代官であった」という説があります。実際、但馬山名氏が開発した「生野銀山」は、永禄十二(1569)年に但馬に侵攻した織田家により接収されており、堺の今井宗久、長谷川宗仁の仕切りとなっています(今井宗久書札留)。しかし今のところ、織田氏による多田鉱山直轄に関する資料は見出されていません。かえって、上記の「紺青を進上する」記事などは「多田鉱山が織田家の所有ではなかった」ことを示しています。一方それとは別に、「羽柴秀吉」に関しては、自身、但馬攻略の担当者であったことも含めて、「多田鉱山における銀産出の技術的可能性」をまでを構想出来る人物であったと思います。

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[塩川氏時代の鉱山は?]

豊臣時代以降の爆発的な開発により、塩川氏時代以前の鉱山の実体は、言わば“ベールの向こう側”です。しかしながら、前述の「来歴記」には、いくつかの鉱山において「足利時代」以来の採掘の伝承があることを紹介しています。この中から冒頭で紹介した「南切畑村」以外の、中世~塩川時代に関連しそうなものを紹介してみます。

*「瓢箪間歩」(豊臣時代に盛んになるが「足利家之御時も盛山と云」)

* 「千石間歩」(上に同じ。)

* 「青内間歩」(上同。「紺青」を産する。)

* 「後藤間歩」(「北条家之時出鉑」、「天正度再盛」)

* 「切山大平間歩」(「北条家之時大栄いたし」)

* 「長谷村山内 千本間歩」(エリア内に「青内間歩」(紺青産出か)、「三蔵寺間歩」ほか6つの間歩の記述があり、「足利家之御時大栄し銀銅多分出産」「礦民其外家数百軒・寺五ヶ寺ありしと(補注)~中略~右間歩中絶之処、元亀之度より再盛およひ、天正度ニ至り出鉑連綿し 深間歩ニ相成湧水強く罷成候折節、瓢箪間歩大栄ニ付 千本住居之礦民 皆瓢箪間歩江召集られ」)

* 「北田原村山内」(5つ以上の間歩があり「天正之度~銀銅石出盛山いたし」)

* 「万善村山内」(8つ以上の間歩があり「天正・万治度盛栄いたし」)

* 「槻並村山内」(6つ以上の間歩があり「古間歩之処 天正度銀銅石出盛山いたし」)

このあたりが、塩川時代に関わってきそうです。勿論「天正」とある分は豊臣時代以降である可能性があります。またこれらは、現・宝塚市~猪名川町域にわたり、多田鉱山の中では、西部に位置しています。

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(補注)

この長谷村(現・宝塚市)山内には、なぜか滅亡した尼子氏家臣「山中鹿之介」の弟「三蔵坊」なる者が、旧主「尼子義久」や兄を偲んで「久徳寺」や「三蔵寺」といった寺院を建立したという伝承が記されています。ここで気になる点は、実在の「尼子義久」は大内氏、毛利氏との「石見銀山」争奪に敗れており、また但馬の「山名祐豊」が一時的にバックアップした“山中幸盛による永禄末の尼子氏再興運動”をなども、祐豊が天文期に開発した「生野銀山」が重要な資金供給源になっていたはずだということです。「来歴記」文中における「足利家之御時大栄し銀銅多分出産」という記述もあわせると、ひょっとしたら、尼子氏にゆかりのある、銀の採掘、製錬に関わる技術者が実在したのではないか、とも思われる記述です。なお「三蔵寺」の方は、現在の「三蔵山城跡」(みくらやま・宝塚市)が比定されており、山頂近くの西斜面で、平安末~鎌倉初頭と思われる東播産の須恵器の甕片などを表採しています。山中鹿之介の弟「三蔵坊」による三蔵寺建立譚の方は、フィクションと思われます。

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[「多田銀山」に関する初見記事]

本項では、連載第十四回で述べたこと“おさらい”します。多田鉱山から「銀」が産出した「初見記事」は、山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」の天正十六(1588)年「九月十日」条における

「冷(泉為満)、早朝ニ摂州多田郷銀山見物ニ被行了、此此出来也云々」

でした。当時、言経は「勅勘」をこうむって大坂で浪人暮らしを余儀無くされている身の上で、銀山見物に出かけた為満もまた、同様の立場でした。

なお、この銀山見物の「九日前」にあたる「九月一日」、大坂における山科言経の近所の住人で、互いに懇意であった「豆腐屋」と「風呂屋」を営む「九朗衛門尉」なる人物が

「九朗衛門尉 摂州多田郷ヘ宿ヲカヘ行了、上ルリ(浄瑠璃)ノ本返了」

とあり、多田郷に商売進出をしていたようです。

そしてその三日後の「九月四日」、今度は羽柴秀吉の「御伽衆」であった「山名禅高」が、言経と共に、大坂の「冷泉為満」の宿所を訪れ、「草子共被見」、おそらく冷泉家に伝わる、現在国宝級である“冷泉家文書”にあたる藤原定家自筆の歌集などを見ています。つまり、「冷泉為満」は、「山名禅高」らが来訪した「六日後である九月十日」に、上記の「多田銀山見物」に出かけたわけです。

くりかえすように、「山名禅高」は、但馬・山名氏の一族で、2年前まで「多田(山下か)」に隠棲していたようです(山名家譜)。上述した様に「生野銀山」を開発(天文十一(1542)年)した山名家惣領の「山名祐豊」は、禅高の父「豊定」の従弟にあたります。つまり禅高は「多田」にも「銀山」にも“非常に敏感”であったはずで、そんな人物の訪問を受けた「冷泉為満」が、わずか「六日後に多田銀山見物に出かけた」というのは、単なる「偶然」ではないでしょう。おそらく「九月四日」の訪問時に、前述の「九郎衛門尉進出」の話題とも相まって、禅高、言経、為満の間で、“多田銀山のニュース”が語られたからではないでしょうか。

[「金懸の城」(いわゆる「銀山城」)は塩川氏の支城か?]

最後は、塩川氏による「多田鉱山支配」が類推される“遺跡”として、現・猪名川町銀山谷西部にそびえる標高404mの「城山」の「金懸城」跡をご紹介しましょう。いわゆる「銀山城」(日本城郭体系)のことですが、多田鉱山から“銀”が産出された上記“天正十六年”には既に“廃城”となっていたはずで、また、当時「城は固有名詞で呼ばれなかった」ので、ここではこの城の別称と伝わる「金懸城」(かなかけのしろ?)という呼称を用います。あるいは当時は「かねやまのしろ」といった呼称も通用していたかもしれません。

「城山」は周りから突出していて、目立つ山容である上(下段画像)、“宝塚市との境界を見下ろす猪名川町側”に位置しています。いわゆる「境目の城」なのです。下段画像は宝塚市切畑側から見た「城山」です。いかにも城山!という“威圧感”を放っております。しかも山頂において、つまり城内の北半分が「広根村」、南半分側が「猪渕村」に分かれているのです。実に「公的」なロケーションです。それを反映してか、城内の北側と南側で、郭(曲輪)の構造に“差”があります。三角点のある、“櫓台?”も心なしか、東西に長くて、あたかも両村の「仕切り」の様にも見えます。ひょっとしたら造成やメンテナンスにおいて、南北の村でそれぞれを“分担”したのでしょうか。

画像下段左上は24年前に作った城跡の遺構模型です。猪名川町に寄贈したので、かつて「ふるさと館」に展示されていました。「悠久の館」が出来てからはずっと“御蔵入り”状態ですが(…)。ステレオ写真なので「平行法」をマスターしていただくと“立体的”に見えます。

天文期を思わせる古風かつ小ぶり構造ながら、各所に“石積み”の痕跡が見られ、北東部に「折れを伴なう虎口」の痕跡が窺えます。猪名川町内における城跡群の中では、“技巧に富んで”いる方です。総合的に塩川領の「西側と鉱山を守る公的な支城」という印象を受けます。おそらく、家臣化した「元・多田院御家人」たちが交代で城将を「在番」するような基地だったかと思われます。(戦国大名クラスが争奪戦を繰り返した、石見銀山における“山吹城”(銀山城)に比べたら、ずっと小ぶりではありますが。)

また、城山は、現在では「多田銀銅山の西側に位置する」というイメージですが、上の「来歴記」で見たように、塩川時代に繁栄したと思われる鉱山は、「現・宝塚市域」にも広く分布し、そういう意味では「鉱山地帯の中心を抑えていた」ロケーションでもあります。

[細川晴元政権末期における金懸城?]

ここで文献を見てみましょう。「高代寺日記」天文十八(1549)年条に、正月下旬「国中要害ノ所々順見セシム」という記事があります。塩川国満が領域周辺を警戒、巡察指導しています。

これは、連載第八~九回で述べた、「細川晴元が獅子山城にひと月あまり滞在した」三ヶ月前の出来事です。前年八月、三好長慶が、細川晴元・三好政長に対して挙兵し、晴元・政長派であった塩川国満が“孤立した時期”の出来事でした。居城「榎並城」を長慶に包囲されている三好政長もまた、城に帰れず、獅子山城に滞在していました(細川両家記、多田神社文書)。そしてこの三好長慶の叛乱には、有馬郡三田の「有馬殿」も加わっていました(細川両家)。西隣が敵と化したのです。塩川国満は「国中ノ要害」における“西側への警戒”としてこの時、「金懸城」を「順見」、強化した可能性があるでしょう。

[“荒木村重の乱”時の金懸城は?]

もうひとつ、塩川長満時代の天正八(1580)年にも、七月「十八日ニ出城六ヶ所悉受取~」(高代寺日記)という記事があります。これは、“荒木村重の乱”を含む、いわゆる石山戦争がほぼ収束した時期の記事です。天正六(1578)年に勃発した“乱”時の三田城主は、「荒木重堅」でしたので、再び“西側の有馬郡と敵対する状況”が再現されました。いや、有馬郡どころか、今回は、金懸城のすぐ西北の佐曽利村(現・宝塚市)の「佐曽利氏」が荒木方として「佐曽利之城(三蔵山城)」に籠りました(「佐曽利氏系譜」、「中川氏年譜」中川史料集)。この時、金懸城は、敵対した“宝塚市域側”に対峙するという位置関係でしたので、塩川氏、もしくは織田方の援軍により、「出城六ヶ所」の一城として強化された可能性はあります。また、緒戦時は、荒木方の先制攻撃により、多田鉱山ごと一気に制圧されて、そんな余裕など無かった、という見方も出来るでしょう。

なお、天正七(1579)年四月、織田信忠や織田信澄率いる、有馬郡~能勢郡への、いわゆる“北摂征伐”(中川史料集、信長公記)により、佐曽利氏は降服(のち中川氏に仕官)し、一方の三田城も、十一月末には、羽柴秀吉に降服したようです(天正七年十一月廿六日付「有馬郡道場河原百姓町人宛判物」)。ここに塩川領の“西側の脅威”は去りました。なお戦後に摂津の「一国破城」(多聞院日記)が行なわれたので、金懸城は、遅くともこの時には“破却”されたと思われます。石積みが崩れているのは、この“天正八年における破城痕跡”ではないでしょうか。

[備前焼のスリ鉢]

さて、金懸城跡は、さすがに「生活痕跡」が少ないのですが、訪城5度目くらいの、2017年に初めて、主郭南東肩部において“備前焼の摺鉢”を表採しました(下段画像左下、及び模型写真)。獅子山城で見られるものに比べて“小ぶり”で、“摩滅”が見られません。一応“備品”として、ほとんど使われないまま、破城の際に“割られた”のでしょう。城の縄張りからうかがえる“編年観”と同時期である、塩川国満期の16世紀半ばやや後半(重根弘和氏「中世備前焼分類試案」のVA期)のものと見受けられます。猪名川町内の、小さな山城群においては、備前焼の摺鉢など、まず見られないので、金懸城は、やはり“公的な城”として“ワンランク上”の存在であったかも知れません。

[おわりに]

とりあえず、塩川氏と多田鉱山の関係については、豊臣時代以降の痕跡に隠れた“ベールの向こう側”といった感じで、微かな痕跡しかない中、とりあえず提示を試みました。また、塩川氏が所領していたとされる「本知三万石」(寛永諸家系図伝・荒木氏)や、「イエズス会日本年報」に記された「没収額:3万クルザード:一万二千~一万五千石相当か」という値は、「豊臣期の石高の集計」から類推される「塩川領の石高(一万八千石)」に比べて「多め」という印象があり、両者の“ギャップ”が、目下実体不明である“塩川時代の鉱山の収益額をもって埋められる”のではないかと類推しています。

要するに、「塩川氏は“鉱山収益込み”で“三万石”を有していたが、天正十一年五月における羽柴氏の“摂津入部”の際、清澄寺、多田院、多田鉱山を含む、現・宝塚市、川西市南部、猪名川町域の“一万二千~五千石”相当を没収された」というのが目下の結論です。塩川氏は最後は本当に「東谷地域」周辺に縮小されたのち、歴史の舞台から去ったのではなかったでしょうか。

(つづく)

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