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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十一回


摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第31回
“九条まつり”予告編の導入部

御ぶさた致しております。
「季刊 塩ゴカ・秋号」(汗)です。←(いつの間に「季刊」に!?)
毎度、ブランクをあけ過ぎて、誠に申し訳ございません。
しかしながら、

塩ゴカの更新なし → 大ニュース準備中の法則

というものがございます。
この法則に違わず、遠からぬ段階で皆様の元に、「とても面白い情報」をお届け出来る予定ではございますので、今暫く御堪忍の程、頼み奉り候です。

[お知らせ]

まず始めに「お知らせ」から。
去る10月5日から12月12日までの期間、「四條畷市立歴史民俗資料館」に於いて

“天下の支配者”三好殿 ―考古学からみた天下人三好長慶の軌跡と飯盛城―

という特別展を開催中です。芥川山城、越水城、高屋城、若江城など、飯盛城と同時期の三好系城郭の考古資料が一同に集められて展示されております。

今年めでたくも「国指定史跡」となった飯盛城に関しては、昨年から色々と“ご異見”を申し上げている塩ゴカです(汗)が、今回の展示では2019年初秋に「御体塚」において表採して届け出た「鉛製銃弾」1点(*補注)を展示頂いており、個人的にも感慨ひとしおでございます。

三好家といえば、“日本の銃砲史上の草分け的存在”でありながら、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」においては、あたかも「三好勢が鉄砲を一挺も持っていなかった」かのような、矮小化された「演出」がなされていたので非常に残念でした。
加えて、その頃に刊行された「飯盛城総合調査報告書」(2020)においても、遺物として「銃弾」の類が1点も掲載されていませんでした。
よって上記の銃弾は目下、「飯盛城における唯一の遺物」かと思われ、今回晴れて展示頂いた御処置に深く感謝申し上げます。

(*補注)高田徹氏のご教示によると、「表採した銃弾」には近世~近代のものを含む可能性もあるので、極めて慎重な判断が必要とのことです。
なおこの「御体塚の銃弾」は、御体塚郭の南部の路面上の、雨や登山による摩滅で露出していた「暗褐色遺物包含層」の表面上に、“全体の1/5ほどが顔を出している”状態で埋もれていました。本来ですとこうした遺物は、行政に電話して現場まで来て頂き、担当職員の手で「取り上げてもらうべき」ところなのですが、なにぶん携帯電話が「圏外」の高所であり、かつ登山道の中央に出土しているので、このままだと「踏まれてしまう」可能性が高いと判断し、よって、先ずスケールと方位磁石を添えて「出土状況を再現出来る写真」を複数撮影してから、「取り上げて」下山し、その足で写真と共に四條畷市教育委員会に届け出た次第です。

銃弾の出土状況の画像ほかの情報を、こちらに追加しました。

なお三好氏関連の銃弾は珍しく、高槻市の「芥川山城跡」でも確認されていないとのことでした(2020年11月時点)。
一方、永禄十年(1567)における「三好三人衆vs松永久秀・三好義継」の間で繰り広げられた「奈良市街戦」の際のものと思われる鉛製銃弾が、「東大寺南大門」の仁王像左腕、及び床面から計5個採集されています。そのうち3個の「鉛同位体比分析」によれば、2個が「タイ産鉛」、1個が「国産鉛」の値を示し、少なくとも「タイ産鉛」の方は戦国時代の銃弾とほぼ断定出来るようです(平尾良光「中世における鉛の生産・流通・消費」)。
飯盛城が国指定史跡となった今、是非ともこの「御体塚の銃弾」も分析頂き、願わくば「三好氏と国際交易ルート」解明に繋がるような情報が得られれば、と期待しております。

[九条様~!]

ちょっと「麒麟がくる」へのボヤキが出ましたので、ついでながらもうひとつ。
去年の春頃だったか、ドラマ中に「九条様」というお公家さんが一瞬だけ登場したことを覚えておられるでしょうか?。

本当に“一瞬だけの登場“で、おそらく“1秒間”も無かったと思う。多分”0.45秒“くらい(汗)でした。

何の場面かと言えば、堺“ザ・スパイダース”正章さん演じる「東庵先生」が、所持金を増やそうと“闘鶏”に手を出して惨敗、四十貫もの金を巻き上げられてしまうくだりです。あの時、博打に勝利してニタニタしていた“お公家さん”が「九条様」とかいう設定でした。
ちょっと太り気味の役者さんが、狩衣、立烏帽子衣装で演じていらしたと思います。

でも、こういう場面って、NHK大河ドラマの伝統的宿痾というか、昭和から変わらないパターンというか、要するに
「都の腐りきった退廃公家」
という“極めて図式的な演出”を意図した「人物設定」なのでした。
なお、どうやら彼は史実と関係ない「架空の人物扱い?」らしく、だからフルネームではなく「九条様」なんてごまかしたのでしょうが、当時の慣習で「九条様」と呼べるのは「九条家の当主」一人だけですから、この人物は自動的に「九条稙通」に特定されてしまうのです。

[“本物の”九条様~!]

おそらく九条稙通“ご当人”がこの映像をご覧になれば、「言語道断」とばかり、怒り心頭にうち震えること間違いなく
「NHKをぶっ壊す!」
と息巻くと思われます。

「九条稙通」は、かつて井上宗雄氏が「戦国公家の一典型」と評価したように、いわゆる「都の退廃した公家」とはまさに正反対キャラの

「放浪と政治的外交、古典文学研究に妖術(?)をも体得し、九条家再興に半生を賭けた“戦国時代のスーパーマン”の一人」

であるからです。彼の人生そのものが「博打の連続」であり、人間的スケールが全然違うのですね。

しかも大河ドラマに「九条様」が登場したこの時期は、まさに彼が「放浪生活19年!」(「教師生活25年!」ではありません)から脱却出来て、晴れて都に返り咲いた頃にあたるので、「博打にウツツを抜かしている公家」扱いなんて、あまりにも失礼すぎる…。

[九条稙通は“メフィスト“か?]

因みに、私の抱く「九条稙通像」は、あくまで個人的な妄想ですが、水木しげるの「悪魔くん」に出てくる「メフィスト」のキャラクターをイメージしております。
それも「吉田義夫」さんが演じられた昔の「モノクロ実写版」のやつ(古!)。
「飯縄の法」を体得したという九条稙通と、「エロイムエッサイム~!!」は相性ピッタリではありませんか。

ここで余談ながら(出た!)「悪魔くん」と申せば、私は28~9歳の頃、3m長の小舟(オールor帆で進む)にキャンプ道具を積んでよく一人で琵琶湖の沿岸を「旅」したものです。
「中世の水運はこんな感じだったろうか?」などと空想しながら。
ある日、風波が酷くて、浜に設置したテントの中で1日中風待ちをしていたのですが、その間、持参していた水木しげるの「悪魔くん」(ちくま文庫本)をずっと読んでいたのが失敗でした。
寝苦しいその夜の夢の中に、まぁ「悪魔くん」や「メフィスト」が出てくるわ、出てくるわで、あれはホントに「悪夢の夜」でした。(30歳近くもなって…)
ですから皆さんも、どうかキャンプに「悪魔くん」を持参することだけは止めましょう。

ついでながら、私は「西宮市今津」という町の生まれでして、幼い頃にモノクロテレビで見た「悪魔くん」とか「河童の三平」(実写版)や「ゲゲゲの鬼太郎」(モノクロアニメ)、ついでながら「ザ・スパイダース」(!)の記憶も、昭和40年代前半の「今津の光景」と重なっております(遠い目)。
そして今世紀になってから知って驚いたことですが、私の生まれる数年前、当時「紙芝居の専属画家」であった「武良茂」(水木しげる)さんが、本当に「西宮市今津」の駅前(水波町)に住んでおられたらしく(!)、これまたあまり知られていませんが、水木しげる版の「鬼太郎」というキャラクターは、この「西宮市今津」で誕生したというのです。要するに、私は「鬼太郎」と同郷だったのでした!(だから何?…)。

[九条稙通と摂津。塩川氏の不思議なエニシ]

シリーズ「水木しげるの誤解を解く」ではなく、「九条稙通」のお話でした(汗)。

以下は最近幾度も繰り返しておりますが、九条稙通が天文三年(1534)十一月に京(東九条)を出奔し(公卿補任)、天文五年(1536)に大坂本願寺に現れる(天文日記)までの1年半の間、史料的には「空白」とされています。

しかし、「高代寺日記」には、まさにこの「空白期」に相当する天文四年(1535)、九条稙通が摂津・小浜(宝塚市)の小浜御坊こと毫摂寺(ごうしょうじ、浄土真宗)に逗留して「塩川種満」「国満」父子と交流した事が記されており、おそらくこの出来事は「史実」であろうと思われます。

上:昭和20年代の小浜(現・宝塚市)の空中写真(ステレオ)。赤い点の北が毫摂寺。なお、小浜町と標高を同じくする台地側に向けた「町口」は、「巨大な溜池」に架かる「土橋」を経由してのみ出入り可能という、厳重な「構え」であったことが判る。

なお、九条稙通の人生の概略を「玖山・九条稙通」(平安朝文学研究、1971)にまとめられた「井上宗雄」氏は、おそらく「高代寺日記」(上巻)に対する不信感(平安後期歌人伝の研究)から、上記「高代寺日記」(下巻)における「稙通の小浜逗留の記事」を採用されませんでした。せめて疑問符を付けてでも「紹介」さえしてくれていれば、この事象は、半世紀前には研究者の目に触れていたのに…と悔やまれます。

[稙通の「出奔」をサポートしたのも本願寺?]

さて、「本願寺」の十世宗主「証如」は、稙通の父「九条尚経」の「猶子」、すなわち稙通から見て「義理の弟」にあたります。
「鍛代敏雄」氏の「本願寺教団の交通網」(中世後期の寺社と経済)によれば、本願寺勢力は、遠隔地への旅行をサポートする、あたかも「旅行会社」の様なサービスさえ行っていたとのことです。
よって、少なからぬ関所群をパス代行するサービス事も含めて、おそらく「九条稙通の逃避行」を手助けして「摂津・小浜御坊」の宿所を提供したのは、この「本願寺シンジケート」であったのでしょう。
なお、以下は全くの想像ながら、九条稙通は

東九条→伏見→夜船→神崎~尼崎周辺に上陸→小浜

というルートで“人知れず出奔した”と思っています。

伏見から大坂へ下る「夜船」と言えば、「三十石舟」などで知られる“近世の過書船”が思い起こされますが、九条稙通は既に享禄五年(1532)七月二十四日(“天文改元”の五日前)の段階で、家僕「矢野在清」ほかの使者を「従伏見乗“夜船”差下之」と、大坂本願寺に派遣しているので(稙通公記)、これは九条家においては“勝手知ったる手段”ではあったと思われます。

加えて、摂津・塩川氏の側もまた奇跡的というか、この時点で極めて珍しいことに、「細川晴国」の下で「本願寺勢力と軍事的連携」をしていたのでした(高代寺日記、猪名川町仁部家文書、多田神社文書)。
ついでながら上記の九条家家僕「矢野在清」は、「高代寺日記」天文四年(1535)末尾の記事において「塩川国満」と「石清水」から「同道」する「矢野、橘(以緒?)」と同一人物かと思われ、「同道」とは状況的に「同舟」を含むはずなので、「塩川国満」もまた「本願寺教団」による移動の便宜を受けて「石清水」まで出向いていた可能性が窺えます。

[両家の関係はその後も??]

さて、当連載において「摂津・塩川氏と摂関家との関係」と言えば、主に近世初頭における「一条家」や「近衛家」との「知られざる交流」をメインにご紹介してきました。

一方の「九条家」は、特に「近衛家」とは「宿敵同士」と言える間柄であり、今回の「九条稙通の都落ち」もまた、「足利義晴」と縁戚関係を築いて連携した「近衛家」の圧力によるものでした(水野智之「室町・戦国期の本願寺と公家勢力」2010)。
九条稙通はこの時、「東九条荘」や「日根野荘」など、自領のほぼ全てを失ったのでした(東寺百合文書、九条家文書ほか)。

ともあれ、私は「九条家と摂津・塩川氏との交流」という事象は、歴史的、政治・陣営的においても、この「享禄~天文初頭期」に限定された、「ごくごく短期間の出来事」であったのだろう、と長らく思っておりました。

ところがどうやら、それだけでもなかったようなのです。

予告編後半(https://note.com/tohbee_/n/nf72cf7f6fe0e)に移動します

(2021,1009 文責:中島康隆)

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