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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と④【本編】


山下の「すずさん」と空襲と④
~ 昭和20年7月22日昼、僕と節子はP-51に銃撃された ~

山下空襲④火垂eyecatchi

いきなり私事で恐縮ですが、20代の時に東北方面に仕事で出張がありました。夜、東京駅で乗り換えのために新幹線を降りてホームを歩いていると、傍らにいた営業のIさんが耳元で「野坂昭如や!」とささやきました。
見ると右下方のホームの階段を、まぎれもない作家の野坂昭如さん本人が手提げカバンを持って、手前方向に降りて来るところでした。どうやら同じ新幹線に乗り合わせていたようです。テレビでみていた印象より幾分「疲れた」感じに見えました。確か昭和60(1985)年、10月くらいだったと思います。

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前回の最後に、山下と同じ昭和20年7月22日にP-51による機銃掃射を受けた他地域の例をいくつか挙げましたが、実はもう1例見つけていたのです。半分フィクションなのですが…。
一昨年に亡くなった野坂昭如氏の半自伝的小説「火垂るの墓」(1967)がそれです。昭和最後の年でもある1988年春に高畑勲氏の念願で脚色・監督、アニメーション映画化がなされました。テレビで何度も放映されたので、多くの方がご存知かと思います。また、物語があまりにも悲劇的な結末なので、この作品を観ることが出来ない方も多いと聞きます。
私が東京駅で野坂昭如さんを目撃した時、既に「火垂るの墓」映像化に向けての準備は始まっていたのでしょうか?。

当時、「地味」でそれほど著名でなかったこの短編小説をスタジオジブリ側からアニメーション映画化したいと打診された時、野坂氏自身も衝撃を受けたといいます。それが決意に変わって意気込みも大きく、かつて野坂氏が戦争体験をした舞台である神戸、芦屋、西宮にかけてのロケハン(現地調査・取材)では、映画製作スタッフの方々を精力的に案内したそうです(「火垂るの墓」DVD完全保存版所収の特典インタビューなど)。

さて、本稿との関わりは映画の後半、防空壕での独立生活で飢え始めた主人公たち(清太と節子)が西宮の夙川の土手で米軍戦闘機の機銃掃射を浴びるシーンです。あわてて飛び込んだ草むらが実はトマト畑になっていて、ここから清太が畑荒らしを覚えてしまう、という局面です。
あの機銃掃射をかけてきた米軍戦闘機がP-51なのでした。

原作で「道すがらP-51に狙われたりしたが」とあるこのくだりは、夙川沿いに海水を汲みに行く(塩分摂取の為)、あるいは農家へ食糧の買い付けに行く途中の出来事です。原作で兄妹が「西宮の未亡人」の家を出て防空壕で自活しはじめるのが昭和20年7月6日。節子の皮膚に疥癬が出来るのが7月末。苦しくなってゆく食糧事情などから推測すると、この機銃掃射の場面は7月中旬~下旬あたりということになります。
これを史実にあてはめてみれば、この期間の西宮市附近のP-51による空襲は7月19日か22日のいずれかに限定されます。

そしてアニメーション版の「火垂るの墓」に一瞬だけ登場するP-51は機首の鼻先のプロペラスピナーが青く塗られています。この時期、硫黄島のP-51部隊で青いプロペラスピナーを持っていたのは第46戦隊(46th Fighter Squadron)だけです。この戦隊は、山下に飛来したP-51同様、第21航空団(21st Fighter Group)に所属しています。そして第21航空団は7月19日は出撃しておらず、22日だけです(506th Fighter Group. org)。
つまり、アニメーション版「火垂るの墓」に限定されますが、また映画製作のスタッフの方々がそこまで意識されたかどうかわかりませんが、このP-51の機銃掃射シーンはまさに山下が襲われたあの7月22日昼頃の出来事ということになるのです。
(映画のDVD所収の絵コンテ段階ではP-51が2機編隊で描かれていました。)

冒頭画像左側は映画の機銃掃射シーンの場所と思われる、現在の夙川公園とP-51(模型)を合成したもの。この道路の右側が当時畑になっていたのでしょう。

現実の野坂昭如氏も14歳の時、昭和20年6月5日の神戸大空襲で家を失い、6月8日から7月末まで、物語のモデルとなった西宮市満地谷の遠縁の家に妹と共に身を寄せていました。なおこれはとても大切な事ですが、物語に出てくる「西宮の未亡人」の酷薄なキャラクターや、反発した主人公たちが家を出て防空壕で自活する設定自体は全くの創作で、未亡人の性格は実際の妹(1歳半。作品では4歳に変更)に辛くあたった野坂昭如氏が贖罪を込めて自分自身をモデルにしたそうです。

また当時、夙川土手へのP-51の機銃掃射が実際あったかどうかは不明ですが、少なくとも野坂氏自身もP-51の機銃掃射を遠望しています。
エッセー「私の小説から」(1969)で「山をみると、雲のきれまから、銀粉をまいたようなP-51が、仁川とおぼしきあたりに急降下をくりかえし」と、この戦闘機の目撃を回想しています(サイト「「火垂るの墓」野坂昭如―花四季彩」より孫引きさせて頂きました。
)。「急降下をくりかえし」という短い言葉に、獲物を見つけたP-51の執拗さが現れています。西宮に疎開した時期から、野坂氏が目撃した可能性のあるP-51の空襲は7月9日、10日、19日、22日(山下が襲われた日)、30日が考えられます。

野坂氏が疎開生活していた満地谷の家は、文字通り谷の底にあって見通しがききませんが、家のすぐ北に物語の防空壕のあった池のモデルとなったニテコ池があります。現在、ホタルは見られなくなってしまいましたが、その土手からは今も仁川方面の山の稜線が見えるのです。
冒頭画像右手は現在のニテコ池の土手から仁川方面を臨んだもの。野坂氏はここから甲山の右手あたりに「銀粉をまいたようなP-51」を目撃したのではないでしょうか。
そして画像右手の岸辺が映画で主人公たちが自活した防空壕が描かれているあたりです。なお映画ではいろいろ考慮して、背景画の山の形などはあえて変えているようです。

また、私は野坂氏の記述の中にある「仁川とおぼしきあたり」が大変気になっています。
なぜなら、野坂氏が疎開していた西宮市満地谷町から「仁川(当時は良元(りょうげん)村。現 宝塚市)」の方向(北東)にはかつて川西航空機宝塚製作所がありました。現在の阪神競馬場のあたりです。工場の一部は社の後身、 新明和工業の本社として今も現役です。
川西航空機は二式飛行艇や紫電改など、主に海軍機を製作したことで有名なメーカーです。
映画「この世界の片隅に」での呉の初空襲シーンにおいて、米軍のF4U戦闘機を追跡、捕捉している円太郎さんの「2000馬力」が川西航空機の紫電改です。
この頃は仁川の山側のゴルフ場内に分散疎開工場があり、そこで「艦載機」(実際はP-51と思われる)の執拗な反復機銃掃射を受けた証言(補注)があって、野坂氏はこれを目撃していたのではないか?という推測です。

なお川西航空機宝塚製作所の本工場は山下に機銃掃射のあった2日後の7月24日、B-29,および艦載機の爆撃で多くの犠牲者を出して壊滅します(上田雅一編著「宝塚蜻蛉工場私記」ほか)。この日の空襲では大阪の住友金属も壊滅、大阪陸軍造兵廠も被害を受けたほか、東谷附近では多田村の日本麻工業までも小型機3機の攻撃を受けて発火、死者一人、負傷者二人、いったん消した火が再々度燃え出して27日未明に工場が全焼しています(川西市史)。なお、この時硫黄島のP-51部隊は天候不順のため引き返したり、目標を中部方面に変えたりして関西方面の空襲に参加出来ず(506th Fighter Group.org)この24日の米軍小型機は本当の「艦載機」です。

最後に、ふたたび話をさかのぼって「火垂るの墓」のはじめに戻りましょう。
昭和20年6月5日朝7時台~8時台にかけて、神戸市はB-29による何度目かの大きな空襲を受けます。焼夷弾主体のこの空襲で主人公たちの家は焼かれ、母親は全身火傷で死んだのでした。
映画ではあまり描かれていませんが、B-29の編隊は海側から神戸市に侵入し、爆撃を終えるとそのまま六甲山の北へと離脱しています。映画のイメージボード(DVD所収)の段階では描かれていましたが、その後カットされたようです。
「神戸市文書館・米軍資料にみる神戸大空襲」に公開されている6月5日の「航跡図」などによるとB-29の編隊は大阪北部の能勢町あたりまで北上してから東方向に転進しています。

おそらくこの朝の8時台~9時台にかけて、神戸で空襲を終えたB-29の編隊を山下町大蔵(現山下自治会館の地)の縁側から当時子どもだった藤巴力男さん達が集団で目撃しています。
そしてB-29の編隊に日本側の邀撃(ようげき)機が向かって行く姿も!。
上空で空中戦が展開され、しばらくして1機のB-29が墜落してきました!。「やったー!」と皆で歓声をあげたものの、それはまるで自分達の頭上に落ちてくるような恐怖感も伴ないました。そして次の瞬間、恐怖を伴なった興奮は、失望へと変わりました。落ちてくる機体に赤い日の丸が見えたからです。

(⑤につづく)

補注:有末さん(須磨区)という方の証言。「川西航空機製作所の空襲」(「神戸・災害と戦災・資料館」所収)。
このほか、1990年代まで西宮市生瀬橋のほとりにあった名建築、英国風木骨造りの「ウィルキンソン炭酸」工場なども、終戦間際には川西航空機宝塚製作所の分散疎開工場になっていたということです。ここは工場の廃絶直前に個人的に夜間アルバイトをした経験があって、あの薄暗い明かりの工場内部の屋根や壁と、昼夜兼行で航空機部品が作られていたであろう光景が重なって、「歴史」は結局自分に繋がっていることを実感してしまいます。

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