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シリーズ「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第九回番外コラム : 人生色々、飛び交う鉛もいろいろ


シリーズ「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」

第九回 番外コラム:人生色々、飛び交う鉛もいろいろ

 

 ~ (1)能勢・野間城で表採した「割玉」からうかがえる様々な銃弾のこと。(2)日本初?の「銃撃戦を意識した足利義晴執念の中尾城」周辺にまつわる補足ほか。(3)今回の全体から浮かび上がった「塩川氏VS能勢氏の戦い」の真相。(4)「空飛ぶ鉛」のオマケ話 ~

[はじめに:きっかけは一個の、いや、「半個」の鉄砲玉?!]

去る9月2日、夕方近くでしたが、たまたま仕事帰りに能勢町野間中の「野間城」の近くを通ったので、衝動的に城山に上がりました。8月末にも登ったのですが、その時は偶然出会った同行の方を案内することになって、短時間しか滞在出来なかったのでちょっと心残りだったのです。

そして、薄暗い主郭(標高352m、「櫓台」北の広い郭)まで登りきってすぐに、中央付近にていきなり鉛の鉄砲玉を見つけてしまったのです。

私とて、鉄砲玉なんてシロモノに滅多に出会うことはなく、前回紹介した獅子山城で表採した2個を含めて、人生で3つ目です。しかも今回見つけたのはなんと「半球の鉛玉」(冒頭画像左上①前側)だったのでした。これはいったい何なのでしょうか?!。

ちょうど前回の連載「人生色々、飛び道具だって色々」の出稿を終えてホッとしていた矢先でしたので、

「貴様は塩川の手先だな。まだ、連載の飛び道具のシリーズを終えてはならぬ!」

と野間豊前守の霊あたりからクギを刺されたような気がしました(汗)。

そういえばこの野間城の主、野間豊前守は、能勢頼道らと共に天正八(1580)年に塩川長満によって謀殺され、滅亡しています。

これは能勢地域では当たり前の「史実」なのですが、塩川側の地元である川西市~猪名川町の歴史では、「塩川長満」の名前さえ知られておらず、能勢氏らもこの時に滅亡していないことになっていて、天正十四(1586)年に塩川国満と戦争している、なんてことになっています。これでは滅ぼされた野間氏としても「悲しくてやりきれない」でしょう。この誤解も解いてあげなくてはなりません。

また鉄砲玉といえば、前回の稿で、天文十八(1549)年四月、管領細川晴元が鉄砲を入手したわずか八日後に塩川国満の獅子山城に一ヶ月あまりも逗留し、翌年の京における「中尾城の戦い」にて遂に鉄砲を実戦使用し、三好長慶方に「日本初?の鉄砲による死者」まで出してしまったことに触れました。

中尾城跡(京都市左京区)には27年も前(1990年)に行ったきりでしたので、執筆前に再訪、取材したかったのですが都合がつかず心残りでしたが、ようやくこの9月23日に再訪することが出来ました。そして、今回中尾城の現地で得られた知見やその後読んだ文献などを執筆の過程で整理していたら、はからずも、あまり見えなかったこの時期の塩川国満の動向が立体的に見えてきました(執筆というのは、有難くも、こういう機会を与えてくれます)。

そして、「塩川氏」とこの「野間氏を含む能勢側勢力」との関係も鮮明に浮かび上がってきました。

本シリーズは「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」と銘打っています。塩川氏に対する誤解は多岐にわたって複雑なので、本シリーズの第1回において分類、整理、列挙致しました。

そういった「誤解」の中でも最大のもののひとつは、上記でも触れた「川西市史」「猪名川町史」に書かれた塩川氏滅亡のくだりでしょう。

塩川氏(国満、長満)と能勢氏(頼明、頼幸、頼道)は、天文後半から天正前半の40年間にわたり、それぞれ別の勢力側に属することが多く、互いに戦争を繰り返しました。具体的には本稿で述べる、この天文十四~十八年の合戦や、永禄期~元亀、天正六~八年の合戦などです。

しかしながら江戸時代に「多田雪霜談」という軍記物が作られ、その中でこれらの史実を元ネタにして、舞台を「天正十四年」前後に変えて、「塩川国満と能勢氏の戦い」→「豊臣秀吉怒る」→「塩川国満切腹・滅亡」

というデタラメな構成のストーリーが「創作」されました。これは完全に「娯楽作品」、いわばこんにちの「テレビドラマ」「映画」の脚本のレベルです。

信じられないことに、これがほぼ「川西市史」や「猪名川町史」などに史実というか、他史料との比較検討もなされず「結果全面採用」されてしまいました。

市史を読む側にとって、塩川氏の最期は「この話だけが与えられる構成」になっているので信じるほかはなく、私も20年ほど前に城郭研究家の高橋成計氏から「高代寺日記」や丹波の「波多野家文書」等をご教示頂くまで、この市史の内容を鵜呑みにしていました。

この年代を無視した「物語」は他史料との整合性が一切ないのにもかかわらず、いつのまにか「史実」よろしく、他の書物などにも引用されてしまって定着しており、現在に至るまで改定されそうな気配がありません。(その後公刊された「能勢町史」や「亀岡市史」や新編の「三田市史」は当然ながらこんな史料を採用していません。)

本稿は当初、上述した「野間城の弾丸の話」と「中尾城の補足」を2本柱にして、前回の「番外編:人生色々、飛び道具だって色々」の続編として「気楽に」着手しましたが、執筆中の「副産物」としてこの塩川氏の動向や、「塩川氏VS能勢氏の戦い」の真相を補足するうち、結果的に膨らんでしまいました。

連載としては「超大作」になってしまった上、話が飛躍したりして、ちょっと読みづらいかもしれません。ただ本稿のテーマ「塩川氏の誤解を解く」としては王道的内容には違いなく、出来れば、一気に読まずに、項目ごとに数日かけて毎日小分けにして熟読いただければ、と思います。スルメのように栄養、もとい、情報量は多く含んでおりますので、案外この時期の塩川氏の歴史解明のお役に立てるのでは?と密かに思っております。

(なお事前に「江口の戦い」「中尾城の戦い」についてWikipediaの関連リンク等を読んでいただければ、この時期の背景がより鮮明になるかと思います。)

では、以下に時系列で、塩川国満が細川晴元側に転じた16世紀半ばあたりから記述してみたいと思います。上記、野間城の「謎の銃弾」のことはまた後ほど。

[天文十四(1545)年の塩川国満の動き]

川西市史所収の「元禄五(1692)年奥川辺村々寺社吟味帳」によると、笹部の「牛頭天王」社が「天文四乙巳年ニ塩川伯耆守国満公平野より篠部村江勧請有之候」という記述があります。

実際の天文四(1535)年の干支は「乙未」ですので、この勧請の年代は、本当の「乙巳」年である「天文十四(1545)年」が正しいかと思われます。年号が頻繁に変わる昔の人々は干支で正確な年代を記憶したのです。

これは塩川国満が信仰していた平野村の「平野社」(「高代寺日記」での呼び名、現・多太神社、式内社)が笹部村に勧請(現・平野神社)された記録です。塩川氏のかつての拠点は平野~新田村(「高代寺日記」では「西多田」)のおそらく新田城であったと思われ、多太神社は新田の城跡のすぐ北東隣に位置しています。

塩川国満は天文十(1541)年秋に「細川高国派残党として?」急きょ、笹部村の山岳寺院、甘露寺を強制移転させ、その要害堅固な山に獅子山城(多田・一蔵城、塩川城、現在の俗称「山下城」←城は山の上なんですけど…)を築いて篭城、この時点ではまだ城内に館も無かった(高代寺日記)という純粋な「城砦」だったようです。

しかし平野神社勧請の年と思われる天文十四(1545)年になると、心細かった4年前とは違い、塩川国満は大勢力側である細川晴元側に鞍替えしているのです。国満が氏神の平野(現多太)社を獅子山城の麓東に勧請したということは、ようやく細川晴元政権下での「安定」を見越して、ここ「笹部村を新しい拠点にする」という胎動の一環と解釈出来ましょう。

さて、今や細川晴元の走狗(パシリ)となった塩川国満ですが、この天文十四年も大忙しで「席の暖まる間」もありません。かつて満が被官をしていた細川高は、既に享禄四(1531)年に滅亡し、その弟である晴も天文五(1536)年に死んでいますが、旧細川高国派は、高国の養子である細川氏綱を再び擁立して、天文七(1538)年あたりから散発的に畿内各地で反乱を起こしていました。

この天文十四年も、四月には氏綱派の上野元治、元全親子が南山城の井出~宇治槙島で挙兵、細川晴元は五月二十四日に約1万の軍勢を差し向けて鎮圧しています(厳助往年記ほか)。この時の晴元の軍勢の細かな内分けを公家の山科言継(ときつぐ)が日記「言継卿記」に実に詳細に記していますが、そのうち摂津衆として「池田筑後守千五百、三宅五百、三好甚五郎入道(政長)三百、伊丹三百」に引き続き「多田塩川百」が書かれています。この記事は、当時の細川晴元による畿内における軍勢動員の好資料(今谷明「戦国三好一族」)になっています。

(この筆まめな山科言継は前回、銃弾による死者の初見を記した人物で、本稿にも後ほど登場します。)

またこの年の「夏此、氏綱方の内藤備前守(国貞)」が「丹波国関」で挙兵(細川両家記)し、これに対して能勢の西郷(にしごう)諸侍も氏綱派として呼応したようです。細川晴元は丹波の波多野与兵衛(秀親、丹波数掛山城(現・亀岡市本梅(ほんめ))主)、および塩川国満に能勢西郷成敗を命じます。

塩川国満は波多野秀親と示し合わせて、天文十四年十二月二日夜~三日にかけて、能勢西郷に攻め入っています(「波多野家文書」、「能勢文書」など)。

この時は波多野氏が月峰寺(剣尾山頂付近にあった。近年15世紀の縁起絵巻復元で話題になった)を焼き討ちし、塩川国満も能勢側の「神社佛閣悉焼失」(能勢郡旧領主並代々地頭役人記録、以下「役人記録」と略す)とあるので、能勢側は大打撃を受けたようです。

(なお「多田雪霜談」は元亀元(1570)年,織田信澄によって月峰寺をはじめとする多くの山岳寺院が焼かれたとしています。)。

この年十二月十三日付けで細川晴元は奉行を通じ、能勢西郷領を幕府御料所として没収、その三分の一を波多野秀親に与えています(内閣文庫所蔵所家文書纂)。また、翌年に塩川国満は能勢郡の「山内村名主百姓中」にあてて、年貢を近くの領主である「能勢源左衛門尉(頼明か?)」にではなく、摂丹峠を越えて「波多野与兵衛方」に納入するように指示しています(能勢文書)。能勢郡の幾らかを塩川国満と波多野秀親で「山分け」にしたのでしょう。能勢郡における「塩川氏への怨嗟」を生んだこれは最初の大事件と言えるでしょう。

前回述べたように、この四年後の天文十八(1549)年四月に、劣勢の細川晴元が丹波~能勢経由で獅子山城に入城できたのも、能勢氏がこの時のダメージで相当弱体化し、晴元に抵抗出来なかったからと思われます。

[天文十八(1549)年前半、劣勢化した細川晴元の下で]

さて、四年後の天文十八年に移ります。その「細川晴元が丹波経由で塩川国満の獅子山城に一ヶ月逗留した」あたりから、翌年の「中尾城の戦い」までに至る、その伏線を見ていきましょう。

細川晴元を取り巻く環境は大きく変わっていました。前年の天文十七年に晴元の被官であった大勢力の三好長慶が細川氏綱側に寝返ってしまったからです。引金となったのは晴元の腹心と言うべき三好政長(宗三)に対しての年来の確執等で、長慶が遂に挙兵、天文十七(1548)年十月二十七日に政長の居城、榎並城(現・大阪市城東区野江)を包囲してしまいました。政長は京に居て城に帰れず、息子政勝が篭城を続けています。

そしてこの三好長慶の「謀反」に同調したのは、三好氏の本拠である阿波、讃岐、淡路衆以下、京の西岡衆、丹波の内藤、播磨の衣笠、泉州の松浦他、摂津衆はなんと大半の三宅、芥川、入江、安威(あい)、池田、原田、河原林、有馬の諸氏でした。

晴元側に残ったのは近江の六角、和泉の細川元常、紀伊の根来衆、延暦寺、伊賀の仁木、摂津衆では伊丹親興と茨木長隆、そして塩川国満だけでした。

榎並城に帰れない三好政長はおそらく天文十七年末あたりに丹波経由で獅子山城や伊丹城に入り、塩川氏の軍勢などを借り受けて池田(長慶方)に放火したり、榎並城奪還のために、淀川~神埼川周辺の城をめぐって長慶軍と攻防を繰り返していたのがこの天文十八年の一月~三月の状況でした。「高代寺日記」にも(一月)「下旬国中要害ノ所々順見セシム」「三月(塩川)宗英中島城(現・大阪市淀川区)ニテ討死五十八歳」などといった記事が並んでいます。三月末には晴元側の香西元成が長慶側の三宅氏の三宅城(現・茨木氏)を陥れたようです。

四月になると、尼崎の本興寺に塩川国満が発給した次のような文書が残っています。

「禁制 尼崎本興寺塀并西門前

一、当手甲乙人乱妨狼藉事

一、陣取寄宿事 付伐採竹木事

一、相懸矢銭・兵粮米事

右条々堅令停止訖 若於違犯輩者、可処厳科者也 仍如件

天文十八年四月二日   伯耆守(花押)」

これはいったい何なのでしょう。この文は「我が塩川軍は本興寺やその門前に対してこのような事はしない」という安全保障の証書です。本興寺側が、塩川方へ何らかの代価を提供して得たかと思われます。(天野忠幸氏によると、国人クラスがこのように独自に「禁制」を発給し出すのはこれ以前にはなく、これは国人の領主としての権力強化の表れとのことです「戦国期三好政権の研究」)

尼崎は、淀川の実際の河口が浅瀬や干潟、葦原、無数に枝分かれした支流などによって「船の難所」であるために、平安時代に開削されたバイパス運河である神崎川(三国川、分岐点が江口)の河口に位置する港町で、海上交通と内陸水路の中継点という要衝です。

本興寺に対しては、既に「三月日」付けで三好政長が禁制を発給していますが、四月には塩川国満とまったく同じ「四月二日付」で、細川晴元、進藤貞治(六角氏被官)が、四月六日付けで伊丹親興がそれぞれ禁制を発給しています。こちらはすべて晴元側の武将ばかりです。尼崎は敵対する三好長慶の勢力下での印象が強いのですが、この時は一時的に政長・晴元方が押えたのでしょうか。

細川晴元は、この四月二日時点で、京に居たと思われますが、直後に近江に出向いて観音寺城の六角定頼に援軍を依頼、十八日には(例の)本能寺に発注していた「鉄砲」を入手、そして丹波経由で獅子山城に入ったのが前回お伝えした四月二十六日でした。

晴元配下の軍は獅子山城到着二日後の二十八日に長慶の越水城に近い西宮周辺を放火、二十九日には三好政長と伊丹親興軍がなんと「尼崎」を放火しているのです。これは尼崎が四月末には再び三好長慶に押えられたということでしょうか。また、こういう時も本興寺の「禁制」は効力があるのでしょうか?。

細川晴元は獅子山城に一ヶ月滞在した後、榎並城救援のために、五月二十八日に既に三好政長が入っている三宅城まで前進します(細川両家記)。ところで年次を欠いていますが、この日の前日と思われる五月二十七日付けの、三好政長から塩川国満他に宛てた書状が残っています(多田神社文書、川西市史所収)。

「両三人之御状令被見候、仍我等書状之事、被認候て給候ニ、則判形仕候て参候、此間之当納ニ弐十石加増仕、可参候、然者傍(寺カ)より備中江御取合、今度之合戦則時得勝利候様、御馳走所仰候、恐々謹言

五月廿七日  半隠軒 宗三(三好政長)

塩伯(塩川伯耆守) 田源  平丹  御返報」

政長は三宅城に駐屯していました。宛名の二人、「田源」と「平丹」は多田院御家人の田中氏、平尾氏のことでしょうか?。目下、居城を包囲されて手勢の乏しい政長軍には塩川の人数も少なからず加わっていたと思われます。「判形」「弐十石加増」「取合(年貢)」などの言葉から、これは軍役に対する報酬(例えば接収した三宅領から?)の交渉でしょうか?。

そして戦いの結果を知っている我々には「今度之合戦則時得勝利候様」がちょっと悲しく見えます。

三好長慶はこのあと、天文十八(1549)年六月の江口の戦いで宿敵、三好政長を討ち取ります。

さらに長慶は、足利義晴、細川晴元を近江坂本に追い出した後、細川晴元の替わりに擁立した細川氏綱を奉じて京に政権を立てます。しかしながら、長慶自らは京に留まらず、あくまでも拠点は摂津西宮の北に位置する越水城でした。

その「三好新政権」に対し、近江坂本の仮御所から、あきらめきれない足利義晴、義輝、細川晴元らが比叡山~東山越しに、翌天文十九年にかけて何度も「ちょっかいを出す」のがこれから詳述する「中尾城の戦い」の図式です。そしてその「舞台裏」で塩川国満はどう動いているのかを見ていきたいと思います。

[越水城について]

ここで三好長慶の越水城について述べたいと思います。(冒頭画像右上、右下参照)

西宮は古来、重要な港町ですが、西宮~京を結ぶ西国街道は、西宮からまっすぐ北へ1kmあまり進んだ地点で段丘崖にぶつかり、そこで北東方向へ45度程幾何学的に(ちょうど時計の針の「6時10分」のように)折れ曲がって京に向かいます。(現在の国道171号線もおなじ形で南に並行しています。)この折れ曲がりポイントをまさに北西から見下ろす段丘崖の上が越水城跡です。元々瓦林正頼が永正十三(1516)年に築いたものでした。

城のあった頃は西国街道自体をも城の外郭、もしくは小城下町として取り込んで両側に関門を設けていたと思われます。海の向こうの阿波国から進出して来た三好氏の畿内における「橋頭堡」としてはまさにうってつけの地勢です。

現在城址碑が大社小学校にあるので、そちらばかりが注目されますが、実際の城の主郭跡は学校の北東に隣接する住宅町です。昭和後半に全面開発されて城跡が100%ビッシリ住宅群になっており、「城址は完全に消滅」したかのように思われています。

戦前までは土塁や櫓台、段丘上西側に堀切が残っていて測量図も作成されています。ちょうど獅子山城の主郭を左右逆にしたような構えです。昭和23年の米軍写真にもしっかり写っています。

(右上画像②はステレオ写真(3D)なので、平行視線(いわゆる「遠い目」)で見るか、虫眼鏡2つを両目にあてて右目で右画像、左目で左画像を至近で見ると、立体形状が浮かび上がります。コツは主郭を示した「左右の黄色い*マーク」を「1つに合体させる」ことです。)

さて、実際に戦前に描かれた測量図と照らし合わせながら現地を踏査すると、段丘崖や土塁や堀の名残り(?)を思わせる段差や谷地形、地名の元となった「小清水の井戸」や旧西国街道の「折れ」などが残っており、なんとか「城」の存在を感じ取ることが出来ます。今後の地下遺構の検出にも期待が持てそうです。(川西市内で言えば、新田城跡や上津城跡の遺構状況、地形に似ています。)

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さらに余談ついでながら、越水城のすぐ300m西側の谷が本稿で以前取り上げた「火垂るの墓」の舞台であり、戦時中に実際に野坂昭如少年が妹と疎開していた満地谷です。高畑勲監督のアニメ版において、サクマ式ドロップの缶が空になったと勘違いした節子が農道で泣き喚くシーンがありますが、あの(おそらく山本ニ三氏描く)背景画に見える、樹木の繁る段丘上が、まさに当時まだ残っていた越水城址なのです。野坂少年もあるいは訪れたかもしれません。また、西宮神社の大練塀(重要文化財・室町時代)は例のニテコ池周辺の土を採取して造ったとの伝承があります。池が城の時代から存在していたとすれば、越水城にとって北西側の水堀の役割も果たしていたでしょう。三好長慶もあるいはニテコ池の「蛍」を眺めていたかも知れませんね。

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[天文十八年後半、塩川氏と能勢氏、再び戦火を交える]

さて、天文十八(1549)年六月末に三好政長が江口の戦いに滅び、足利義晴、細川晴元政権が崩壊、近江坂本に都落ちし、七月に三好長慶が上京、細川氏綱を立てて三好政権が発足という大激変が起こりました。取り残された「敗者側」の塩川国満はどうしていたのでしょう。

塩川国満は北隣の能勢氏(頼明か)と合戦を再開することになります。ここにも「本当の塩川氏 VS 能勢氏」の戦いが展開されたわけです。

四年前、磐石な細川晴元政権の下で、能勢氏は波多野秀親、塩川国満の攻撃を受けて逼塞していました。しかしながら今回、晴元政権が崩壊したことで塩川国満がピンチを迎えたわけです。三好長慶・細川氏綱方として息を吹き返した能勢氏側が「復讐の機会」とばかりに、この十八年八~九月に両者の合戦となりました。以下時系列でみると

「天文十八己酉年七月廿二日塩川合戦事評定」(役人記録)

能勢側が晴元亡命後にすぐに塩川との戦いを「評定」しています。ヤル気満々という感じです。

「同八月小部山合戦」(役人記録)

八月に入って「小部山」(位置不明)で塩川氏と能勢氏が衝突した模様です。

ここでちょっとだけ視点を変えて、伊丹城を見てみましょう。六月の江口の戦いでの大敗のあとも晴元側の伊丹親興はねばっています。

「伊丹城計堅固也。同(天文十八年)八月二十四日より(三好長慶方が)對(対)城こしらへ。東方は森本に池田衆。西は御影塚に三好方衆。乾は小屋(昆陽)城に小川式部籠られたり(中略)とかく月日を送る也。」(細川両家記・以下「両家記」と略す)

伊丹氏が堅固に篭城してくれて心強いものの、塩川氏は長慶・氏綱方である能勢氏と池田氏双方からサンドイッチされるかたちです。再び対能勢氏に視点を戻すと

「同九月十七日、枳弥宮(森上の岐尼神社)合戦、塩川主膳同修理弐人討捕之御勝利、討取し孩骨を埋号多田塚稲地村ニ有リ」(役人記録)

塩川側が能勢西郷森上まで進出して戦いましたが、「塩川主膳」「塩川修理」が戦死して敗退した模様です。時期的に収穫を終えた米を奪う計画もあったかもしれませんが、塩川氏にとっては寒い秋になりそうです。(この「多田塚」は森上の南に近年まで残っていました。今能勢町による解説板がある付近です。)

なお「多田雪霜談」ではこの合戦をおよそ40年後に舞台を変え、「多田塚」は「天正十二~三年」の薩摩の島津領下における(?)農民争いの犠牲者のものとし、枳弥宮合戦も「天正十四年」に変えてこの「塩川主膳」をモデルにした「阿古谷西峰城主」の「塩川主膳正良」なる人物を西郷で戦死させています。同書では他に「塩川吉左衛門尉義」なる武将も登場します。江戸期の作者は、塩川満の一族だから「国」をつけたらそれらしく見えると思ったのでしょうが、国満の国の字は故細川高国からの一字拝領(高代寺日記)なので、そう易々と配るわけにはいかず、何よりも今、国満は高国の宿敵であった晴元派であり、能勢氏の属する氏綱(高国の養子)派の方がまさに「高国派の後裔」なのです。

晴元派に転じた「国」満とは違って、能勢郡は一貫した高「国」派だったという皮肉…。

「御祈願所摂津国能勢郡槻峯寺(月峰寺)事、従先規諸公事臨時課役被免除之上者、任御下知之旨、弥不可有相違候、可被得其意候、恐々謹言

天文十八年十一月二十四日  三好長慶(花押)」(月峰寺文書)

十一月末には能勢の月峰寺に対して三好長慶から、諸公事等免除が保障されており、能勢郡は「細川氏綱側支配」となったことがわかります。能勢氏も四年前の溜飲が下がったことでしょう。

[執念の大御所・足利義晴、中尾城築城が念願だったが…]

さて、これから近江坂本に退避した足利義晴、義藤(後の義輝)、細川晴元らの「亡命政権」が、京の細川氏綱、三好長慶政権に対して巻き返しを繰り返す、「中尾城の戦い」を詳細に見ていきましょう。

ここに群書類従にも所収されている「萬松院殿穴太記(ばんしょういんどのあのうき)」という文書があります。「萬松院」は足利義晴の謚(おくりな)で義晴の死去直後の天文十九年七月~十月頃に「側近と思われる人物」により書かれた追悼文であり、文の性格上、幾分装飾的表現もありますが、総じて非常に史料価値の高いものです(藤井貞「群書解題」など)。この中に

「其年(天文十八年)十月廿八日甲子の日。先慈照寺の大たけ中尾といふ山にて鍬そめをぞさせられける。掛りけれど。きりきり(てきぱきと)と普請抔(造成)もなかりければ。もとより御進発の事は沙汰にも及侍られず。」(萬松院殿穴太記・以下「穴太記」と略す)

塩川軍が能勢・森上で敗退してからひと月後、近江・坂本に亡命していた足利義晴が動き始めました。

これが足利義晴の指示による中尾城築城「最初の試み」です。慈照寺は足利義政の建立した銀閣で有名なあの寺です。京の中心部から離れたこの寺は足利義晴にも幾度か縁があって、避難所、仮御所的な意味があり、何よりも京と近江を結ぶ「山中越え」の京側出口に位置しています。この背後の標高279m(比高200m弱)に山城を造るということは、近江から京へ進出する「橋頭堡」「足がかり」にしたい、ということでしょう。残念ながら今回の「築城」は尻すぼみに中断してしまいました。そして年が明けて天文十九(1550)年になります。

「正月 上洛室町ニ参上 コレ去年十二月ヨリ公不例(義晴の病気)故ナリ 直(すぐに)下著(着?) 同月多田院ニ公ノ祈念ノコト廿日乙酉日」(高代寺日記・以下「高代」と略す)

これは塩川国満の記事です。しかし実際の京は三好長慶サイドの細川氏綱が押さえていたので国満の「上洛室町ニ参上」は有り得ず、おそらく足利義晴が引き篭っていた近江坂本の仮御所の事を、江戸初期の「高代寺日記」編者が間違えたのでしょう。この記事にあるように、足利義晴病中のおり、味方の武将らが正月に参集したのは史実なのです。

「天文十九年正月元三(正月三ヶ日)諸将出仕シテ御對面ノ御祝儀アリ其日ヨリ又違例(病)重ラセ給ヒケリ」(足利季世記)

「足利季世記」やその類似した書物は江戸時代に比較的流布していたように思われるので、「高代寺日記」の編者がこれらから引用、執筆した可能性も一応ありますが、義晴の病気が「足利季世記」にあるような「正月」からではなく「去年十二月ヨリ公不例(病気)」(高代)とあるのは、まさに「萬松院殿穴太記」で裏付けられるのです!。

「しはす(師走・十二月)の此ほひ(頃おい?)より例ならざる(病気のこと)御こ々ちに煩はせ給ひけり。坂上池院紹胤常に御薬を奉りしかば。召に應(こたえ)て御薬を参らせけり。」(穴太記)

そして天文十九年が明けて正月、坂本の仮御所(常在寺)にて

「元日出仕の人々にも御對面有しかば。近習外様の老若も。今は異なる事ましまさじと悦びて。手の舞足のふみ所を覚えず。木こり。草刈。賤山がつ迄も腹つ々み(鼓)を打。謳哥のこゑを巷にあげし所に」(穴太記)

坂本の人々が身分の上下を問わず温かく義晴を囲んでいました。また、この時対面した「外様」の中に塩川国満がいたかもしれません。

しかしながら

「申の刻(午後4時)計りより又煩せ給ひて」(穴太記)

義晴の病状が悪化してしまいます。よって

「正月八日には比叡山根本の中堂の薬師如来の寶殿にて。諸侯の輩千度の巡禮を致しけり」(穴太記)

「諸侯」は国人クラスを含む武士たちの事と思われ、延暦寺において彼らも参加した義晴の回復を祈願する大仏事が営まれたようです。やはり国満が参加していた可能性があります。

そんな状況の中でも戦争というものは待ってはくれません。

「然ば天文十九年庚戌の正月十一日に筑前守富松城(現尼崎市)へ出張有。伊丹城責べしとて諸勢を催さるる處に。」(両家記)

三好長慶が越水城から、伊丹親興の篭る伊丹城近くの富松城(現尼崎市、土塁、堀が残存する)まで進出。本格的な伊丹城攻めがはじまりました。ひょっとしたら伊丹に近い塩川国満もこの知らせであわてて帰城したかもしれません。南の池田長正や北の能勢氏が攻めて来る可能性があるからです。

そんな状況で正月十五日、坂本で再び大掛かりな対面の儀がありました。以下、主に山科言継(ときつぐ)の日記「言継卿記(以下「言継」と略す)」から引用していきましょう。

「(正月十四日)坂本に罷下」(言継)

と、京から坂本に移動し

「十五日、庚辰、天晴、戌刻(午後8時)雪降、 朝食以後、高倉父子令同道参大樹」(言継)

朝一番に将軍義藤(後の義輝)に面会しています。将軍はまだ十五歳でした。そして

「四過時分(午前10時頃、義晴に)御對面」(言継)

しますが、

「大御所右大将殿、自奮冬御所勞、水腫張満、云々、上池院御療治、云々、同篇之由(病状が変わらない)、然者及数日之間煩敷(わずらわしき)事也」(言継)

義晴の様態は悪く、「水腫張満」とありますから、腫瘍、癌におかされていたのでしょうか。

山科言継は医者でもあったので、医師としての視点も含まれているでしょう。

この日、対面の儀に参加した面々として

「被参之衆、公家烏丸、日野、高倉、藤(広橋)中納言、予(山科言継)、高倉金吾、[

大名]細川右京太夫、御共衆細川右馬頭、大館左衛門佐、上野民部大輔、伊勢守、[

朽木]佐々木民部少輔、御部屋衆細川刑部少輔、三淵掃部頭、外様[和泉守護]細川播磨守、同陸奥守、三公・・、[大津之]岩室・・(甲賀衆か)也」(言継)

最後の「外様」以下に国人クラスがいると思われ(・・は某の意味?)「等」の中に塩川国満もいたかもしれません。「岩室某」は六角氏の被官と思われます。なお塩川国満はまだ細川高国派であった時分に同じ六角氏被官の「種村伊予前司高成」から「娘種子」という側室を迎えており(高代寺日記)、その子が長子宗覚(全蔵、のちの運想軒)です。塩川氏と六角氏とは何かと縁が深いのです。さて、対面の儀が終わって

「次、朽木所へ罷向、民部少輔は近衛(稙家、義晴の正室の兄)殿へ、右京太夫祗(つつしみ)候御酒有之、云々」(言継)

山科言継が朽木稙綱の宿所を訪れましたが、近衛稙家宿所において細川晴元が主催する酒宴に参加するらしく留守でした。「祗(つつしみ)候」とあるので、「一致団結を込めた儀式」的酒宴かもしれず、国満ら国人クラスも招かれたかもしれません。そこで言継が朽木宿所で待つ間

「女房衆子息彌六見参、雑煮[鴨]吸物ニ献有之、及数盃之処、民部少輔帰宅也、以外沈酔了」(言継)

山科言継は無類の酒好きで有名な公家で、こうしてあちこち訪問しては酒をよばれまくるのがいつものパターンです。そのうちに朽木稙綱も帰宅して来ました。「もってのほか沈酔」していたのは稙綱だけのような気がします。「飲まずにいられない」義晴側近の空気が感じられます。

「次近衛殿へ参、御留守、云々、次右京太夫所へ罷向、留守、云々、奏者茨木伊賀守也、」(言継)

このあたりのドキュメンタリー描写は見事です。さすがにこの日は皆エキサイトしていたと見え、近衛稙家も細川晴元も、坂本町内をあちこち出かけて飲んだり語ったりしたのでしょう。晴元に会えなかったので留守役の茨木長隆に伝言でも残したようです。そして

「次七時分(午後4時)令出京、路次雖走、五時分(午後8時)帰京、直に参内、」(言継)

おそらく馬をとばして4時間で京に舞い戻っています。(「公家」を軟弱な人種のように思うのは全く後世の誤解です。)京に着いたあたりから雪も降り始めたようです。そのまま内裏に参上し、大勢の前でこの日の報告をしました。

「亥下刻(午後11時)迄御雑談了、次退出」(言継)

大任を終えて帰宅。で、疲れてすぐ寝るのかと思ったら

「夜半計三毬打(さぎちょう)ほころかし候了」(言継)

正月の飾り付けや注連縄などを焼くなりして、無病息災を願ったのでしょう。そしてこの「日記」を書いて一日の終わりです。

「同(正月)十六日。至坂本参賀。御方御所御對面也。大御所様自奮冬水腫膨満以外御煩云々」(厳助往年記・以下「厳助」と略す)

翌十六日に、醍醐寺の理性院厳助も義晴に対面しています。後述しますが、醍醐寺も義晴側として軍事援助をします。

ここでもう一度「高代寺日記」の記事をおさらいしましょう。

「(天文十九年)正月 上洛室町ニ参上 コレ去年十二月ヨリ公不例(義晴の病気)故ナリ 直(すぐに)下著(着?) 同月多田院ニ公ノ祈念ノコト廿日乙酉日」(高代)

塩川国満が正月の対面から、いずれかの時点であわてて帰城し、二十日には多田院で義晴の回復祈願の仏事をしています。このあたり、塩川氏は一介の国衆ではありません。足利将軍家の祈願所、分骨所でもある多田院を管理、護持する立場でもあるからです。ちなみに「言継卿記」でも天文十九年正月廿日の干支はちゃんと「乙酉」になっています。天気は「晴、時時雨散」(京において)とありますから、冬型の気圧配置での晴日だったようです。国満は最長で正月十五日の対面の日まで坂本に居た可能性があり、この「直下著(すぐにげちゃく?)」後、二十日の多田院における仏事は、日時的にも整合性を持っている記事なのです。

「就今度大和守(伊丹親興)無弐覚悟、其表無異儀条、誠神妙至候、彌(いよいよ)各以馳走忠節肝要候、猶塩川可申候也、謹言、

二月九日   晴元(花押) 森本因幡守殿」(北河原森本文書)

これは年次を欠いています。晴元が伊丹親興の覚悟を賞賛し、「塩川」を使者として伊丹の東を本拠にしていたと思われる森本氏を激励しているようです。伊丹親興は天文十七年の三好長慶の離反には加わらず、1年前の天文十八年一月ニ十四日に三好政長が塩川勢を率いて長慶方の池田城下を放火し、二月十二日に今度は長慶が越水城から伊丹近郊を放火しています(両家記)。したがって上記の文書は昨年の天文十八年の発給かと思われます(高橋成計氏の御教示による)。

[日本初、銃弾を意識した中尾城と足利義晴の最期]

そんな折、中尾城の築城が一気に本格的再開されました。

「(二月)十五日。東山慈照寺上々山江御城山取有之。今日御犂初云々」(厳助)

この築城に関しては「萬松院殿穴太記」が詳細に記しています。

「猶御城山の事のみ(義晴)心にかけさせ給ひて。右京兆(細川晴元)。弾正少弼(六角)定頼朝臣に御談合有て。(天文十九年)二月十六日乙亥に又御普請請始ありて。ほどなうつくり出せり。誠に百万騎の勢にて攻める共。一夫いかつて關(関)城に向かひなば。容易落難し。山高して一片の白雲嶺を埋み。谷深ふして万仭の岩尾を遮り。つづら折なる道を廻りて登る事七八丁。南は如意が嶽に続きたり。尾さきをば三重に堀切て。二重に壁を付て。其間に石を入たり。是は鐡砲の用心也。四方には池を掘て水をたたへたれば。昆明池の春の水に夕日を浸して淵淪(さざなみ)たるに異ならず。摂丹を目の下に見おろして。寔(まこと)に名城共云べし」(穴太記)

義晴への追悼文だけに、幾分装飾性が見られるものの、慈照寺の背後、比高200m弱、如意岳の北の尾根上に存在する中尾城跡は、確かに堀切が3ヶ所ほどあります。四方の水堀はちょっと無理ですが…。冒頭画像下中右は城跡からみた洛北方面の景観です。そして中尾城はこの

「尾さきをば三重に堀切て。二重に壁を付て。其間に石を入たり。是は鐡砲の用心也。」

という「日本初の鉄砲を意識した築城法」の記述であまりにも有名です。この「壁」というのが建築物の壁なのか、土塁、土塀の類なのかわかりません。城跡には3ヶ所ほど胸壁たりうる土塁は残存しています。この新式の築城法については昨年春に鉄砲を入手した細川晴元の意見も反映していたかと思われます。そしてこの「穴太記」が書かれた時点でまだ中尾城は存在していたのです。中尾城の「壁」についてはまた後述します。そんな折、

「今御不例(病気)のうち不可然由定頼朝臣頻に諌め被申けれ共。御同心なくて(三月)七日に先穴太の新坊と云所迄御座をよせられけり。」(穴太記)

「三月日(ママ)坂本穴太迄。公方様御門出」(厳助)

足利義晴は待ちきれなかったのでしょう。六角定頼が諌めたのにもかかわらず、病状をおして坂本から南の穴太(あのう)の里に本拠を移しました。事前に「従ニ位在富卿、陰陽頭有修朝臣両人」に定めさせた出陣の吉日が三月七日と廿七日でした(穴太記)。

わずか1.5km南下しただけですが、義晴には「七日に門出した」という事実をつくることが大切だったのでしょう。(しかし義晴がこの地から進むことはもうありませんでした。)

「(三月七日)自坂本大樹今日穴宇迄御進発、云々、細川右京大夫足軽少々出京、云々、小泉、今村衆出合、於四條野伏有之、云々」(言継)

義晴とかねてより打ち合わせしていたのでしょう。中尾城を足がかりにしたと思われる細川晴元の小部隊が「七日」にシンクロさせて、京の四条あたりで三好長慶方の小泉氏、今村氏と軍事衝突しています。さらに六日後

「(三月十三日)細川右京太夫(晴元)人数、其外近江衆少少打廻、西院焼之、云々、軈(やがて)打帰、云々」(言継)

晴元勢は京都洛外の西院村に火を放ちました。西院村(かつての平安京内の四条通りと佐井通に面する)には三好長慶方の上記小泉氏が城を構えていました。

出典を確認していないのですが、昨年七月に政権を打ち立てた三好長慶は「京都代官に今村慶満を任命し、西院小泉城に居らしめ」(今谷明著「戦国三好一族」)ということですから、洛中の細川氏綱の下で、この洛外の小城は三好政権の京での行政府、役所でもあって、晴元の行為は三好政権に対する「威力偵察」(小手調べ)であったように思われます。

「(三月)廿七日。東山御城迄可有御出張之由也。当門跡御境内人数悉被召具御参。自当院内衆其外小栗栖笠取等申付進也。」(厳助)

いよいよ例の「三月二十七日」に義晴が中尾城に入城するというので、義晴側だった醍醐寺も軍勢を率いて準備をしていました。(なお、大寺院や大きな神社というものは、近世以降今日まで「宗教施設」というものに「格下げ」されてしまいましたが、中世においては産業や私兵まで持った、ひとつの独立した「都市国家」(戦国領主と同じような)や「企業グループ」のように認識すると彼らの行動パターンが理解できます。伊藤正敏著「日本の中世寺院(吉川弘文館)」などを参照のこと)

ところが

「然処。右京兆俄同心不被申間。先々延引也」(厳助)

細川晴元が急にこの日の足利義晴入城に反対して延期になってしまったのです。いったい何が起こったのでしょうか?。以下「萬松院穴太記」で詳細をみると

「御入城は来(三月)廿七日と被定て。城中の衆も御迎に参しに。廿六日に伊丹大和主雅興。俄に心替りの由注進有しかば。晴元又御延引の事を頻にとめ被申しかば。(義晴)力なくとどまらせ給ふ。諸奉公の輩をば皆城へかへさせけるとて。城中の制法二十ケ條計記せられて。城中を堅固にふまへ。御出張を待つべしと直に被仰しぞ。今おもへばはかなき事にて侍りける。」(穴太記)

義晴の御成りのため、穴太まで迎えの人数を出していたところ、昨年夏から伊丹に篭城していた伊丹親興が「寝返った」との情報が入り、入城は中止となってしまったのです。「細川両家記」では

「双方和睦の段遊佐方曖半也。然ば相調。同三月廿八日に筑前守(三好長慶)と伊丹(親興)と尼崎本興寺にて参會也。されば翌廿九日に諸勢被引候也」(両家記)

「情報」は正しかったとみえ、翌二十八日から二十九にかけて遂に伊丹親興と三好長慶が「手打ち」してしまい、義晴側の伊丹城の支えは消滅しました。ここで塩川国満はさらに孤立してしまいました。

そんな中、好奇心旺盛な山科言継が中尾城を見物に訪れます。

「(四月四日)藤中納言、北白川城御番に、此間上洛之由有之間、為見舞北白川へ罷向、柳一荷三種(草餅一盆、栗一包、こさし)遣之、各一盞(さかづき)勧了、次御城見物申候了、近此見事之御山也、御殿以下以上四立(建て)了、上野以下奉公衆卅(三十)被居、御作事(建設)有之、厚飯にて一盞有之、則罷帰了」(言継)

「藤中納言」は朝廷から連絡役(武家伝奏)として派遣された広橋兼秀、もしくは子の国光でしょうか。文の流れから城山の麓の慈照寺あたりに詰めていたようです。ここで(例によって)一杯やってから、まだ工事中の城山に登っています。既に建物が4棟出来ていたことや奉公衆30人が起居していたことなど、短いながらすばらしい記録です。そして城山から京を見下ろしながらまた一杯やっています(冒頭画像下参照)。また、当日

「大原辻に小泉立置候關(関)の者、右京太夫衆卅人計来、両人生害了、馬一疋取之、云々、香西、三好右衛門太夫人数山中に居候衆、云々」(言継)

「小泉」は上述したは三好長慶側の行政府のこと、大原辻は京と近江朽木を結ぶ街道が通っています。

晴元方によって三好長慶方の監視人が殺害されました。「香西、三好右衛門太夫」は昨年江口の戦いでそれぞれ細川晴元方として三宅城、榎並城を守っていた香西元成、三好政勝(政長の子)と思われます。

「(四月十七日)細川右京兆人数、自山中未明出京、西院小泉城へ取懸責之、寄衆卅人計手負、云々、馬廻者一人死、云々、午時打帰了、富小路見物に罷向、小者中流矢死去、云々」(言)

今度はその西院城が細川晴元に攻められました。この城は現在の阪急京都線西院駅の北西あたりにあったとされますが、完全に市街地化していて明確な遺構は地上ではうかがえません。ただしこの城は奇跡的なことに、足利義輝時代の永禄期前半が「景観年代」と考えられている(*注)国宝「洛中洛外図屏風上杉本」の中に描かれています!。中世の城のような、ある意味「殺伐とした無粋なシロモノ」が絵画に描かれる例は極めて稀です。絵はデフォルメされているとはいえ、「さいのしろ」と表記され、実見に基づいたと思われるディテール描写で、四角い水堀に囲まれ、真壁造りで弓狭間を設けた板葺の隅櫓、弓矢を備えた上階で番人が監視している櫓門、竹格子の門扉、主殿、草葺きの土塀等、中世末期の城郭の稀な写生を見ることが出来ます。興味ある方は是非画像検索してみてください。なお洛中洛外図には、こうした「武士の城」以外にも町域や村落を囲郭、防衛する門や狭間を伴なう土塀、柵などの描写に満ちており、戦乱と自衛が当時の日常風景であったことがうかがえます。黒澤明監督の名作「七人の侍」のように、村落が自衛をするのはこの時代の畿内では、極めて当たり前の事実でした。

(*注:今谷明説では天文十六年七月~閏七月。なお私事ながら、自分は20代以降「歴史」というモノから遠のいておりましたが、27歳の時に書店で今谷明氏の「京都・一五四七年」に出会って衝撃をうけ、この本が再び「歴史」にハマる引き金になりました。)

こうして対三好長慶戦が本格的になりはじめた矢先、訃報が入ります。

「(五月三日)一昨夕右大将殿於坂本穴太被薨、云々」「水腫張満」(言継)

「(五月四日)右大将殿今日辰刻御他界治定、云々」(言継)

足利義晴は(三月七日に移動した)近江の穴太で帰らぬ人となりました。病の発症から五ヶ月足らずの逝去でした。そして遺体だけが義晴の念願通り山中越えで京に入り、義晴の仮御所であった中尾城の麓の慈照寺で葬儀が営まれます。

「(五月廿一日)今暁於慈照寺萬松院(義晴)御葬禮有之、云々」(言継)

「(五月)廿一日には御葬の事有べしとて。開闔松田對馬守盛秀奉行して。諸郷諸村の人足を催して。東山の麓慈照寺の中に葬場の普請を致す。代々の御葬禮は北山等持院にて有しに。今はらん亂れたる世中といひ。またこの日来入城の御事のみ御心に被掛し御勢ひの末なればとて。城山の麓にて葬禮し奉る」(穴太記)

「(五月二十一日)今暁於慈照寺萬松院御葬禮有之~中略~諸衆悉(ことごとく)参、云々」(言継)

と、ありますから塩川国満もこの葬儀に駆けつけたのか、あるいは軍事的に孤立した状態なので誰かを代参させたのか。そして足利将軍家の先例通り、

「御骨は摂津國多田院と高野山へと分てこめられ侍り。」(穴太記)

「萬松院殿御遺骨一分事。任先例。被奉納当院之上者。可被専不退之勤行者也。仍状如件。

天文十九閏五月十四日 (松田)頼隆判 多田院雑掌」(多田神社文書)

正月二十日に多田院で義晴回復の祈願、仏事を営んだ塩川国満でしたが、彼が五ヶ月後の五月に多田で迎えたのは義晴の遺骨でした。ただ、伊丹親興までが脱落する中、塩川国満が義晴側に残ったのは、彼の領主としての「多田院の護持」という公的立場も要因のひとつだったかもしれません。このことは次世代の足利義輝と塩川長満との関係にも繋がる気がしますが、この件はまた後日。

また、この同じ「壬(閏、うるう)五月十四日」付けで、京の洛西~洛南にかけての国人「西岡衆」14名が、三好長慶に対して、

「然間京都・摂州御敵、通路堅固ニ差塞候」(野田代秀成等連署書状)

ことを連署で注進しています。京、摂津間の通路を塞ぐということは、当然ながら、京の東北部に布陣する細川晴元や六角定頼と、摂津の塩川国満との連絡を絶つことを意味しますが、日付けを考慮すると、足利義晴の多田院への納骨の日程も(黙認も含めて)意識されているのでしょうか?。

ところで絵師、土佐光茂(みつもち)による、死去直前の足利義晴を写生した肖像画が残っています(足利義晴のwikipedia等参照)。優れた肖像画は「心を写し出す鏡」にたとえられますが、この作品こそまさにその類です。なお、この絵を元に他の肖像画もつくられたようで、翌日の

「(閏五月十五日)土佐刑部大輔光茂来、萬松院殿御影に、御直垂(ひたたれ、着物)之腰古圖に、或かひ、或かはす、如何、又紐之色如何、又大口(袴?)可重哉否之由尋之、予返答、直垂之腰は前皆かう、後腰はかはさる者也、紐之色は浅黄茶之間可然歟、可重大口之由返答、其外暫雑談、一盞勧了」(言継)

有職故実の専門家でもある山科言継亭に土佐光茂が来訪、これから製作する義晴の肖像画の服装洋式に関して質疑応答がありました。そのあとは、例によって一杯やりながら光茂と雑談しています。

土佐光茂は18年前、足利義晴(六角定頼の庇護下で観音寺城の山続きの桑実寺に滞在していた)の発注を受け「桑実寺縁起絵巻」(重要文化財)を製作しています。普通の村落の民家、田園をも含む近江国の「真景」を描いたこの絵巻の「世界観」は印象的で、義晴の監修もあったと思われ、土佐光茂は、近江の水茎岡山城(現近江八幡市)で生まれたという、この数奇な運命の将軍の心の奥をも見抜いていたかと思われます。

なお私は数年前、かつて湖中の島であったという水茎岡山城跡に登ったことがありますが、遺構が良好な最高部の大山(187m)から、木々の間に見た琵琶湖の景観が悲しくも見事でした。また、山頂の郭面の表土の隙間から、綺麗な玉砂利(円礫)を敷き詰めた一角が垣間見えたのも印象的でした。

[それでも天文十九(1550)年後半、中尾城を足がかりに戦いは続く]

そして六月九日、将軍足利義輝(当時義藤)が亡き父の代わりに中尾城に入ります。

「公方様去(六月)九日。至勝軍被遷御座。然干今敵京表令居陣。此砌(みぎり)各被相談。於忠節者。尤可為神妙之旨上意候。別而馳走本意候。猶香越後守(香西元成)。三好下野守(政勝)。塀和(はが)道祐可申候。恐々謹言。

 六月十四日 (細川)晴元判  粉河寺衆徒中」(後鑑所収古文書)

細川晴元は香西元成、三好政勝らを使者に立てて紀伊の粉河寺衆徒にも参陣をつのっています。

「(六月廿一日)寅刻(午前4時)東山霊山(正法寺)悉放火、坊五残、云々、昨日号平松時衆為總打殺、云々、仍自山上山科七郷衆、自山下宇治俵衆、深草衆等、以猛勢取懸、云々、但本堂無事、云々、僧衆無殊事、言語道断、不可説題目共也」(言継)

いきなり東山の正法寺(時宗)が焼き討ちされましたが、長慶対晴元の戦いとは無関係で、「平松と号する時宗」によって上記の郷村の誰かが「總打殺」された事への復讐のようです。15世紀以来、京近郊の郷村は行動的な「土一揆」で有名です。

「(七月八日)自坂本細川右京太夫馬廻り以下、悉(ことごとく)吉田、浄土寺、北白川等へ出張、云々、無殊(ことさら)事」(言継)

細川晴元軍が京北西部で示威行為をしたようです。こうした度重なる「ちょっかい」に業を煮やした三好長慶は墜に大軍を繰り出します。次の記事が前回お伝えした、「日本初の銃弾による死者」が出た戦いです。

「(七月十四日)三好人数東打出見物、禁裏築地之上、九過時分(正午)迄各見物、筑前守(三好長慶)は山崎に残、云々、同名日向守(長逸)、きう介(三好弓介、長虎)、十河民部太夫(一存)[三好弟]以下都合一萬八千、云々、従一條至五條取出、細川右京兆(晴元)人数足軽百人計出合、野伏有之、きう介輿力(与力)1人鉄|(縦棒)に当死、云々、東之人数吉田山之上に陣取不出合、江州衆(六角勢)北白川山上に有之、終不取出之間、九過時分諸勢引之、山崎へ各打帰、云々、細川右京兆人数、見物之諸人悪口共不可説々々々」

三好側の大軍に比べ、劣勢の細川晴元は「足軽百人計出合、野伏有之」とありますから「軽歩兵部隊による、ゲリラ戦や狙撃」で迎え撃ったようです。そして晴元が一年前から温めていた鉄砲部隊が鉛の銃弾に「モノを言わせた」のでしょう。

「禁制 本能寺

一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事

一、陣取事、付、放火事

一、矢銭相懸兵粮事、付、殺生事

右條々、堅令停止訖、若於違犯輩者、可処厳科者也、仍如件

天文拾九 七月日     右近大夫(花押)」(本能寺文書)

この京での市街戦から身を守るべく、この七月に本能寺に発給された「禁制」が残されています。「右近大夫」というのは誰なのでしょう(この頃晴元側であった丹波衆、宇津頼重も「右近大夫」ですが)。なお、晴元が昨年本能寺経由で鉄砲を入手したことは前回触れました。

「(八月二日)今日細川右京兆越前へ下向、云々」(言継)

晴元が越前の朝倉氏に味方になってくれるよう依頼したのでしょうか。

「(八月十八日)東山之細川方之衆、今朝竹田を亂妨(乱暴)放火、云々、但可然者六人討死、云々、竹田者一人死、云々、以外之[東衆]手負、云々、藤中納言無興之至也、不知其故、不可説々々々」(言継)

竹田は「竹田の子守唄」で有名な、京の東南に位置する鳥羽近くの集落です。1970年代の発掘調査で、堀を伴う居館跡や武具などが検出されましたが、三好長慶方の誰かが駐屯していたのでしょうか。あと、武家伝奏の広橋中納言がなぜか、ご機嫌斜めのようです。

さらに半月後、晴元、義輝軍は大戦を予期してか、中尾城の補強工事に入ったらしく、九月二日付けで東寺雑掌に対し

「寺境内並門前地下中藪役竹千五百本、至東山御城」(東寺百合文書、室町奉行人松田盛秀折紙)

と、竹千五百本の供出を命じています。確かに樹木は山中では豊富にありますが、竹は低地から供給するしかありません。そして予想通り、十月から戦闘が本格化しました。

「(十月廿日)自昨日攝州衆上洛、云々、今日自草々禁裏之東至五條、十河、芥川、三好日向守以下二百餘計打出、江州之人数二萬計、東之山陣取、其内永原衆、其外細川方之衆二千計河原へ打出、八時分(午後2時)迄野伏有之、東衆事外被逐候了、無殊事、左右方一人つつ死、云々、手負者両方数多有之、云々」(言継)

「(十月廿一日)今日も江州之人数東之山上に陣取有之、云々」(言継)

「(十一月十九日)自暁天、三好以下攝州、丹州、河州之人数四萬計取出、東山、聖護院、岡崎、吉田、北白川、浄土寺、獅子(鹿)谷、田中、悉不残放火了、城きはにて野伏有之、午時(正午)打帰了、細川衆後に卅人計河原打出了」(言継)

そして三好長慶方は足利義輝、細川晴元側の拠点である近江にまで遠征を始めます。

「(十一月廿日)三好以下人数山科へ打越、大津、松本(現大津市)以下放火、云々、三好人数五人討死、云々、山科に陣取、云々」(言継)

「十一月日。三好筑前守志賀郡入。前勢大将(松永)甚介等数万打入処。松本人衆三百計打出逢坂相戦。三好方切劣人数十貳人打死。東西敗北散々也。道具皆以捨云々。然雖案内者依有之。篠原越自山中打入大津。松本大都放火之。即時退相之」(厳助)

この「背後」への攻撃で義輝、晴元側はいよいよダメだと悟ったのでしょう。

「(十一月廿一日)今暁東山武家(足利家)之御城落、自火云々、坂本へ奉公衆細川方各被越、云々、大樹(足利義藤)者堅田へ被移御座之由風聞、三好人数北白川以下罷向、一昨日之焼残又放火乱妨、云々」(言継)

「(十一月日)白川公方御城内落居放火云々」(厳助)

城をおそらく自焼(じやき・降参の合図でもある)して、近江に退散してしまいました。麓の北白川の集落も三好側の「放火乱妨」を受けたようです。このような記事を読むと今日、慈照寺の銀閣や東求堂が国宝として残存しているのが奇跡のような気がします。

「(十一月廿三日)東山武家御城、今日三好人数罷越、わる(割る:破城)と云々、御無念之次第也」(言継)

三好軍は落城二日後、中尾城に入り、城の切岸(ノリ面)や虎口の造成を崩すなどの破却行為(すぐに使えないように)をおこなったようです。これは「敵は滅んだ」という京の町へのアピール(藤木久志、伊藤正義編「城破り(しろわり)の考古学」)でもありました。

この城はわずか九ヶ月間という短命でした。また山科言継が心情的にも足利義輝側であったことがわかります。

中尾城が消滅し、一旦近江に退却した足利義輝と細川晴元ですが、まだまだ終わりではなく、このコンビはさらに数年「モグラたたきゲーム」のごとく、三好長慶方に向けて「ちょっかい」を出しまくり、塩川国満もそれに付き合うわけですが、その件はまた後日。

[中尾城跡に登ってみました]

ここで、いきなり西暦2017年に戻りますが、さて去る9月23日、私は27年ぶりに中尾城跡に登りました。蒸し暑い曇り日でしたが、「大文字山」に近いためか、以外と登山客が多く、城跡で何人かの方と楽しい話も出来ました。

今回の私の目的は「文献に書かれたような鉄砲に対処した壁」の痕跡はあるのだろうか?ということでした。

城跡は遺構は良好ながら、将軍家がらみとはいえ、さすがに短命な城だけあって、地表面には遺物がほとんど見られず、わずかに極薄手の土師器皿小片及びやはり極薄手の白磁(皿?)の小片だけでした(冒頭画像③)

このあたり、東山如意ケ岳から北の比叡山山頂にかけての一帯だけは、暗色の泥質岩、チャート主体で構成される京都盆地を取り囲む山地とは違って、珍しくも白っぽい「花崗岩体」で出来ています。麓が石英、長石主体の「白川」扇状地を形成したり、「雲母(きらら)坂」なる山道があったりするのもこの花崗岩体に由来します。当然中尾城跡一帯にも白っぽい花崗岩の石粒や、淡い黄灰色の真砂土がみられますが、最高部の主郭中央部(下段画像⑨)やその付近斜面にだけは、暗茶褐色~赤橙灰色の「変な石」がわずかに散在していました。

よく観察するとこれらは石ではなく「焼土」なのです(下段画像左)。

木造建築に欠かせない「土壁」は建物が廃絶すると再び「土」に帰りますが、建物が強火で焼かれた場合、壁土自体がちょうど「土器」みたいに焼成され、壁構造を「保存」したまま崩れ落ちます。まさに文献通りにこの城が「自焼」もしくは「放火」されたことがこの焼土の存在から証明されるわけです。

下画像を見ていただくと、これらの焼土の表面には、かつての壁面であった「平滑面」や壁裏の支えである「小舞竹」「間渡竹」(下段画像⑩)の痕跡の雌型(緑線)や、「つなぎ」の為に練り込んだ植物繊維「スサ」などが抜けた空隙(紫色矢印)が見られます。スサは藁のようですから、里から徴収したのでしょう。

(竹の痕跡は、上記の天文十九年九月に東寺に対して「竹千五百本」の供出を命じた文書と合わせると感慨深いものがあります。)

特に下段左下のA(⑥、⑦)は直角の「出隅」の部分で、内側の粒度の粗い「下塗り」と外側の細粒の「上塗り」に分かれています!。これは「大壁(おおかべ)造り」、つまり「真壁(しんかべ)造り」(下段画像⑩)のように建物外面に柱を剥き出しにせず、土蔵や城郭建築で見られるように、柱ごと土壁で塗り込めてしまう技法です。(窓や狭間のエッジの可能世もあります。)火災や、それこそ「鉄砲」を意識した城の壁としては適切です。ただ「萬松院穴太記」から推測されるような、壁土の間に石を入れたような構造や、礫が郭付近にたくさん散らばっているような状況は地表からは一切見られませんでした。

壁土の材質は真砂土で、山の土を現地調達したのでしょう。焼土は、まだ地表下に多く保存されているとみられ、今後、発掘調査がなされることを期待しましょう。

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[塩川氏が三好長慶に服してゆく過程で]

中尾城が落城した後も、塩川国満は摂津~丹波地域にかけて三年間、少なくとも天文二十二(1553)年八月十八日までは足利義輝・細川晴元側として軍事的に抵抗(両家記、高代寺日記、波多野家文書など)しています。しかし、やや微妙な動きも見られます。どうやらこれは、義輝が三好長慶と和睦したり、あるいは決裂したり、さらには「面従腹背」したりする動きに呼応するように思えます。

煩雑なので詳細は避けますが、義輝と長慶は永禄元(1558)年十一月に最終的に和睦します。一方、強硬派の細川晴元はこの時点で義輝から離反します。

永禄二(1559)年二月に織田信長が上洛、足利義輝に拝謁しています(言継)。そして四月に

「三好長慶多田院ニ参詣当家(塩川)へ案内参会ニ不及」(高代寺日記)

という実に微妙な記事があります。長慶が多田院に参詣することは、足利義輝を将軍に立てた三好政権に塩川国満も遂に服したのでしょう。しかし、「参会ニ不及」というのは外様扱いというか、無言の野党という重苦しい感じです。

一方この時期の塩川氏と能勢氏の関係ですが、まだ燻り続けるものがあったようです。

「(永禄二(1559)年)九月十五日於枳弥宮(森上の岐尼神社)六瀬○軍評定」

「同十七日六瀬○平尾中村と戦」(以上、役人記録)

能勢の西郷と塩川方の川辺郡六瀬(むつせ、現・猪名川町杉尾~笹尾付近)の平尾氏、中村氏との間で戦闘があったようですが、このあたりが打ち止めになったようです。

安定してゆく三好長慶政権下で、能勢氏との戦争はこのあと十年間途絶えます。

永禄四(1561)年三月、足利義輝は京の三好義興(長慶の嫡男)邸宅を訪れます(三好亭御成記)。この大掛かりな式典において、摂津衆の(可能性のある)名前としては池田八郎三郎、伊丹、三宅、安威、河原林、能勢勘左衛門尉、野間新次郎が見られますが、塩川はさすがにありません。今や冷や飯状態でしょうか。

さる天文十七(1548)年、義輝が京の細川晴元邸を訪れた時、「塩川伯耆守」は三好宗之とともに「惣奉行」として名を連ねていたのです(天文十七年細川亭御成記)。

五月には細川晴元が遂に長慶の軍門にくだり、富田普門寺に幽閉されます。

永禄六(1563)年三月に晴元が死去。八月には三好義興が死去。翌永禄七(1564)年七月、遂に三好長慶まで死んでしまいます。ただし長慶の死は三年間伏せられたようです。

三好政権は三好三人衆によって運営されますが、将軍親政をめざす足利義輝との確執が生じ、永禄八(1565)年五月十九日、義輝は三好、松永軍に殺害されてしまいます。

ここにひとつの時代が終わりました。

(この三好三人衆の一人、「三好政康」と誤伝されてきた人物が実は三好政長の子で、細川晴元と共に、三好長慶に執拗に抵抗してきた三好政勝(天野忠幸氏による)であったというのも歴史の皮肉でありましょう。)

[織田信長が畿内に進出、なびく塩川長満と、しばしば抵抗する能勢氏]

こんな中で塩川長満は永禄八(1565)年八月「伯耆守従五位上」に任官(高代寺日記)しているので、この時国満から家督を継いだようです。

永禄九(1566)年「九月能勢頼幸ヨリ栗松茸至ル」(高代寺日記)

まだ能勢氏との平和は維持されています。それにしてもこの記事、塩川氏と能勢氏間の出来事の中で最も微笑ましい感じがします。

永禄十一(1568)正月、塩川長満は、「国満にかくまわれていた足利義輝の娘」と婚礼(高代寺日記)します。

塩川長満と足利義輝の関係の深さは「高代寺日記」に幾度か記されており、奇異な印象を受けるかもしれませんが、本稿で見てきたように、中尾城の戦い前後以来の塩川国満の献身ぶりからすると、全く自然な成り行きだったといえるでしょう。

また、この長満夫人の母親は「土佐ノ一條房家ノ落胤辰子」とあり、織田信長と足利義輝の関係なども考え合わせると、後年塩川長満の娘が織田信忠に嫁いだり、さらに一条(條)内基(房家の孫)の正室になったり(荒木略記)する伏線がここにあるような気がします。

よって、必然的ながら、永禄十一年秋の、織田信長による上洛~摂津平定以来、塩川長満は「忠実な織田方」、能勢氏(頼幸~頼道)は三好(三人衆)側と分かれて、両者が戦闘を再開します。これらの史実もまた、「多田雪霜談」によって天正十四(1586)年頃を舞台に置き換えられて、天文年間の戦いと合成されています。

では以下に、織田信長の上洛以降の、能勢郡と塩川との紛争を時系列でたどってみましょう。

「永禄十二(1569)年三月四日塩川と合戦」(江戸時代中期の「能勢郡旧領主並代々地頭役人記録」・以下「役人記録」と略す)

前年の永禄十一年九月に織田信長が遂に上洛。十月には足利義昭の奉行名で多田院に「禁制」が発給されており、塩川氏は織田軍といくらか戦闘を交えた後に降服したようです(岡山藩塩川源介家譜)。上記「三月四日」の二日前、織田信長の摂津支配奉行たちによって、多田院に対して「御用脚」(矢銭賦課?)が免除されており(多田神社文書)これも上記の能勢側との合戦に関連するかもしれません。

新たに「織田方支配下に属した塩川氏」と、「三好三人衆方であった能勢側」との戦いが始まったのでしょう。

なおこの二ヶ月前の永禄十二年正月四~六日には、前年織田信長が京に擁立した足利義昭の御所を三好三人衆方が急襲するという「本圀寺(ほんこくじ)の戦い」があったばかりです。この時池田勝正、伊丹親興など摂津衆が三好側と戦っていますが、塩川氏に関しては「高代寺日記」に不思議な記事があるのです。

「(正月)十六日庚申吉日兼テ用意シ塩川孫大夫ヲ軍ノ将トシ吉大夫民部丞勘十郎以下四百余人ヲ以阿劦勝浦迄出張シ三好下野帯カ十河(そごう)等ヲ交合戦勝利アリ但孫大夫討死其日伯劦(塩川長満)感状アリ~略」

この「塩川勢が三好の本拠である阿波勝浦に攻め入った」という記事は、他に裏付けを見たことがなく、さすがに「高代寺日記」擁護派である私もこの記事に関しては「捏造ではないか?」と、懐疑的であったのですが、近年(2015)猪名川町で開催された「多田院御家人の家 ―槻並 田中家―」のパンフレットをみて驚きました。「正月十四日」付けの塩川長満によるまさにこの「勝浦合戦」の感状(写しか?)が載っていたのです!。パンフレットの解説では「長満」の署名があることだけから文書が天正年間のものと推定され、「勝浦」については「場所不明」とあります。せっかくこの「高代寺日記」永禄十二年の阿波勝浦遠征記事と符号するのにもかかわらず、両者の比較検討がまったくなされておらず、「相変わらず「高代寺日記」は無視されてるなあ…」というのが残念です。

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話が逸れるので今は深入りしませんが、江戸初期である承応年間(1652-54)頃に編集された「高代寺日記(下巻)」を通読すると、編者の性格が、極めて「生真面目」で、時折ミスしたり、「俗書記事」から引用してしまったり、政治的に配慮してか、無意味な徳川氏関連の記事を載せてしまったりはしていますが、編者が決して、小瀬甫庵や「多田雪霜談」作者のような「物語作家(悪くいえばホラ吹き)」ではないことがわかります。

今、確実に言えることは、編者が百年近く前の、田中家、もしくは岡山藩の塩川家子孫などに伝わるこういった古文書や残された日記などを丁寧に取材して「高代寺日記」を編集している、ということです。

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さて、脇道が長くなりましたが、この永禄十二年三月に能勢氏と合戦した塩川氏が「信長・義昭方」であったことはまちがいないでしょう。

「元亀二辛(1571)十二月二日織田七兵衛尉信澄乱入」(役人記録)

織田信澄が能勢に攻め入っています。詳細は不明ですがこの元亀二年頃は、織田信長と足利義昭の確執がかなり表面化しており、前年の元亀元年夏には三好三人衆と組んだ「石山本願寺が織田方へ叛旗」をひるがえし、織田と浅井・朝倉氏との戦争が勃発、織田方の城々は「塩河」をも含めて「何れも堅固に相抱へ」(信長公記)という軍事的緊張が高まりました。元亀二年九月には織田信長による「比叡山焼き討ち」がおこなわれたばかりでした。

能勢郡に石山本願寺に呼応した勢力がいたということでしょう。

なお「能勢物語(長沢本)」ではこの元亀二年に能勢頼幸から「能勢十郎兵衛頼言(頼道)」への家督相続の際に「御家騒動」があり、その混乱に乗じて「賊徒」が能勢氏の丸山城を急襲、市場に火をかけ、「田尻の城」を攻め滅ぼしたという話があり、この織田信澄軍の襲来が元ネタになっているかもしれません。

また前述しましたが、「多田雪霜談」では元亀元(1570)年,「織田信澄」によって月峰寺をはじめとする能勢~有馬郡の多くの山岳寺院が焼かれたとしています。

その後、能勢は織田方の一勢力として服従、少し安定した時代になるようです。

天正二年、伊丹城の伊丹忠親を滅ぼして城を有岡と改め、信長から「摂津の一職支配」を任されたのが荒木村重でした。この村重支配の元、「荒木略記」には「能勢には能勢十郎」がそのまま据え置かれたと記されています。「能勢十郎」とは「能勢十郎兵衛頼道」のことです。しかし、この三年後、

「天正五(1577)年丑八月十日塩川乱入[長満]」(役人記録)

これも謎の記事です。塩川長満が能勢に攻め入ったようです。この時期にも、能勢郡のいずれかに石山本願寺方についた勢力がいたということでしょう。この頃の史実としては、直後の八月十七日に、大坂石山本願寺を包囲していた織田方の松永久秀が突然天王寺砦を引き払って謀反、信貴山城に篭城すると(信長公記)いう事件が発生します。能勢郡と呼応していた可能性もあるかもしれません。松永久秀は十月十日に信貴山の城にて自害、滅亡します(信長公記)。

そして本連載にて何度も触れたように天正六(1578)年十月二十一日、織田方の摂津一職である荒木村重による毛利・本願寺方への寝返りが発覚、塩川氏以外の摂津衆がすべて従います。塩川氏は「四面楚歌」状態で荒木方から専制攻撃されます(穴織宮拾要記、陰徳太平記)。

信長は十一月九日に西へ向けて出馬、救援に向かいつつ「十一月日付無し」で「塩川領中所々」に「禁制」を発給します。これは

「これから向う塩川領地内で、織田軍が迷惑をかけないことを約束する」

という安全保障書で、おそらく急拠多数発給されたと考えられます。このあたり、信長軍は行き届いています。このうちの一通が中山寺(現・宝塚市)に残っています(中山寺文書)。当時の中山寺は、山麓にある現在地とは違い、山の8合目あたりのまさに「中山」(奥之院付近)にありました。平安時代以来の伽藍は荒木側によって灰燼に帰しました。この禁制文書の緊迫感は「摂津で孤立している塩川氏に、織田信長が只今救援に向っている」という状況を理解してはじめて生きてくるものなのです。

「信長公記」によると、信長が一歩一歩西進するなか、東から順番に、高山右近、中川清秀、安部ニ右衛門が降服して「詫び」を入れに訪れるところが面白いです。彼らは織田方から歓迎されます。初期に降服する者は「使える」からです。能勢頼道が「詫び」に来るくだりはありません。最後までねばるからです。ついでながら「塩河伯耆」も詫びに来ていません。始めから織田方だったからです。で、有岡城包囲のまま年が明けて

「天正七年三月 織田信澄再乱入」(役人記録)

織田家の実質的な対能勢方面の司令官は、後年中川清秀の後裔として明治まで続いた豊後竹田藩の「中川史料集」などにもよると、この織田(津田)信澄であったようです。

四月二十八日には、以前触れましたように、織田信忠ら「御連枝衆」による能勢での「耕作薙捨」(信長公記)が行われます。これは織田家督としてのパフォーマンス的側面が大きいでしょう。またこの日の晩に信忠が塩川氏の獅子山城に泊まって、寿々(鈴)姫と対面した可能性もあることを以前推察しました。織田家の「若社長」としては、今回踏ん張ってくれた「下請け会社」に赴いて、なんらかのねぎらいをするのが筋というものでしょう。

[石山本願寺が講和→能勢氏は塩川長満に謀殺されて遂に滅亡する]

翌天正八(1580)年の三月から八月にかけて遂に石山本願寺が講和に応じ、「石山合戦」が終結。講和のために能勢頼道や野間氏が塩川氏の獅子山城に訪れますが、おそらく信長の密命があったのでしょう。「騙し討ち」のかたち(織田家がよくやるパターン)で皆暗殺され、ここに能勢氏はいったん滅亡するのです。以下諸史料で日付等に食い違いがありますが見ていきましょう。

「天正八年庚辰三月八日従塩川伯耆守以和儀招干山下城能勢諸将被毒殺今年より領知没収セラレ則伯耆守当郡ヲ御代官○て収○」(役人記録)

能勢氏滅亡後は塩川長満が「織田家領能勢郡」の代官となりました。塩川長満には他に荒木重堅の領地だった有馬郡も与えられ(有馬「善福寺文書」、岡山藩「塩川家譜」)、またすでに荒木村重から没収した木代(現・豊能町)の石清水八幡善法寺領の代官職が与えられています(石清水八幡文書)。今回の「踏ん張り」に対する「骨折り料」といえますが、1年間限定だったらしく、翌年には有馬郡、能勢郡は織田家に収公されています。

以下、能勢氏誘殺に関する他の記事を見てみましょう。

「八月野間三郎資兼能勢仁右衛門頼幸山田彦右衛門重友ヲ招信長ノ内ヲ告ル 未果九日ニコレヲ討殺ス」(高代寺日記)

この記事は「天正元年」の項に入っていますが、編者が「元年」と「八年」を間違えたと思われます。とすれば「頼幸」は「頼道」でしょう。日付も上記「役人日記」とは違います。ここで注目するのは「野間三郎資兼」も殺されたことです。彼が野間城の主だったのでしょう。(本稿のはじめに記した野間城にやっと戻って来られました。)

他に能勢側の史料として、能勢町史所収の「下間頼竜書状」によると、「能勢郡倉垣の奥殿」が、(天正八年)「卯月十七日」に石山本願寺に「なまり四拾斤、金一分、刀一腰、大鉄砲一ちゃう」を差し入れています。同町史によると、これは本願寺顕如が三月に退去後、八月まで教如が篭城した間の出来事で、能勢郡が本願寺方として最後まで粘った状況がうかがえるものです。

一方、江戸初期に成立したと思われる能勢側の軍記物「能勢物語」を見てみましょう。

「能勢物語」(長沢本)における展開では、能勢氏が天正六年以来の「荒木村重の反乱」に組したことは一切記されておらず、当主「能勢頼言」はずっと「反織田」でいたように記載されており、丹波の「八上部の城主波多野経尚」を支援し織田家の部将「明智日向守」を敵視しています。「多田の塩川伯耆守長満」が織田方に付くよう説得しますが織田信長が「将軍(足利義昭か?)の御敵」ということで従わず、密かに「大坂の本願寺え鉄砲拾五挺・粮米百石進せらる」とあるように、心情としては「反織田」ながら中立的沈黙(これは実質許されない)をしていたように書かれています。しかしながら、「織田信長の威勢日々盛んに」なり遂に塩川長満の説得に応じて「天正八年九月十七日」に「山下の城」に招かれて接待中に襲われて討ち取られてしまいます(この日付は「寛政重修諸家譜」所収系図と同じです)。この時、多くの能勢家の被官達と共に「野間豊後守資持」や「国崎次郎左衛門子息弥次郎」の名前があります。後者の「国崎」は川辺郡に属しながらも能勢側の勢力圏内であったことがわかります。

塩川長満は能勢諸将を討ち取ると、その日のうちに国崎を経て川辺郡黒川と能勢郡野間の境である「大槌峠」まで攻め入ります。防戦にあたった能勢頼次(主人公)は、家督である能勢頼重に対して、野間の「地下」(平民)らにあたかも大軍が大槌峠を守っているかのように「カモフラージュ」させ、もし峠が塩川軍に破られたら、手薄な野間城は「早々城に火をかけ」つまり自焼して撤退するよう進言しています。

戦いの結果、能勢側が大槌峠を守りきり、塩川長満は「国崎の館を焼亡」して退却しますが「明れば天正八年九月十八日(本願寺)宗徒の人々山下にて討れぬ」とあり、丹波方面から「明智日向守が家来河原長右衛門」が攻めてくるというので、能勢氏は城をあけて落ち延び、ここに能勢氏は滅亡します。

(なお「多田雪霜談」では例によって、「天正十四年四月十七日」に塩川国満が大槌峠から野間城を攻撃するくだりになっています。双方に盛んに銃撃戦をやらせています。年代や詳細はともかく、大槌峠をはさんで塩川側と野間・能勢側が戦ったことは史実かもしれません)

ところで、「野間城が落城時前後に炎上」したことは事実だと思われます。というのは現在、野間城跡の山上の広い主郭面上全体や周辺斜面上において、(中尾城の項で述べた)木造建築の壁土が焼けた「焼土」が所々散見されるからです。なおこういった「焼土」は野間城以外にも能勢町の上杉城、上杉下所城、平通城、田尻城、宿野城など、能勢系の城跡に多くみられます。能勢氏が天正八年に「毛利・本願寺方」として降服の際に「自焼」したか、滅亡後の「摂津一国破城」(多聞院日記)の時点で、火をかけられたのではないか?と私は勝手に想像しています。

また、上記「宗徒の人々山下にて討れぬ」に関しては

「七月大坂門徒光佐應勅命城ヲ開主雑賀此時東畝野土民広根ノ奴出奔ル伯劦(長満)効?力一族六人ヲ捕テ梟之民部奉行タリ」(高代寺日記)

石山本願寺と織田方で和議が成立、光佐が紀州雑賀に退いた時、塩川氏の足元、東畦野の一向宗徒が反乱、鎮圧された模様です。摂津近辺ではこの他に、一向宗寺院を中心とした囲郭都市「寺内町」として、「小浜」(現・宝塚市)や「塚口」(現・尼崎市)などの例がありますが、こうした寺内町は必ずしも石山本願寺方として抵抗したとは限らず、しばしば織田方の駐屯地になりました。(織田方の根来衆の塩川全蔵(国満の長子・後の運想軒)が駐屯した河内の「大ヶ塚(だいがつか)」など。高代寺日記)。

あと、「能勢物語」で興味深いのは、塩川氏の地元で忘れられている「塩川長満」という名前が、一応「悪役」ながらも能勢側で記憶されていることです。

さて、ここにもうひとつ、同じ「能勢物語」でも「真如寺本」というものがあります。こちらの方は「長沢本」より、さらに脚色性が強く、天正八年には能勢氏は滅亡せず、妙見山の「為楽山城」に篭り、北隣の明智光秀と結託して天正十(1582)年の「本能寺の変」に援軍を差し出し、信長への宿怨を晴らしたりしています。しかし結局これが仇となって「秀吉の命を受けた河原長右衛門」に攻撃されて能勢氏は天正十年に離散、滅亡するストーリーになっています。

[「多田雪霜談」の舞台となった天正十四年における能勢郡の本当の領主は?]

それはともかく、「多田雪霜談」にあるような「天正十四年(1586)における塩川氏VS能勢氏の戦い」など、そもそもこの時点で領主である能勢氏が居ないわけですから成立しないのです。せっかくですから、この機会に以下、実際の能勢郡の領有変遷を挙げてみます。

能勢郡は天正八(1580)年に塩川長満が代官(役人記録、岡山藩塩川源介家譜)した後

「天正九(1581)年辛巳御代官菅谷九右衛門」(役人記録)

菅屋(長頼)は信長直属の官吏、奉行、馬廻りで(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」「信長の親衛隊」など)、これは能勢郡が織田家の蔵入(直轄)地になったことを意味します。菅谷はこの頃、敗残した荒木重堅領であった有馬郡の領地分配にも関わっており(余田文書)、有馬郡の方は塩川長満領を経て(善福寺文書)、結局伊丹城に入った池田元助が領有、もしくは代官(同)するようです。上記「能勢物語・真如寺本」では能勢氏領内に「尼崎城の池田信輝(恒興)」が制札を立てる話があります。これらから、有馬郡、能勢郡が、荒木氏滅亡後に「摂津一職」を継いだ池田恒興・元助父子に領有、もしくは代官されたことがわかります。なお菅屋長頼は天正十年に本能寺において織田信長と運命を共にし、ここに織田家は重要な資産管理者をも失うことになります。

(なお、私はこうした織田家による能勢支配の拠点のひとつが、塩川氏が天正元年に滅ぼした能勢郡(現・豊能郡)吉川氏の城跡を再興した城(吉川井戸城)ではなかったかと想像しています。城跡は既に国道477号線によるノリ面切取り工事で95%が消滅していますが、「皮一枚」残る遺構や遺物から、主郭は総石垣瓦葺きの近世城郭だったことがわかります。瓦は天正前半の技法で、(丸瓦凹面はすべてコビキA)、軒平瓦は「宝珠の中心飾」を持つタイプがあり、これは有岡(伊丹)城や三田城に同氾のものがあります。城跡には巨大な築石の転石や大量の裏込め石がゴロゴロ散乱しており、その分布から、地下には安土城に匹敵するような巨石を用いた石垣の根石がまだ長さ30mばかり残存していると(!)確実視されるのです。将来の発掘調査に大変期待しています)

天正十年六月の本能寺の変後、山崎の戦いが行われます。この戦いは一般には「中国大返し」で急行した羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破ったかのように見られていますが、実際に直接明智軍と戦闘を交えたのは、中国攻めの為に集結していた攝津衆だったのでした。山崎に接する高槻を領有していた高山右近を先鋒として、中川清秀、池田恒興、そして塩川氏が明智軍を下し、秀吉は後から追いついたようです。

「塩川氏」の影が薄いのは、どうも長満が病気だったのか?前年以来表舞台に出ず、武田攻めや中国攻め、京での「馬揃え」など軍役や公式行事はすべて家老の塩川吉大夫、塩川勘十郎コンビが担っており(信長公記ほか)、この山崎の合戦も塩川軍を指揮していたのは「塩川党二三人但是は小身人也」(川角太閤記巻一)とあるので、やはりこの二人が率いたのでしょう。このためか(?)塩川氏の山崎参戦は秀吉の広報メディアである「惟任謀反記」などで「等(ら)」などと名前が省略され、塩川氏の名前はこの合戦を描いたほとんどの軍記物から消えるのです。

「(天正十年)御代官高山右近殿」(役人記録)

それはともかく、その直後の「清洲会議」で、山崎で先鋒を務めた高山右近に四千石が加増されますが、その内わけが「能勢郡之内参千石、江州佐久間分之内千石」(塚本文書)でした。「佐久間」は天正八年に追放された旧佐久間信盛領と思われ、つまりこれらは収公された「織田家の直轄領から捻出された」ということでしょう。なお文書の署名は会議に出た丹羽長秀、羽柴秀吉、池田経(ママ)興、そして柴田勝家です。能勢郡残りの五千石あまりはまだ池田恒興が押えていたのでしょうか。

なお高山右近のことをしばしば記しているポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも

「ジュスト(右近)には、本国高山に隣接せるノシノコレ(能勢郡)の収入を与えたるが、1年2万スクードを収入すべし」(日本耶蘇会年報)

と記しています。

しかしながら、羽柴秀吉は天正十一年から、摂津国を乗っ取りはじめ、五月に池田氏を美濃に、天正十三年には高山右近を播州明石に、中川秀政を同じく播州三木に追い出し、摂津一国を含む能勢郡は秀吉のものになります。同年「九月朔日」「能勢郡一職八千五百石」が秀吉子飼いの脇坂安治に与えられますが(龍野図書館所蔵文書)、脇坂氏は程なく大和高取に転封となります(脇坂記)。

さらに天正十五年、秀吉は九州征伐で薩摩の島津氏を降服させ、遠方の島津氏を上京させるための「在京賄料」として、摂津、播磨などから合計一万石を与えます。この中に秀吉の直轄領である能勢郡「五千百弐拾六石九斗五升」が含まれていたわけなのでした(島津家文書)。この島津領の中には能勢氏の拠点であった地黄村もあります。江戸時代の「多田雪霜談」の作者はこうした「能勢氏の空白時代」を知らなかったとみえ、天正十四年に能勢氏を苦し紛れに「島津氏の旗下」などと意味不明の領有形態で登場させています。

さらに下って慶長五(1600)年の関が原の戦いで、西軍に属した島津氏は敗れて能勢領は没収、東軍で徳川家康に仕官していた能勢頼次が功を挙げ、奇跡的に旗本として能勢三千石に返り咲くのです!。まさにめでたし、めでたしという感じです。

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[ここでやっと冒頭の野間城で見つけた銃弾の話に戻ります]

お待たせしました、というか、もう忘れてしまわれたかもしれませんが、冒頭画像左上の半球の弾丸の件です。画像が遠くてスクロールが大変(汗)ですが。

玉は大きさ、重さもちょうど獅子山城東五郭で表採したものの半分で、けっして衝突時に「ひしゃげた」ようなものではありません。平面部も滑らかに「仕上げられて」いるようです。

とりあえず宇田川武久氏の「鉄砲と戦国合戦」(吉川弘文館)を見てみると、いきなり冒頭のカラー写真右下に半球状の鉛玉の写真が掲載されていました。この解説として同書の「各種玉の開発」の章には

「昭和四十九年(1974)、上杉氏の居城春日山城に近い長池山(新潟県上越市)から多数の遺物に混じって玉24個が出土した。材質は青銅、鉛が主で鉄の玉はないが、筆者の観察によればこの中に半球の玉が1個あった。この遺跡は出土品の調査から慶長以前であることはまちがいなく、天正六年(1578)の御館(おたて)の乱でもおかしくはないらしい。」

とあります。長池山出土の玉は野間城で見つけた玉に比べて幾分「ひしゃげて」いるようにみえます。また天正前半期にはこうした半球の弾丸が出現していた可能性があるということで、天正八年に滅亡した野間城で見つけた弾丸との整合性も感じられます。

前回の連載で、米軍のブローニングM2機関銃における普通弾、徹甲弾、焼夷弾、曳光弾など様々な弾丸の種類をみて、「さすがは近代の銃弾だなぁ」と感心したのですが、どうしてどうして、上記の宇田川氏の「各種玉の開発」の章を見ると、戦国時代も後半の天正後期~慶長頃になると複数の専門鉄砲技術者によって、実に多くの目的別弾丸が考案され、兵法書に記録されているのです。銃砲産業は天文年間からざっと4~50年、需要と供給の中で急成長した工業分野とも言え、「大砲」よりもこういった「細部へこだわる」性格は、いかにも日本人(Very Japanese)という感じがします。

宇田川氏が、こうした異種の弾丸の古い例として挙げられているのが「信長公記」の永禄元(1558)年七月十二日の浮野の戦いの記事で、橋本一巴(信長の鉄砲の師匠)による

「一巴も二つ玉をこみ入れたるつつ(筒)をさしあててはな(放)し候へば」

とある記事で、宇田川氏はこれを「玉を二個込めた」(鉄砲と戦国合戦)、あるいは「普通の鉛玉を二つ割りにして、それぞれを和紙に包んで玉としたもので、近くで当れば玉が大きいので威力が期待でき、さらに遠方に放つと玉が二つになり、さらに効果のある一種の散玉(ちりだま)である」(同氏著「鉄砲伝来」)とニ通りの解釈をされていますが、要するに初期の「散弾」の事でしょう。

以下、宇田川氏「鉄砲と戦国合戦」中「各種玉の開発」章の、実に多彩な弾丸が紹介されている中から引用、要約しますが、天正頃には既に、目的別に弾丸が考案、開発されていたようです。

*       焼夷弾。例えば、矢に発火性の高い配合の火薬を和紙に包んだ部分を装着して鉄砲で飛ばす「鉄砲火箭」が紹介されています(安見流伝書、慶長四(1559)年)。よく歴史ドラマに出て来る「火矢」の場面にくらべてずっと「近代的」な感じで、これを操作する様はちょっと「対戦車ロケット弾」や「バズーカ砲」なんかを連想してしまいます。

*       徹甲弾。これは「貫通」という用途に特化した弾丸で例えば「いぬきたま(射抜玉)」と呼ばれた弾丸は鉛と錫を1:1に配合した合金製で貫通力を高めています(「玉こしらへの事」断簡、天正十三(1585)年)。他に同書に「門破り」というものがあり、これは城門に穴を開ける弾丸でしょう。「四個針金でつなげた玉を二個、丸玉二個、中空の玉を一個、一番端に長方形の端玉をいれる」複雑な構造です。他書の「門破」の例としては「鉄にて寸の広さ程に長サ壱寸五分程にして先を四角六角にとからし(尖らし)紙にて二重も三重も張込て放也」(関流玉拵書、慶長十五(1610)年)というのがあり、これは前回紹介した米軍のブローニングM2普通弾のように弾芯と被甲に分かれていて驚きます。

*       海戦用の?弾丸。上記の「関流玉拵書」に紹介されている「松笠玉」。これは丸玉に切れ目を入れて「松笠状」にしたもので「水面すり上げずしてよし」とありますから、水面で「跳弾」にならずに水中の目標に達するという意味でしょうか。さらに同書にある「波くぐり」はその発展型のようで、円柱状に鋳込んで先を尖らせた弾丸に「紙にて一重貼り込」したもので、水中3m程にも達するようです。海戦で敵艦の船底に穴を開けることに特化した弾丸なのでしょうか。

*       標的の肉体にダメージを与える弾丸。「関流玉拵書」所収の「うらぬけ」という弾丸は、詳細がよくわかりませんが、弾丸に割れ目を入れたり複数のパーツを合体させることで「前は一つにて抜、口九つに成ゆへ、何程つよき獣も一放にて留まるなり」という効果があるようです。先端を潰れ易くして殺傷効果を高めるのは、別に近代の発明ではなかったようです。

*       散弾。これは上記の橋本一巴の「二つ玉」の他、天正十八(1590)年頃の後北条氏の権現山城において「大鉄砲の玉は小玉二個を紙に包んで大玉にした」(吉田文書)ようです。他に「切玉」というものがあり、これは三匁五分(13g)の鉛玉100粒を油で練って合体させ円柱状に固めて、さらに二つに分けたようで、一発の重さが650g。これが空中で飛散すれば50発の散弾になるということでしょうか。他に二個~五個の丸玉や半球(!)の玉を火薬と共に並列、円柱状に包んだ散弾が絵図(宇多川流玉拵書、慶長十一(1606)年)と共に紹介されており、これらは撃ち放たれるとサイコロの「二の目」~「五の目」状に広がる散弾になるようです。半球の玉は威力こそ落ちますが、飛翔距離は伸びます。冒頭にて紹介した、野間城主郭中央にあった半球の玉はこうした散弾の一部ではなかったか、と思われるのです。

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「レイン・ソング」

さて、最後は恐縮ながら(えっ!まだあるの?)一見「歴史とは無関係な」全くのオマケ話です。今回の取材で、京都東山の中尾城跡を27年ぶりに訪れましたが、最初に訪れた1990年11月、私にはある忘れられない「“鉛”に関する出会い」がありました。

中尾城から下山するとちょうど麓に慈照寺(銀閣寺)があることは既に述べました。私は観光客で賑わう有名寺院というものが特に苦手で、なるべく避けていますが、さすがにこの時は足利義晴のゆかりの地でもある、この素朴な室町建築をどうしても見たくなり、すでに午後4時近かったと思いますが、思い切って拝観してみました。

庭園を回遊している時、ふとすれ違った一人の「にこやかな表情の長髪の中年白人男性」の顔が妙に印象的でした。なぜだかわかりませんが「この人、イギリス人に違いない」と思ってしまったのです。この人は私と逆方向に庭園を回遊していたので、境内で3度ほどすれ違いました。

さて拝観を終えて、参道を300mばかり西に下り、自転車に跨ったまま今出川通りの歩道脇で信号待ちをしていると、あとから来て私の左横の歩道に信号待ちのために並んだのが、先ほど慈照寺で見かけた中年白人男性でした。「ご縁があるなぁ…」と、目の前50cm位の至近距離でこの男性の横顔を見た時、私は初めて気が付きました。この人、1980年に解散した(元)レッドツェッペリン(Led Zeppelin)のリーダーでギタリストのジミー・ペイジ(Jimmy Page)氏だったのです。まわりの人々は誰も気づいていません。

慈照寺で、大御所足利義晴ならぬ「ロック界の大御所」に御対面していたという…(汗)。

後に、この時“BOX SET”アルバムのプロモーションの為、18年ぶりに来日されていた事を知りました。直後に発刊された音楽雑誌において「ジミー・ペイジがドラえもんになった」などと揶揄されるほど、ちょっと首まわりが太くなっておられたうえ、そもそも昔のツェッペリンの写真なんて、たいていモノクロか、派手なステージライト下での姿だったので、まともな光でのページ氏の顔など見た事もなく、当初気がつかなかったのでした。(*注1)

私は熱心なレッドツェッペリン・フリークではありませんでしたが、20代の頃、中世~ルネッサンス的な感じのするツェッペリンのアコースティック曲がヤケに気になって、音楽誌のインタビューでペイジ氏が影響を受けたと語っていた、ペンタングル(Pentangle)やバート・ヤンシュ(Bert Jansch)などの英国トラッドフォークや、ペンタングルらがコピーしていた15~16世紀の「古楽」(Early Music:クラッシックよりさらに古い西洋音楽)を「復元」していたデヴィッド・マンロウ(David Munrow)のレコードを買ったりしていました。(これらは「東谷ズム2016」での「戦国1日博物館」において「当時の洋楽」という名目(汗)でBGMとしてかけたりしました。)

また、レッドツェッペリンは中世アーサー王伝説を題材にした、やたら城攻め(?)シーンが出てくる低予算のブラックコメディ映画、”Monty Python and the Holy Grail(1974)”製作にあたって資金援助さえしています。ハチャメチャな作品ながら、美化されたハリウッド映画などとは違った「リアルな中世のエッセンス」をどこか抽出している「怪作」で、監督を務めたモンティパイソンのテリー・ジョーンズ(Terry Jones)は中世の作家ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)の研究家でもあり、もうひとりの監督、テリー・ギリアム(Terry Gilliam)も相当な歴史マニアです。

1976年にはレッドツェッペリン自身のライブ・ドキュメンタリー映像詩“The Song Remains The Same”の中で、タイトル曲“The Song Remains The Same”~“The Rain Song”の演奏シーンにおいて、中世を舞台にした幻想的な短編映画が挿入されています。

とあるウェールズの王国の滅亡直前、姫君から聖剣を托された騎士をツェッペリンのヴォーカリスト、ロバート・プラント(Robert Plant)が演じています。騎士は諸国を放浪の末、荒廃したかつての城跡を訪れ、そこで亡くなった姫君の幻影に出会う、という設定で、これはこの映画中で最もドラマチックな場面です。

連続する上記2曲ではジミー・ペイジ氏がギブソンのダブルネックSGをフル活用して印象的なリフやコードを展開しています。

また、映像のロケに使われたウェールズ地方のラグラン城跡(Raglan Castle)は15世紀の建造で、実際の城主の一人だったWilliam Herbert,1st Earl Of Pembrokeは、薔薇戦争(Wars of Roses)において、敗残したヨーク側として処刑されています。

薔薇戦争といえば、私が20代だった1980年代、イギリスBBCが製作したウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の戯曲、全作品をNHK教育テレビで放映していましたが、中でも歴史劇「ヘンリー6世(Henry VI)」は「これは一体何だ?!」という点でもっとも印象的な作品でした。

この作品は、百年戦争に続く15世紀イングランドにおけるランカスター家(House of Lancaster)対ヨーク家(House of York)の抗争である薔薇戦争(Wars of Roses)を戯曲化したもので、日本の年号で言えば、文禄~慶長にあたる頃に執筆されたようです。物語には中心的な主人公は無いに等しく、王侯、貴族、司教らが離合集散を無数に繰り返し、延々と戦争、陰謀を展開する様は、イギリス版「応仁の乱」というか「細川両家記」(天文~永禄頃に執筆された)ならぬ「プランタジネット両家記」という感じでした。Wikipediaの「ヘンリーVI世」(戯曲名ではなくご当人の方)を参照頂ければよくわかると思います。「中世と近世の狭間」におけるカオスぶりは日本の状況そっくりで、そんな物語を「記す」という行為自体も含めて(これは「高代寺日記(下巻)」が明応四年(1495)から始められている精神にも通じる)、「両者が似かよっているのは単に偶然か?」という疑問が、自分の終生のモチベーションである気がします。うまく説明出来ませんが。

そんな自分が、15~6世紀の戦乱ゆかりの地でもある銀閣寺の庭園で見かけた外国の芸能人が、ただの外人スターなどではなく、中世の歴史や城にもリンクしまくっているイングランド人のジミー・ペイジ氏だったというわけです。

ということで、この日に出会った3連発「中尾城」「銀閣寺」「ジミー・ペイジ」の組合せは、「出来すぎ」の観があり、私は電気ショックを受けたように自転車に跨ったまま、真横のペイジ氏の顔を見て凍りついてしまいました。

ジミー・ペイジ氏はそれまでリラックスした、にこやかな表情でしたが、横で固まっている私と目が合うと「この男、私の正体に気づいたな…」とばかり、急に神経質に表情を曇らせ、私はそのまま青信号で立ち去った氏を見送りました。あの一瞬の表情の変化は、「もの凄く繊細な人物」という感じで、今でも申し訳なく思っております。

離れて見ると、ペイジ氏のまわりを日本の音楽関係者らしい人達がさりげなくガードするように囲んでおり、氏を停車していたマイクロバスまで送り届けました。

以上、「鉛の銃弾」関連で有名な中尾城を訪れたら「鉛の飛行船」(*注2)に遭遇してしまったというお話でした。落語のオチみたいで、どうもすみません。

(つづく。番外編「人生色々」はこれで終わります。)

*     注1:現在(2017年)では信じられないでしょうが、この1984~1994年頃は、1960~70年代前半に一世を風靡した「文化(カウンター・カルチャー)」というものが、一部のマニアを除いて「最もカッコ悪いもの、恥ずかしいもの」として人々が「記憶から消し去っている」ような風潮でした。レッド・ツェッペリン解散後10年目にあたる音楽雑誌「rockin’on」1991年1~2月号ではレッド・ツェッペリン特集が組まれましたが、その中で「1991年の「いまどき」レッド・ツェッペリンを表紙にする音楽雑誌なんてウチくらいのもんだ」と編集者達が自虐的に語ったりしています。

*     注2:”Led Zeppelin”は「鉛の飛行船(みたいにどうしようもない)」という、一種のジョークをもじったもの。元々ザ・フー(The Who)の故ジョン・エントウィッスル(John Entwistle、)氏が考案したスラングを、同メンバーの故キース・ムーン(Keith Moon)氏~マネージャーの故ピーター・グラント(Peter Grant)氏、リチャード・コール(Richard Cole)氏あたりを通じて伝えられ、リーダーのジミー・ペイジ氏が「これだ!」と飛びついて採用したようです。また「鉛」は本来“Lead”(レッド)ですが、アメリカで誤って「リード」と発音されないようにスペルも”Led”に変えたそうです。また、ドイツのZeppelin飛行船はある意味、B-29の大先輩みたいな側面もあり、1次世界大戦において「高々度」からロンドンを戦略爆撃したりもしました。一方、ロックバンドLed Zeppelinは自身の希望で1971年、広島でチャリティコンサートを行い、売上金700万円を原爆被災者に寄付、当時の広島市長から感謝状を受け取っています。ジミー・ペイジ氏は2015年にも広島を訪れ、原爆慰霊碑に献花しています。

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