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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と⑤【本編】


山下の「すずさん」と空襲と⑤

「墜ちてきたのは誰?」
~6月5日、東谷上空5000メートル。逃げる“空の超要塞”、追うインターセプターたち。墜落した1機から垣間見えた、本土防空戦の断片~

ちょっと更新の間があいてしまって申し訳ありません。実は前回ラストで触れた「墜落した日本軍機」はどこから来た誰なのか?で難渋しておりました。また、同じく前回少し触れた「小型米軍機による日本麻工業多田工場への機銃掃射」を体験された方と偶然話す機会があって、こちらも並行して調査していました。
2月から連載しているこの「空襲関連の番外編」は昨年末に観た映画「この世界の片隅に」が引金となって、当初は1月に「1回だけ」やる予定でした。しかし実際に調べ出すと「芋づる式」に新たな事実が次々と出てきて、そのどれも捨て難く、また連載中に証言者が鬼籍に入られたりして、「これはもう今やっておくしかない!」とも思われたので、早く「塩川氏の誤解を解く」に戻らねばと思いつつ、どうか今しばらくお付き合い下さい。
また来たる6月4日(日)開催の「東谷ズム2017」での「戦国1日博物館」においても、ささやかながら「空襲コーナー」を設置しようと思っています。
お誘いあわせの上ご来場いただき、またご意見など賜れば幸いに存じます。

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[山下での目撃談から]
山下の上空で見られたボーイングB-29戦略爆撃機と日本軍邀撃(ようげき)機との空中戦。10歳だった藤巴力男さんが友人達と興奮して見守る中、たちまち一機がオレンジ色の炎と煙を出して落下を始めたので、「やった!B-29をやっつけた!!」と喜んだのも束の間、暫くして落ちてくる機体に「赤い日の丸」が見えてきたのでみんな衝撃を受けたといいます。
はじめ、あたかも頭の真上に落ちてくるかに見えた機体も次第に西方向に流されて、山下から見て北西、中谷村(現・猪名川町)との境の丘陵あたりに落下したようでした。また乗員が機外に脱出して古城山の北に落ちた、との情報も入ってきて、山下でも人々が動員されて捜索が行われました。やがて一庫(ひとくら)地区の向山(むかいやま)北斜面あたりで一人の遺体が収容されたようです。パラシュートが開いたとの情報は伝わっていません。
遺体はその夜、笹部の大昌寺に運ばれて安置されているのを、山下在住のA子さん(当時9歳)が目撃しています。
藤巴力男さんは友人たちと「墜落した機体を見に行こう!」と出かけました。場所は一庫から西へ旧道をたどり、丘の峠を降りた中谷村の「菜洗池(ならいけ)」北側の「山の上」でした。しかし、現場の手前はロープが張られて立ち入り禁止状態。「子供は帰れ!」と追い返されてしまいました。
当然ながら、航空機など兵器には軍事機密のものもあった上、この頃、日本軍の対B-29邀撃機(ようげきき、interceptor:防空専門に特化された戦闘機)は陸軍、海軍ともそれぞれ「タ(た)弾」「三号爆弾」と呼ばれた空中で拡散する一種のクラスター爆弾を持っていた可能性もあり、墜落した機体に近づくのは危険でした。またこの時「もう一人の乗員が機体と運命を共にしたと聞いた」と藤巴さんは記憶しています。つまり2人乗りの戦闘機だったということでしょうか。
またこれがいつの日の出来事だったかは覚えておられません。

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[はじめに]
これは、戦争とは比較的無縁だった東谷地域で見られたまさに「戦闘そのもの」の場面でした。「B-29による本土空襲」というのは、日本史上における最大級の事件のひとつです。本稿では「空襲そのもの」についてはとても書ききれないのでひとまず脇に置かせていただくとして、この目撃談からこの日、東谷上空でいったい何があったのか?B-29に対して日本側の戦闘機はどのように対処していたのか?そして墜落してきたのはいったい誰なのか?について、拙いながら、考察してみました。

[いつの出来事?]
さっそく市史、町史の類でこれにあてはまる記述を探してみましょう。
* 川西市史「(昭和20年)六月五日、敵機と交戦した日本軍戦闘機が撃墜され、機体が山ノ原ゴルフクラブ地内に、操縦士の死体が一庫字土ノ戸(山下城跡付近)に落下したという。」
* 猪名川町史「さらに日本軍の飛行機が落下する事件も二件おこっている ~中略~ もう一件は中谷村と東谷村の村境(現伏見台あたりか)で戦闘機が落下しているが、詳細はわからない。」
* 能勢町史「六月五日、西能勢村上空において日米両軍機による空中戦があり、(能勢)町域のような山村にも銃砲弾が落下した。また田尻村では焼夷弾のため民家二棟が火災を起こし、山辺の城山にも焼夷爆弾が落下した(大師講記録)。同じ日、東郷村の上空に敵機四、五機が西の方から東の方へ通過し、地黄字赤阪の山中に爆弾を投下、濛々として煙が立ちのぼった。その付近の人家、土蔵の一部に被害があった。」

以上3件の記述が今回の墜落に該当、関連すると思われ、藤巴さんたちが目撃したのは、3200人あまりが亡くなった第3回神戸大空襲のあった昭和20年6月5日朝(「火垂るの墓」冒頭に出てくる空襲)であったことがわかります。神戸市の東半分を火の海にしたB-29、481機の大編隊が投弾後そのまま北北東方向へ離脱、さらに北摂で右回りに旋回しつつあるなかで日本側邀撃機と交戦した際の出来事だったのです。B-29が能勢地域に残弾を投下したのは、機体を軽くして逃げ足を速めるためか、また交戦中に被弾して空中爆発するのを恐れたのかもしれません。川西市史にも「多田村の山間部では、焼夷弾によって、いくどか山火事が発生した」との記載があります。

[B-29の高度、通過経路、および当日の空模様について]
まずここでB-29の「高度」に関する誤解を解いておきましょう。
「B-29は1万メートル以上の高空を飛ぶので、日本側の高射砲や戦闘機は手を出せなかった」といったイメージが一般に広まっているようですが、初期のB-29がおこなった「高高度爆撃」の多くは8000メートル台くらいからの投下でした。頻繁に1万メートル以上を飛んでいたのは、当時よく目撃された「昼間、飛行機雲を引きながら爆撃もせず、1機だけで飛んでくるB-29」。その正体はB-29の機体を外観はそのままに、写真偵察機に改造したF-13でした。映画「この世界の片隅に」において洗濯物を干しているすずさんが、初めて見た飛行機雲に驚く飛行機、瀬戸内海に潜む戦艦大和を高空から見つけ出して写真に収めるあの飛行機です。(”F”記号は米海軍や現在の米空軍では戦闘機”Fighter”を意味しますが、かつての米陸軍では写真を意味する“Photo”と同じ発音の”Foto”の頭文字からこの記号を用いています。)
さらに、昭和20年1月、高高度からの軍需工場など戦略目標への精密爆撃にこだわったマリアナの第21爆撃機集団(XXI Bomber Command)の司令官、ヘイウッド・ハンセル准将が更迭され、後任のカーチス・ルメイ少将に代わると、低高度からの夜間焼夷弾攻撃、つまり民間居住区で「都市ごと焼き殺す」方法に方針転換され「東京大空襲」が行われました(10万人以上死亡)。3月の大阪大空襲、神戸大空襲も2~3000mくらいの「低高度」からの夜間爆撃でした。さらに4月から硫黄島のP-51戦闘機が護衛に加わると昼間の中高度(5000~6000mくらい)爆撃も可能になったことは既に触れました。
「アメリカ第21爆撃軍団戦術作戦任務報告188号(補注)」によると、この6月5日の神戸での爆撃は4160m~5730mという(低目の)中高度から、B-29の最高速度に近い時速520kmあまりでなされました。
時刻は朝7時22分から8時47分まで、4つの航空団から成る481機が機首を(真北を0°として時計廻りに)24~28°に向けながら風で東に9~10°流されながらの突入です。これを地図で見ると…、神戸に投弾したB-29は、わずか2分40秒後に山下上空を通過するのです(!)。1時間半弱にもわたる爆撃を考えると、山下上空で見られたのはまさに「只今神戸を爆撃中」の光景でした。そして目撃された空中戦がおこなわれた高度はおよそ5000mだったこともわかります。
長々と書きましたが、この日の「高度」では、日本側邀撃機も戦えるし、高射砲も十分届くのです。「B-29は1万メートル以上の高空を飛ぶので、日本側の高射砲や戦闘機は手を出せなかった」という「常識」はひとまず忘れましょう。
また、報告書の「高度チャート」を見ると、マリアナ諸島から日本への大半は高度1700mから3000mで飛来(積乱雲を避ける為)しており、B-29の巡航速度は時速350km、なので、日本の手前で一気に高度と速度を上げ、ターゲットである神戸市に爆弾を投下すると、あとは「長居は無用」とばかり、フルスロットルで1分間に66mずつ高度を下げながら(下り坂の方が速いので)、高射砲の少ない北摂~京都~奈良~熊野と時計回りに日本を離脱するルートでした(冒頭画像下の「爆撃侵入経路」参照)。このコースだと神戸の高射砲以外では、京都の6門、大阪の5門の高射砲だけが「レンジ内」で、他の高射砲を避けられるとのこと。この“B-29の河”が1時間半にわたって流れたわけです。しかし個々に神戸に投弾を済ませた各B-29にとっては、熊野灘で本土から離脱するまでわずか16分あまりです。追う邀撃機側には短く、逃げるB-29側には長い16分だったことでしょう。
なお、爆撃に参加したB-29の総数は481機という数なので、図では1本線で描かれている経路も、実際には数十キロメートル幅をもつ“大河”でした。
また上記報告書によると、神戸での雲量は650mから1700mの低層雲が20~30%。4700mから5300mの中層雲が40%。8000mから1万mの上層雲が80~100%だったようで、地上から見上げるB-29や、日本軍機との戦闘は雲の間に見えたり隠れたりの状況だったでしょう(冒頭画像中央左は同報告書から抜粋加筆)。

[護衛戦闘機P-51は?]
ところで、この6月5日は「昼間の大規模中高度爆撃」であるのにもかかわらず、B-29に護衛の(本稿ではおなじみの)P-51戦闘機が随伴していないのです。映画「火垂るの墓」冒頭の神戸大空襲のシーンでも護衛のP-51戦闘機など登場しません。硫黄島のP-51航空団群を統括する第7戦闘機集団(7th Fighter Command)が、常にB-29を護衛するわけではありませんが、この日のP-51「欠席」はちょっと不自然です。これは6月1日の”Black Friday”が尾を引いているのです。
”Black Friday”とは何か?。6月1日午前9時~11時台、500機あまりのB-29による焼夷弾攻撃を主体にした第2回目の大阪大空襲がありました。この日、B-29護衛の為に148機のP-51が関西地区への初陣ということで硫黄島を発進しましたが、大阪まで随伴出来たのはわずか27機だけ。実は途中海上で視界ゼロの「スープの中みたいな」悪天候に遭遇し、密な編隊を組んでいたP-51のうち、27機が空中衝突などで墜落。25名が死亡。残りほとんどが硫黄島に引き返し、硫黄島のP-51部隊には最悪の日となりました。航法担当のB-29との連絡、指揮にも問題が残り、この6月5日にはまだ行方不明者の海上捜索が行われていました(506th Fighter Group.org)。この6月5日も天候不順が残っていたので出撃が中止になったもようです(小山仁宗「改訂・大阪大空襲―大阪が壊滅した日」)。
第21爆撃集団が出撃前に作成した天気予測図によると、日本の南、北緯28°~34°あたりが前線の影響で大雨になっています。P-51出撃中止の判断自体は「適切」といえましょう。
(そんな中でも大阪は6月1日の空襲で町ごと焼かれて3000人以上が死亡。わずかのP-51も市内を機銃掃射して、この焼夷弾と機銃掃射の挟み撃ちは大阪の人々に衝撃を与えました。また、P-51も6月7日の大阪空襲(B-29、449機)に138機が随伴して完全復帰。ただし軍部もメディアも7月9日までP-51の存在自体を隠したようです(「改訂・大阪大空襲」)。人々がP-51のことを「艦載機」と呼んだのはこんな事情もあったのです。)

ともあれ、この6月5日は、地上から見上げる日本人からは圧倒的な脅威であったB-29でしたが、搭乗員にとっては日本側戦闘機も高射砲も届く高度で、しかも護衛戦闘機が欠席という、いつもより心細い任務だったはずです。

[墜落した飛行士は誰?]
を知るために、山下町の自治会の文書にこの6月5日の記録が残っていないか?また、遺体が一時安置されたという笹部の大昌寺にこの時の記録が残っていないか?、藤巴力男さんに問い合わせてもらいましたが、手掛かりとなるものは見つかりませんでした。
では、昭和20年6月初旬頃の阪神間において、「陸軍や海軍における航空機を使った対B-29邀撃部隊」には具体的にどのようなものがあったのか、またどういった戦闘機が使われていたのか、を見てみましょう。

[日本側の迎撃体制と邀撃機たち]
B-29を迎え撃つ日本側ですが、本土防空は海軍基地をのぞいて基本的に陸軍の管轄でした。戦局が追い込まれた昭和20年には、さまざまな組織改変がおこなわれ、近畿、中国、四国は大阪城に司令部のある第15方面軍が統括していました。この下に航空機による阪神地区、および(第13方面軍下の)名古屋地区防空を兼ねて担当する組織として、大正飛行場(現・八尾空港)に司令部を置く「第11飛行師団」がありました。
この第11飛行師団の指揮下に
* 飛行第56戦隊(伊丹飛行場・川崎の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」を使用)
* 飛行第246戦隊(大正飛行場・中島の二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」から同、四式戦闘機「疾風(はやて)」に改変中)
* 飛行第5戦隊(清洲飛行場・川崎の二式複座戦闘機「屠竜(とりゅう)」から同、五式戦闘機(飛燕のエンジンを空冷式に換装したもの)に改変中)
* 飛行第55戦隊(小牧飛行場・三式戦闘機「飛燕」)
がありました(防衛庁「本土防空作戦」)。この他大正飛行場には独立飛行第82中隊(武装司偵(三菱の百式司令部偵察機を改造した防空戦闘機))が駐屯。さらに陸軍の飛行学校であった明野(三重県伊勢市)の明野教導飛行隊(五式戦闘機)も結果的この迎撃戦に参加することになります。
一方、海軍の航空隊も戦局から本土防空の専門部隊を設立せざるを得なくなり、当時阪神間には鳴尾飛行場(西宮)に第三三二(さんさんふた)航空隊がいました。三菱の局地戦闘機(陸上から発進する基地防空の為の戦闘機)「雷電」や、零戦が配備されていました。これら昼間戦闘機部隊とは別に、夜間戦闘機部隊が陸軍伊丹飛行場を借りて展開しており、中島の夜間戦闘機「月光」や「彗星」夜戦(空技廠の艦上爆撃機「彗星」を改造した夜間戦闘機)を装備していました。

意外にも、以上述べただけで10種類もの邀撃機がありました。冒頭で述べた藤巴さんの記憶「脱出した1人が一庫(ひとくら)に墜ち、もう一人は機体と運命と共にした、と聞いた」からは「2人乗りの軍用機」ということになりますが、「川西市史」の記述からは、中谷村に墜落したのは機体だけだったことから「1人乗りの軍用機」ということになります。
上記の邀撃部隊においては、屠竜、武装司偵、月光(以上双発)、彗星(単発)の4種類が2人乗りで、他の飛燕、鍾馗、疾風、五式戦、雷電、零戦の6種類が1人乗りでした。他に外観的特長として、飛燕と彗星は、機首の尖った「液例式エンジン」を搭載していました。これらの中に中谷村に墜落した1機があるのでしょうか?

[日本側は今回の「P-51不参加」を知っていたか?]
前日の6月4日に例のF-13高高度偵察機が3度にわたって京阪神地区を入念に偵察し、また「伝単(ビラ)」で勧告したことから、日本側では近々「大空襲必至」とみて、新聞などで警告しはじめようとしたところでした。(改訂大阪大空襲)
5日未明、おそらくマリアナの米軍側の通信傍受からB-29出撃間近と予測され、まず南鳥島の監視哨が大型機編隊北上を報じたようです(檜与平「名機「五式戦本土上空決戦秘録」」)。日本側はB-29が日本のどこかに来襲することを、本土上空に達する5~6時間前には知ったことになりますが、南鳥島からB-29編隊は遠すぎて姿が見えません。他に潮岬、白浜、室戸岬などに設置されていた電波警戒器(レーダー)の情報から、いよいよB-29大編隊の接近を知ったと思いますが、日本側が今回の「P-51不参加」について(空襲の直前も含めて)「事前に知った」のかどうかが大変気になっています。
と、いうのは、鈍重な夜間戦闘機や双発戦闘機でも「運動性のおとるB-29に対しては昼間でもかなりの威力を発揮していた」(渡辺洋二「死闘の本土上空」)ようですが、高性能なP-51戦闘機が相手では撃墜されてしまう公算が高いからです。もしP-51随伴が確実ならば、これらは出撃を控えて機体を隠さなければなりません(滑走路に置いたままだと、P-51に破壊されてしまいます)。また護衛戦闘機随伴の有無は電波警戒器の情報だけでは判別出来ません。それとも、まだ関西ではP-51の怖さが浸透しておらず(関東へは4月7日から飛来)、6月1日のP-51随伴も上述の気象アクシデントでたまたま少数だったので、あまり懸念されていなかったのでしょうか?。大正飛行場の第11飛行師団は昨年12月13日の名古屋空襲時にはB-29索敵のため、百式司令部偵察機を派遣していますが(「死闘の本土上空」)、この半年後の終戦間際であるこの6月初旬には、この高速偵察機は国内で圧倒的に不足しており(吉田金「雲と波の峰に若き翼の墓碑銘をみた」)、航空機を使ってB-29編隊構成を偵察する余裕など、もはやなかったと思われます。
一方、米軍側報告書ではこの日、まだB-29の編隊が大阪湾南端に達する前、紀伊水道通過の段階までに「6回」日本軍機の攻撃を受けた、とあるのでこれらの接敵した日本軍機、あるいは紀伊水道を監視する海軍の紀伊防備隊あたりが「敵爆撃機編隊ニ護衛戦闘機ナシ!」と打電したのかもしれません。B-29は紀伊水道南部から神戸まで20分弱で到達したと思われます。結局、「P-51不参加」を何時知ったかはともかく、この6月5日は陸軍、海軍とも(航空機の数がアメリカ側に比べ圧倒的に少ないながら)出来る範囲で最大限の邀撃機を出撃させているようです。また、このように日本軍機が活発に米軍機を迎撃する事態はこの6月頃が最後でした。(日本軍機は7月に入るとパッタリと飛行場からも姿を隠し、P-51や艦載機が我物顔で跳梁するようになるのです。)

では6月5日、日本側の各邀撃部隊の状況がどのようであったかを見てみましょう。

[飛行第56戦隊(伊丹)]
まず、陸軍伊丹飛行場には川崎の三式戦闘機“飛燕”で構成された「飛行第56戦隊(昭和19年3月開隊)」が駐屯していました。実は戦隊の主力は3月以来九州北部の芦屋基地~海軍佐伯基地に派遣されて対B-29邀撃戦に尽力、消耗しており、この5月末~6月初頭に伊丹に復帰したばかりでした。高木晃治氏の「飛燕 B-29邀撃記(初版タイトル「足摺の空と海」)」によると、部隊は昨年12月の名古屋空襲の「戦訓から比較的火網(後述)の弱いB29正面を衝く「前方攻撃戦法」を主用していた。」とあります(このことは、米軍側も分析しており、後述する報告書に特筆されています)。また戦隊長古川治良少佐は、爆撃高度5000mで進行するB-29に対して、高度7000mを時速250kmで反航(迎え撃つ方向)して一気に急降下して真上から銃撃し、高度2500mで機体を引き起こす「直上方攻撃」を好んだといいます。山下上空で見られた戦闘はこうした光景だったのでしょうか?。さらに上記同書にから引用するとこの6月5日の出撃は
「この日、伊丹を離陸した戦隊は神戸北部摩耶山の背後を回りながら高度をとった。~中略~ちょうど神戸の上空5000~6000メートルで、(古川)少佐はB-29の群れを左に見るように編隊を誘導した。そこで戦隊長機は左バンクして部下に突撃を知らせると、敵機に向かって突っ込んでいった。つづいて高木(幹雄)少尉も突進したが、B-29の応対が激しく、「夕立のように」曳光弾(弾道が見えるように発光する弾丸)が飛んでくる。思わず臆して敵前150メートルで離脱し、火の雨に追われる気持ちで一気に高度2000まで撤退した。引き起こして再び敵編隊をめざして上昇していると目の前に手負いであろうかB-29が1機、少し白煙を吐きながらフラフラと飛んでいる。早速後上方から20ミリと13ミリ弾を束ねるようにして撃ち込んだ。全弾撃ち尽くしたころ、敵機は大きくぐらつき始め、バラバラッと乗員が5名、機外に飛び出した。と、見る間にB-29は火を噴きながら空中分解を起こし、機体が3つに分かれて墜ちていった。」
北上するB-29に対して飛行第56戦隊が反時計廻りに上方から攻撃をかけたことがわかります。このB-29は神戸港に墜落したので、まだ爆弾投下前だったのでしょうか。
米軍側の報告書によると、高射砲、及び邀撃機により、神戸上空で5機のB-29が失われています。
さらに「飛燕 B-29邀撃記」から引用すると、「戦闘空域は神戸上空から東に流れ、阪神間大阪寄り上空で「飛燕」各機が交戦中、安達(秀雄)少尉の落下傘事故が起こった。」と、あります。偶然同戦隊の「石川新次軍曹」が(機体から脱出した戦隊ベテランの)安達少尉がパラシュートが開かないまま落下していくのを目撃したのです。少尉が墜死したのは「淀川下流、大阪市此花区住友系工場敷地内」でした。サイト「本土空襲墜落機調査」によると、安達機を撃墜したのは第58航空団の”Black Jack.U”で、同機も被弾(機上1名戦死)したまま飛行。三重県度会郡で明野教導飛行師団の五式戦闘機により撃墜されています。
この他、同書によると「羽田文男軍曹」が「高槻市付近上空」で撃墜された模様です。この2例から「右まわり」するB-29編隊の中にはかなり「内回り」する編隊もあったようです。
そして戦隊ではもう1人、「小野傅軍曹」が未帰還になったようですが、墜落した場所は記されていません。この方は「陸軍少年飛行兵第十期(昭和16年卒業)」なので、昭和18年頃から「空中勤務者(海軍の「搭乗員」にあたる言葉)」になられたのでしょうか。同書では飛行第56戦隊が昭和19年9月に済州島に派遣された時から「小野軍曹」の名前や数枚の写真が出ています。ひょっとして、この方が山下上空で撃墜された方でしょうか?(だとすると、墜落したのは一人乗りの単発機となりますが)。
他に、田辺町史によると当日(同書に5月22日とあるのは間違い)8時40分頃、京都の高射砲によりB-29が、木津川の山城大橋(現・京田辺市~城陽市)付近に墜落、炎上し、追撃してきた「飛燕」が上空を旋回するのが目撃された、とありますが、サイト「本土空襲墜落機調査」によると、これは後述する明野教導飛行師団の五式戦闘機による撃墜の間違いのようです。

[B-29の管制射撃システム、及びフォーメイション]
ここで「苦戦した」第56戦隊の記述からちょっと考えてみましょう。今回のP-51戦闘機のいない、高高度爆撃でもない、B-29だけで構成された爆撃機編隊ははたして脆弱な存在だったのでしょうか?。
一般に爆撃機と戦闘機が空中で出会うと、戦闘機の方が強いことになっています。動きが鈍重で、それ自体が大きな標的でもある爆撃機に比べ、戦闘機は速度、機動性に優れ、標的としては小さくて当てにくい。爆撃機は爆弾を落とす専門家であり、戦闘機は飛行機を落とす専門家です。しかしB-29は対戦闘機戦においてもやはり特別な存在でした。
B-29についてはとても書ききれないので、サイト「日本を敗戦に追い込んだB-29爆撃機」などを参照していただくとして、ここではB-29の防御射撃について簡単に触れます。
よく戦争映画などで爆撃機の機銃手が、各自まったく別々に銃座に陣どって、迫り来る戦闘機を狙い撃ちするシーンがありますが、B-29では射撃手を含む搭乗員は気密室内(高空も飛ぶので)におり、銃塔は気密室外にあります。つまり射撃手は遠隔操作で離れたところにある電動式の銃塔を操作するわけです、と言うとかえって狙うのが難しそうな印象を受けてしまいますが。
B-29には「2門のブローニング12.7mmをそなえた回転式銃塔」が前上部、前下部、後上部、後下部、の4ケ所にあり、さらに機体の最後尾にも銃座が1ケ所あります(後に前上部の銃塔は4門に増設されました)。
照準器は前部窓、機体後部の上、左右の3つの窓、尾部銃座の5ケ所にあり、爆撃手、射撃管制手を含む3人の機銃手、尾部の機銃手によって最寄りの銃塔、もしくは射撃管制手によって割り振られた者が場合によっては2つの銃塔を担当し、それぞれの照準器に繋がった機内の真空管式の集中火器管制装置が弾道計算、離れた複数の銃塔の「視差調節」を含めて最適角度に自動制御し、射撃することが出来ました。「その時点で射撃を割り当てられた射手」が、片手の照準機で標的を追い、片手で発射ボタンを押すだけで「最適に制御」された弾丸が標的の「未来位置」に向かうというわけです。また、担当機関士が高度、対気速度、温度を逐一射撃管制手に報告し、こういったパラメーターも弾道計算に加えられたようです。射撃を集中制御する方法自体は、艦船では既になされていたシステムです。
弾丸は徹甲弾(穴をあける)、炸裂弾(爆発する)、曳光弾(弾道を見せる)が一定比率で装填されていました。

またB-29は9~12機で構成される密な編隊(Formation)を組んで飛行します。これはスクラムを組むようなものです。たとえば後上方から1機の戦闘機がB-29の「平面」に近づいたとすると、B-29、1機あたり6~8門の機銃を射撃しますから、12機編隊だと、合計72~96門の機銃がこの1機の戦闘機に向けられることになります。下方でも48~72門を向けられるので、似たようなものです。上記の第56戦隊の体験した「夕立のように」「火の雨」の表現は大げさではないのです。(しかも米軍機とは対称的に日本の軍用機は防弾性がいたって脆弱なので、簡単に発火し、しばしば米軍側から「ライター」などと嘲笑されました。第56戦隊でも、軽量化のため操縦席の防弾板を外していました(「飛燕・B29邀撃記))
また、ここは日本の上空です。都市の無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は日本人全体の怨嗟の対象であり、撃墜されればたとえパラシュートで脱出してもまず命はありませんでした。機銃を必死に撃ちまくるのはB-29搭乗員側も同じでした。
こういった「弾幕」「火網」の凄まじさはこの爆撃機の別名、”Superfortress”(超・空の要塞)に恥じないものでした。

[第三三二航空隊]
ちょっとここで海軍航空隊に目を転じてみましょう。西宮の鳴尾には第三三二(さんさんふた)航空隊が駐屯しており、対爆撃機戦闘用に開発された三菱の雷電や、零戦を待機させていました。第三三二航空隊は元々海軍基地である呉鎮守府の航空隊でしたが、戦局から陸軍飛行第11師団の指揮下に入って阪神地区の防空にあたっていたのです。ところで、部隊のこの5日の動きがよくわかりません(後述する米軍側報告書には”Jack”(雷電)の記載が豊富にあります)。ちなみに雷電の部隊の17機は4月下旬から5月中旬にかけて他の航空隊の雷電とともに九州の鹿屋基地に派遣され「龍巻部隊」を結成して猛働きをしていました。
これは上記の陸軍飛行第56戦隊も同様でしたが、米軍の沖縄上陸を見込んで日本の軍用機が九州に集中したのに対し、マリアナ諸島のB-29が九州の飛行場を爆撃し始めたので、「九州の飛行場をB-29から守る邀撃戦」でした。ここで対B-29戦に錬度を上げたようです(龍巻部隊における第三三二航空隊の戦果はB-29撃墜4、不確実撃墜4、撃破46(碇義朗「迎撃戦闘機「雷電」」))。この九州での邀撃戦で練達したパイロットが、この6月5日に参加していたことは、米軍側も実感したようで、報告書(後述)に特筆しています。

第三三二航空隊には他に夜間戦闘機部隊があり、これらは陸軍伊丹飛行場に駐屯していました。中島の夜間戦闘機「月光」(双発。二人乗)のほか、空技廠の艦上爆撃機「彗星」(単発、二人乗)を改造した彗星夜戦、零戦改造の零夜戦などを装備していました。
サイト「航空戦史 雑想ノート」から引用するとこの6月5日の「神戸地区上空邀撃戦」として「月光に搭乗の伊東大尉/沢田少尉は、高度5000メートル前後で侵入するB-29爆撃編隊に対して三号爆弾を投下後、引起こして、斜め銃攻撃で(B-29の)発動機より燃料を吐かせた。彗星に搭乗の大貫上飛曹/小柳中尉機は三号爆弾を投下後、斜め銃により命中弾を与えたが、左翼燃料槽に被弾、白煙を吹き流した為、離脱。積乱雲の中に入り、ひどく揉まれながら帰投。」とあります。
「三号爆弾」とは本稿はじめにも述べた、空中で拡散する1種のクラスター爆弾です。また、「斜め銃とは」何でしょうか?。ふつう、戦闘機の機銃は「前方向け」に固定されており、スピードや機動性を利用して「機体そのものを標的に向けて」銃撃します。
しかし爆撃機による夜間爆撃を通じて「大型の爆撃機から「後下方」がもっとも見えにくい」という欠点を利用した新しい戦法が「現場で」考え出されました(渡辺洋二「死闘の本土上空」など)。それは、機体の背面に「斜め上方向け」に固定した20~30mmの大口径機銃を搭載し、暗闇を利用して爆撃機に後下方から接近、コバンザメのように真下にもぐりこんで銃撃するというものです。これは「目からウロコ」の戦法で、非常に効果的だったため、都市の夜間爆撃に苦しめられたドイツや日本でそれぞれ考案、採用された方式でした。もともとはイギリスで第1次大戦中に考案されたようですが、その後忘れ去られていました(飯山幸伸「日独・斜め銃の秘密」)。
上記に記した彗星や零戦の「改造」とは、この斜め銃を取り付けることでした。
今回はP-51が居ないのを幸い、この攻撃法を白昼堂々と用いたわけで、米軍側にも不思議な印象を与えたらしく、三号爆弾の目撃談と共に、報告書(後述)にこの攻撃法が記載されています。
他にこの5日の第三三二航空隊の犠牲者の情報として、サイト「大日本者神國也」に「渡邉清實大尉が鳴尾上空で散華」とあります。「鳴尾上空」ということは昼戦隊の雷電か零戦でしょうか?。

[飛行第246戦隊]
第11飛行師団の膝元、大正飛行場(八尾)を本拠とする飛行第246戦隊(中島の二式戦闘機「鍾馗」から同、四式戦闘機「疾風」に改変中)は飛行第56戦隊とともに阪神地区防空の要でしたが、この5日の動きがよくわかりません。サイト「大日本者神國也」によると、戦隊は5月30日から6月21日まで「1個中隊」を残して「帝都防空」のため成増(東京)や浜松に移駐しているそうです。ただ、後述する米軍側の報告書では”Tojo”( 「鍾馗」の米軍コード名)が頻繁に記載されているので、この「1個中隊」が奮戦したことがうかがえます。

[飛行第5戦隊]
清洲飛行場を本拠とする飛行第5戦隊(川崎の二式複座戦闘機「屠竜」から同、五式戦闘機(飛燕のエンジンを空冷式に換装したもの)に改変中)についてもこの5日の動きがよくわかりません。Wikipediaでは「本土決戦にむけて、戦力の温存につとめ、ほとんど邀撃戦などの戦闘に参加していない」などと書かれていますが、この6月5日時点ではまだ「温存」に関しては微妙な空気で、しかも(結果論ながら)P-51戦闘機の随伴なしだったので、出撃したのではないでしょうか?。また、後述する米軍側報告書では”Nick”( 「屠竜」の米軍コード名)が頻繁に出ています。ちなみに川崎の「屠竜」は37mm砲を持ち、昭和19年のB-29の本土初空襲から邀撃しており(樫出勇「B29撃墜記」)米軍からは言わば「古なじみ」の邀撃機でした。「屠竜」後期の型では2丁の「斜め銃」を搭載しており、「月光」や武装司偵(後述・米軍報告書にはほとんど出ていない)と混同されている可能性があります。
また五式戦闘機の存在も米軍側に認識されてなかったようで、零戦や隼、疾風と混同されているかもしれません。

[飛行第55戦隊]
小牧飛行場で三式戦闘機「飛燕」を有する飛行第55戦隊は、昨年12月以来、中京地域での対B-29防空戦の要でしたが、この6月5日の動きはよくわかりません。
渡辺洋二「液冷戦闘機「飛燕」」によれば、上記伊丹の第56戦隊同様、戦隊主力が3月末から4月上旬にかけて沖縄戦を念頭に福岡県芦屋に集合。さらに4月9日、鹿児島県万世に移駐。ここで三式戦2型への改変を行いながら、「特攻機の直掩」にあたります。「直掩」というのは、九州南部の飛行場に集められて米軍の艦船や占領基地へ向う「特攻機」が、重い爆弾を装備して飛行するので、途中で米軍戦闘機に撃墜されてしまう事が多いため、この特攻機を「無事に」目標まで護衛して送り届けるという任務です(…)。さらに6月3日には米空母「シャングリラ」から発艦したF4U戦闘爆撃機が薩摩半島を襲撃。55戦隊はこれと空中戦をしています。
戦隊が小牧に帰還するのが7月中旬(「大日本者神國也」)なので、6月5日には小牧にわずかな戦闘機しかおらず、あるいは邀撃を禁止されていたかもしれません。

[独立飛行第82中隊]
大正飛行場に駐屯。武装司偵(三菱の百式司令部偵察機改造防空戦闘機)を有していました。元になった百式司令部偵察機は、日本の軍用機の中で最も優美なスタイルをもっており(現在実機がイギリスのコスフォードに展示されています)、速度、上昇力に優れ、しかも非武装でした。偵察任務としては、機銃を除去して重量を軽減して逃げ足を速くした方が良い、との設計思想によるものです。しかし高高度から爆撃するB-29の来襲が予測された昭和19年5月、B-29の高度にもっとも対抗出来そうな本機に白羽の矢が立って、陸軍航空工廠により(一部所有戦隊独自のアイデアで)改造、前部に20mm機関砲2門、一部機体はさらに背面に軽戦車並の37mm「斜め機関砲」を搭載した、「高高度戦闘機」として正式化されました。外見は「屠竜」「月光」並に無骨になりましたが、機体構造が超軽量、華奢なままので、戦闘機並の急機動をかけると機体が「空中分解」するので、操縦は独特の緊張感を伴ったようです。
さて、5日の邀撃戦ですが、サイト「本土空襲墜落機調査」によれば第58航空団の1機が「神戸空襲後、淡路島南端で陸軍飛行第八十二中隊鵜飼義明中尉操縦の武装司偵による体当たりで沼島東方1マイル沖に墜落」とあります。サイト「大日本者神國也」はこれを6月7日のこととしていますが、やはり5日の米軍側報告書による記述として、「1機のB-29が神戸上空でエンジンにダメージを受けて編隊を離れ、敵戦闘機に体当たりされてクラッシュ。海へ墜落。乗組員11名。4名が脱出。」が該当するようです。また「大日本者神國也」にはこの鵜飼義明中尉が「散華」とあるので、7日は戦死が認定された日なのかもしれません。なお、このB-29は神戸に投弾後、エンジンを撃破されたので、北上する編隊から離れて南へ変針。紀伊水道から太平洋に向かったところだったのでしょう。米軍側は日本近海に救助のための潜水艦を用意していたからです。
ちなみに、この独立飛行第82中隊は2月25日以前は「第16独立飛行隊、高高度戦闘機隊」という組織名で、「大日本者神國也」によると、昭和19年12月13日(名古屋)、18日(渥美半島)、22日(名古屋)でそれぞれ「B29に体当りを敢行、撃墜するも散華」とあり、体当たり攻撃率が他部隊より高い印象を受けます。ただ、この武装司偵の体当たり率の高さは、スピードは出るものの「機動性」のない、つまりB-29に対して前部機関砲攻撃で突っ込んでも「戦闘機のように」手前で「離脱出来ない(空中分解するので)」機体強度の限界を隊員が知っていた「あきらめ」も「1要因」ではないか、という気がします。
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防空戦隊によるB-29への「体当たり攻撃」は自発的、自然発生的にしばしばみられました。また、B-29による初期の爆撃は高高度からだったので、日本側邀撃機がそこまで達せず、対策として軽量化の為に防弾板から機銃まで外し、唯一の攻撃方法として「体当たり」(の後、パラシュート降下)を実施した部隊(調布の飛行第244戦隊)もありました。いわゆる「特攻機」全盛の頃なので、両者が混同されたり、あるいはこれも広い意味での特攻なのかもしれませんが、いわゆる「特攻隊」が、「全国的組織的」に特攻要員を各戦隊、航空隊から出させ、爆装、片道燃料で敵艦、敵基地に突入、生きて帰ってきた者を辱めたのに対し、防空戦隊の体当たり攻撃は、生存率が低いながらも、パラシュートで帰還出来れば何度も戦列に復帰でき、そういった隊員がかえって「英雄」になった点、「紙一重」の差かもしれませんが、「特攻隊」とは一線を画しています。
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[明野教導飛行師団]
陸軍の飛行学校であった明野(三重県伊勢市)の実戦部隊である明野教導飛行隊。五式戦闘機を使用して初めての対B-29邀撃でした。三重~紀伊半島における、B-29にとってはあと1歩で日本本土を離脱出来る”Land’s end”の最後の関門に立ち塞がる敵でした。
この五式戦は例の三式戦「飛燕」の液例式エンジン(ドイツのメッサーシュミットMe109戦闘機と同じダイムラーベンツのDB601のライセンス生産)が故障が多く整備も難しく、機体に比べてエンジンの生産が大幅に遅れたため、空冷エンジンを搭載したドイツのフォッケウルフFw190戦闘機を参考にして急拠設計に手を加え、空冷エンジンに換装したところ、はからずも高性能戦闘機が出来てしまったが時すでに遅し、というエピソードで有名です。
飛行隊を率いた檜与平少佐の「名機「五式戦」本土上空決戦秘録」から引用すると、
「1万m近い高度で敵は来るものと思っていたのに、この低空ではるか北方からキラキラと太陽を機体に受けて、B-29の大編隊が南下して来るのを発見した」
「阪神地区を逃れた気のゆるみか、バラバラの隊形で海上を目指してなおも高度を下げていた」
「私は好機逸すべからずと日頃訓練してある前方(やや下方ぎみ)攻撃を命じた」
「B-29からは容赦なく弾丸が飛んで来る。その赤い火花が痛いように目にしみる」
「日頃の訓練通り、前方へ駆けぬけては前下方攻撃をかけ、全機がそれを反復しているが、B-29があちこちで煙をはき出すと、勢いを得てか、ほとんどの五式戦が真上に向いてB-29の腹に下にぶらさがって連射している」
「もっとも弱点の腹から撃ち込むので効果は絶大であった」
この「前下方攻撃」は後述する米軍報告書でも特筆されています。
サイト「本土空襲墜落機調査」の記事も照らし合わせると、この明野飛行隊の邀撃により、木津川の山城大橋付近に1機撃墜、名張市青蓮寺に1機撃墜、三重県度会郡に1機撃墜(第56戦隊で述べた第58航空団の”Black Jack.U”)したほか、日比重親少尉による体当たり攻撃で松阪市南部付近(?)に1機撃墜されました。あと、場所は不明ですが、阿部司朗少尉がやはり体当たり攻撃で亡くなっています。

[米軍側は日本側邀撃機、高射砲をどう見たか?]
以下再び「アメリカ第21爆撃軍団戦術作戦任務報告188号(補注)」から、アメリカ側が今回の日本軍機による迎撃態勢をどのように評価したか見てみましょう。
米軍側はこの一連の爆撃~日本離脱の間に「150機の日本側邀撃機から合計647回の攻撃を受けた」と見積もっています。そして日本側邀撃機の攻撃だけで3機のB-29が撃墜され、18機がダメージ(日本側の言う「撃破」)を受けました。また日本側邀撃機と高射砲の連携によってさらに3機のB-29が撃墜され、9機がダメージを受けました。(他に高射砲による撃墜、エンジントラブル、原因不明、日本離脱後の海上墜落も含め、合計11機のB-29が墜落し、103名の搭乗員が失われたとあります。)

米軍側が認識した、今回B-29に攻撃をかけて来て被害をもたらした日本側邀撃機の種類、攻撃回数、及びその割合は以下のとおりです。なお連合軍による日本軍用機コードは、一般に戦闘機が男性名、爆撃機、偵察機が女性名になっています。

Unidentified(機種未確認)143回(23%)、Tony(陸軍三式戦闘機(飛燕))119回(18%)、Nick(陸軍二式複座戦闘機(屠竜))90回(18%)、Tojo(陸軍二式戦闘機(鍾馗))74回(11%)、Zeke(海軍零戦)59回(9%)、Irving(海軍夜間戦闘機(月光))52回(8%)、Jack(海軍雷電)43回(7%)、George(海軍紫電、紫電改)27回(4%)、Oscar(陸軍一式戦闘機(隼))21回(3%)、ABC(謎の新型機?)7回(1%)、Frank(陸軍四式戦闘機(疾風))7回(1%)、Hamp(海軍零戦32型)3回、Dinah(陸軍百式司貞改造戦闘機)1回、Luke(海軍閃電、試作機)1回などが報告されています。

一方、申告されたB-29側の機銃による日本側邀撃機への戦果は撃墜86機、不確実撃墜12機、撃破23機、とあります。もちろん、これらの数字は重複、錯覚も考慮する必要があります。報告書は最終的に撃墜44機、不確実撃墜25機、撃破44機と判断しています。B-29が消費した機銃弾は48万発でした。報告書で米軍側が「撃墜」「不確実撃墜」「撃破」と報告した日本側邀撃機の種類と機数は以下の通りです。

Jack(海軍雷電)11、Tojo(陸軍二式戦闘機(鍾馗))29,Tony(陸軍三式戦闘機(飛燕))20,Nick(陸軍複座戦闘機(屠竜))20,Zeke(海軍零戦)11,Frank(陸軍四式戦闘機(疾風))4,Oscar(陸軍一式戦闘機(隼))6,Irving(海軍夜間戦闘機(月光))7,ABC(謎の新型機?)1,Unidentified(機種未確認)18,George(海軍紫電、紫電改)2

なお、現実に紀伊半島でB-29を苦しめた五式戦闘機のコード名は飛燕と同じ“Tony”ですが、米軍側はその存在を知らなかったようで、よく似た零戦、隼、鍾馗、疾風、雷電、紫電(改)などに間違われているようです。また屠竜の割合が高すぎると思われるので、武装司偵(Dinah)や月光が誤認されているのでしょう。他に彗星夜戦(米軍コード名“Judy”)は全く記載がないので、同じ尖った機首を持つ飛燕に間違えられているのでしょうか。

総じて、報告書は今回の日本軍邀撃機による被害を深刻に受け止めており、天候によるP-51の不参加も被害の一因に加えています。また
「当地区(関西)へ日本側邀撃機が集中して機数が増加していること」
「神戸上空に多くの日本側邀撃機を集中出来た事や、良く練られた方法により、B-29は多くの攻撃を受けた。」
「おそらく通常より多くの日本側の熟練飛行士が当地区へ配置されていること」
「以前九州に配置されていた優秀な飛行士や機体が参加している可能性がある」
などの記載があり、最後の記述などは、九州でB-29邀撃戦に参加した飛行第56戦隊や第三三二航空隊のことを冷静に言い当てています。
また
「邀撃機が効率的な角度から攻撃してくること」
との分析もあります。冒頭画像の右半分は報告書に可視化された、日本側邀撃機による攻撃角度の割合です。前方からの攻撃が56%と、半数以上を占めています。報告書では特に
「いつもと違って前方水平、前下方よりの攻撃の割合が高い。日本のパイロットはこの角度からの攻撃の有効性を確信している。B-29の機銃手たちが前下方に銃を向けることが困難であることを知っている。」
とあり、これも飛行第56戦隊や明野教導飛行師団で採用された戦法をしっかり認識、分析しています。

他に日本側邀撃機のクセとして、
「(日本側邀撃機による)43%の攻撃が180m以下に接近すると突然止む。これは昼間の任務では普通である。」
「日本側は戦闘に太陽(逆光)を利用しない。」というのもあります。

また「双発機がB-29との相対角度を変えずに固定角度、もしくは回転銃塔で銃撃してきた」
これは例の「斜め銃」のことと思われ、「双発機」とは、当日これを実践した上記第三三二航空隊の「月光」のことでしょうか。

例の空対空クラスター爆弾である「タ弾」「三号爆弾」の記載もあります。
「2例の空対空爆弾の使用例が報告されている。B-29の右横上空670mから2つのphosphorus bomb(黄燐弾)が投下された。これらは高度5000mにおいて右横90mで爆発したが、被害は報告されていない。またNick(陸軍二式複座戦闘機(屠竜))が暗影から2つのphosphorus bombを投下し、それらは高度5300mにおいて2つの爆撃中隊の間で爆発したが、被害は報告されていない。何人かの搭乗員が神戸上空の高射砲火の中に多くの「黄燐爆発」があったことを報告している。」
「Jack(雷電)が上空から「ロープの付いた袋か缶のような物」を投下した。編隊は乱れたが、爆発はしなかった。」
これらは第三三二航空隊の記録とも符号するので、前者は「月光(Irving)」、後者は「彗星夜戦(Judy)」の可能性もあります。

また、不思議な日本軍機目撃の報告もあります。
「目標(神戸)離脱後、1機のB-29搭乗員が高度5700mにおいて、140°T、高度6700mを進む2機の機種不明敵機を目撃した。この敵機は、尾部構造が見られず、翼幅や機体は小さい。2機は尾部から暗青色の煙の流れを排出していた。全く攻撃的な動きをせず、約2分間同一方向に進んだのち、(我々が)日本を離れるあたり(熊野灘)で大阪方向に引き返していった。」
これは開発中の燃焼エンジン(ロケット、ジェット)を持った試験機か何かでしょうか?。なお最初のロケット邀撃機「秋水」の試験飛行は1月後の7月7日(渡辺洋二「秋水一閃」)、ジェットエンジン搭載の特殊攻撃機「橘花」の初飛行は8月7日(碇義朗「幻の戦闘機」)でした。また、去る5月から海軍が、今回のB-29離脱コースに近い比叡山山頂に、いわゆる人間爆弾「桜花」のカタパルト基地を建設中(8月15日完成予定)であり、目撃された機体の特徴、140°という進行方向から、ひょっとすると、滑空して帰投が可能な「桜花43型乙」(既に実戦に使われていた特攻兵器の「桜花」よりも、幾分「飛行機」に近い)のなんらかのプロトタイプの試験飛行を兼ねた「追跡」だったのでしょうか?。なお近年、米軍による比叡山基地接収の映像が発見されて話題になったようです(比叡山が軍事施設になるのは、戦国時代に浅井、朝倉氏が駐屯して以来でしょうか?)。

他に「日本側の空襲警報(侵入路予測)は明らかに混乱していたか故障していた。なぜなら”IP”(イニシャルポイント、往路の紀淡海峡の「沖の島」)に達する前は6回しか攻撃を受けなかったからだ。しかしながら爆撃態勢にはいってからは神戸上空を中心に(日本を離脱するまで)全域に日本側邀撃機が待ち受けていた。」という分析もありました。これは神戸への爆弾投下そのものの阻止の難しさにも関連していて重要です。

一方高射砲攻撃に関しても
「3機のB-29が高射砲の直撃で失われた。また全481機の3割にあたる148機が高射砲のダメージを受けた。この高い被害割合の原因は4160m~5730mという爆撃高度選択に帰せられる。これは最適高度より低いが、気象状況から必要だった。」
と、深刻に受け止めています。高射砲もよく誤解されますが、標的を「狙って当てる」のではなく、管制射撃によりなるべく標的の「未来位置」近くに複数の砲弾を「炸裂」させ、弾片を含んだ爆風で標的にダメージを与えるというものです。たとえ5cm立方の鉄の塊が空中に静止しているだけでも、B-29という巨大な「軽合金」が新幹線の2倍の速さでそこを通過すると、なんらかのダメージを与えられる、ということです。
(映画「この世界の片隅に」における高角砲(海軍での高射砲にあたる呼称)砲弾が炸裂するシーンで、鉄片が地上まで飛んで来る描写はとてもリアルに感じます。)

米軍側報告書に記されたB-29の損失は以下のとおりです。
(01)目標(神戸)上空で敵戦闘機に撃墜された。パラシュート10基が(開くのが)目撃された。
(02)基地への帰路で(京都か?)高射砲弾が3番エンジンに直撃。搭乗員11名が脱出。誰も救助されなかった。
(03)高射砲によりエンジン2基が炎上。戦闘機の攻撃を受け主翼が分解、墜落。搭乗員11名。パラシュート8基が目撃された。
(04)豪雨の中、エンジン1基損失のまま硫黄島に不時着。搭乗11名。死傷者なし。
(05)目標上空で編隊から墜落。原因不明。搭乗12名。
(06)目標上空でエンジンにダメージを受けて編隊を離れ、敵戦闘機に体当たりされてクラッシュ。海へ墜落。乗組員11名。4名が脱出。
(07)激しい戦闘によるダメージを受け、硫黄島に不時着。
(08)戦闘機によりエンジン2基に被弾。スピンに陥る。搭乗11名。6名脱出。
(09)爆弾装に高射砲を受ける。硫黄島に不時着。
(10)目標上空で戦闘機の攻撃を受け、操縦士、副操縦士が死亡。搭乗11名。パラシュート8基が目撃された。
(11)目標上空で高射砲弾を受ける。左主翼に激しいダメージ。搭乗11名。パラシュート1基が目撃された。

「本土空襲墜落機調査」によると、硫黄島に不時着出来た3機以外では(6)番における脱出4名のみが米潜水艦に救助され、他のパラシュート降下出来た搭乗員は全員捕虜となり、終戦までに処刑されました。
また、この日合計43機のB-29が直接マリアナ諸島までたどり着けず、硫黄島に不時着しました。

[日本側の邀撃戦果の公式発表]
一方、今回の空襲や迎撃に対して、当時日本側の公式発表はどうだったか?。
「中部軍管区司令部と大阪警備府の発表(5日午後2時)によると、戦果は撃墜56機、撃破144機、わが方の損害は未帰還7機だった。だから、翌六日の朝日新聞の見出しは「神戸へB-29三百五十 六割、二百機を屠る 御影、芦屋、西宮にも火災」だった。そして、社説では「殊にわが制空部隊による戦果、撃墜確実に二百機の発表は特筆すべきのものというべく、国民の勇猛心を鼓舞すること極めて至大である」と論じた。神戸防衛の高射砲部隊の活躍がめざましかったことは確かだった。しかし発表された戦果は誇大だった。」(小山仁宗「改訂大阪大空襲」)

[未帰還機数が本当に7機であれば?!]
上記の「撃墜56機」は誇大過ぎますが、これは米軍側も(意図は違えど)同様です。それより「わが方の損害は未帰還7機」の方が気になります。1つは、撃墜数の「水増し」は簡単でも、味方機の損失数はごまかしにくかったのではないか?と思うこと。さらにもう1つは、今回書籍やネット情報からの「孫引き」も含めて自分が得た情報で、日本側邀撃機の未帰還数の合計が、結局7機だったからです。その内分けは
* 陸軍飛行第56戦隊(三式戦「飛燕」)が3機(大阪市、高槻市、不明)
* 陸軍独立飛行第82中隊(武装司偵)が1機(神戸上空にて体当たり)
* 陸軍明野教導飛行師団(五式戦)が2機(共に体当たり、南山城~三重県か)
* 海軍第三三二航空隊(雷電、あるいは零戦)が1機(鳴尾上空)
でした。もし未帰還機の合計が本当に7機で、これらの情報が正確であるならば、山下上空で目撃されたのは陸軍飛行第56戦隊のうちの1機、墜落地が記されていない「小野傳(つとむ)軍曹」の三式戦「飛燕」だけ、ということになります。

高木晃治「飛燕B29邀撃記」末尾に紹介されている豊中市箕輪の超光寺を訪ねてみました。
ここは「かつて戦いの日に、戦隊戦没者のために重ねて回向の火が点じられた」寺で、この昭和20年6月5日の3日前にもここで戦隊の合同葬がおこなわれたばかりでした。昭和59年、古川少佐ほか戦隊関係者の手で念願の「報恩」の碑が建てられ、「戦死殉職者、戦病死者全員の氏名階級」が刻まれています。小野傅軍曹の名前もありましたが、お寺には戦死した場所の記録までは残されていませんでした。
寺域はかつて陸軍伊丹飛行場に存在した「東西滑走路(90-270°)」の東延長上にあり、三式戦飛燕は東から着陸する際のいちばん最終の行程で、大きな瓦葺きの「本堂上空50m」を通過すればあとは安全に滑走路に着地出来たそうです(「飛燕B29邀撃記」)。
中世の地割が残された寺院周辺のたたずまいも印象的でした。

[機体墜落地点はどこ?]
では、中谷村(現猪名川町)の機体が墜落した場所は今どうなっているのでしょう。ひょっとしたら今でもそこに機体の残骸の一部が残存していて、それから機種を割り出せば墜落機を特定、証明できるのではないか?などとも考えました。
藤巴さんがおっしゃっていた「旧道の丘の峠を降りた中谷村側の「菜洗池(ならいけ)」北側の「山の上」とはどこなのか。また、藤巴さん曰く「菜洗池」は堤で2つに分かれていて、その堤の上を旧道自体が「クランク状」に通っていたそうです。この記憶と上述の川西市史における「機体が山ノ原ゴルフクラブ地内に墜落」したという記述から、私は墜落地点を現在の松尾台西の「うぐいす池公園」周辺のあたりだと思い込んでいました。ここはかつて一庫方面からの旧道が来ていて、旧道は現在の「上池」と「中池」を仕切っている堤の上を「クランク状」に通っていたのです。この部分は現在も公園内の「遊歩道」として生きています。
しかし、昭和23年の米軍撮影による空中写真をチェックしてこの間違いに気付きました。一庫から中谷村へ向かう旧道は丘の峠(既に宅地開発で消滅)で「うぐいす池」方面と、もう1本、北西方面へむかうルートに分岐していて、こちらも中谷村に降りたあたりに2つの大きな池があり、その間を仕切る堤の上を旧道が「クランク状」に通過していたのです。(補注2)
そして藤巴さんが飛行機の墜落地点と記憶している「池の北の山」あたりを空中写真で確認すると、なんと池の北東、樹木の生い茂った山の斜面に1点、樹木が「禿げて」いる部分があったのです!(冒頭写真左中央の白い部分)。
「ここだ!」早速写真をプリントして藤巴さんに見てもらいました。墜落地点近くが、旧道(写真左下の細い道)と大正時代に出来た自動車道路(山裾を回っている太い道)との会合点であったことも思い出され、この場所に間違いないとのこと!。
この地点を現在の「2500分の1猪名川町平面図」と見比べてみると、日生中央のほぼ中心部。池は「葉洗池」とあり、かろうじて池の北西端の一部や丘陵斜面が高齢者施設~室内プール施設の北裏あたりに残存していますが、かんじんの墜落地点の斜面は宅地造成により完全に消滅していました(…)。日生中央駅の北東、今大きなDIYショップのあたりです。

[“こいのぼり”と共に…]
それでも何か現場に残っていないか?。あきらめきれずに日頃よく利用しているこのDIYショップを訪ねてみました。やはり、あたりはすべて1980年代以降の人工地形で構成されていて、当時を偲ばせるものは何もありません。
ちょうど5月連休前の日曜日のおり、店は賑わっており、屋外のスピーカーからは「こいのぼり」のメロディが流れていました。

「やねよりたかい こいのぼり おおきいまごいは おとうさん ちいさい ひごいは こどもたち おもしろそうに およいでる」

そう72年前、ここの、屋根よりずっと高い場所で、大きい飛行機と小さい飛行機が戦ったのでした。そういえばこの歌、「火垂るの墓」でも使われていたことを思い出しました。

西宮の疎開先の家で、清太と節子がオルガンを弾きながらこれを歌っていて、それを未亡人に「この戦時中になんですか、非常識な!」とがめられ、我慢出来なくなった二人は家を飛び出し、やがてのたれ死んでしまう。そのきっかけになった歌…。

あの時、未亡人は防空頭巾をかぶり、手にはハタキに似た「火たたき棒」を持っていました。隣組の防火活動にも参加しない清太を「なんの役にも立たんと!」とののしっているのです。
二人は黙っていました。しかし彼らは未亡人と違って、6月5日朝の空襲でナパーム油脂を撒き散らす焼夷弾の凄まじさを知ってしまっています。あの人影のない通りで最初の焼夷弾が静かに燃え出すシーンで、画面は防火用バケツ、防火水槽、ハシゴ、そして「火たたき棒」をしっかりとクローズアップで映しています。それらが「何の役にも立たなかった」ことを無言で表現しているのです。

そう考えると、歌詞も含めて、この同じ6月5日朝に戦闘機が墜落した場所に「こいのぼり」が流れていたのは、鎮魂歌のように、あるいはなにか深遠なメッセージであるかのように感じられ、ここを訪ねたことは無駄ではなかった、と思いました。

(⑥につづく)

(補注1)
Tactical Mission Report Field Order No.82 Mission No.188 Headquarters XXI Bomber Command APO 234 国立国会図書館コレクション

(補注2)
この中谷村(江戸時代以前は原村)から一庫村への峠に向かう2本の主要な旧街道が2本とも登り口でわざわざ「堀を渡るように」池の中を通っているのは偶然ではなく、「塩川氏時代の防衛ライン」の名残ではないか?と推測されます。こういった構造は、城や城下町周辺の道では一般的です。明治時代の古地図で見ると、この丘陵自体、山下、一庫地域の「西土塁」のように南北に伸びています。西側からこの旧街道を来る“敵軍”は、「土塁」の下で、わざわざ全く遮蔽物のない無防備な池の「橋」を通過せねばならず、丘の上の「火点」で待ち受ける塩川軍から簡単に狙い撃ちされます。特に塩川氏と西隣の有馬郡の荒木重堅が敵対関係になった天正六(1578)年の「荒木村重の反乱」の時などはここに監視哨や関所があったかもしれません。いわば「防衛上の要」でした。

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