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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十二回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十二回

~ 山下町は、塩川氏による近世城下町が起源 ② ~

 

[if もしも…]

時々空想してみるのです。仮に、江戸時代初頭に、「一万石くらいの大名」が山下に入部して“藩”が設立されていたらどうなっていただろう、と…。

時代柄、もはや獅子山城跡を再建することは許されず、おそらく現在の郷土館あたりに「陣屋」が築かれ、現「下財町」の範囲は、一軒ごとの区画がもう少し広い、数十の武家屋敷群で占められたことでしょう。侍町全体の周囲も柵や垣で囲み、「大手門」を下財町中央南に設けてその脇に番所を設け、出入りも規制されます。商業地(山下町)から一庫村へ抜ける道も、この「侍町」を通過せず、西横脇を抜けるルートであったことでしょう。そして古城山も藩の管理地となって入山禁止になったと想像されます。

以上は私の勝手な空想でしたが、実際(平安家を含む)下財町、山下町のプランは、そのまま「陣屋城下町」の武家地、町人地のプランと似ています。播磨の福本藩や安志(あんじ)藩の復元図と同じくらいの規模です。また、織豊期以前の城が廃された城下町に、近世以降に陣屋が築かれた例は、近隣の三田(摂津)をはじめ、山崎(播磨)、洲本(淡路)、近江の高島(大溝)や仁正寺(日野)、山家(丹波、)峰山(丹後)など枚挙に暇がありません。私としては、因幡の“鹿野”を訪ねることを是非お勧めします。20年ほど前に、鳥取藩の塩川家の文書を調べにいった際、ついでに立ち寄ってみたのですが、山城跡、内山下の陣屋跡、町人地区の配置と規模が、ちょうど“獅子山城下町”を南北反転させたように、懐かしく思われ、私は感動のあまり現地で笑ってしまいました。

下財町・山下町においても、仮に近世段階で藩が設立される歴史を経ていれば、当地が塩川氏以来の城下町起源であることは、現在でもごくごく常識的に受け入れられていたはずで、私のような素人が、あえて「山下は城下町起源であった」などと主張する必要もなかったでしょう。

幸か不幸か、内山下跡には「近世大名」ではなく、鉱山と製錬の関係者や関連役所が入部して栄え、「山下吹き」という名さえ轟かせてしまいました。そして江戸末期段階の下財屋敷では、既に町の起源が忘れられており、“昭和後期”に編纂された「市史」がその江戸末期の記述をそのまま通史として採用してしまいました。この「ボタンの掛け違い」が始まってから今年で“まだ?”四十数年目にすぎません。

[今回のテーマは]

さて、城下町編の第②回です。今回は商業地区である「狭義の山下町」のことはひとまず脇に置かせていただくとして、城下町の中でも武士たちの集住域と思われる「内山下(うちさんげ、うちやました)」についての考察の第一段階として、城下町成立“前夜”についてあれこれ書き散らしてみました。何度ものべているように「内山下」は位地的には、山下町と古城山の間に位置する現在の「下財町」に相当します(画像①~⑥参照)。

そしてこの「元・侍町」が、おそらく廃城時にいったん更地となり、その後の豊臣時代の慶長年間から江戸時代にかけて銅、銀の精錬所や鉱山関係者の居住区である「下財屋敷」として、区画が再利用されたであろうことは城下町編①で推定しました。また、南に隣接する商業地域の「山下町(狭義)」が天正二~五(1574-1577)年頃の成立であることも述べました(「笹部村野山之一件」)。

[塩川氏:中世と近世の狭間で“誤解のサンドイッチ”]

領主が拠点城郭の周りに「家臣団」を集住させるということ。これは「中世」から「戦国」をへて「近世」へ移行する武家社会のありかたです。しかし、いまだに戦国~織豊期の段階でさえ、塩川氏が紹介される際に「多田院御家人筆頭」という独特なフレーズが「お定まり」のように使われます。

この「鎌倉幕府による安堵」に由来する呼び方は、既に多田荘が消滅し、塩川氏が領主にとって替わった元亀~天正期段階ではもはや有名無実であり、塩川氏が今だ中世武士団の頭目であるかのような、誤解を膨らませるばかりです。

こうした「塩川氏の出自」に由来する誤解に加えて、「塩川氏が下財屋敷で盛んに銀、銅を精錬して経済力を誇った」などという「後世の下財屋敷」に由来する別種の誤解も根強くあります。これらの先入観から

「“中世武士団”の塩川氏が「城下町」といった“進んだ”ものをもつはずがない」とか

「製錬を行なう為に町が築かれ、山の下に位置するから「山下」と名付けられた」

といった根拠のない見解がこの2018年も今だ健在です。

塩川氏はもはや「荘園の地頭」ではありませんし、わざわざ内山下で金属精錬をする「鉱山業者」でもありません。織田家に属してからの末期の塩川氏に課せられた責務は、「近世的な軍隊を組織して軍役を行なう」事であり「領内を統治、改革する」事でした。「城下町」はそれを組織的、物質的、経済・流通的に実現させる“装置”として必要でした。

[“城下町”という曖昧な歴史用語]

次に、一般に世間に通用している「城下町」という用語の問題点について考えてみます。例えば、「○○城には城下町はなかった」などと論じられたりする際、「城下町」というもの定義が、しばしば曖昧になっています。

[「商業活動がなかった」?]

一般には「城下町」という単語を聞いた時、格子戸を持った町屋が密集する商業地、町人や職人の居住区の方を連想する方が多いように思います。城や藩が廃絶された場合、武家屋敷地の方は城と運命を共にして消滅する事が多いのに比べ、商業地は経済の論理で生き残ることが可能であり、町域の景観も保存されやすく、よく観光地のイメージ映像などにも使われたりするからでしょう。

ある人が「城下町はなかった」と言った場合、その人は「町人地区、商業地区はなかった」という意味で言っているケースが多いように思います。この見解は時に、近世風の直線的な「長方形街区」、「短冊状地割り」の区画の痕跡がないだけで、商業活動自体がなかったかのように判断されるケースをも含みます。

[「内山下」は城下町?]

一方、領主にとって重要なのは、一般には忘れられ勝ちな「侍町」、つまり「家臣団の集住地域」の方です。こちらは「戦争・統治」という領主の「本来の家業」に関わる要素です。

こうした「侍町」が城の周囲に隣接する場合や、城の前面に位置する場合、特に「内山下(うちさんげ)」と呼ばれます。一般的には城において、「内山下までが城郭の範囲」と考えられています。と、なれば「内山下」ははたして「城」なのか?、あるいは「城下町」なのか?、という定義の方も曖昧になっているわけです。

[山城に住む場合も]

さらにややこしいのは、実際、戦国時代の拠点城郭が山城の場合、被官や家臣団がその家族を含めて、内山下どころか山上に、つまり山城そのものが、武士たちの集住地域であるといった例もある場合です。例えば近江六角氏の観音寺山城は特に有名ですが、近隣では他に赤松氏の置塩(おじお)城、三好氏段階の芥川山城や飯盛山城などが知られています。こうした城跡では郭面に生活遺物も多くみられ、城そのものが侍町をも兼ねていた、という見方も出来ます。

上記のように、内山下や山上に被官、家臣たちの集住が見られる場合においても、明確な“商業地”の痕跡を伴なわなければ、「“城下町”はなかった」と一言で片付けられてしまうことがあります。この場合“城下町”は商業地区に限定されてしまっています。

[「城郭」「内山下」と「商業地区」が少し離れている場合]

また、過渡的な存在としては、南河内の高屋城があります。城郭跡と認識されている台地上の総構内の範囲は、武家屋敷群跡地をも含んでいます。一方、少し離れた台地の下の中世都市、“古市”が、実質的に高屋城の商業地の役割を果たしていたと思われます(ちなみに高屋城の東南端にあった大きな「櫓台」は古市の南北の通りに“ヴィスタ(見通し)”を形成していました)。また以前連載第九回で触れた摂津の「越水城」と「西宮」の関係もこの高屋城と古市の関係に似ています。

[「村落」にしか見えない規模でも]

中世における小規模な国衆レベルの拠点城郭の場合はどうでしょうか。たとえ城のまわりに被官たちや、商、職人らの集住があり、町域内で定期市があったとしても、文献が残されなかったり、発掘成果がなければ、地表にはせいぜい「集村」程度の痕跡しか残らないことが普通なので、「城下町はなかった」などと、やはり一言で片付けられがちです。摂津においては、能勢氏の地黄(丸山)や、安部ニ右衛門の大和田などです。しかし、居住者の消費人口が生産者を上回る都市機能を伴っていたならば、「村」ではなく、「都市」、すなわち“城下町の最小初源的なあり方”として評価すべきでしょう。

[「城下町」の成立前夜、プレ「城下町」と呼ぶべき段階を想定する必要性]

こうした拠点城郭に関して「○○城に城下町があったのか、なかったのか」を「白か黒か」で問うのは乱暴すぎるように思います。各々の拠点城郭毎に、たとえ文献や考古資料がなくとも、様々な“グレーゾーン”を想定する必要を感じます。具体的には、以下のような、要素ごとの詳細な問いかけが必要かと思われます。

* 城主は被官、家臣たちを拠点城郭のまわり(あるいは内部)に集住させていたか?

* それは、全員が対象か?、あるいは例えば一部の幹部だけか?

* 集住は在地を完全否定した近世的なものか?、あるいは過渡的な「通い奉公」、「在番」的な状態を含めるか?

* 商業地域の存否に関しては、常設店舗の有無のみではなく、定期市や振売を含む商職人との取引も考慮する必要がある。

* 不便な高い山上に、武士たちの家族を含めた集住から当然発生する莫大な日々の食糧や生活物資の供給は具体的にどのようなかたちで賄われていたのか?

* 次第に畿内から全国的へと拡大してゆく軍役やそれに伴う兵站に商人たちの関与はなかったか?。そういった商人たちを手近に住まわせる必要はなかったか?

といった風に、“後に城下町が総合的に担う各要素”を細かく内分けして、別個に考察する必要がありましょう。

[プレ「山下町」段階]

獅子山城が天文十(1541)年に築城されてから、商業地・山下町(狭義)が成立する天正二~五(1574~77)年まで、三十数年間もあります。塩川氏の拠点であり、多田地域の政事中枢へと成長していった「城郭の麓」が、ずっとただの田園だけであったとはとても思えません。上記に述べたような要素が、必然的、需要的に付加(戦局によっては削減)され、最終的に天正初頭に織豊系城下町として結実した、というのが現実的ではないでしょうか。

[獅子山築城の四年後(?)、真っ先に勧請された“牛頭天王社”の意味]

まず、城山の東南、笹部村の山裾には、塩川国満が平野村の平野明神(現・多太神社)を勧請した「牛頭天王社」がありました。干支からおそらく築城の四年後、天文十四(1545)年のことだと思われます。ちょうど塩川国満が「元・細川高国派」を離れて、当時優勢であった「細川晴元側」に鞍替えして“安定”を得られた時期にあたります。この「牛頭天王社」は、明治以降に、元々笹部村にあったらしい「八坂神社」(位置不明)とも合祀されて「平野神社」と名前や祭神を変えています。また、現在神社の東隣に位置する大昌寺は、宝永四(1707)年以前には、笹部村西南端の旧字「古屋敷」(現・「甘露寺南交差点」南の国道173号線路面上にあたる)にありました(画像①左下)。「元禄五(1692)年奥川辺村々寺社吟味帳」によると、牛頭天王社の当初の敷地は、現・大昌寺域をも含む、今の“平野神社”の3~4倍以上の広大な面積をもっていました(画像①)。

ここで重要だと思われるのは、塩川国満が、氏神と思われる平野明神を笹部村に勧請したことで、これを「市の神」として境内に「市を開く」ことをも可能にしたことです。

元になった平野村の平野明神(現・多太神社)の方は式内社に比定されるという、当地域ではもっとも由緒ある古社です。「高代寺日記」においても、塩川氏がまだ平野村周辺を拠点にしていた段階で「平野社」における様々な祭礼や「平野馬場」での行事の記事が頻出しており、永正十一(1514)年十二月には塩川種満が境内で「七日調飢人救ル」といった被災者救済までが行なわれています。塩川氏と最も関連が深いこの古社の境内において、中世段階で定期市が開かれていたことは推測されても良いでしょう(一方の“多田院”は寺院なので)。平野村には多田氏の(?)上津城や他に“湯の町”もあったという地勢です。

塩川氏の新たな拠点、獅子山城の麓においても、30年後の天正初頭に山下町が成立するまで、やはり何らかの商業施設や商行為が必要だったでしょう。最寄りの商業都市といえば“池田”ですが、日々通うには遠すぎますし、そもそも塩川氏と池田氏はなにかと敵対することが多かったのです。

[伊勢国・木造(こつくり)氏の城下町]

なお、参考までに、天正十二(1584)年頃の景観と記される「伊勢木造(こつくり)城下町絵図写」(三重大学附属図書館蔵)という、中世末期段階の初源的な城下町を描いた町絵図があります。木造の城と町は低地部に位置し、現在は圃場整備によって城を含む半分以上の旧地割りが失われていますが、昭和20年代の米軍空中写真を見ると、城を含む中世の区画が田園上にはっきり確認出来ます。整然とした織豊~近世城下町とは違い、中世の雑然と密集した「集村」といった感じの区画です。プランは絵図の描写に整合し、その正確さをも表わしています。町中には木造氏や重臣たちの城郭や寺社、庶民の家らしきものも描かれています。伊藤裕偉氏による復元図(「中世後期木造の動向と構造」)によると、全体の規模は東西400m X 南北600m程で、獅子山城と山下町(広義)全体と似通った規模です。そしての町中には「牛頭天王」という神社があり、境内の南隣の民家(?)に囲まれたエリアに「月ニ六日市場」という記載があるのです(画像蔵③・藤田達生「伊勢木造(こつくり)城下町絵図写について」より)。今強調したいのは、祭神の一致ではなく、近世以前の国衆レベルの“城下町”における定期市の実体が描かれている、ということです。この木造における「月ニ六日市場」という市の頻度は、山下町成立前夜の塩川氏の「市」を想起する際、参考となりましょう。同時に上記“[「村落」にしか見えない規模でも]”において述べましたように、「集村」のような雑然とした区画であっても、拠点城郭の周辺であれば、「村」ではなく「都市」、すなわち黎明期の「城下町」として評価する必要性を示唆しています。

[天正初頭の摂津・花熊城下町との比較]

もうひとつ絵図を見てみましょう。今度は時代遥かに下って、整った織豊城下町のスタイルです。画像⑦は、山下町(狭義)成立と同時期である、天正ニ年~五年頃に築かれた花熊城、及びその城下町を描いたものです。花熊(花隈)城については当連載第三回の「荒木略記」特集において少し触れました。

花熊は、荒木村重が摂津一職として伊丹氏を滅ぼし、新しい織豊系スタイルの有岡城、城下町を整備し始めた天正二(1574)年から、尼崎城、吹田城、三田城と共に、荒木氏の支城として、村重の従兄弟である荒木志摩守元清に築かせました。現在の神戸高速鉄道花隈駅北側の山麓段丘上に位置します。城跡は花隈公園として、模擬石垣が築かれています。

天正六(1578)年秋、荒木村重が織田方から毛利・本願寺方に寝返った際、織田方の攻撃を迎え討った当城は荒木方として天正八(1580)年夏の停戦まで持ちこたえました。

連載第三回において触れましたが、この天正八年

「二月廿七日、(信長)山崎に至って御成り。爰(ここ)にて津田七兵衛信澄、塩河伯耆、惟住五郎左衛門両三人、兵庫はなくま表へ相働き御敵はなくまへ差向ひ、然るべき地を見計らひ、御取出(砦)の御要害に仕候て、池田勝三郎父子三人入れ置き、其上帰陣仕るべきの旨仰付けられ訖。」(「信長公記」)

この城攻めの時、塩川長満は信長の命で、織田信澄、丹羽長秀と共に花熊城に対する陣城を築きました。完成した城には信長の乳兄弟であった池田恒興、その子池田元助、池田照政(のちの輝政)が入ります。画像⑦「摂州花熊図」は、池田輝政の後裔、備前岡山藩に伝わった、この花熊城攻めの状況を描いた絵図です(岡山大学附属図書館蔵)。画面では切れていますが、右上「生田森」の北に“回”字状の二重堀に囲まれた「紀伊守(池田恒興)向城」も描かれており、これが塩川長満らが築いた付城(城攻めの為の陣城)だと思われます。

神戸市内の花熊城とその城下町の旧地は、現在公園化、市街地化しており、一見、見る影もありませんが、この絵図と照らし合わせながら現地を踏査すると、意外にも町の区画や地形に当時の名残が感じられ(木内内則氏のご教示による)、同時にこれは絵図の正確さの証左ともなっています。

絵図では総構の中央南が「本丸」とあり、堀で囲まれており、北西隅に「殿守(天守)」、南東隅に「櫓」が記載されています。現在の花隈公園の位置と思われます。本丸の北には複雑な折れを伴う堀で囲まれた「二丸」、「三丸」が隣接しています。特筆すべきは城の東隣に、2ブロックの「侍町」、3ブロックの「足軽町」が並んでおり、これらの外周も堀で囲まれています。近代風に言えば、「将校居住区」「兵卒居住区」といった感じです。また「足軽」は“歩兵”としての意味合いだけではなく、おそらく扶持米、今風にいえば「給与制の傭兵」という、戦国後期の兵制に適応した新階級とも考えられ、この近世の先駆けとも言える城下町絵図の印象の一翼を担っています。一方の「侍」たちが知行取り、つまり中世の在地領主制の名残りを保持しているのとは対照的です。

一方、城の西隣は4ブロックの「花熊町」、もしくは「町」とあり、やはり外周が堀で囲まれています。これらは商業地区、あるいは職人町であったのでしょう。この城と城下全体の南面は、おそらく断層変位とかつての海蝕によって形成された“段丘崖”を形成しており、花熊が総構を伴った要害な台地上に位置していることがわかります。また崖下を東西に走る西国街道(絵図の赤線)は、三つの村で構成される「町」と記載されており、こちらは築城以前からの商業地であったのでしょう。この街道筋の商業地の方は、花熊城下町が荒木氏と共に消滅したのとは対照的に、現在も長大なアーケードで知られる「元町商店街」として現役で(!)繁栄しています。

城跡の発掘調査では、天正初頭前後の瓦が出土しており、これらは天正八年に築かれた兵庫城に転用されています。おそらく花熊城も、部分的には総瓦葺建築や石垣を用いた織豊城郭の造りだったと思われます。天正初頭の摂津における、初期近世城郭・城下町の構造が完成していた1例です。塩川氏の山下(広義)も同時期の建設で、同じような構成だったと思われ、ただ城郭だけは天文十年の古い築城でしたので、部分的に石垣と瓦葺建築を増築して、織豊城郭風に整えたのでしょう。

(この「摂州花熊図」は大変皮肉なことに、川西市史に挿図として掲載されています。)

[「内山下」のプランについて]

さて、ようやくここで、獅子山城の“内山下”の具体的な考察に移りましょう。

現・下財町のプランとしてまず特筆すべきは、区画の方位が「N8°E」程である事です。これは山下町の軸線「N15°E」より若干西へ振っています(画像①②)。商業地区と侍町間のこうした「軸線の振れ」は伊丹氏~荒木氏段階で造営された伊丹(有岡)などでも見られ、要因としては「成立の時期差」が反映していると思われます。

さて、下財町と山下町との境界線は今も城郭を思わせる「折れ」を伴っています(画像②④)。また、模型⑥においては南側などに“堀”を表現していますが、これも有岡や花熊など同時代の織豊系城下町のあり方などから、推定したものです。おそらく排土を内側に盛って土塁としたことでしょう。そして廃城後は土塁を崩して堀を埋め立てたと思われます。これに加えて慶長年間~江戸時代にかけて、下財屋敷周辺は幅数十メートルに渡って、鉱滓(カラミ)が投棄され続けた(画像②参照)結果、再び盛り上げられて山下町との間に段差が出来ています(画像④⑥のB,C)。これらは一見「土塁」のように見えてしまう為、塩川時代を復元する際、割り引く必要があります。また下財周辺の、鉱滓よって埋め立てられているエリアの元々の区画や、山下町から城下北口(一庫口)へ抜ける、塩川時代の「通り抜け」ルートなども不明であるため、模型においては大胆に想像復元している事をおことわり致します(画像⑤)。

そして、商業地区である山下町の中央を南北に貫く「仮称・大手通」の北端、R地点が内山下の大手門であったと思われます。明治の地籍図においては、「門」の内側、すなわち北側の道幅がテーパー状に広くなっており、城郭の「内枡型」の形跡を思わせます(画像②)。また、昭和40年代の画像④において、路面上に段差が確認出来ますが、聞き取り調査によると、かつての段差はさらに急で、だんじりを通過させるのが大変だったそうです。またこの「大手」の東西は、下財側が南にせり出しており、つまり左右から“横矢”を掛けられる「両横矢」を形成しています。

江戸時代の元禄年間以降は、この「大手」の西側に幕府(一時高槻藩)の「多田銀山山下役所」が設置され、銀や銅の受領や出荷を取り仕切っていました。また、高札場でもありました。

[塩川氏の居館の場所について]

なおWikipediaの「山下城」においては、下財町を「山下城の居館」として、現・郷土館あたりに塩川氏の居館があったかのように書かれています。これは、山上の「臨時の詰城」と山下の「平時の居館」のセットである「寝小屋式山城」のイメージが当てはめられて推測されているだけです。実際の塩川氏や幹部たちの居館は「高代寺日記」における諸記事から、山上の郭群であると推定されていましたが、近年はからずも土壌流出などによって出現した遺物から、このことが証明されつつあります。“式三献”など、武家の結束において重要な儀式の痕跡である“かわらけ”(使い捨ての土師器皿)や輸入陶磁器などは山上の主要郭ほど多く見出され(画像②山城のオレンジ色部)、最も多いのが山上の主郭です。居館は山頂でした。そもそも塩川氏は、おそらく戦局への危機感から、台地城であった新田あたりの城から、比高のある獅子山城に移ったと思われます。高い山上に住み替える事自体が、“引越し”の理由のひとつだったということです(他に敵対関係が想定される、能勢氏と池田氏の中間地点への移転という意味もあったかもしれません)。

[野間城の居館との比較]

これと比較して興味深いのは能勢郡の野間氏の野間城です。獅子山城とよく似た、両翼から登城路を見下ろす縄張り構成の山城ですが、山麓部には明らかに野間氏の居館跡と思われる広大なテラスがあります。堀、土塁で守られているうえに、枯山水の庭石さえ残っています。発掘調査はなされていないようですが、輸入陶磁器が表採されているようです。居館のさらに直下、現在、棚田になっている斜面からは14世紀から16世紀にかけての豊富な遺物や時期差を伴う複数の掘建柱建物が検出されており(立縄手遺跡)、館周辺に野間氏の家人などが集住していた可能性があります。しかしながら一方で、山城最高部の主郭もまた広大で、こちらも輸入陶磁器などが比較的豊富に散見され、居館跡だったと思われます。最終的に焼亡したであろう土壁なども見られます。戦局の危機感に対処して、本拠地自体を移転した塩川氏に対して、天正八年に滅亡するまで拠点を動かなかった野間氏は、居館を山麓から詰城へ移転(もしくは増設)することで危機をしのごうとしたのではないでしょうか?

[内山下は何時出来た?]

話を再び獅子山城山麓に戻します。連載第十回において、地侍たち(元・多田院御家人)を在地から切り離して家臣として集住させたことの傍証として、

「「高代寺日記(下巻)」には明応四(1495)年以来、多田院御家人たちの在地居館の記事が「○○宅」「○○亭」として何度も出てきます。しかしこれらは元亀二(1571)年の記述を最後に姿を消すのです。」

という事を述べました。これに加え、

* 塩川氏という「領主」の拠点城郭、政治中枢であること

* 城と山下町(天正初頭成立)にはさまれているという位置関係

* 織田家の下で大規模化、近世化してゆく「軍役」の状況と緊張感

* 断片的な諸文献の記述

から、「内山下」、すなわち「侍町」の完全成立時期は、山下町(狭義)より少し早い元亀年間(1570~1573)頃ではないかとみています。そして一般に「元亀争乱」と呼ばれるこの危機的状況が、「内山下」を成立させる引金となったのではないか、とも推測しております。

(③に続く)

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