シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十三回
~ 寿々(鈴)姫と三法師の周辺⑥ 「ご近所の寿々さんからのお裾分け」 一条内基(うちもと)と近衛信尹(のぶただ)の間で ~
[はじめに]
久しぶりに、一昨以来中断していた寿々(鈴)姫の「断片記事」に出会ったので書いてみます。寿々に関する次の回は、本当は織田信忠の妻として、岐阜の場面から始めたかったのですが、謎が多くて、ずっと後回しになってしまっております。
たまたま前々回、連載第十一回ラストの“補注2”において、塩川氏末期の天正十(1582)年、多田院と新田村の間で争われた境界訴訟の記録(「九月朔日」付の「多田院・新田村際目注記」・多田神社文書四八二・川西市史所収)において登場する「塩川十兵衛尉」なる人物について触れました。彼は、多田院と塩川家の「取付(とりつぎ)」を担当していました(「天正十年九月廿六日」付の「多田院知事元守証状写」・多田神社文書四八三)。
加えて、塩川氏滅亡後の文禄二(1594)年十月廿日、豊臣秀次家臣で同姓同名の「塩川十兵衛尉」なる人物が豊臣家の蔵米の運送、管理にあたっていました(補注0)。他に「駒井日記」文禄三(1593)年正月、及び四月条にも、秀次領の尾張において、田中吉政配下の「塩川十兵衛」が「中島郡堤築之奉行」として登場(藤田恒春氏「増補・駒井日記」)しています。秀次は天正十八年から尾張・清洲城主になっており、塩川十兵衛はその領内、木曽川の治水工事の一端を担ったようです。そしてこれら一連の「塩川十兵衛」が元摂津塩川氏家臣と同一人物である可能性を指摘しました。
さらに、近衛信尹(のぶただ)の日記「三藐院記(さんみゃくいんき)」においても、文禄元(1593)年十二月十四日、朝鮮渡海を志し、肥前名護屋に向けて京を去る信尹を「生田右京亮」、「塩川十兵衛」、「一条内基」の三名が乙訓郡向日町はずれまで名残惜しく見送っている事を紹介しました。
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(補注0)
「江州蔵入当納分参百石、北郡より至大津被召寄候間、手寄之舟申付、塩川十兵衛尉可相渡者也
文禄弐年十月廿日 朱印(秀次)」
(近江・若宮神社文書 藤田恒春「増補・駒井日記」補注より引用)
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[きっかけは]
そうした勢いもあって、図書館で近衛信尹の日記「三藐院記」(史料纂集、校訂・解説、近衛通隆・名和修・橋本政宣)をパラパラ眺めておりましたら、慶長四(1599)年閏三月に
「十日、庚寅、一折一條殿御内儀より給、七条隠居(光寿、教如)へ一折被参了、秋田藤太郎(実季)屋敷ニ不及案内垣、~(以下空白)」
という、一行が目に留まりました。文頭の「一折」とは折紙、この場合は「送り状」を添えた何か食べ物の「お裾分け」かと思われます。「一條殿御内儀より」「一折」を給わった、とあり、その後「七条隠居」に「一折」を差し上げた、と読めるので、頂いた「お裾分け」の一部を、「七条隠居」にさらに「裾分け」したのかもしれません。今でもお中元、お歳暮などで、こういったやりとりがあるかと思います。
現代もそうですが、昔の日本人は互いの贈答のやりとりを通じた「互酬関係」を何よりも大切にしました(盛本昌広「贈答と宴会の中世」など。補注1参照)。こういった記事は、特に贈答の記述が日常茶飯事であった貴族の日記としては、あまりにも平凡かつ、ありきたりな内容です。
さて、本稿で重要なのは「一折」の送り主が「一條(条)殿御内儀」と記されていることです。「”Dono”を姓に添えるのは家長の場合のみである(ジョアン・ロドリゲス「日本語小文典」池上岑夫訳)」ということですから、この場合は一条内基の妻(内儀)、おそらく正室の方、要するに、塩川伯耆守長満の娘(荒木略記)、寿々からお裾分けを頂いた、ということになります。彼女が「三藐院記」(多くは失われている)に登場するのはこのくだりと、もう一ヶ所(不詳・後述)だけのようです。そしてこれは目下私の知るかぎり、「寿々自身による能動的な行為を記した唯一の記録」なのです。
「一折」の一部を転送(?)された「七条隠居」というのが、19年前の天正八年、石山本願寺で徹底抗戦派であった「教如」だったというのも面白いです。教如は「光寿」とも称したので、「寿々から光寿ヘ」御馳走が渡ったのか?。石山本願寺はかつての永禄末期、足利義昭との確執で京を出奔した父、近衛前久(さきひさ)共々、近衛親子が流寓した先であり、天正八年には前久が今度は織田方の外交官として、勅命を奉じた“石山戦争”の終結にあたりました。今や「天正」は遠くなりにけり…、という感じですが、この慶長四(1599)年閏三月十日といえば、ちょうど前田利家が七日前に死去しています。秀吉は既に半年前に亡くなっており、徳川家康と石田三成の間に暗雲が垂れこめようとしている時期です。翌年の関が原の戦いは、岐阜城主である息子、織田秀信の運命をも飲み込みます。また日記の末に名前を見せる秋田(安部)実季は出羽国(秋田県)湊城主。この後、徳川方として奮戦するようですが、豊臣氏滅亡後は伊勢国に蟄居の身となって落剥しています(隠居中に薬、「万金丹」を考案した伝承を残しています)。いよいよ戦国時代が「仕上げ」に突入して行こうとする“前夜”とも言える時期にあたります。
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(補注1)
今回の本稿とは直接関係ありませんが、盛本昌広氏の同書、「贈答と宴会の中世」(吉川弘文館)において、朝廷や足利幕府における十月の「亥祝」や、石清水八幡宮善法寺領木代荘(現・豊能町)による「亥子餅(いのこもち)」の献上に関する詳細な考察があり、この「亥祝」は「高代寺日記」においても塩川氏の恒例行事として、頻出しているので、当地の民俗としても興味深い内容です。また氏の別著「本能寺の変・史実の再検証」(東京堂出版)の巻末においては、江戸初期に徳川家臣「花房助兵衛」から徳川家康、秀忠に「一庫炭三箱」が贈答品として送られた際の、家康らの礼状の存在が紹介されています。贈答品として、徳川家康にまで献上されたほど「一庫炭」が高級ブランドであったことがわかります。
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[話を戻して、日記の主「近衛信尹」といえば]
摂関家の貴公子でありながら、戦国末期の混乱の中で波乱万丈な人生を送り、後世「寛永の三筆」とも謳われた書の名手。(某局の「開運 なんでも鑑定団」にも時々彼の筆跡が顔を出しています。)歴史上においてはちょっとした“スター”的存在です。元服時には、かの織田信長が加冠を勤め、織田家の通字である「信」の一字を与えて「信基」と名乗らせました。信長を終生“父”とも慕い、幼い時分から織田家の子弟や小姓達に囲まれて育ち、彼自身武士になろうとさえしました(補注2)。天正十年、かけがいのない保護者、信長を失うと「信輔」と改名、この日記の記事の頃、慶長二年~四年にかけてさらに「信尹」と改名しています。藤原摂関家嫡流にもかかわらず、織田家の通字である「信」にこだわり、後継者にまで「信尋」と名付けている事実に、彼の信長への想いが滲み出ていると言えましょう。
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(補注2)
以下、前田多美子氏の「三藐院 近衛信尹」(思文閣出版)から引用させて頂くと
「天正十八年、二十六歳の時、豊臣秀吉が読むことを想定して書いた書状の案文「小田原への状」には、自身が所属する階層である公家に対して「さながら嫉妬深き悪女のごとくにして」と感覚的な拒絶を表明する。そして「代々当家の諸侯(武家の事・筆者注)、心底には何事の候も存ぜず候えども、表裏無き頼もしき覚悟をめんめんの嗜みとせられ、しかも心やすくもて扱わるる様躰ども、幼年より自然、相馴(な)るるに及び申し候故、名字は公家に生まれ候えども、心中は武家の覚悟を羨(うらや)み申候」と武家に対する親近感を吐露していた。」
同じく前田氏同書中の「小田原への状」読み下しから
「四歳より牢篭(浪々)につきて武家と相交わり、漸(ようよ)う十一歳哉(や)らんの頃上洛せしめ、信長公、父子の御契約にて、始めて十四歳の時、在陣までとげ候て、終(つい)に御生害の前宵まで罷り出で候故、馬廻小性(姓)又ハ同輩の少年どもと参会~(以下略)」
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[そういえば、寿々の立場も信尹と似ています]
なにしろ織田信忠の妻でした(荒木略記)。織田信長は義理の父…。塩川家も近衛家も、信長や信忠“個人”の存在によって小身、もしくは落剥の身から引き立てられました。二人の急死によって、両家は再び凋落し、豊臣秀吉に翻弄されました。ある意味「似た境遇」だったのです。そして皆さんお気づきでしょうか?。織田信忠と近衛信尹。どちらも「のぶただ」であり、この慶長四年は、まさに彼が「信尹」と改名した頃なのです。「寿々」から「信尹」へ「お裾分け」。う~ん?、ちょっと「意識」し合っていた?この二人…。
信尹は天正五(1577)年に十三歳で元服しており、寿々は天正七年頃に織田信忠に嫁いだと推定されますから、年齢的にも近かったようです。それどころか、織田信忠が、能勢→獅子山城(?)→古池田城を経由して岐阜へ「謎の急遽帰城」したのが天正七年四月二十八日(連載第五回参照)。「信長公記」にはこの二日前の二十六日、信長が「古池田」において「近衛殿(前久)」らと乗馬を楽しんだことが記されています。状況から、前久の息子、信尹(当時“信基”)も同伴していて、古池田において、塩川長満(三日後の二十九日に信忠の「賀茂岸砦(川西市)」に転任)や婚礼前の寿々姫を目撃している可能性だってあるのです。
[おっと、寿々の夫であった一条内基を忘れては]
いけません。近衛信尹より十七歳年長で従一位。「本能寺の変」の時の関白、氏長者でした。家格としては近衛家が五摂家筆頭で、一条家は九条家と並んで二番目でした。上記(補注2)において引用したように公家とは、密な社交辞令、式典、故実、形式の中で、やはり「心無いお世辞」と「裏での陰口」などが武家社会より激しかったことが、他ならぬ信尹自身によって記されています。公家社会の中で孤立した信尹。そんな中、「三藐院記」を見るかぎり、一条内基に関する記事は決して多くはないものの、二人の間には単なる社交辞令を超えた親密さが感じられます。「一條殿御内儀」などと、モノモノシイ漢字が並んでいますが、信尹にとっては「ウマの合うオジさんの正妻」であり(織田信忠夫人の頃は兄嫁のような感じだったでしょう)、しかも今、超ご近所住まいの間柄でした。
上画像の①~⑥をご覧下さい。この天正末~文禄初頭頃は、既に豊臣秀吉による都市改造の一環で、皇室の御所や公家衆などの屋敷群は、ほぼ現在の京都御苑周辺にあたる一角に移転されて集住化、いわゆる“公家町”が形成されつつありました。詳細は次回に譲りますが、近世の近衛邸と一条邸はほぼ、現在の京都御所東北角付近に、道をはさんで隣接していたのです。「一條殿御内儀」からの「一折」は、画像⑥のピンク色矢印ルート、もしくは、真南(一条邸は当時、現・御所の位置だった可能性もある)から近衛邸に届けられたと思われます。
今回、時系列的には、いきなり塩川氏滅亡後の文禄~慶長年間に飛んでしまいますが、主に一条内基と近衛信尹の「近い」人間関係について触れてみて、そこからこのたった11文字、「一折一條殿御内儀より給」の持つニュアンスに思いを馳せてみたいと思います。
(実は本稿も当初は、短編ばかりを集めた「小ネタ集」のひとつとして着手したのですが、いつもの悪いクセで、芋ヅル式に史料が繋がってしまい、こんな有様に…)
[ここで、ちょっとおさらいを…。]
当連載はしばらく寿々の記事から離れておりました。そして、シリーズ第一回“プロローグ”は、そのラストをまさに、京の一条家邸宅で締めくくっています。
「高代寺日記」によると、豊臣氏滅亡の年である元和元(1615)年八月、塩川長満の孫にあたる少年が、京の「一条殿ヘ参」(当時の主は昭良)っており、少年は、翌二(1616)年二月にも「一条主ニ居 則 源兵衛ト改ム 中書ノ任意 基満ト号ス」の記述があります。どうやら少年は一条邸に居候してそこで元服、「塩川源兵衛基満」と名乗っているようなのです(補注3)。
「基」は藤原摂関家の通字であり、慶長十六(1611)年に亡くなった先代の当主がまさに「内基(うちもと)」でした。
塩川氏と一条家の縁については、連載第三回で少し触れました。寛永十八~二十(1641~43)年頃成立し、幕臣・荒木元政から幕府に提出された「荒木略記」(群書類従所収)中に
「塩川伯耆守。是は満仲の子孫と申伝へ候。それ故伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候。壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前。壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄庄九朗(元助)室にて御座候。池田出羽守(由之(由元か))継母にて御座候。後に城之助殿御前は一條殿(一条内基)北之政所。庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」
という記述があります。
塩川長満の娘二人がそれぞれ織田信忠、池田元助に嫁ぎ、夫たちの死後は共に一条内基の正室、側室になったというものです。塩川家と一条家の関係は他に岡山や鳥取の池田家文書によって裏付けられます。また、文中で彼女たちが「北之政所」、「政所」などと物々しい名称で呼ばれているのは、彼女たち自身にも三位以上の官位が授けられていたからでしょう。一条内基は従一位まで上りつめ、かつて関白にも就任した身の上でしたから、このような体裁が必要だったと思われます。またこの姉妹はそれぞれ、寛永十(1633)年(来迎寺位牌)、寛永十四(1637)年(岡山、鳥取の池田家文書)まで生きましたから、少年であった塩川基満は、仕官の相談を兼ねて、当時未亡人として健在だった叔母たちを見舞ったのでしょう。また、この一条家が「塩川氏救済」の場であったことは次回で触れたいと思います。
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(*補注3)
「高代寺日記」においては、元和三年正月十六日の記事にも「源兵元服」の記述があり、さらに元和四年正月四日の記事にも「主殿元服源兵衛ト改ム」があって、編纂の中で基満元服の記事が重複、混乱しています。また文中「中書ノ任意」とあるのは基満の父、「頼一の意向」という意味です。塩川頼一は永禄十二年に阿波で戦死した塩川孫太夫の子「辰千代」(当時十四歳)であり、塩川長満により「猶子」として引き取られました(「高代寺日記」、槻並「田中家文書」)。孫太夫は現在の猪名川町槻並の元・多田院御家人、田中氏です。その妻(基満の母)は同じく元・多田院御家人であった「多田元継の娘」。元継も天正五年に泉州「茨カ岳」で戦死(高代寺日記)しています。
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[戦国の世と近衛家]
さて、近衛家といえば、元来五摂家の筆頭でありながら、16世紀後半という異常事態の畿内で、近衛稙家(たねいえ)、前久、信尹の三代にわたって「中世と近世の狭間」、「公家と武家の狭間」で活躍し、そして翻弄された存在です。本稿では既に第九回において、天文十九年正月、近江・坂本に足利義晴、細川晴元らと共に亡命している義晴の義父「近衛稙家」がちらっと出て来ます。
次代の前久も、永禄前期に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元に下向し、その外交官として手腕を振るいました。その後帰洛。しかしながら織田信長の上洛後は、足利義昭との確執により、都を出奔。石山本願寺、丹波赤井氏、越前朝倉氏の間を転々として「反織田」の外交工作に奔走しました。しかし天正三年、意外にも前久の立場を理解し、その外交能力を評価していた織田信長自身による招聘によって、織田家外交の第一線に返り咲きました(谷口研語「流浪の戦国貴族 近衛前久」(中央公論社))。
嫡子「明丸(信尹)」は天正五年、織田家の二条城において信長自身の加冠によって元服、「信基」と命名されるという恩恵に浴します。しかしながら天正十年、「本能寺の変」が勃発、いったん生き延びた信長の嫡男、信忠は宿所、妙覚寺から誠仁親王の二条御所に移って明智軍に抵抗を試みます。この二条御所は、かつて信基も元服した元・織田家二条城でした。皮肉なことに明智軍は隣の「近衛殿御殿へあがり、御構(二条御所)を見下し、弓・鉄砲を以って打入れ、手負・死人余(あまた)出来、次第々々に無人になり(信長公記)」、とあるように、近衛前久の「下御所(谷口氏前褐書)」の屋根に上って信忠を攻撃、自害に追い込みました。この件もあって近衛家は一時的に、織田信孝、羽柴秀吉から、明智方へ加担した容疑を受けてしまいます。近衛前久は出家。信基は「信輔」と改名。近衛家は第一線から脱落します。
[豊臣時代という特殊状況の中で]
次の豊臣政権は近世化政策の中で、朝廷への介入度が強く、昇殿が出来る「侍従」以上の武家、「公家成(くげなり)大名」というものを大量任官させました(黒田基樹氏「羽柴を名乗った人々」(角川選書))。そんな折、近衛信輔が二条昭実と、関白の地位譲渡を争った、いわゆる「関白争論」をうまく利用されて、結局「関白」の位は羽柴秀吉に奪われてしまいました。平安時代前期の9世紀の藤原基経以来、19世紀の幕末に至るまでの千年間、「関白」は藤原摂関家による持ち回りでした。その「唯一の例外」となった直接的被害者が近衛信輔であり、豊臣秀吉、秀次という二代にわたった「武家関白」の登場という異常事態に見舞われました。このため信輔は、公家社会からも冷たくあしらわれ、特に菊亭晴季や豊臣家の前田玄以との確執もあってノイローゼに陥り、奇行にも走りました。しかしながら、元々幼い時分から河内の若江、丹波・春日の赤井氏、また織田氏の中で育ち、武家に憧れていた彼です。今こそ思考を飛躍させ、いっそのこと武士として朝鮮に渡海しようと考えたのでしょう。
「近衛殿ハ家ヲ離テ、太閤ヘ一円(すべて、ことごとく)武辺ノ奉公ニ、被出、則名字ヲ岡ノ屋敷殿ト申云々。相続ノ御息(嫡子)モ無之、サスガノ家ヲ棄テ被果置、併物狂ノ事也(多聞院日記、天正二十(1592)年八月二十四日。前田氏前褐書より孫引き)。」
武士の服装をして「岡ノ屋敷ナニガシ」と名乗り、折から豊臣秀吉による朝鮮侵略の基地、肥前(現・佐賀県)名護屋を2度までも訪ねているのです(後にこの「奇行」を口実に加えられ、秀吉は勅勘の形式を以って近衛信輔を二年半薩摩に配流します)。
[近衛信輔、肥前名護屋への出発の日]
現在残された彼の日記はわずかですが、年代日付が明確な最も古い部分が、この2度目の名護屋への旅立ちの日から始まっているのです。以前触れましたが、この日記初日におけるくだりは、塩川氏研究の資料としてだけでなく、日記文学としても描写が見事で、偶然ながら「つかみはバッチリ」な内容です。もし、近衛信尹の人生が「映画化」されるとしたら、この初日の部分を冒頭に持ってきてもいいくらいです。この場面で観客に「この主人公はいったい何者?」と、疑問を抱かせてから「タイトルバック」に移り、少年時代へフラッシュバックするという流れです。ともあれ、以下にたどってみましょう。
「文禄(1592)元年十二月十四日、都をいて(出)し時、鷹司(信房)殿御送りありしを、御のり物(輿)たりし故、四条わたりより返し申し候了。此時宗喝・幸阿弥・吉蔵同前也」
なんとなく寂しい旅立ちの光景です。五摂家のひとつ、鷹司家の信房ほか三名が見送ってくれました。名前からわかるように、信房も信長から引き立てられた存在とみえ、近衛信輔の数少ない理解者だったかもしれません。既に述べたように、近世初頭の近衛家は、公家町の最北部(一条通以北)、御所の北にあり、鷹司家は御所の東南にあったようです(「中むかし公家町之絵図」京都学歴彩館蔵)。信輔は父ゆずりの乗馬の名手で、今回も“武士として”名護屋へ向かったわけですから、この旅も東洞院通~大宮通にかけての南北路を、馬で南下したのでしょう。信房がわざわざ輿で見送りに来られたのが申し訳なく、他の方々と共に四条通ライン辺りで見送りを遠慮しています。
「一条殿(内基)ニ六条邉テ懸御目、生田右京亮・塩川十兵衛ナト東寺邉まて来ル」
六条まで南下した時、見送りに来た一条内基と遭遇します。おそらく内基も馬だったかと思われます。さらに二人の武士、「生田右京亮」と「塩川十兵衛」も洛中の西南角、西国街道の基点である東寺周辺まで見送りにきました。「塩川十兵衛」は何度も述べているように、豊臣秀次家臣で、そして元・摂津塩川家家臣だったかもしれない人物です。今回の寂しい見送りに、やはり塩川長満の娘二人を正室、側室にしている一条内基が同行しているのは、はたして偶然なのかどうか。
もう一人の「生田右京亮」もまた豊臣秀次の家臣でした。江北、浅井氏の被官、井口氏の出で、「中原系図」(群書類従・内容に少し混乱があるようですが)従五位下で「関白秀次公改賜生田氏」と記載されています。「生田」姓は秀次からの賜りであり、また、彼の叔母、阿古は浅井長政の母でした。
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ヤケッパチになって武士に転身、朝鮮に渡ろうとした元・左大臣の公卿、近衛信輔。彼を西国街道沿いに見送った三名。元・関白の従一位で、妻二人が摂津塩川氏という一条内基。故・浅井長政のイトコで秀次家臣の生田右京亮。やはり秀次家臣で、摂津塩川氏の一族だったかもしれない塩川十兵衛。「歴史ドラマ」によくありがちな、「お定まり」の顔ぶれとは違い、「史実」はいつも「意外」かつ「ユニーク」な組み合わせを提示してくれます。
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話を再び「生田右京亮」に戻すと、藤田恒春氏の「豊臣秀次の研究」(文献出版)によれば、日記の同年である、文禄改元前の天正二十年の秀次「御家中御人数備之次第(東大史料編纂所蔵「古蹟文徴」)」における全34230人中、3014人の「御後備」のうち、225人が「生田右京亮」の率いる部隊でした。また藤田氏同書において、日記二年後にあたる、文禄三年秀次家臣「尾州御普請請衆并(ならびに)京都ニ御残被成衆」中、「京都ニ被為置衆」9名中の一人が「生田右京」とあります。加えて「駒井日記(史籍集覧)」文禄三年正月廿六日条の「御参内ニ付而辻固割符之事」の全265人中、「十九人」を「生右京殿」が率いています。ともかくも彼がこの頃、秀次家臣として京に駐留していたことがわかります。
(他に二次史料ですが、小瀬甫庵の「太閤記」において、文禄四年七月、突然秀吉から「謀反」の嫌疑をかけられ、伏見から高野山へ護送される秀次に同行が許された、わずか11人の秀次家臣の一人が「生田右京亮」でした。)
再び日記に戻って
「一条殿吉祥院ニマテ御酒勧給フ、此所ニテ、シシラ(縬、しじら・絹織物)一端(反)、扇廿本玉(給)ル、彼中宿り出給テ」
「吉祥院(きっしょういん)」村は桂川の東、現在の国道171号線久世橋東詰付近の集落です。内基の「御酒勧給フ」がなんともいい!。彼が携えてきた酒なのか、途中で酒屋に寄ったのか、「まあ、飲め」というわけです。この離別の「空気」が伝わってきます。そして吉祥院村でいったん宿に入って信輔に餞別を渡しています。絹の反物の他、扇を20本も与えているのは、信輔が行く先々で世話になる人々に「京みやげ」として配れるように、との配慮でしょう。
「猶無御帰(なお、お帰りなく)〆(結局?)むかふの明神(現・向日神社)まて御出ある、ここニテ又茶屋ヘ立よらせ給て勧盃アリテ、従是御帰ある也」
桂川の渡し場の手前、吉祥院村で最後のお別れかと思ったら、内基は一緒に川を渡って「向日町(むこうまち)」までついて来てしまいました。今でもこういう状況ってありますね。せめて、駅前まで見送ろう。駅前に着いたら、やはり名残惜しくて、入場券を買って、プラットホームまで見送ろう、という感じです。内基は信輔が嫌う公家社会の「空慇懃(からいんぎん)」、つまり「表面だけ丁重ながら、誠意の無い有様」とは真逆のキャラのようでした。この“見送りルート”はほぼ、現在でもたどれる近世の西国街道であったと思われます。そして向日町で茶店に寄って、再び“酒”です。
向日町には明治初頭まで、鶏冠井(かいで)興隆寺という大寺院がありました。寺院跡から近年の発掘調査において、豊臣時代の「金箔瓦」が出土しているので、秀吉の休憩所も兼ねていたようです。その門前、街道筋の茶店で、元・関白と元・左大臣の公卿二人が、渡世人よろしく、別れの水盃を交わしていたという…。一条内基は、ようやくここで、京へ引き返して行きました。
「右京・十兵(ママ)五六町尚慕来リ離別」
生田右京亮と塩川十兵衛は、信輔を慕ってまだついて来ていたのです。彼らも内基と一緒に盃を交わしたかと思われます。「尚(なお)慕来リ」が泣かせます。向日明神の五六町、つまり5~600m南といえば、向日町の町はずれ~小畑川河川敷の「一文橋」(現・向日市と長岡京市の境)あたりで、ようやく二人は引き返したのでしょう。
彼らの主、豊臣秀次は前年の天正十九年に関白に就任しています。“関白秀次”といえば、近年、豊臣政権によって捏造されたらしい「殺生関白」の汚名が払拭されつつあり、公卿としても「漢詩文に心を寄せていた」「非凡な資質に恵まれた一面を持っていたように思われる」(藤田恒春氏「豊臣秀次の研究」)など、彼への評価が見直されつつあります。公家になろうとした武家、秀次は、まさに信輔と真逆な立場にあって、かつて信輔とは「異他なる」親しい間柄であったようですが、今や信輔と確執関係にある菊亭(今出川)晴季の娘を正室に迎えるなど、秀次に対しては幾分、屈折した思いがありました。しかし秀次の家臣二人が、最後まで信輔を見送っているのはとても印象的です。家臣の二人としては「板挟み」の心境もあったでしょう。
「橋本ノ橋をわたりこし乗船、沈酔故也、同船友枕(伊勢貞知)也」
酔いが廻ってきて、もはや馬に乗っていられなくなりました。山崎から淀川の橋を南岸に渡り、橋本(現・京都府八幡市)から船で大坂に下ります。伊勢貞知が同船したとありますから、他の御伴や荷駄達はそのまま枚方経由で街道を進んだと思われます。「伊勢貞知」は、足利幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族と思われ、谷口克広氏の「織田信長家臣人名辞典」によると、天正八~九年にかけて、織田信長の命により、九州において豊後の大友氏と薩摩の島津氏との和睦にあたった人物です。この時に、同じく信長の命で両者の講和にあたった近衛前久との縁が出来たのでしょう。薩摩は中世以来、近衛家の荘園があり、島津氏はその荘官を出自としたようで、近衛家と島津家は「持ちつ持たれつ」の関係でした。
「初夜過ニ大坂川端の満介宿ニ着、従奈良禅斎来、霙(みぞれ)一樽」
宵の口に大坂に到着。宿には奈良から禅斎が餞別の霙(補注4)を携えて訪ねて来ていました。信輔は酒豪でしたから、再び禅斎と飲んだことでしょう。日記の初日はこれで終わりです。
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(補注4)
「奈良特産の「焼酎に浸して乾燥させたあられ餅を味醂に加え、密封して熟成させた酒(大辞林)」
「麹の白米がそのまま混ざっていて、空から降ってくる霙のように見えるところからこう通称された(前田多美子氏前褐書)
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[近衛信輔の薩摩配流と帰還]
このような「奇行」を繰り返すうち、ついに足元をすくわれて、文禄三(1594)年四月、近衛信輔は薩摩の国、坊津に流されてしまいます。一般には後陽成天皇の「勅勘」という形式になっていますが、天皇の中宮、前子(さきこ)は信輔の妹でした。この時の天皇から信輔に宛てた手紙や、信輔告発の骨子となった、秀吉から朝廷に提出された「一書の覚え」などを分析された、前田多美子氏の「三藐院 近衛信尹」によれば、天皇は密かに信輔に対して同情的であり、告発は「信輔配流の結論がまず初めにありき、であって、そのために拾い集めたこじつけばかりである。」とのことです。配流は、何らかの理由で信輔を警戒した秀吉自身による意向でした。
翌文禄四(1595)年七月、豊臣秀次は突如粛清され、直後に秀吉の信輔への待遇が一変します。「秀次亡く、今出川(菊亭)晴季越後に配流のただ今、この時である。やはり信輔の薩摩配流は、この二人と密接な関わりがあったということなのであろう(前田多美子氏同書)」ということから、まさに中世から近世への転換期、秀次事件真相の謎も含めて、信輔、秀次ともに、秀吉による疑心暗鬼の犠牲者であったように思います。
翌、慶長元(1596)年九月、赦された信輔は帰洛し、翌二年六月、「思い申す所有るに依り」、「信尹(のぶただ)」と改名申請しています(「改名申状控」陽明文庫蔵)。冒頭の「一條殿御内儀」から、お裾分けを頂いた記事は、この二年後にあたります。
信尹のその後の人生は、概して平穏無事であったと言えましょう。慶長十(1605)年,ようやく20年間遅れて「関白」に就任することが出来ました。そして彼を翻弄した「豊臣家」が今まさに滅びようとする、「大坂冬の陣」緒戦さなかの慶長十九(1614)年十一月二十五日、京にて病没します。
[忘れてしまいたい事や~・酒と肴と近衛と一条]
上記、名護屋への旅立ちの日記からもうかがえた様に、一条内基は相当な“酒飲み”でした。酒好きの貴族といえば、以前、中尾城の戦いのくだりにおいて、山科言継(ときつぐ)について触れました。そして近衛信尹もまた、名立たる酒豪、かつ健啖家です。それらが彼の寿命を縮めたと言われている程です。残された「三藐院記」においては、社交に関する記事の中で、特に「一条内基」が多く登場するわけではありませんが、内基との「酒」に関する記事を並べてみると、やはり信尹にとって、貴族社会の社交辞令を超えた「気の合う間柄」、「本音で話せる人」であったと思われるのです。以下に並べていきます。
「アハセ安芸(毛利)輝元持参、入夜まて飲酒、山名禅高(豊国)被来、一乗院殿(興福寺一乗院門跡・尊勢、信尹の兄)、一条殿、百疋 長井右近(永井直勝)」(慶長三年四月廿日)
この日の近衛邸における宴会の顔ぶれが興味深いです。冒頭の「アハセ」は、渋柿を焼酎につけてアクを抜いた“合わせ柿”のことと思われます。毛利輝元持参ということは、広島県特産の“西条柿(渋柿)”の類でしょうか。
末尾の永井直勝は徳川家康家臣。かつて小牧・長久手の戦いで、池田恒興・元助親子を討ち取った“永井伝八郎”として有名です。元助の未亡人となった塩川長満の娘が、秀吉の命令で(池田由之・由成系譜、鳥取県立博物館蔵)、今、同席している一条内基の側室となっているのは、不思議なご縁です。
また、二人目の山名禅高は、天正八年の秀吉の第一次鳥取城攻めにおいて、篭城中の城内から単身投降した元・鳥取城主として知られています。翌天正九年の鳥取城攻めにおいて、禅高は秀吉方として参戦しますが、戦後は結局浪人となり、なんと「摂津国河辺郡多田庄に来りて多田氏が館に幽居あり」(サイト「山名氏史料館「山名蔵」」中の「山名家譜 巻之八」より。同記は江戸幕府の「寛政重修諸家譜」のために編纂)という記録があるのです!。秀吉に仕官せず、世捨て人となって、但馬村岡を経て、摂津多田荘の多田氏の館にひきこもって(幽居)いたという。禅高はその後天正十四年、徳川家康に仕官する為に京の徳川家宿所に下向します。京で禅高を家康に取次した一人が前述の永井直勝でした(同「山名家譜」)。また禅高が多田家を去り際に「多田氏が多年の懇情を謝せん為に重代の脇指を多田氏に授け離別の情をつくさる 今に至て多田兵部元朝が子孫此脇指を所持すという」(同上)とのことです。時期的に、山名禅高は獅子山城下の、内山下(現・下財)の多田氏館か、あるいは塩川氏滅亡後は帰農したであろう、多田氏の実家あたりに居候したかと思われます。「高代寺日記」天正五年九月に故・多田元継宅が「山下」にあったと記載があり、「山名家譜」における「多田兵部元朝」 と「元」の字が共通している点から、知られざる元継の後裔の名前として、史実と思われます。また、この記事は、間接的に「高代寺日記」の信憑性や、塩川家臣の山下集住を補完する史料とも言えます。さらに、天正九年の鳥取城攻めは、羽柴秀吉軍としては珍しく、池田恒興率いる「摂津衆」が加わっており、塩川家は家老の「塩河吉太夫」が参戦している(信長公記)ので、状況的にも、禅高が戦後に塩川家臣宅に流寓する機会は有り得ると思います。ちなみに禅高の祖父はかの細川高国でもありました。
ともかくも、この慶長三年四月廿日の近衛邸の酒席では、妻が塩川氏である一条内基と、山名禅高の間で、また永井直勝もちょっと絡んで、多田の地や摂津塩川氏、故・池田恒興父子関連の話題で、話に花が咲いたのではないでしょうか。禅高は慶長七年二月二十八日、三月一日にも近衛邸を訪問しています。後、但馬村岡藩祖、「交代寄合」の旗本となりました。(はからずも冒頭から山名禅高に全部持っていかれてしまいました(汗)が…)
「夢想連歌、人数一門、及晩一條殿」(慶長四年閏三月八日)
「夢想連歌」とは、夢に見た啓示を発句に据えて、巻く連歌のようです。一条内基が晩まで残っていれば、絶対一緒に飲んでると思います(決めつけ)。
「於桃花坊御振舞、如水(黒田官兵衛孝高)、宗加、若傳右衛門尉、其外数多祗(?)候、夜半迄也、酒宴」(慶長四年八月廿七日)
会場となった「桃花(華)」とは、一条邸の「屋号」です(近衛家で言えば「陽明」にあたる)。若(槻)伝右衛門は黒田家家臣。黒田如水(官兵衛)が一条邸に来たなら、酒席に内基の妻、寿々や妹も顔を出したと思います。きっと、官兵衛が、荒木村重によって有岡城に幽閉された時の話題に及んだでしょう。なぜなら有岡(伊丹)城は本来、彼女たちの母方の実家、伊丹氏の城だったからです。そして今、彼女たちの伯父、伊丹忠親は、官兵衛の子、黒田長政に仕官していました。一条邸を訪れた「其外数多(その他数多く)」の中に伊丹忠親もいて、寿々たちと再会を喜び合ったかもしれません。残念ながら忠親はこの翌年に関が原の戦いで戦死することになります(谷口克広氏「織田信長家臣人名辞典」)。
「三人於此亭湯ツケ、桃廿五・白酒盛方院ヨリ、初夜時分一條殿ヘ松梅院ツレテ赴」(慶長六年六月十七日)
日中、信尹が曼珠院と松梅院(禅昌)との確執を調停した後、松梅院、長老(西笑承兌)達と湯漬けで酒盛りしてから、「初夜時分」(宵の口)に禅昌を連れて、向いの一条邸に行きます。あとは推して知るべし。
「果法院(桑山重晴)来、両白ニ樽 桑山修理(一晴)、一條殿・祐丞・葛西、一樽仁宿ヘ遣ス」(慶長七年三月十八日)。
両白(もろはく)は奈良の酒。持参した果法院(桑山重晴)は織田家以来の武将でしたが、この時は既に隠居。嫡子、桑山一晴は大和布施(新庄)の初代藩主。両白のうち、一樽を「仁宿」へ、ちゃんと裾分けしていることがわかります。また(奥州)葛西氏は秀吉の小田原攻めの際、滅亡せられていますが、信尹の口利きにより(「三藐院記」慶長四年八月二十五日条)、葛西左衛門尉が伊達政宗に千石で仕官出来ています。
「晴、一條殿・杉若越後(無心)・祐法・松梅院ナトニ振舞、伯(白川雅朝)、中御門(資胤)、阿野(實顕)、猪熊(教利)、西洞院(時直)、昌叱(里村仍景)、昌琢(里村景敏)」(慶長七年七月七日)
杉若越後は元・朝倉家の武将で、豊臣時代は紀伊・田辺の領主でしたが、関が原合戦で西軍側に付いて改易。この時は京で文人になっていたようです。田辺における杉若氏時代の城郭は、遺構が不明確のようですが、越後が居た泊城跡(田辺市、遺構は破壊)からは、織豊期とおぼしき軒瓦が見つかっています(水島大二氏「和歌山城郭研究第15号」)。また、この宴席には「公家衆乱行髄一」(当代記)と謳われ、後に「猪熊事件」で刑死する「猪熊教利」も参加しています。連歌師、昌叱は師匠、里村紹巴とともに、明智光秀の「愛宕百韻」に参加していることで知られています。
「晴、朝飯御袋(信尹母)ヘ振廻申、白鳥一・三原酒大桶二荷左衛門太夫(福島正則)ヨリ、使ツケ(柘植)三十朗、アサクラ山椒・マルアハ如安、蚫(あわび)一折果法院(桑山重晴)隋身、入夜杉若(越後・無心)来、松田勝右衛門尉来、新酒ノ徳利・クマヒキ(熊引・魚)一條殿御成」(慶長七年八月九日)。
「御袋」すなわち信尹の母は謎の人物で、「家の女房」(近衛家譜)、若狭武田氏女(系図纂要)あるいは「丹波・波多野惣七の娘」(丹波誌)という説まであるようです。
「黒田節」など酒豪としてのエピソードで有名な福島正則(広島城主)は、備後三原産の酒を「大桶二荷」送ってくるなど、噂に違わぬ豪快ぶりです。使いの柘植三十朗は福島家臣。「アサクラ山椒」は但馬朝倉谷(八鹿の南)の原産で、現在も山椒の主要な品目。如安はキリシタン大名として有名な、後に国外追放となってマニラで死ぬ内藤如安。松田勝右衛門尉は、名前から足利幕府奉行人家の出自で、豊臣時代は、京都所司代として近衛信輔とは確執もあった「前田玄以」の筆頭執事を勤めていたようです(伊藤真昭「豊臣期所司代と下代衆」)。前田玄以はこの五月二十日に丹波亀山城で亡くなっており、ちょうど喪中が明けた時期ではあります。また、この頃、嫡子茂勝の丹波八上への転封が決定しています。酒席としては「(近衛)あの時は故・前田殿には随分イケズされてなぁ…」「(松田)いやあ、それがしも、職務上、板バサミの日々でしたよ…」なんて会話を想像してしまいます。
そして宴席の最後に新酒徳利と肴を持参して「御成り」する一条内基は「真打登場!」という感じです。クマビキはシイラ科の海魚で、現在でも高知県において漁が盛んです。土佐にはかつて戦国末期まで一条家の荘園、幡多(はたの)荘があり、一条家の分家が在国していました。内基自身も一時土佐に下向しています。この「クマヒキ」はその縁故で、土佐から京・一条家に届けられた加工品かと思われます。また、土佐は今でも「酒の国」で有名ですので、内基持参の「新酒徳利」の方も、あるいは土佐からの贈答品かもしれません。
「(舟で)大坂ヘ下向ス、~中略~丑剋程(午前2時)ニ大坂ニ着岸、従廿四日未(二十四日よりいまだ)一條殿御逗留ニテ御旅宿ニ参了、桑原勝太郎粥ヲ下々(近衛信尹の使用人)ニ振廻フ、小鳥三、蚫三、炭ニ(2)籠稲田喜蔵(正勝)夜中ニ持来」(慶長十一年正月三十日)
信尹は真夜中に大坂に到着。そのまま一条内基の宿所に転がり込んでいます。記事の末尾では、炭火で焼鳥とアワビを賞味しているわけですから、一条内基と一杯やっている「可能性極めて大」です。
「芸者共数人来、及晩一條殿参ベキ由也(ウチに来なさいという)、赴、及暁天」(慶長十一年二月廿九日)。
一条内基との酒に関する最後の記事がこの有様です。一条邸に赴き、絵に描いたような「朝まで芸者をあげてのドンチャン騒ぎ」か。最強のタッグ…。この時代、「芸者」といえば「岩佐又兵衛」の屏風絵が目に浮かびます。内基の妻、寿々やその妹は、こんな時どうしていたのでしょう?。一緒に同席して楽しんだのか、それとも、あきれ果てて先に寝てしまったのか…。皆さんも「京都御苑」に行かれる機会がありましたら、是非、近衛邸跡、一条邸跡もご覧になられて、現地でこの時の光景を思い浮かべてやってください。
[風呂関連の記事など]
当時、風呂(蒸し風呂)文化は上流階級のみならず、一条通りにあった「一条風呂」などの銭湯が「洛中洛外図(上杉本)」に描かれているなど、庶民にまで普及していました。公家や寺院は自分たちの風呂施設をもっており、客人への「振る舞い」もありました。社交場としての側面もありますが、やはり「互いにリラックス出来る」ことが重要な要素であり、相手を選んだことでしょう。一条家との風呂に関する記事は、わずかですが、以下に紹介します。
「一乗(條カ)殿ニテ風呂振廻」(慶長六年六月十三日)
近衛信尹がお向いの一条邸で、風呂によばれています。思わず「一乗」と書いてしまったのは、兄(興福寺一乗院門跡)のことと間違えたのか、あるいは、薩摩・坊津に配流されていた文禄年間、偶然現地にあった「一乗院」という寺院(現・南さつま市)で、何度も風呂によばれた記憶が甦って交錯してしまったのか。
「陰(曇り)、祐丞興行風呂、忍テ入了、一條殿同心」(慶長七年五月廿七日)
「雨、盛方院(吉田浄慶・医家)風呂興行、忍テ入了、一條殿同心申」(二日後の廿九日)
今度は祐丞や盛方院が振舞う風呂をよばれています。暗い空模様の中、なぜか共に「忍テ入了、一條殿同心」つまり「こっそり、一条内基と風呂をよばれに行った」というのが面白い。
「一條殿ニ風呂アリ、風呂以前ニハスキ(数寄)アリ」(慶長十一年正月五日)
またまたお向いの一条邸における風呂です。正月の「初風呂」でもあったでしょう。しかしながらこの日、近衛信尹としては気が気ではなかったはずです。なぜなら前日から「愛娘」(太郎姫か)が高熱を出しており、この日も「愛娘ハシカ出」の記述があるのです。偶然なのか、一条邸の参会には当代の名医、曲直瀬道三(まなせどうさん)の名前もあるので、おそらく向いの近衛邸にも寄ってもらって、娘の診察を頼んだのではないでしょうか。
また、以下、余談ながら、以前触れた映画「火垂るの墓」(故・高畑勲監督)において、主人公兄妹が西宮の疎開先で、「隣家の風呂によばれる」場面があります。こうした「近所にお風呂をよばれる」文化は全国的に昭和30年代頃まで普通にあったのではないでしょうか?。さらに超余談ながら、これまた以前触れた映画、「この世界の片隅に」(こうの史代原作、片渕須直監督)において、実家に戻った主人公、「すずさん」と妹「すみちゃん」が一緒にお風呂に入るシーンがありますが、一条内基邸においても、寿々と妹が一緒に蒸し風呂に入っているシーンだって、史実として十分、想像、もとい、想定が可能なのです。
ちなみに、一条邸跡は現在、宮内庁京都事務所敷地になっており、2008年から翌年にかけて、京都市埋蔵文化財研究所によって部分的に発掘調査が行なわれています(丸川義広「公家町遺跡」(2009年))。大半の江戸時代の遺物に混じって、16~17世紀ころと見られる、風呂で使用する「軽石」(垢スリ石)が見つかっています。(軽石は「徳大寺家」敷地時代の遺物の可能性もあります)。
「廿三日、乙卯、鯉一池田勝吉、龍山・女御・光照院殿被成、風呂アリ」(慶長七(1602)年四月)
これは近衛邸における風呂の記事です。冒頭、鯉一匹を送ってきた池田勝吉は、故・池田元助の子、元信。そうです、母が塩川長満の娘で、一条内基の側室になっている方です。元信は、母と共に一条邸で育ちました(池田家文書)ので、幼い頃から近衛信尹を知っていたでしょう。そして日記の後半では近衛邸に、龍山(出家した父・前久)、女御(後陽成天皇に入内した妹・前子)、光照院殿(やはり妹で光照院住持)が訪ねてきています。一家水入らずです。風呂にも入ったりして楽しい一日だったと思われます。池田元信は、あらかじめ彼らの訪問を知っていて、鯉を送ってきたのかもしれません。
そして次に紹介する一日もまた、感慨深い要素満載です。
「晴、一條殿八瀬ヨリノ御帰京ニシユカクシ(修学院)出合申、賀茂ヘ同道申、リウハウ(柳芳院休庵)所ニテ」御女房衆一所ニ予ヘンタウ被参了、足ソロへ(賀茂競馬足揃)不見帰京、ウミタケ(海筍・二枚貝)一桶・ミリンチウ一桶 安志」(慶長六年五月一日条)
信尹は冒頭、洛外の修学院で、八瀬帰りの一条内基の一行と出合いました。八瀬(やせ)は比叡山の麓で「窯風呂の里」として知られ、「言経卿記」などにも登場しており、現在も旅館「八瀬かまぶろ温泉ふるさと」にて体験入浴が可能です(宇野日出生「八瀬童子 歴史と文化」思文閣出版)。一条内基は風呂遊山からの帰路だったのでしょう。気になるのは「御女房衆一所ニ予ヘンタウ被参了」のくだりです。「ヘンタウ」は日葡辞書にも”bento”と記された「弁当」と思われ、「女房衆」は「予」、すなわち信尹持参の弁当を振舞われているようですから、柳芳院の関係者などではなく、内基と共に遊山に出てきた女性たち、すなわち、侍女を含む、寿々やその妹の可能性があります(!)。要するに、「柳芳院において、一条内基や一条家の女性たちと一緒に、予(信尹)持参の弁当を食べた」という事です。
馬好きの信尹は、弁当持参で「賀茂競馬足揃」見物に出かけたものの、偶然、八瀬帰りの一条内基とその女房衆一行に出会って、予定を変更し、結局、競馬を見ずに帰宅したというわけです。社交辞令程度で「今日は競馬を見る予定がありますので、これにて失礼致します」と挨拶もそこそこに立ち去るような人間関係ではなく、この邂逅(かいこう)を楽しんでいる様子が、伝わってきます。
この「邂逅」は帰宅後も続きます。「ウミタケ(海筍・二枚貝)一桶・ミリンチウ一桶 」が「安志」から送られて来ていました。
「ミリンチウ」とは焼酎を味醂で割ったリキュール。肴である海筍と共に、酒好きの信尹へ心憎い贈り物です。ところで「安志」とは一体何者?。これがなんと、当連載第三回で(第十一回にも)紹介した、かつて摂津、花熊城主だった武将、「荒木元清」のことなのです!。他に「三藐院記」上では、「杉原一束 荒木アンシ(安志)」(慶長四年八月廿六日条)、すなわち“杉原紙”一束(五百枚)が彼から送られてきた記事があります。杉原紙(“すいばらし”とも)は書の大家である信尹には欠かせない品でした。そして、この安志こと、荒木元清の孫、元政が後に「荒木略記」を著し、塩川長満の娘二人の嫁ぎ先を後世に伝えてくれました。日記上で同じ日に載っているなど、元清自身も、彼女たちと身近な所に居たことが類推されます。
[余談ながら、“風呂関連”ついでに、「小浜(こはま)」及び、有馬温泉のことなど]
近衛信尹の「有馬入湯記」(年月日不明ナレド、天正末年ノモノナルベシ)において、往路、摂津川辺郡の寺内町「小浜(現・宝塚市)」が登場するのでご紹介します。ある時、腹痛に悩まされた信尹は有馬に湯治に出かけます。「八日」に出先である山城宇治郡五ヶ庄から船出した信尹(当時信輔か)は淀川~神崎川を経て「申刻(午後4時頃)尼崎へ着津、則宿ヲ借休息」した後「九日、晴、従早天令用意発足、當(当)所之駄賃馬一疋借也、兵粮巳下付サセ小濱迄相越」て「彼地ニテ馬立替、午刻(正午頃)湯(有馬)ヘ相付」ています。早朝に尼崎で馬を借り、小浜で再び別の馬に乗り換えて昼に有馬に到着しているという、当時の“貸し馬”の交通体系が目に浮かぶようです。
なお有馬の地は、天正八年、善福寺に出された塩川長満による安堵状が残されており、おそらく荒木村重の乱の功により、「一年限定で」塩川領になっていたと思われます(善福寺文書、備前岡山・塩川家家譜)。また、1990年代後半、有馬極楽寺旧境内における発掘調査において、豊臣秀吉の「湯山御殿」の石垣、“滝湯”風の浴槽、庭園、瓦、唐津焼や織部焼を含む陶磁器類、碁石、垢スリの軽石などが見つかっており、「神戸市立「太閤の湯殿館」として遺構や遺物が公開、展示されています。(2018年10月6日現在、点検のため、臨時休館中)
(⑦につづく)