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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第十回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十回

~ 山下町は、塩川氏による近世城下町が起源 ① ~

「山下城」という通称が大問題。城と町のプランからの考察。そして「山下の町は銀・銅の製錬のために成立した」というのは本当?!

[はじめに諸問題をダイジェスト]

さて、本シリーズは第1回より、塩川氏の居城の名称を「獅子山城(ししやまのしろ)」という「高代寺日記」に出て来る呼称に統一しており、一般に通用している「山下城(やましたじょう)」の名前を避けております。混乱、不便を招くのは承知の上で、あえてこの呼称にこだわっているのは、この「山下城」という後世、いや、むしろ現代に一般化した名前が、塩川氏にまつわる問題、特に山下町、下財町(旧町名・下財屋敷)を含めた広義の「山下」が城下町起源であったことを考察、討議する際に、とても邪魔な障害物になっているからなのです。まずは以下のエピソードから…。

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(エピソード1)

とある休日、小学校5年生のA君はお父さんといっしょにハイキングがてら、山下の裏の古城山に登りました。A君は城山でお父さんに尋ねます。

「なんで山の上にあるのに“山下城”っていう名前なの?」

山下の町から「えっちら、おっちら」と汗をかきながら、やっと山の上の「本丸(主郭)」に着いたのに、城の名前が「山下城(やましたじょう)」なんてどう考えても変です。城山の背後に、城山を見下ろすもっと高い山があったなら、ハナシはわかりますが、近くにはそんな山も見えません。

実はこのA君の質問は、歴史の真実に迫る「とてもいい質問」だったのですが、悲しいことに、大人は現代の常識の中に生きています。お父さんは言いました。

「あのな、お城の名前は普通、地名のあとに「城(じょう)」と付けるやろ。大阪のお城は「大坂城」、姫路のお城は「姫路城」やんか。ここは川西市の「山下」や。だから「山下城」って言うねん。そやろ?」「うーん……。」

A君はなんとなく納得出来ないものを感じつつ、いつしかこの疑問のことを忘れてしまいました。こうして彼は「常識的な大人」へと1歩前進したのです…。

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(エピソード2)

Bさんは戦前の山下町生まれ。子供の頃はよく「古城山」の城跡で遊びました。地元なので「山下城」という、外部からの呼称は聞いたことがありません。当時は現在のような親興住宅地などもなく、このあたりで「町」といえば、山下くらいのものでした。山下の町は古城山の下に整然と碁盤目のように広がっており、そのたたずまいから「昔ここは城下町だった」と思っていました。まわりの人たちもそう信じていました。ちょうどBさんの親戚のいる滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)を半分の大きさに縮小したような感じです。八幡町(はちまんちょう)は確か豊臣秀次の城下町だったはずです。さて昭和60年ごろのある日、Cさんが訪ねてきました。Cさんは歴史に詳しく、難しそうな歴史の本もたくさん読んでいます。Cさんと話をしていてBさんが「ここは城下町やったから…」と言いかけた時、「違う、違う!」とCさんがさえぎりました。Cさんによると「山下は城下町ではなく、多田鉱山の銀や銅を製錬する為に造られた町」ということでした。川西市の歴史の本や、権威ある地名事典等にそう書いてあるそうです。確かに山下町の北に隣接する下財屋敷(げざいやしき)はBさんが生まれる直前まで平安(ひらやす)家で銀や銅の製錬をしていて、昔はそうした職人さんたちが大勢いた、と聞いています。下財の周囲には大昔から捨てられたカラミ(鉱滓)が山と積み上げられ、地下にも層をなしています。「なーんや、城下町とちゃうかったんか…」Bさんは少し寂しく思いました。そんな気配を察したCさんがある日、Dさんを紹介してくれました。Dさんはお城の研究家だそうです。さっそくDさんは拡大した地形図と画板を持って朝から古城山に登り、夕方には降りてきました。画板上の地形図には城跡の「縄張り」、つまり郭の構造を表した図面が描かれていました。歩測と磁石を使って城跡の藪の中を歩きまわり、今日1日で描いたそうです。「凄い!」。Bさんは感心しました。ついでに「山下は城下町ではないそうですね?」とDさんに尋ねると「えっ、城下町?」Dさんはあまり関心がなさそうでした。Dさんは城の図面と地形図を見比べながら、「山下城は天文年間の、まあ古い中世の城ですわ。土の造成だけの。郭(くるわ)の形も丸っこくて原始的だし。この時代にはまだ城下町とかはあまり無かったんですよ。一方、山下の町はすごく直線的で整然としているでしょう。こういうのは天正年間の近世以降だから、塩川氏が滅んでから秀吉の時代に造られたと思いますよ」。Dさんも「城下町説」には否定的でした。歴史に詳しくないBさんはテンブンとかテンショウとかの意味はわかりませんでしたが、歴史に詳しい2人に否定されては仕方ありません。それ以降、誰かが「ここは城下町だった」と言い出すと、「違う、違う、ここは銀山の製錬のために造られた町や」と教えてまわる側になってしまいました。

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(一)「山下城」という変な名前

「山の上なのに…」というA君の「こどものような疑問」は実に本質を衝いています。よく塩川伯耆守満を紹介している文に「多田山下城主」とか「山下城を本拠にした」なんて書いてあるのがありますが、読んでいて恥ずかしい、というか変な気持ちになります。まず、城跡がA君の疑問の如く、山の上に存在しているうえ、なによりも国満の活躍した時代には「山下」なる地名すら無かったのですから。城を築いた塩川国満も「“山下城”って……なに?」訊くに違いありません。(補注:1)

(二)「山下」の意味は?

まず、「山下」とは文字通り、山の下にある「山下町」の名前であって、城の名前ではありません。そして町はこの地を治めた戦国領主のお城の膝元にあります。何よりも「山下」(やました・さんげ)という日本語自体が「城下町」や「門前町」と同義語です。天正期の「安土城」や「近江八幡城」は当時の呼称では「安土山城(あンづちやまのしろ)」、「八幡山城(はちまんやまのしろ)」といいました。各々の城下町の正式名称は当時の文書で「安土山下町」(上写真⑨)、「八幡山下町」と記されています。

(三)町のプランを見よう!

こんなふうに説明しなくても、冒頭の地図や空中写真、地形模型を見ただけで、「ここ、城下町だったのかな?」と直感する人も少なくないと思います。城と町は、バラバラではなく、一体に、互いに有機的に構築されています。山城部→下財屋敷(後の呼称)→山下町の順で造られたと考えられます。すべてが城を基準に統一されています。中世の町として著名な堺や博多の町割が、近世以降に直線的に区画し直されているので、山下の区画も後世の造成ではないか?との見方もあるようですが、塩川長満時代の天正初頭には既に、こうした直線区画が出現していました。もし塩川氏滅亡後の豊臣時代に町が築かれたとするならば、こんなふうにわざわざ、旧主の城の下に整然と造る理由が全くありません! また城下町は「侍町」と「町人地域」の二元性を持っています。侍町は塀で囲まれた広い「ブロック状」の区画を呈し、一方の町人地域はいわゆる「ウナギの寝床」と呼ばれる「短冊状」の密な区画を呈します。獅子山城の麓には「ブロック状」区画の「下財屋敷(現・下財町)」があり、その南の「短冊状」区画の「山下町」と明瞭に分かれています。

(四)時代背景

また、山下町は、天正二~五(1574-1577)年頃に造られたと考えられる「新しい」町です。中世には西笹部村でした。天正二~五年は塩川満のまさに「盛期」にあたります。時代的には荒木村重が「摂津一職」として「有岡(伊丹)」を整備している時です。高槻や三田、花隈など、他の摂津衆たちも有岡のまわりに衛生都市のように城下町を形成したと思われるタイミングです。同時進行で造られた城下町としては他に羽柴秀吉の「長浜」、そして、織田信長の「安土山下町」があるのです!。

(五)武士たちにとって「城下町」とは?

近世化を推進する領主は、まず被官たちを在地から切り離して「家臣」として城の近くに集住させる必要がありました。家臣団の統率がとり易いうえ、家族は同時に「人質」になってしまうので、「裏切り」の防止にもなるのです。まず、その「入れもの」として城下町を設定しなければこうした政策も進まないのです。この時代の城下町は、既に町人居住区とは別に、城の近くに「武士の専用居住域」を定め始めています。上に述べたように、山下町と城山の間、江戸時代に銀・銅の製錬町となった「下財屋敷(現・下財町)」はその位置といい、区画といい、どう見ても近世城下町における「侍町」跡にしか見えません(上の地図①や空中写真⑧参照)。つまり、塩川時代の「侍町」が廃城と共に空き地となり、豊臣時代~江戸初期にかけて「製錬の工業団地」としてこの区画が再利用されたと考えると、つじつまが合うのです。城郭外側に位置するこうした「侍町」の別称として、「内山下(うちさんげ・うちやました)」という言葉があります。「下財屋敷」はまさに「内山下」の後裔かと思われます

(六)侍たちが山下に集住した文献は?

「高代寺日記(下巻)」には明応四(1495)年以来、多田院御家人たちの在地居館の記事が「○○宅」「○○亭」として何度も出てきます。しかしこれらは元亀二(1571)年の記述を最後に姿を消すのです。そして天正五(1577)年九月に遂に「近来(二月に紀州遠征で戦死した多田)元継ノ古室娘共ニ山下へ帰ル」の記述が出現します。「多田院御家人」が既に塩川氏の「同盟者」ではなく「家臣」として「山下」に在住しているのです。この「多田元継の娘」は「高代寺日記」の編者にとって「主」である塩川基満の母親にあたります。編者の身近な人物の記事なので、信頼性が高いと思われます。

(七)「寺」もまた「城」

また、現在山下町西南寄り(旧下町)に位置する甘露寺は塩川時代には「甘露寺山」とも呼ばれた「平井(地図①)」の丘にあったと考えられ、「天正五年ニ再興」(元禄五年・寺社吟味帳)されています。また、やはり当時山下町西南角外にあった大昌寺(地図①)も「天正年中塩川伯耆守長満公諸堂再興(寺社吟味帳)」の記事を残しています。近世城下町における寺院や神社は宗教面のみならず、「砦」、「外城」や「避難所」として防衛上重要な「インフラ」でもあるので、これら寺院の「再興」は、塩川長満による城下町建設の一環であったと思われます。

(八)新しい商業都市

経済政策も同様で、織田信長が、その城下町の商業地区である「安土山下町」に対して画期的な優遇政策を施し(上写真⑨)、発展を推進したのと同様、織田方配下のそれぞれの城下町も、そういった経済政策がコピーされました。塩川氏が山下町(狭義)という新商業都市を造ったことは、織田信長配下として当然の政策と言えましょう。また、江戸末期の文化十弐(1815)年に下財屋敷が発行した「笹部村野山之一件」という文書において、山下町(狭義)が笹部村から分離したのが「天正弐(1574)年丑年」(実際の丑年は天正五(1577)年)とあり、山下町の出来高が「三拾石余」と記されています。これは豊臣時代の慶長十(1605)年国絵図の「四十石八斗五升」(文禄検地の値に近いか?)を大きく下回り、塩川氏時代の商業地域の地子(じし・都市部における年貢)の基準になったとみられる貴重な数値です。また、天正から慶長にかけて地子が増加している理由として、「商業地が発展し人口が増えた」の他、「町の建設時に誘致のために(たとえば最古の本町などに)制定された「地子免除」などの恩典が無効にされた」ということもあるかもしれません。また山下町には昭和40年代まで「呉服町」「魚屋町」といった町名(地図①・既に昭和初期にはそれぞれの町内には呉服屋も魚屋も残っていなかった)がありました。こうした「同業人町」は古いスタイルであり、町の建設期の名残と思われます(中部よし子「城下町」)。織田信長は天正五年、領内の馬の売買を安土の城下町以外で禁止し(安土山下町掟書・画像⑨)、蒲生氏郷は天正十年、領内の呉服の売買を城下町日野以外で禁止(定条々)しました(共に「近江の城下町」より孫引き)。山下町においても呉服や鮮魚の専売特権を与えるという「誘致策」が行なわれた名残なのかもしれません。

(九)あまりに短命すぎて…

以上のように、山下町(広義)が「塩川氏による天正初期の戦国城下町起源」であることは、状況的にはまったく自然で妥当な見解と言えます。しかし塩川氏の城下町時代はあまりにも短かすぎました。町が築かれたのが天正二年(1574)~天正五(1577)年。獅子山の城が廃されたのが、詳細不明ながら天正十二(1583)年頃。440年にわたる町の歴史の中で、6~9年間しか「城下町」として存在しなかったのです。「一瞬」といってもいいでしょう。

(十)市史の見解は余りにも短絡的で検討不足

今「山下が城下町だった」というと、歴史に詳しい人ほど怪訝な顔をして否定します。ここまで述べてきたように、ごくごく自然な状況なのにもかかわらず…。川西市史による「天正年間、山下町・下財屋敷は、鉱山の製錬業の為に成立した」という活字の威力です。この「公式見解」により、自動的に「山下は塩川氏による城下町起源ではない」ことにされてしまいました。この昭和49(1974)年発行の、市史の近世第1章、第1節中における「下財屋敷・山下町の成立」の項はとても短いものですが、あらためて検討してみると、いろいろと問題のある記述です。考証は「鉱山史」に力点が置かれ過ぎており、「都市史」や「歴史地理学」、「城下町研究」といった観点が全く無いのです。根拠となった史料は、町の成立から242年目にあたる文化十二(1815)年に「下財屋敷」が発行した「笹部村野山之一件」という文書のある一節だけです。「山下町」の成立が「天正弐年」と明記されている点はとても貴重です。ただ、この天正二年が摂津国における近世城下町群の成立期であり、塩川氏の盛期でもあり、山下はその拠点城郭の膝元に成立した町であるにもかかわらず、史料の中では既に塩川氏の存在が忘れ去られています。さらに市史による考証の段階で、史料内の語句や、町の構成に対する誤解があり、

* 近世の山下町が基本的に「商業都市」であったという認識の欠落

*       「下財屋敷」と「山下町」の定義を混同している

*       「山下」という地名が町の成立以前からあったとういう思い込み

*       成立年代から当然行なうべき、町と城や塩川氏との関係についての検討がなされた形跡が皆無

などなど、実に偏った考証から得られた見解なのです。そもそも「山下は塩川氏の城下町起源ではない」とも一言も書かれていません。単に「町は塩川氏の拠点城郭の下に位置する」という認識の無い中で検討された結果であるようです。また、掲載されている「下財屋敷」部分だけの絵図も、山下全体のものと間違われています。さらに問題なのは、この川西市史の記事を第三者が引用する場合、「天正二年」という塩川氏の盛期の年代ではなく「天正年間」の方だけが使われたりします。「天正」というこの激変の時代は20年間もあり、後半は秀吉の時代です。はからずも(?)秀吉時代説に「誘導」されかねないレトリックです。ともあれ、この市史の検討は最重要なので、後の章で詳細に検討します。

(十一)一部城郭研究者による「城の縄張り」と「町の直線性との違和感」

今日、「中世の城」が歴史学の中で解明され、その地位を築いたのは、少数の歴史学者と、多数の在野の城郭研究者たちの「無償の調査」の蓄積によるものです。ただ、皮肉なことに山下の「城下町起源説」にあまり賛意を示さなかったのは、一部の城郭研究者たちでした。城郭研究にとって「縄張り」による編年は大切な要素です。一部の城郭研究者には「山下城」の中世風の縄張りと、直線的な、近世風城下町との組合せに違和感があるようです。近隣の三田、伊丹(有岡)などでも同様なのに、なぜ山下だけ否定されるのか理解に苦しみます。近年出版された本で「戦国時代の城には城下町がないことが多い」という理由で、山下を城下町起源とすることに疑問が呈されているような記述がありました。また近年、ある著名な城郭研究者の方が来城され、山下町をも含む地形図まで掲載して「山下城」を軍事戦術的に分析された記事が掲載された本が出版されましたが、「城下町」については可能性をも含めて1言も書かれていませんでした。全般に感じたことですが、たいていの城郭研究者にとって「城下町」という存在は「興味、研究の対象外」であるようです。ですから城郭研究者も「山下城(やましたじょう)」の名称に抵抗感がないのです。

(十二)塩川氏は「タタラ集団」ではない

実は山下が「塩川氏による城下町起源説」に御賛同いただいた稀な城郭研究者に、中世城郭研究の草分け、村田修三先生がおられます(「摂河泉の中世城郭」大坂・近畿の城と町所収の講演録)。村田先生は、下財屋敷と山下町の境界線の「折れ」や「横矢」、下財屋敷の南中央の「升型」痕跡にも注目され、ここが塩川時代の内山下(うちさんげ)の「大手門」と推測されました。私もそう思います。ただ私見と異なるのは川西市史の記述から、塩川氏が下財屋敷でさかんに銅などの製錬をしていた、というご見解を持たれていることです。これを視覚化してみると、ちょうど映画「もののけ姫」に出てくる「たたら場」のようなイメージです。塩川氏は「高代寺日記」に「青銅」や「紺青(金青:絵画の顔料となる青鉛鉱)」を献上する記述が複数あり、多田の鉱山に関して領主として当然ながら利権を持っていたと思われます。しかし諸史料から多田鉱山の銅の精錬(山下吹き)が盛んになるのは、きわどいところで、秀吉時代以降の出来事かと思われます。銀に至っては、天正七年に塩川長満が、信長から褒美として「銀子百枚(16kg)」を貰っている(信長公記)くらいです。諸文献から、塩川氏が特に鉱山経営に特化した集団ではなかったと思われます。塩川氏はまず「武家」であり、末期は織田家の忠実な被官でした。塩川氏の城下町の存在意義も、他の摂津衆たちの城下町同様、「家臣の集住」と「新商業都市」が二本柱だったと思われます。なお、村田先生は上記の講演において、「山下城」という名称が矛盾している点にもちゃんと言及されています。そもそも「多田城」を「ただのしろ」と読む、というのは村田修三先生によるご教示なのです。

(十三)以上の理由で「山下城」という名称は…

しかしながら一旦活字化、固定された観念というのはなかなか変わりにくいものです。そして、そのような、「山下を城下町起源と認めない専門家」にかぎって、「山下城(やましたじょう)」という名前が抵抗感なく使われています。意訳すれば「城下町城」となってしまうのに…。このように、城の名称自体が「ねじれ現象」になっているというわけです。ですから、「不便で混乱を招く」ことは重々承知の上ではありますが、やはり「“山下城”という後世の呼称」は撤廃されなければならないのです。

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(補注:1)

例えば城郭が山の上と山の下に分かれていたり、戦国時代には山の上にあった城郭が近世初頭に廃城になって山の下に移る例があります。前者としては岐阜城、備中松山城があります。後者の例としては龍野城、出石城、洲本城、(丹波)八上城、(周防)岩国城などがあります。こうした城において山の下の城郭部分を「山下城(さんげのしろ、やましたのしろ)」と呼ぶことは間違っていません。しかし獅子山城には山麓の郭群(冒頭図①、②)はあるものの、表採される遺物から、ここに塩川氏の「居館」などがあった可能性は低いのです(「家臣」の屋敷か厩(うまや)等の雑舎があったのではないかと想像しています)。城の呼称は塩川氏の現役当時、「多田城(ただのしろ)」、「塩川城(しおかわのしろ)」、「一蔵城(ひとくらのしろ)」でした。これらは固有名詞ではなく、「塩川氏の城郭」という意味の言い方です。塩川氏自身は「獅子山城(ししやまのしろ)」と命名したようですが(高代寺日記)この「ものものしい名称」は一般には広まらなかったようです。また、江戸時代の元禄期にはこの塩川氏の城跡のことを、残された町の名前から「山下の古城」と呼んでいたようです(摂陽群談)。また「山下城」と書いて「やましたしろ」と読んでいた可能性もあります。これらも城の名前が忘れられているわけですから、全然おかしくありません。現在で言えば「ローソンの交差点」とか「病院の(前の)歩道橋」といった使い方に近いかもしれません。正式名称ではないものの、特定の地域内ではその呼び方で通じるからです。「多田雪霜談」には「龍尾城(たつのおのしろ?)」なる呼び方も書かれおり、大昌寺の文献にも「辰山」なる呼称があるようですが、「多田雪霜談」が危険この上ない文献であることは前回お伝えしました。昭和前半まで地元では「御城山」「古城山」といった呼称の方が一般的だったようで、「山下城(やましたじょう)」という「固有名詞」が一般化したのは、案外歴史や城郭に関する書籍が広まった「近、現代以降」であるように思います。

なお中世の城には実際名前が伝わっていないものも珍しくありません。現在、遺跡としても名称がないと不便なので、新しく城跡などが見つかった場合など、城跡の属する地名(集落名、字名、山名)などを取って「○○城」と新しく命名されたりするのも当然必要な行為です。結果、「城山城(しろやまじょう)」といった奇妙な名前もありますが、仕方ないと思います。

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[摂津国内における他の城や城下町と比べたら]

まず近隣の、他の天正期の城下町と比べてみましょう。一部の城郭研究者が山下を城下町と認めたがらない事にふれましたが、私が不思議に思うのは、こうした方々が同時期の高槻、茨木、三田に関しては城下町があったことを何の疑いも無く認めている点です。いったい山下とどこが違うのでしょうか?!

摂津の国における、天正二~八年にかけて、「織田方の城郭に伴う町」として、荒木村重の有岡(伊丹)、高山右近の高槻、中川清秀の茨木、荒木村次の尼崎、荒木元清の花隈、荒木重堅の三田、荒木村氏の吹田、能勢頼道の地黄市場、安部ニ右衛門の大和田、そして塩川長満の山下がありました。このうち、尼崎、吹田は中世以来の町であり、地黄市場や大和田は小規模であり、これらは詳細不明です。有岡、高槻、茨木、花隈、三田、山下の6都市が黎明期の「近世城下町」として、改造をも含めた「都市設計」がなされたと思われます。(城郭の方も、有岡、高槻、花隈、三田、獅子山では天正頃の瓦が見つかっており、石垣も有岡、獅子山(昭和五年まで残っていた!。現在も斜面に崩落した築石や裏込石が見られる)に部分的に築かれており、これらは初期の近世城郭、いわゆる「織豊城郭」的な建築物を誇示していたと思われます。)

この6都市のうち、今のところ、山下だけが「城下町ではない」ことになっています。これは上に述べた川西市史の影響が主なのですが、やはり、とても不合理、不公平なことです。例えば領地の規模を比較してみると、「寛永諸家系図伝 荒木氏」(内閣文庫)の荒木村重の項に、「塩河伯耆守多田の城を領す、本地三万石なり」という記述があります。これによると高槻の高山右近将監は四万石、茨木の中川瀬兵衛は四万四百石、花隈の荒木志摩守は一万八千石、三田の荒木重堅、大和田の安部仁左衛門、能勢の能勢十朗がそれぞれ一万石です。後世の史料ながら、「摂津一職」として国を統括していた村重の後裔の荒木家(幕臣)が提出した(例の「荒木略記」と同時期の)情報であり、城や町の規模などとも大体整合している数値です。

また、有岡、茨木、花隈、三田、は発掘調査や歴史地理学的考察において、既に近世城下町の基本形である、「侍町」と「町人地区」の分離が成立していたと考えられています。同時代では天正二年に建設が始まった羽柴秀吉の長浜や、天正十年段階の蒲生氏郷の日野も同様でした。高山氏時代の高槻は詳細不明ですが、やはり侍と町人が住み分けられていた傍証があります(天正元年の冨田東岡宿掟)。そして、山下町(広義)も「下財屋敷(後の呼称)」と「山下町(狭義)」にきれいに分離しており、下財屋敷(製錬の工業団地)が旧侍町跡地を「再開発」したと解釈すれば、町全体のプランが「都市編年的」にも整合しています。塩川氏は少なくとも天正十一年までここの城主でした。また織田信長もこの頃、頑固な直臣たちを在地から切り離して城下町に強制移住させる政策を遂行しています(信長公記)。盛期の塩川長満が、織田家の下にあって、本拠地に城下町も築かず、あたかも中世よろしく軍勢を在地から招集して軍役させるなんて、この天正五年前後ともなれば許されなかったでしょう。塩川氏を紹介する際のお定まりのフレーズである「多田院御家人筆頭」という、天正期段階では実質「有名無実」である呼称も、あたかも「中世武士団の頭目」を連想させて、このような誤解を助長している気がします。今や「御恩と奉公」の対象は、鎌倉幕府でも室町幕府でもなく、近世を開きつつある織田家なのですから。

[町の区画そのものが、城を基準にしている]

次に山下のプランをもう少し詳細に見ていきましょう。

上の画像の地図①や模型②、昭和二十三(1948)年の空中写真⑧(補注2)などを見みると一目瞭然ですが、まず下財、山下の町域が城の南にキッチリおさまっています。正確に言うと、町の軸線はN15°E(真南北から時計方向に15度)なので、この方位を基準として城の南に町が秩序よく「整列」しています。例えば魚屋町の東側を走る「町の東限ライン」を北に延長すると、まさに城の東限ラインに一致します。これだけでも、城と町が無関係ではあり得ないことが解ります。町が城の全面に「前へならえ!」しているという「敬意と秩序」が感じられませんか?。山下町が、仮に天正期後半の廃城後に、豊臣政権によって「製錬の為に」新しく作られた都市だとすれば、このように城跡の位置に限定される理由は一切なく、前領主の記憶を消し去る為にも、あえて離れた場所に築いたはずです。

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(補注2)これはステレオ写真(3D)なので、平行視線(いわゆる「遠い目」)で見るか、虫眼鏡2つを両目にあてて右目で右画像、左目で左画像を至近で見ると、立体形状が浮かび上がります。コツは下財北端を示した「左右の黄色い*マーク」を「1つに合体させる」ことです。詳しく知りたい方は「ステレオ写真(画像)」「平行法」などで検索してみてください。

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[獅子山城と山下町の「見通し」(ヴィスタ)]

そして上の地図①や写真③を見ていただきましょう。山下町(狭義:旧町名で西本町~本町~大蔵以南)の中央を南北に貫く通り(Y-y)はまさに古城山の山頂を「見通して」います。このことは以前の第7回連載「獅子山の城から、海が見えた!?」でも触れました。8世紀末に造営された平安京が、北の船岡山を基準点にプランされているのは有名な話ですが、800年後の近世城下町もこういった手法に満ちています。山下の南北通りの名前は残念ながら伝わっていませんが、「大手通り」とも呼ぶべきこの道は、山下の都市計画の基準線だったと思われます。(塩川時代は、この南北道に町屋が間口を向けた「竪町」だった可能性もあります)。

旅人が近世城下町に立ち寄ったり、通過する場合、基本的に商業地区である町人地区を通り抜けます。旅人が通過する際に見る城山は、この南北通りの中央延長に「忽然と現れる」のです(画像③)。そして現在、主郭には天正初頭頃の技法で作られた瓦片が散見され(上画像②)、その種類、比率から総瓦葺きの建築物、おそらく「天守」があったと思われます。また、主郭南壁は人為的に崩されていますが、崩壊している裏込め石や築石から、高さ3~5m程の「石垣」があったと思われます。このように新しい建築・土木様式のランドマークを見せることで「この町は織田信長の勢力範囲である」とアピールしているのです。このスタイルは近世以降に一般に広まりました。

こうした技法は、宮本雅明氏(「ヴィスタと景観演出」図集日本都市史)によると「城下町支配の象徴たる天守に座す諸大名の視線が城下の目抜き通りを貫くヴィスタ、同時に城下から城下町の象徴たる天守を見通すヴィスタでもあった」ということです。画像⑦をご覧下さい。その「城主の視線」です。“VR”(ヴァーチャル・リアリティ)と言いたいところですが、これは初めて東谷ズムに参加させて頂いた2014年11月、会場で地形模型の上にデジカメを載せて撮ったものです。主郭中央の2~3層の建物から山下を見たらこんな感じです。城下町を眺める塩川長満や寿々姫の目線です。山下の町が、お城の膝元に礼儀正しくカシコマッています。

もちろん、こうした演出は他所でも見られます。天守と城下の目貫通りを互いに「見通す」同時代の他の例を以下に見ていきましょう。

[ランドマーク、視覚効果、天守のヴィスタの近隣例]

近江・長浜

羽柴秀吉の長浜は、塩川氏の山下と同時期である天正二年に町の造成が開始されています。現在豊公園内に残る城の旧天守台跡(復興天守の西にある)はマウンド状の高まりを呈し、周囲には破城で崩された石垣の築石が点在しています。この天守台の位置は、まさにかつての町人地区の旧本町通りの延長上にあたります。(太田浩司「長浜城下町」掲載第1図、「信長の城下町」所収)

摂津・有岡

荒木村重が天正二年に伊丹氏を滅ぼして城主となった有岡は「総構えを持つ城下町」として有名ですが、「総構え」自体は規模さえ問われなければ決して珍しい存在ではなく、この点は幾分もてはやされ気味です。有岡城の跡は明治時代の伊丹駅建設によって東半分を失いました。城や町は荒木氏によって天正五年ごろまで改造がなされたようです(兼見卿記)。これもまさに山下の開設(笹部村野山之一件)と同時期にあたります。これまでの数多くおこなわれた発掘調査や文献、絵図等の歴史地理学的検討から、町は内部に4つの外城を持ち、西側の町人居住区と東側の「侍町」(信長公記)が堀(大溝)で区画され、城の主郭は東端にありました。平成十七年に小長谷正治氏が城下町の区画の変遷を総括(「有岡城大溝筋堀跡と地割」(地域研究いたみ))されていますが、これによると町は伊丹氏時代から荒木氏時代まで4つの段階があり、上記の堀を伴った区画は既に伊丹氏段階から存在していたようです。

さて、天守と目貫通りとの見通しの件ですが、藤本史子氏の「伊丹城(有岡城)跡主郭部調査の再検討」(地域研究いたみ)には、江戸時代~明治初期にかけての絵図面が、城跡部分を拡大して11点紹介されています。このうち寛政八(1796)年の「伊丹細見図」、天保十五(1844)年の「伊丹郷町分間絵図」、明治六(1873)年の「伊丹郷町地引絵図」において、主郭の南西角あたりに「天守跡」や「天守台」などが記されています。さらに古い寛文九(1669)年の「伊丹郷町絵図」では城跡描写のプロポーションが相当違い、主郭中央付近が「天守土台」と描かれていますが、これらはすべて「本泉寺の南側を東西に走る通りの東延長」に天守跡が記されている点で共通しています。この通りは「新町」「大手町」を通っており(現・伊丹停車場線)、まさにかつての「大手通」の名残でしょう。「侍町」西側を区画する南北方向の堀は、この「大手通」と交差する地点において消滅、つまりちゃんと「土橋」を形成しており、ここが侍町への虎口となっていたことが山上雅弘氏によって指摘されました(有岡城跡・伊丹郷町4)。城の正面である「大手」の橋は戦術上、「城外に討って出る必要性」から土橋が基本です。話を戻して、この絵図における「天守跡」の位置を、上記藤本氏論考掲載の図3および4と比較検討すると、現在の伊丹駅西南の「忠魂碑」のある高まりを含めたその東北一帯に相当し、ここが有岡城の旧天守位置であったと思われます。「大手通」は江戸時代以降に?「への字」型に城跡手前で南へ振っていいますが、大手道西側の大部分は今でもこの忠魂碑を「見通して」いるのです(実際には11階建マンションにさえぎられて見通せませんが…)。この忠魂碑の土台は、かつて「天守跡」などと言われ、その形状からの「俗説」と思っていましたが、案外、鉄道駅建設によって北東側が削り取られる以前からある伝承なのかもしれません。ついでながら、隅櫓があったと思われる主郭北西隅(検出された入隅の石垣が展示されている)も、土塁外側崩落前は西側の「湊町の通り」を見通していたと思われます。

摂津・茨木

天正前半に中川清秀の居城であった茨木城も、現在では地表に遺構をほとんど残していませんが(また前後の茨木氏や片桐氏段階との関係も不明ですが)、町の基本的な区画は現在でも旧市街地に比較的残存しています。茨木城と城下町の復元に関しては昭和62年に上野英三氏が「わが町茨木(城郭編)」において伝承や歴史地理学的手法で復元図を提示されています。また近年、豊田裕章氏が「茨木城・城下町の復元案と廃城の経過」(「よみがえる茨木城」所収)において詳細に復元図、および復元模型を製作されています。豊田氏案は、旧小字「本丸」に掘跡を思わせる低湿地があったことや、や「天守台」の伝承、旧字の形状から、同書の図において推定天守位置(H点)を比定されています。はからずも、この「H点」はまさに、町の北口(丹波口)から南下する「北市場北組」の南北通りの延長上であり、さらに町の南口(大坂口)を経て左右にクランクしながら北上するやはり南北通りの延長上に位置しています(南からの道は方位角を「微妙に振る」ので、クランクしてもやはりH点を向きます)。南北から町へ入る通行人は、ずっと天守を見ながら(同時に見られながら)進むわけです。

摂津・三田

三田城を本拠にしていた有馬氏も、天正三年に荒木村重に滅ぼされ(寛永諸家系図伝、陰徳太平記)、直後に荒木平太夫重堅が入ります。城下のうち、「街道の通り抜け」となる町人地区は、現在も武庫川に面した低地に北西~南東方向に3筋の通りが並行に並んでいます。「天正年中荒木平太夫尉右宅原村居城有之て同郡三田村之内開古城移ル。コノ時三田三筋之町定右ノ道場此節町江引趣」(三田町西芳寺文書)という文献から、三田の町人地区も、山下と同時期である天正三年から五年にかけての荒木重堅時代に開かれたことがわかります。そしてこの三筋の真中を走る本町通りのまさに北西延長に三田城の天守跡がありました(安政二(1855)年三田図絵など、上写真④参照)。有馬高校内における、天守跡推定地近くの発掘調査では、天正初頭を思わせる軒平瓦、谷軒平瓦(崩し唐草文、天正後半~慶長五年に入部した山崎氏の檜扇紋瓦よりさらに古い技法)が少量ながら出土しています(三田城跡発掘調査報告書(2000))。瓦頭文様は非常に個性的であまり類例がなく(類例がないのは獅子山城の桔梗紋瓦も同じ)、谷軒平瓦の方は「120度の開きをもつ屋根の入隅部の軒先」という、複雑な建築構造を思わせ、荒木氏段階(あるいは有馬氏)の天守のものではないでしょうか?。

近江の安土山下町と八幡山下町

さて、「真打ち登場」と言いたい安土ですが、推定される旧城下町、「安土山下町」は

*       周辺に開発困難な低湿地がひろがっている

*       中世以来の都市「常楽寺」など旧地割りとの兼ね合い

*       おそらく未完成に終わった

などの状況があり、諸研究の復元案はいずれも、複数の地割りが混在した複雑な構造で、平野部の旧城下町推定地からの「見通し」はなかったようです。ただ、安土山の南の「大手道」について城郭研究者の千田嘉博氏が興味深いことを書いておられます。

「このことは、安土城全体の構造をどう読むかという重大な課題とかかわる。つまり安土城の大手道のうち、直線的につくられた山麓から中腹にかけた周辺の曲輪群は、屋敷地として機能したことを強く示唆する。~中略~そして安土城にとって大手道周辺の曲輪群は確かに城内ではあったが、信長は天主や御殿があった中心部とは明確に格差をつけて家臣屋敷を配置し、位置づけたことを物語る。これは安土城の大手道に面した屋敷が平入りの単純な出入り口を大手道に開いたことともよく符号する。~中略~当時大手道を進むと、大手道の遥か先に天主がそびえていた。大手道は信長の権威を人びとに印象づけたきわめて強い象徴性を発揮したのである。だから(大手道が)直線を選択した理由には、それが周辺の城内機能にとって合理的であったことに加え、ビスタを意識した政治的演出があったと評価できる。」(千田嘉博“安土城 伝説に城を読み解く”「天下人の城」所収)

「安土山下町」は、安土山城の廃城と運命を共にし、町は天正十三(1585)年に新たに築城された八幡山城の城下町、「八幡山下町」として移転、再生します。町は後に「八幡町」と改名されましたが、現在も「本町通り」は本丸のあった八幡山を「見通して」います。

[「山下町は製錬のために造られた」と断定されたのは、はあまりにも検討不十分な見解]

この項ではいったん山下の城下町の諸要素から離れて、重要な上記の川西市史による見解について詳細に検討してみましょう(市史の近世第1章第1節中「下財屋敷・山下町の成立」)。なお、私は市史における、この項に続く一連の採鉱や製錬の技術史に関する記事は有難く参考にさせて頂いており、大変心苦しいのですが、やはりこの冒頭の「下財屋敷・山下町の成立」の見解はあまりに検討不十分であり、論者の思い込みが多いと言わざるを得ません。この項の矛盾を分析、明示しておかないことには、山下はいつまで経っても「城下町」として「復権」出来ないでしょう。

なお「山下」という地名は江戸時代以来、

*       北側の「下財屋敷(現・下財町)」と南側の「山下町」と合わせた「総称」として「山下」と呼ぶ場合(広義の山下)

*       現町名でもある南側の「山下町」に限定される場合(狭義)

の2通りが混在しています。

また「下財(才)」という言葉もまた、

*       鉱山業、鉱石製錬業を表す普通名詞

*       当「下財屋敷(現・下財町)」のこと。地名

の2通りの意味があり、古文書の中でもこれが不統一に使用されていて、歴史認識の混乱を招く一因になっています。この市史における論考などもまさに混乱しています(後述)。

(今でも、例えば東谷ズムの会場である「川西市郷土館」の住所は「川西市下財町」ですが、地元以外の人たちには、「山下にある郷土館」の方が、結構通じたりします。この「山下」が「広義の山下」です。)

さて、「山下町は製錬のために造られた」。この「不可思議なフレーズ」を世に定着させた「川西市史」の近世第1節・第1章「下財屋敷・山下町の成立」の典拠となったのは、文化十二(1815)下財屋敷によって書かれた「笹部村野山之一件」という遥か後世の史料です。見たかぎり、この1つの文献の記述だけから、この結論が導かれたようで、他にこの「山下が製錬の町として成立した、説」を伝える文書や伝承はないようです。つまり、川西市史が公刊されるまでは、地元でも山下が「城下町起源」のように思われていたフシがあります。そもそも川西市史があれほど大フィーチャーした「多田雪霜談」でさえ、文中に「城下」という単語が出ており、江戸期の作者が山下を城下町だったと認識していたことがわかります。

はじめに基となった史料の方から見てみましょう。原文は長いので町の成立を記す冒頭部のみ引用します。興味のある方は川西市史の史料集をご覧下さい(二四四 笹部村野山へ下財屋敷の者立入差止め一件)。

表題に「文化十弐(1815)年 笹部村野山之一件 亥四月廿一日 下財屋敷」とあり、19世紀はじめに下財屋敷(現・下財)が発行した文書とわかります。以下

「笹部村野山之義事

一、山下下才之義ハ往古笹部村壱ヶ村ニ限り有之候

一、天正年中之後下才吹場段々繁昌仕候而火事多有之候故ニ笹部村之内へ壱軒のき弐軒のき山下と申処出来致候、然ル処下才吹場書残し山下ニハ笹部村之高之内三拾石余訳請住居仕候事、天正弐年丑年(1574)ニわかり(分かり)申候、下才ハ吹方故無年貢ニ而住居仕候所、延享二年丑年(1745)ニ大坂代官支配奥谷半四郎様と申御代官竿入被成高三石六升三合御附被下候、延享二年丑年より上納仕候、此年より文化十弐年(1815)迄凡七拾年相暮レ申候、則山下と引分被成候時は天正二より文化十弐迄弐百四拾弐年(242年)相暮レ申候」

まず「山下下才之義ハ往古笹部村壱ヶ村ニ限り有之候」。これは「山下町(狭義)と下才(下財屋敷)の場所が、元々笹部村であった」ということです。確かに中世以前の文献には「佐々部」と記され、東西に分かれていたようですが(多田神社文書)、「山下」や「下財屋敷」などの名前は出て来ないのです。

次に「天正年中之後下才吹場段々繁昌仕候而火事多有之候故ニ笹部村之内へ壱軒のき弐軒のき山下と申処出来致候」。これを直訳してみれば「天正年間に笹部村で「下才(財)吹場」すなわち「鉱石の製錬業」が段々盛んになって、火事が多く発生したので、一軒、一軒と、家々が製錬場から離れて山下という所が出来た」となります。ここで非常に大切な点は、この文書は「下財屋敷」による発行であり、文脈からもこの「山下」とは狭義の「山下町」のことを指し、一般の商業地、つまり「吹き場ではなく商家が集まって」出来た町であるということです。原文の「のき」は「退き」であって、火事から逃れているわけですから当然です。「吹き場(製錬所)」が集まったのではない、ということです。

「然ル処下才吹場書残し山下ニハ笹部村之高之内三拾石余訳請住居仕候事」。つまり「下才吹場」を除外して、山下町(狭義)域にのみ、笹部村の出来高から「三拾石余」分の年貢課税を負担させました(金額を石高に換算したのでしょう)。吹き場製錬業(下才)の方は「年貢」免除であったということです。「山下」は製錬業ではない一般の商家の集まりであったために課税対象になったわけです。

「天正弐年年ニわかり(分かり)申候」。このように山下町(狭義:商業地)が、行政的に笹部村から分離されたのが、天正二(1574)年だというのです。ここでちょっと問題なのが、実際の天正二年の干支は「甲」なので、実際の「丁」である天正五(1577)年と計算間違いしているかもしれませんが、文末に「則山下と引分被成候時は天正二(1574)より文化十弐(1815)迄弐百四拾弐年(242年)相暮レ申候」、つまり文書が作成された時点が242年目というのは計算上合っています。そこで本稿では、山下の成立を天正二~五年としたわけです。いずれにせよ、塩川氏の盛期である点が肝要です。この年代は上記「高代寺日記」や寺院史料、当時の摂津国の状況から類推される「町の成立時期」と整合します。ただ文中にあるような、「一軒退き、二軒退き、山下と申すところ出来致し候」という記述は山下町の統制されたプランと矛盾しています。そもそも都市一つを新設するということは、様々な利害と対立するわけで、相当な権力を必要とします。領主の拠点城郭の膝元に、家々が勝手に集まって町が出来る、という記述は非現実的であり、この文書が書かれた文化年間、塩川氏の存在自体が、既に忘却の彼方であったことがわかります。(火事を避けて「移転」すること自体は、後述する慶長年間の甘露寺も同様であり、史実であったかもしれませんが、「移転」と「町の成立」とは事象の次元が違います。)

なお後半の「下才ハ吹方故無年貢ニ而住居仕候所、延享二年丑年(1745)ニ大坂代官支配奥谷半四郎様と申御代官竿入被成高三石六升三合御附被下候、延享二年丑年より上納仕候、此年より文化十弐年(1815)迄凡七拾年相暮レ申候」は、「下財屋敷は無年貢であったのが延享二年に高三石六升三合分の出来高が算出されてこれに課税が始まりそれ以来およそ70年経った」ということです。なお原文ではその後の元禄十(1697)年に、山下(狭義)の出来高が「五拾石余」にまで増加することを伝えています。

次にこの史料内容から「解説」している市史の「通史」における記述を見てみましょう。

天正年間(1573~91)の鉱山関係のできごととして注目されるのは、市域内に下財屋敷・山下町の成立したことである。多田銀銅山の採掘が進むにつれて採鉱・製錬関係住民の居住、銀・銅の吹き立て(製錬)をおこなう吹き場の形成・操業が笹部村の中で進んだ。そしてそれがしだいに繁栄するにつれて、吹き場からの出火が問題となったようである。そのため天正ニ年に、笹部村の集落から離れて同村内の山下というところに、吹き場が山下町として、また鉱山関係住民たちの居住する下財屋敷も枝郷(本村の集落と別に形成された村内の集落)として形成された。もっとも鉱山関係住民の居住地区と吹き場のある地区とは明確に区画されていたわけではなく無年貢地と年貢地を区分する関係から、北の地区を下財屋敷、南の地区を山下町とする程度の区分であった。」

川西市史は、この「天正二年」を認めているわけですから、まず「山下が塩川氏の城下町起源かどうか?」を検討するべきなのですが、それがなされた形跡が全く無く、目の前にある塩川氏の「山下城」と、山下町、下財屋敷の関係、あるいは無関係については一言も触れられていません。当然ながら「山下は城下町ではなかった」とも書かれていないのです。

また文中の「同村内の山下というところ」というのは完全に論者の思い込みで、原文の方は「家が集って山下という所が出来た」とありますから「山下」は以前にはなかった地名なのです。もちろん「山下」が城下町と同義の言葉であることなどは考慮されていないでしょう。

「吹き場が山下町として、また鉱山関係住民たちの居住する下財屋敷も枝郷として形成された」。ここで論者は山下町を「吹き場(製錬所)」、下財屋敷を「鉱山関係者の居住区」としていますが、前者は間違っています。文書は「下財屋敷」による発行なので、文中の「山下」は商業地区である「狭義の山下町」のことであり、そこには吹き場は無かった(火事を避ける為、とあるのだから当然)のです。山下町にだけ年貢(地子)が課税された理由は「住民が基本的に吹場関係者ではない商家だった」からであり、論者のこの説明は破綻しています。(延享二年に「下財屋敷」が大坂代官所に出した願書に「山下吹場町」「山下町御銅吹場所」の呼称があり、論者はこれに引きずられたかと思われます。江戸時代の「下財屋敷」は近代以降とは異なり、「山下町(広義)内の下財屋敷」でした。延享二年の「山下吹場町」「山下町御銅吹場所」における「山下」は「広義として」使われています。)

「鉱山関係住民の居住地区と吹き場のある地区とは明確に区画されていたわけではなく、無年貢地と年貢地を区分する関係から、北の地区を下財屋敷、南の地区を山下町とする程度の区分であった」。これも全く事実と異なり、論者ははたして山下、下財を訪れて町並みを観察したことがあるのだろうか?と疑ってしまうほどです。両者は性格も景観も全く違っていて、川西市史が書かれた昭和40年代にはまだその名残が明瞭に残っていました。上の昭和二十三(1948)年の空中写真⑧をご覧ください(補注2)。

南側の「山下町」は「田の字」状の道のまわりに短冊状(ウナギの寝床)にビッシリと町屋が密集している典型的な「町場」です。危なくて吹き場など造れないのです。鉱石を運ぶ馬借など関連業者が居住していたり(聞き取り調査から)、製錬職人が「山下町」に間借りしていたことはあったかもしれませんが、基本は宿場や店舗が並ぶオープンな商売の町なのです。歓楽街でもあったでしょう。「亀岡(亀山)と池田の間は山下で一泊するのが普通だった」(聞き取り調査)、そんな「山下町(狭義)」の第一義の性格である「商業都市」としての記述が、川西市史全体において、ほとんど無いのです。論者の言うように「吹き場が山下町として」成立したならば「三拾石余」の出来高に課税された説明がつきません。

一方、製錬業者の居住区である北隣の「下財屋敷」は、家々の間隔がずっと広く、周囲に広がる更地がカラミ(鉱滓)の捨て場でした(空中写真⑧)。カラミは現在でも「下財町」周辺にだけ見られ、「山下町」のまわりには見当たらないのです。天保頃には北端と西端の2ヶ所に「吹き場」がありました。下財屋敷はこのように「金目のもの」を扱うわけですから、防犯上、旅人の通行なども規制していたかと思われます。ところで、市史の通史に掲載されている江戸時代の「山下町・下財屋敷粗絵図」、及び市史資料集掲載の「天保14(1843)年山下町絵図」(画像⑥、⑧)とあるのは、実際は両方共「下財屋敷部分のみの絵図」であり、この紹介文さえも間違っています。

繰り返しまとめますが、史料が少ないせいもあるのでしょうが、市史全体に山下町の「商業都市としての側面」がほとんど記載されておらず、これは論者自身の認識を反映しています。市史には間違いも含めて、同様の記載が他にもあり(補注3)、読み手にあたかも「山下(広義)とは、銀・銅の製錬場とその職人の居住区だけで9割以上が構成されている工業町」であるかのような誤解を与えてしまっているのです。

江戸時代の地誌「摂陽群談」には「篠部村」の項に「山下町家、銀山吹屋町等あり」の記述があり、「摂津名所図会」の「一庫湯」の版画中の「山下村下財の家多し吹屋あり」も同様、「山下」の二元性にちゃんと触れられています。

以上のように、史料とそれを解釈した通史の両方の段階で、忘却や矛盾、多重な誤解、考証の欠落が層をなしています。また「川西市史」は「山下が城下町だった」ことを、やっきになって否定しているわけではなく、ただ単に「検討がなされなかった」「思いつきもしなかった」という次元だったでしょう。これも仕方ないかもしれません。なにしろ川西市史第1巻が発行されたのは昭和四十九(1974)年という、もはや「大昔」なのです。当時は「都市史」どころか、「城跡」でさえ超マイナーな歴史分野でした。

ただ、この項目のおかげで「戦国城下町」がひとつ無かったことにされてしまいました。川西市史の記述は、基本的に猪名川町史にも受け継がれています。市史、町史の類は近隣の市町村図書館にしか分配されませんが、これらの内容は、権威ある平凡社の「日本歴史地名大系(全50巻)」にそのまま引用され、これは全国の主要図書館に備えられています。歴史の本を読まない人は山下を「城下町だ」と言い、歴史の本を読む人ほど「製錬のために造られた町だ」と言う「悲喜劇」が始まりました。

[豊臣時代の山下町]

ここで慶長十(1605)年の「摂津国絵図」を見てみましょう(上画像⑤)。塩川氏滅亡のおよそ20年後、関が原の合戦の5年後、豊臣氏滅亡の10年前の絵です(市史第2巻第2章「慶長国絵図の作成」)。画像を見ていただくと、上半分に急峻な山容が描かれ「塩川 多田古城」と、荒廃した城跡の説明書きがあります。城は現役当時、「多田城(ただのしろ)」「塩川城(しおかわのしろ)」で通用していたかと思われます。現在の古城山は、広葉樹で覆われて「モコモコした」山容を呈していますが、樹木の下は実際急峻で、画像②の地形模型のような状態を呈し、この絵図の描写は実見に基づくものと思われます。

その下に四角く囲まれた「多田庄内山下町 四十石八斗五升」の記載があります。市史の言う通り、天正期の「三拾石余」より出来高が増加しています。課税対象ということは、これは「商業地、宿場町である山下町」がさらに発展したか、あるいは、城下町の開設時に時折みられる「地子免除」などの特権が無効化された可能性があります。

また同時に(これも市史にあるように)、慶長十五(1610)年の甘露寺縁起に「慶長年中下財繁昌依而甘露寺屋敷替被仰付下町只今所移」との記述があり、この頃に製錬業が盛んになった為、甘露寺が現在地に移転したというのです。本連載第8回で触れましたが、甘露寺は、塩川国満による築城時に山から強制移転させられ、その場所は「甘露寺山」との伝承(「向山」とは別に)がある、「平井」の岡にあったと思われます。現在観光バス会社がある、地図①中央左です。付近で見つかった一石五輪塔や小石仏が古城山登り口左に祀られています(塩川国満の首塚ではありません念の為)。位置的に、塩川氏の滅亡直後は「侍町」が空き地になって、甘露寺は山下町の繁華街から離れた場所にポツンと建っていたと思われます。この甘露寺縁起の通りであれば、17世紀初頭頃から侍町跡地に吹き場(製錬所)が新たに操業を始めた、ということでしょう。今のところ平井付近から天正期の瓦片は確認しておらず(と、言うより調査もなされず道路工事で消滅した)、寺は草葺だった可能性もあり、盛んになりつつある下財地域の火の粉や煙を避ける為の移転だったかと思われます。市史史料集所収の「山下甘露寺あて片桐且元書状」から、この移転は慶長七(1602)年には完了したと思われます。この90年後の元禄五(1692)年の「寺社吟味帳」の記載では、甘露寺の本堂、薬師堂、方丈、庫裡、鐘楼、裏門、表門がことごとく「瓦葺」になっています。現在、甘露寺西の大路次河畔の段丘崖下には慶長~江戸初頭頃を思わせる技法の瓦片が散在しているので、この慶長期の移転で一気に様変わりしたのでしょう。道路拡張で失われましたが、近年まで残っていた先代の甘露寺の山門は、呉服町通りの西突き当たりに、あたかも陣屋の城門のような威厳を持って建っていました。まるで山下町が甘露寺の城下町であるかのような

この甘露寺の移転は同時に豊臣政権による山下の「都市改造」の一環ではなかったかとも思われます。甘露寺は(江戸時代の寺請制度や檀家制度に通じる)山下町の行政的な何らかの役割を請け負ったのではないでしょうか。そして現在、山下町の町屋の「表」が、基本的に東西方向の通りに面しており(城から見て「横町」、甘露寺から見て「竪町」)、これは豊臣時代の「マイナーチェンジ」以来ではないかと推測しています。こうした町屋の表が90°変換する例が近江長浜に見られるからです(太田浩司「長浜城下町」、信長の城下町所収)。

 [廃城後の古城山で「山吹き」をしていた?!]

ところで、これまで述べた「天正年中之後下才吹場段々繁昌仕候而火事多」や「慶長年中下財繁昌」の光景を彷彿とさせる遺物があります。毎年「戦国1日博物館」で展示しているのですが、獅子山城の、主郭を含む上部郭群から、時々カラミ(鉱滓)が表採されるのです。たいした量ではなく小片ばかりですが。主郭から見つかるものは、下財でみられるものに比べてやや「光沢の無いくすんだ」質感のものを一部含みます。東三段~東五段郭で見つかるものは、下財で見られるカラミと変わらない、黒光りした質感を呈しています。

これらは廃城後~江戸時代初期にかけての「山吹き」(製錬)によるものかもしれません(「山吹き」に関しては豊能町の小嶋均氏、猪名川町の青木美香氏の御教示を得ました)。城跡は廃城以降の遺物は極めて少なく、人が立ち入った形跡は少ないのですが、後世の遺物として、時々「転用砥石」が見られます(これも毎年「戦国1日博物館」で展示しています)。これは塩川時代の破却された平瓦の破片や備前焼大甕の破片を砥石として再利用したものです。山仕事として、ナタやヨキ(斧)などを研いだ形跡でしょうか。また西四段郭北西下斜面では、未使用の炭2本分(炭俵ごと斜面に垂直に落ちて、かろうじて地中に埋まった2本分が残ったような状態)が見つかりました。城山付近には特に炭釜も見られないことから、これらも「塩川時代の遺物」か、「山吹き用の燃料」であった可能性があります。こうした「山吹き」(本来は鉱山で行なう製錬の意味)は元禄元(1688)年、幕府の「山下役所」設置時に禁止されてしまうので、城跡で見られるカラミは、慶長期~江戸初期の遺物なのかもしれません。

(②につづく)

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(補注3)

*       市史第2巻の巻頭グラビア及び、第7巻史料集所収の「山下町粗絵図」も実際は「下財屋敷」のみを描いたものです。

*       市史第2巻第2章の「銀山町・山下町栄える」の項でも、元禄十一年の「摂陽群談」における「鉱(アラカネ)ヲ製スルノ地山下町ニアリ」の記述から、山下の説明として「山師より購入した鉑を製錬する吹き屋の町として山下町が、また鉱夫の町として下財屋敷が、江戸時代を通じて存続していたことがわかる。」との記述を繰り返しています。実際は吹き屋も鉱夫居住区も、共に「下財屋敷」内にあり、それは上述した2つの絵図にもちゃんと描かれているのです。「摂陽群談」における「山下町」は「広義」の「山下」でしょう。

*       市史第2巻第3章の「山下町の吹き場」の項で、寛延二(1749)年の山下の家数が「三十七軒」としています。元になった史料は史料集の「村明細帳」内所収の「一二一 寛延二年山下下財町明細帳」と見出しがありますが、原文の表紙には「摂州河辺郡下財町」とあり、あくまで下財地域のみの明細帳です。また2巻の通史230ページの明細帳をまとめた表も同様です。なお、川西市史には山下町(狭義)の明細帳はいっさい掲載されていません。

*       同項において若干触れられている享保十二(1727)年の大火、いわゆる「山下焼け」に関しても、はたして商業地域をも含む山下(広義)全体が類焼したのかどうか不明です。史料(山下吹場町不景気につき願)における記述は、製錬所が全焼し、「家数」は、およそ60軒あったのが30軒あまりに減じたとあります。この家数は文化十二(1815)年の家数(笹部村野山之一件)が、山下町(狭義)の83軒、下財屋敷の30軒と比べると、下財地域における被害だけを記載していると思われます。

*       同項に「そのころ(寛延年間)山下町は吹場町・魚屋町・農人町・呉服町・本町などの町で構成されており、町場的性格をもっていたことは確かである」と、18世紀半ばの通史において、初めて商業地について書かれています(なぜ論者がここで唐突に、「山下の商業都市としての側面」に触れたのか理由がわかりません)。現実には天正期の当初から石高換算で「三拾石余」分が課税されているわけですから、これは商業地域にかかる地子であったでしょう。また上記の「吹場町」は町名ではなく「下財屋敷」の別名であり、それ以外の「魚屋町・農人町・呉服町・本町など」は山下町(狭義)内の町名として、昭和40年代までは使われていました(冒頭地図①参照)。そもそも「本町」とは、町の最も初源的な地域を示す町名であり、あとから付加された名ではありません。また、山下町の藤巴力男さんによると、戦前に既に「呉服町に呉服屋が一軒も無く、魚屋町にも魚屋は無かった」とのことです(なお、藤巴家は家伝によると刀鍛冶であったそうです)。こうした「同業者町」、すなわち「同職同町集住」は全国的にも城下町の建設時には原則であったようですが、経済的発展の多い地域、業種ほど、江戸期後半には有名無実になりつつあったようです(“同職同町集住の変化”中部よし子「城下町」)。これらの「町名」は遅くとも慶長期、あるいは、天正初頭の遠い塩川時代の遺産とも考えられるのです。

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