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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十七回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十七回

~ 明智光秀と桔梗紋と源頼光と ~

①もし、明智光秀のドラマに塩川氏が登場したらどうなる?

②明智光秀が「桔梗紋」を使っていたというのは、本当なの?

③桔梗紋と城

④「源氏」の家紋とは??

⑤源頼光と多田荘との接点

[はじめに]

遅ればせながら、6月2日は、東谷ズム令和元年 ラストイヤーの「戦国1日博物館」に多数お越しいただき有難うございました。今回もまた、来館された方々と、得難い時間を過ごすことが出来ました。また、展示を手伝っていただいた諸氏にも、厚く御礼申し上げます。

なお、来年以降の「戦国1日博物館」の展示に関しては、まったく白紙の状態ではあります。何らかのイベントとの「抱き合わせ」等のかたちでも実現出来れば、とは思っておりますので、またお声をお掛け下さい。

そして、東谷ズム当日は、古城山山頂の主郭跡において、「獅子山ノ城址」(ししやまのしろあと)碑の除幕式も行われました。城跡はご存知のように「山下城(やましたじょう)」という後世の通称が浸透している状況ではありますが、やはり「山下」とは城下町の名称であり、山城の呼び名としてはあまりにも不適切です。よって、「高代寺日記」の編者が、築城時の当事者の日記から引用したと思われるこの名称を刻字するに至りました。また石碑は、地下遺構を破壊しないように、台座が地表面上に「載った」構造となっています。

関係諸氏の御理解、及び、製作、設置に携われた方々の御努力にも、重ねて御礼申し上げます。

①もし、明智光秀のドラマに塩川氏が登場したらどうなる?

[「麒麟がくる」に向けての“盛り上がり”の中で]

引き続き、いつもの連載に戻りまして…。

来年2020年のNHK大河ドラマが、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」ということで、すでに行きつけの書店の棚や、歴史資料館、史跡などのイベント等においても「明智光秀」の名前を目にすることが段々増えてきました。まぁせっかくの機会ですので、ちょっと便乗させて頂きまして、今回から2回に分けて、記録が乏しいながらも、「塩川氏と明智光秀に絡んだ話題」に触れてみたいと思います。

ちなみに、「麒麟がくる」のオリジナル脚本を手がけられる「池端俊作さん」といえば、個人的には、学生時代に観た「昭和四十六年 大久保清の犯罪」(演出・山泉脩、TBS 1983)が重くも衝撃的でありました。主演のビートたけしさんは、確かあの作品が「初シリアス作品」だったように記憶しています。また、池端さんが手がけられた大河ドラマ、「太平記」(原作:吉川英治、1991)も、戦後タブー視された、南北朝時代のドラマでしたし、それまでテレビ媒体では「あまりなじみのなかった歴史上の人物」が次々登場した点も印象的でした。その影響で「高師直」(こうのもろなお)なんて今だに「柄本明」さんの顔で想像してしまいます。これは「伝・足利尊氏像」→「実は高師直像?」という藤本正行氏の説を取り入れたキャスティングだったのでしょうか(顔が似ている)。また、前回の連載において「佐々木道誉(高氏)」が貞知二(1363)年、中山寺と清澄寺(清荒神)の境界訴訟を裁定したこと(中山寺文書)をご紹介しましたが、私はあれを書きながらも「陣内孝則さん演じる佐々木道誉が、あの高い声音で」裁定を下している場面が勝手に脳内再生されて(汗)しかたありませんでした。

というわけで、しばしば“お定まりの展開”に陥りがちの“戦国ドラマ”ですが、ひょっとして、“斬新な人物”が登場する可能性も??などと微かに思っております。

[“荒木村重の乱”は光秀に大きな影響を与えたはず]

えーと、何が言いたいのかというと、要するに「荒木村重の謀叛に、摂津で唯一抵抗した塩川長満」とか、その功労で「織田信忠に嫁いだ塩川長満の娘」なんかが、「大河ドラマ初」の試みとして登場しないのだろうか、ということです。まぁ、無理かな…(汗)。

ともあれ、本能寺の変の4年前に勃発した「荒木村重の謀反」は、明智光秀にとってもいろんな意味で「衝撃的大事件」だったでしょう。そして当時、丹波・八上城攻めに苦労していた光秀にとって、南隣の摂津で“孤島のように”織田方として留まった「塩川長満」の名は、頼もしく響いたはずです。塩川長満は、おそらくその功績で、有岡城を包囲する「古池田」(池田城跡)の織田信長“本陣”の守備(信長公記)、という栄誉を与えられますが、この「御座所」の普請を担当したのが、実は明智光秀だったのです(小畠文書、「池田城跡」第V期の遺構か)。また言うまでもなく、光秀は後に、織田信長・信忠父子を殺害してしまいます。これは信忠の岳父、塩川長満は勿論のこと、信忠と相婿(妻(塩川氏)が姉妹同士)である池田元助やその父、恒興(元々信長の乳兄弟)をも「完全に敵に廻した」ことを意味します。よく本能寺の変の後、「明智光秀が味方として期待していた“摂津衆”は、“中国大返し”の影響で羽柴秀吉方に付いてしまった」などと憶測で語られたりしますが、“摂津衆”は基本、池田恒興が統括していた(信長公記)ようですから、彼等を味方として期待出来なかったことは、光秀自身が十分承知していたはずです。そして結局、明智光秀は「山崎の戦い」において「摂津衆に惨敗」して滅亡することになります。この戦いは、先頭に立った高山右近や中川清秀の名前ばかりがこの440年間、語られてきました。背景に、塩川家と織田家、池田家との「血縁も作用」していたことは、これまでかえりみられたことすらありませんでした。そればかりではなく、2019年の現代の出版物等においても「山崎の戦い」に「塩川氏」の名前が記されること自体、殆んどないのです(この経緯については次回“後編”で触れます)。

[「塩川長満」に、5分間を!]

というわけで、もし万が一、脚本構想中の池端俊作さんが本稿を御覧になっておられれば(汗)、是非、“キーパーソン”塩川長満の登場をオススメ致します。あっ、Wikipediaの「有岡城の戦い」の「荒木方・塩川国満」なんてのはウソっぱちですからご注意を。それから、荒木村重には餅を与えないで下さい。あと、大河ドラマの恒例、黒田勘兵衛の“有岡城幽閉話”とか、“悲劇のヒロイン、細川ガラシャの涙”なんてのは、昭和の頃からやってたし、高山右近の“優等生キャラ”もワンパターンでしょう。NHKドラマは大抵「西洋文化に目覚めた人」をフィーチャーするのですが、たまには趣向を変えて、せめて“5分間”でも、無名の“塩川長満”と“寿々姫”に割りあてて頂けたら、と思います。と、なにやら「往生際の悪い、大河ドラマ地元誘致運動」みたいになっておりますが、塩川氏は“地元”ですら、その実体を「誤解」、「無視」されまくっている“超日陰者”にございます。足掛け6年にわたって開催した「東谷ズム・戦国1日博物館」も、奮闘・努力の甲斐もなく、今日~も涙の~♪、いや、(汗)私は正直、「無力感」を突きつけられました。しかし、こんな地味な摂津・塩川氏ではありますが、なにかの拍子に、一気に「大ブレーク」するような気もしています。ですから、大河ドラマに限らず、例えば「歴史小説」や「劇画作品」を志しているそこのあなた!、今がチャンスですよ!。こんなに“潜在力”を秘めた歴史的題材はホント珍しいのです。

それにしてもいい加減に、昭和の頃から変わらない“人気者歴史観”から脱却したいものです。2005年の大河ドラマ「義経」なんて、「多田源氏」というものが一切「存在していない」という設定でした。本当は「鵯越の逆落とし」は多田行綱がモデル(玉葉)なんですけれど…。塩川氏もまた「存在していない」扱いでしょうか。塩川氏の登場しない明智ドラマなんて、「クリープ」を入れないコーヒーのようなものです。(昭和か)

②明智光秀が「水色桔梗の旗」を使っていたというのは、本当なの?

[歴史ドラマでは見慣れた光景ですが…]

ただ、「明智、明智」で盛り上がる中、ちょっと憂鬱に感じることがあります。

ひょっとしたら、来年春の多田神社における「源氏まつり」は「懐古行列・フィーチャリング“明智光秀”」なんてことにならないか(塩川氏の立場はどうなる…)。

そしてもうひとつは、すでに巷に溢れている「水色桔梗紋」のことです。

光秀関連の出版物やイベントポスター等でも、「桔梗紋」を用いていないものはありません。もし、仮に「今回のチラシは桔梗紋一切無しで」といったデザイナーによる提案があったとしても、たちまち「同調圧力」に潰されてしまうことでしょう。おそらく来たるドラマにおいても、「CGの麒麟が駆け回り、背景には桔梗の花が咲き乱れる」オープニング映像とか、「桔梗紋の前立の兜」をかぶった光秀が、一糸乱れぬ「水色桔梗」の旗を靡かせた明智軍団を率いて進軍する、といった、昭和の頃から、繰り返し繰り返し“刷り込まれてきたお馴染みの光景”が展開されて、「桔梗紋とはまさに、土岐氏や明智氏のシンボルだったのだなぁ」といった固定観念がさらに強化される事が懸念されます。しかし「明智光秀が(水色)桔梗紋を旗印にしていた」という記録は、当時のリアルタイムな史料や遺物からは一切確認されていないはずです。すべて江戸時代以降に書かれた系図や軍記物、あるいはそれらを元に想像して描かれた合戦図屏風等の情報です。

[映像作品の“慣習”の危険性]

ちなみに、信州の真田氏の家紋が「六文銭」であったことは有名です。これは江戸初期の詳細な「旗幟図」等の絵図においても、徳川時代に生き残った、真田信之や信吉の旗印として紹介されているので、実際に旗にも使われていたのでしょう。しかし一方、大坂の陣で豊臣方に付いた真田信繁(いわゆる幸村)勢の旗印は、信憑性の高い「大坂の夏の陣屏風」や最近話題の「大坂冬の陣屏風」等における描写から「無地の赤一色」であったとみられています(「大阪城天守閣」常設展示パネル)。それにもかかわらず、近年の大河ドラマ「真田丸」や歴史番組における「再現映像」等においては「六文銭」が染め抜かれた信繁隊の旗が使われたようです。

こういった慣習は「わかりやすい記号」、「その方が真田らしく見える」といった「演出意図」や「忖度(そんたく)」の結果とは思われますが、視聴者は、毎回100%、「同じような映像ばかり」見せられているうちに、当然「専門家もそう判断しているのだろう」と信じてしまい、いつの間にか「歴史上の常識」、「共同幻想」に変わってゆく危険性は、江戸時代の「軍記物」や「俗説」とおなじ轍を踏んでいます。「芝居」や「劇」、「エンターテイメント」においては「正論」なのかもしれませんが、「歴史認識」という観点からは、誤解を生み出す温床なのです。

現代の人々が「桔梗紋」→「明智光秀」と連想するのはおそらく「テレビの見過ぎ」という要因が最大だと思われます。これがさらにゲーム、劇画、小説等に分配されてゆきます。それらは、いわゆる「暗黙の領域」に属するので、あまり学者さんの議題にのぼったりもしないのです。「まぁ、これはこれで…」という感じで放置されてしまいます。

[あの有名な明智光秀の“肖像画”は、本当に“光秀”なの?]

ふと、「明智光秀の肖像画(岸和田市本徳寺蔵)に描かれていた“服の文様”は何だっけ?」と思い立ち、確認してみたら、素襖(すおう)の襟の間から見える小袖に「雪持笹」の文様が見えていました。「桔梗紋」なんて、どこにも描かれていません。とはいえ、ここから「実は明智光秀は「雪持笹」紋だった?」などと言うつもりもありません。事態はそんなに単純でもなさそうです。

それというのも、どうやらこの有名な「肖像画」(慶長十八(1613)年の賛あり)が、本当に明智光秀を描いたものなのかどうか、その根拠は相当「お寒い」状況のようです。今、この件で深入りする余裕などはありませんが、このような明智光秀の「基礎資料」ともいうべき大事なものに、あまりツッコミが入らないのは、前述した「暗黙の領域」であることに加え、まず光秀の「肖像画」が他には無く、おそらく「光秀の顔が見たい!!」という多くの人々の「願望」が、この肖像画を「真実」に持ち上げているからでしょう。

加えてこの肖像画は、芸術的には間違いなく「傑作」です。中学生の時にこれを初めて観た時は衝撃的ですらありました。これを観ていると「時間が止まる」のです。

「謀叛人」という荒々しいイメージとの“ギャップ”。“胸に秘めた思い”を感じさせる「無表情な白い顔」。いかにも「中世と近世の狭間」を実感させる画風や服装、そして質感。

しかし、この絵もまた、かつての「源頼朝像」、「足利尊氏像」、「武田信玄像」などと同じ轍を踏みそうな気がします。「あなた、本当は誰なの?」

「明智光秀」といえば、主に「本能寺の変」に関して様々な「謀略説」で溢れかえったり、また、そういった風潮が批判されたりしています。しかしながら、「肖像画」や「家紋」といった“ヴィジュアル”に関しては、あまり検証されていないように見受けられます。

[明智光秀と桔梗紋の関係]

さて、冒頭からいきなり「大胆な疑問」を提示してしまいましたが、結論から言うと、「明智光秀が「桔梗紋」を使っていても別段おかしくはない」とは思っています。

明智光秀が桔梗紋を用いていたことは「明智系図」(妙心寺本・続群書類従五輯下)の冒頭において「家之紋水色桔梗華」と記されているのが唯一の記事かと思われます。本系図は寛永八(1631)年六月十三日に「妙心寺塔頭六十五歳」なる者が分散した明智系図を諸書より集めて作成したようです(上杉允「群書解題」)。また、沼田頼輔氏は「日本紋章学」において、同図を「光秀の子僧玄琳が光秀の五十回忌に編集したもの」と述べられています。いずれにしても、時期的にはやや微妙な「江戸時代初期の情報」であり、これをどう判断するかで、意見が分かれるかとは思います。

そして光秀の家系に関しては、彼の存命当時の公家である「立入宗継」の日記「立入左京亮入道隆佐記」の中に「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」と記されており、また「兼見卿記」(元亀三年十二月十一日条)において吉田兼和が、光秀から、彼の「濃州親類」が神社の敷地に「新城」を築いて“祟られた”のでお祓いをしたい、との相談を受けていることから、光秀は美濃国の土岐氏の一族であり、美濃の親族は「城を築く」ような階層である、とみられているようです。

一方、美濃の「土岐氏」が「桔梗紋」を用いていたことは、沼田頼輔氏(前褐書)が、「太平記」に「美濃ノ桔梗一揆、水色ノ旗ヲサシテ」の記述があること、明徳三(1392)の「相国寺塔供養記」に「土岐美濃守頼益」が直垂(ひたたれ)に桔梗紋を用いていた記述があること、「羽継原合戦記」(室町時代成立か)、および「見聞(けんもん)諸家紋」に、土岐氏が「(水色)桔梗紋」が用いている記述(冒頭画像、後述)があることを紹介しておられ、土岐氏が水色桔梗紋を使用したことは確実です。(なお「見聞諸家紋」には「但し幕は無紋水色」と記されています。冒頭画像右端)

ですから、明智光秀が実際に「水色桔梗」を使う資格があったかはともかく(土岐家の“惣領”を意味する可能性があるので)、何らかの「桔梗紋の図案」を使用していた可能性は、むしろ高かったとは思われます

[実際の家紋使用は、テレビドラマにおけるほど“単純”ではなかった]

しかしながら、当時の武士や貴族は、定紋や替紋、あるいは図案にオプションや派生型(「丸に桔梗」や「太田桔梗」等)があるなど、“複数の家紋をバリエーション豊かに”使い分けており、比較的ポピュラーな「桔梗紋」を使っていた家は実際、非常に多かったと思われるのです(後述)。つまり、明智光秀が桔梗紋を使用していたとしても、それは「大勢の中の一人」であって、「桔梗紋と言えば明智」といった短絡的な結び付けや、あたかも「明智だけが桔梗紋を独占していた」かのような誤解は、おそらく、まだ多くの大名が存在していた江戸時代よりも、むしろ“現代において”最大限に強くなったように思われます。

例えば、織田信長の家臣であった「蜂屋頼隆」(美濃・土岐系?)や、「桑山重晴」(尾張・土岐系?)といった武将達も「桔梗紋」を使っていたようですが(沼田頼輔「日本紋章学」)、歴史ドラマにおいて「あまりなじみのない武将」なので、そのことを知る人は殆んどいないでしょう。そして、もし仮に「史実にこだわるテレビ局の美術さん」がいて、蜂屋頼隆や桑山重晴の「桔梗紋の旗」を用意したとしても、「それでは視聴者が“明智光秀”と誤解するだろう」なんて忖度(そんたく)されて、おそらく“ボツ”になってしまう気がします。誤解のスパイラルです。

[「桔梗紋」を使用した家系は「土岐系」が最多ではなかった]

なお前褐の沼田頼輔氏は、「日本紋章学」(人物往来社、1968)において、桔梗紋(諸バリエーションを含む)を使用した家を、系統別に分類、集計したグラフを作成されています(491ページの「桔梗紋所所用多寡比較表」)。それによると、何らかの桔梗紋を用いた家は計「104家」もあります。その系統別ランキングとしては、「(土岐氏以外の)清和源氏頼光流」が「22家」を占めて第1位です。第2位は「藤原氏支流」の「14家」、第3位は「清和源氏支流」の「13家」、第4位が「土岐流」の「10家」となっています。分類の仕方にもよりますが、意外にも土岐氏は「第4位」に過ぎないのです。おそらく、土岐系の桔梗紋が有名になったのは、同家が美濃国の守護であったこと、「水色指定」というユニークさ、「太平記」に引用されたこと、そしてやはり「明智光秀に関連付けられて」、といった要因が考えられます。

なお、地域的には「美濃は桔梗紋の最も分布した地方」であり、「その分布は隣国の飛騨に及び」(沼田氏同書)という状況ではあるようです。岐阜県を中心とする中部地方が「桔梗王国」であることには違いないようです。

[中世土岐氏の桔梗紋は、いわゆる「土岐桔梗型」ではなかった]

さらに、話がややこしくなりますが…

「見聞諸家紋(東山御文帳)」は、わが国最古の家紋図鑑といわれ、群書類従本(佐々木本)はその奥書きに「足利時代 於于(ここ)評定所 改之 悉次第不同 書顕于是」~「天文八(1539)年卯月十九日 佐々木秀勝 判」の記載があります。また、ネット上では、サイト「国文学研究資料館」のデータ・ベースにおいて、寛政三(1791)年の写本(鹿児島大学附属図書館蔵)を閲覧出来ます。また、サイト「みんなの知識・ちょっと便利帳」においては、文化六(1809)年の写本(国会図書館蔵)も閲覧することが出来ます。この2つの写本には「永正七(1510)年三月十七日」の奥付があります。「見聞諸家紋」は16世紀初頭には成立していたのでしょう。

同書における桔梗紋の項で、ちょっと興味深いのは、この紋を「土岐氏の紋として」紹介しているのにもかかわらず、「画かれている図案」がいわゆる「土岐桔梗」ではないことです(冒頭画像右)。

桔梗紋には、円形に近い「土岐桔梗」、五角形の「普通の桔梗紋」、星型っぽいスリムな「太田桔梗」などのバリエーションが知られていますが、最古の桔梗紋の視覚資料である「見聞諸家紋」に描かれているのは、「基本五角形で花びらの先が微妙に「太田」寄りに尖っている」ノーマルな図案なのです。上記の諸写本における描写を比較しても、図案はかなり正確に「専門家によって写されて」いるように見えます。要するに、この形が「中世土岐氏の桔梗紋」であり、一般に土岐氏特有のものと認識されている“土岐桔梗”の図案は、実は江戸時代における“派生型”のようです。

[「見聞諸家紋」の著者も、桔梗紋のルーツが土岐氏であることを疑っていた!]

さて、長々と引っ張ってきましたが、今回連載の“メインディッシュ”にまいりましょう。

沼田頼輔氏は「日本紋章学」(482ページ)において、「見聞諸家紋」における桔梗紋の由来書きを引用し

「右の記事によると、土岐氏がこれを用いたのは、ある戦争で桔梗花を冑にはさんで戦い、そのとき勝利を得たことから、これを記念するために用いるようになったということであるが、誰がこれを始め、また何時代なのかはわからないといい、また一説には始祖頼光がこれを始めたということであるが、強くその説をとることはできないといっているのを見ると、これもまた定説ではないように思われる。」と解釈されています。

ちょっと解かりにくいので、沼田氏の見解をさらに短く要約させていただくと、「桔梗紋の由来としては、「土岐氏による戦時に花を用いた説」の他、「源頼光起源説」があるが、いずれも不確実であると、「見聞諸家紋」の著者は述べている」ということになります。「著者は頼光説も疑っている」というのが、沼田氏による解釈です。

しかし原文の文脈においては、この解釈とは、少しニュアンスが違うようです。原文では先ず、「土岐氏による戦時に花を用いた説」を紹介し、次に「その人物と時代が不明である」旨を述べた後に

「源頼光為紋末裔用之 故不得堅取其説 暫依其所聞以書写而己」(源頼光が紋としたものを、その末裔が用いている。故に、私は“土岐氏による起源説”を強く支持することは出来ない。取りあえず、聞いた情報を書き写すのみである。)

と記されているのです。ここで重要なポイントは、「源頼光の末裔は土岐氏だけではない」ということです。そして、そのことは誰よりも、沼田頼輔氏御自身が、上述した「日本紋章学」の491-492ページの「桔梗紋所所用多寡比較表」において、証明されているのです。要するに、系統別ランキングで「清和源氏頼光流」が第1位であり、「土岐系」は「第4位」であった、ということです。

日本最古の家紋図鑑である「見聞諸家紋」の著者が、「桔梗紋のルーツが土岐氏である説」をあまり信用していなかった、という事実は大変重要です。

③桔梗紋と城

[獅子山城跡から「桔梗紋」瓦が見つかった意義について]

さらに、私個人の要望としては、桔梗紋を用いた「源頼光の末裔」として、沼田氏がカウントされた「22家」にもう1家、加えていただきたいと思います。言うまでもなく「摂津・塩川氏」です。本稿では幾度もお伝えしている獅子山城の「桔梗紋瓦」(冒頭画像左上)のことです。「源頼光」のまさに「地元」(後述)における遺物です。瓦は、その製作技法から、まさに織田信長の時代、元亀~天正初頭頃に作られたことは明白です。これは、織田信長現役時代における「日本で唯一の?桔梗紋の遺物」ではないでしょうか。

なお塩川氏は、その実態は不明ながらも、少なくとも摂津源氏の祖「源満仲」の末裔と称されており(荒木略記、高代寺日記)、頼光は、言うまでもなく、満仲の嫡男にあたります。

そして、美濃の土岐氏は、頼光の孫「源国房」が美濃国に下向、定住した「美濃源氏」の末裔です。土岐氏や明智氏が「頼」や「光」を諱(いみな)の通字にしていることは、彼らが「源頼光の末裔」であることアイデンティティにしていたことを意味します。明智光秀の「光」だって、元はといえば、「頼光」から来ているわけです。

ですから、もし源頼光が本当に桔梗紋を用いていた(見聞諸家紋)のであれば、彼の荘園であった当地、多田の地こそがむしろ「桔梗紋の本家」という事になります。少なくとも、多田源氏の「末裔を称した」塩川氏の城から、桔梗紋の瓦が出土したことは、何ら不思議はないわけで、はからずも「見聞諸家紋」の著者の見解と“符合した”はこびとなったのです。

ここでちょっと余談ながら、多田神社の「懐古行列」において、「明智光秀」がただ一人、「桔梗紋の幟をかかげて行進」したとしても、「源頼光」を祭神の一人に擁く神社の祭典としては、はからずも、「忘れ去られていた源頼光の故実(見聞諸家紋)」に基づいた、「正当な行為」になっているのです。

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さらにこれは私事で恐縮ながら、実はウチも家紋が「丸に桔梗」です。別段「先祖が土岐系だった」との伝承もなく、九代前~四代前まで彦根で「足軽奉公」をしておりました。あっ、そういう意味でこの「シリーズ・塩川氏の誤解を解く」は、なぜか「井伊家の足軽の末裔」が担当していることになります。(ひこにゃんの回し者ではありません。)ですから、元々「桔梗紋」と「土岐系」を直結させる意識が、周囲の人々より希薄で、平成12(2000)年に獅子山城の「桔梗紋瓦発見」の知らせを聞いた時も、「おっ、そう来たか!」という嬉しい驚きこそあったものの、決して「違和感」などはなく、現実の家紋使用における「バリエーションの豊かさ」を再確認出来た、という意識でした。

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[明智氏の城からは、桔梗紋瓦は見出されていない]

なお明智氏の居城であった近江・坂本城、丹波・福知山城、丹波・周山城や斎藤利三の丹波・黒井城においては、いずれからも元亀、もしくは明智時代の可能性のある、天正前半期と推定される軒瓦を含む瓦類が見出されています。そのうち、坂本城跡から出土した瓦は、高温による火災痕跡を呈し(坂本城跡発掘調査報告書)、落城時の火災を記した文献とも符合しており、光秀時代のものと確実視されています。そして、いずれの城跡においても「桔梗紋の意匠」などは使われていません。ただし、その最大の要因は、当時はまだ「家紋瓦」というスタイルがほとんど無かったから、ということに尽きます。つまり、獅子山城の桔梗紋瓦が、時代的にあまりにも“突出”しているのです。

このほか、丹波・亀山城跡においては昨年(2018)春、明智時代の可能性のある丸瓦(凹面にコビキA(糸切)痕)、及び豊臣時代??と思しき軒平瓦(瓦頭の向かって左4分の1の唐草部分。中心飾は不明)を表採し、これらは地主である大本教さんの許可を経て、亀岡市文化資料館に届け出ています。同資料館によれば、未だに亀山城跡や城下町遺跡において、瓦を含む明智時代の遺物は見出されていないとの御返事でした。さらにそのひと月前、亀岡市曽我部町穴太の「穴太城跡(「信長公首巻」の「長谷の城」)」(中世寺院、神社との複合遺跡か)において、山麓の主郭の北西斜面において天正前半の明智時代と思しき瓦類を表採し、これも上記資料館に届けていますが、桔梗紋の意匠はありませんでした。(中世の館城を改造した明智時代の「番城」、「関所」の櫓?、あるいは明智時代に再興された「長谷寺」、もしくは「小幡神社」の建物に使用されたものか?)

[他の城における桔梗紋瓦]

なお参考までに、豊臣時代以降の「桔梗紋を持つ瓦」としては、

* 近江・水口岡山城主郭の「寺院系104A」瓦(軒平瓦。天正十三年の「中村一氏」期の天守(西櫓)のもの。安土城考古博物館刊「寺と城・近江の瓦」所収。甲賀市教育委員会)。なお余談ながら、水口の「城下町」は、塩川氏の「山下町」同様、「町人地区を南北に貫く通り」が、大手門跡を経て、山頂主郭のこの「天守に向けて明瞭なヴィスタ(見通し)を形成」しています。

* 尾張・清洲城(軒平瓦、天正後半の「織田信雄」~「羽柴秀次」期か。愛知県埋蔵文化財センターのサイト)。なお、桔梗紋軒平瓦には「金箔瓦」もあるようです(加藤理文氏「織豊権力と城郭」により孫引き)

* 京の聚楽第と内裏の間の「旧大名屋敷跡エリア」から「桔梗紋」を含む金箔「棟瓦」が検出されています(「平安京左京北辺三坊」。京都市埋蔵文化財研究所)。なおこれらの金箔瓦を主とする家紋瓦の年代として、森島康雄氏(「聚楽第と城下町」“豊臣秀吉と京都”所収)は天正十四年に築かれた聚楽第の大名屋敷群を「天正十九年」に移転した「京中屋敷替え」の時期のものと推定されています。

* 紀伊・和歌山城(軒丸瓦、天正後半~慶長初頭の「桑山重晴」時代。和歌山県文化財センター)

* 信濃・松本城(軒平瓦。松本市教育委員会)。「石川数正」時代の可能性のある、桔梗風の「花紋」瓦が紹介されている(加藤理文(前褐書)より孫引き)

* 近江・水口岡山城主郭の東櫓(軒平瓦、文禄四年の「長束正家」期。甲賀市教育委員会)

* 大坂城下町武家屋敷(中央区石町。鬼瓦。一般に「加藤清正」屋敷跡かと言われるが、桔梗紋瓦からの推測と思われる。労働センター南館)

* 肥後・熊本城、宇土城、麦島(八代)城、佐敷城(軒丸、軒平瓦。「加藤清正」時代。加藤理文(前褐書)より孫引き)。「加藤清正」は「最も積極的に桔梗紋瓦を使用した大名」です。現在災害復興中の熊本城天守においても、桔梗紋が大々的に使用されています。また、余談ながら、麦島城からは加藤氏以前の「小西行長時代の軒平瓦」も出土しており、こちらはその「唐草文様のパターン」から、行長の出身地である「泉州・堺系の瓦工」による製作と推定されています(山崎信二「近世瓦の研究」)。この「唐草紋様」は塩川氏の「獅子山城」のものとも酷似しており、獅子山城の瓦も泉州系の瓦工による可能性があると思われます(連載第十一回「獅子山城における瓦について」)。

* 徳川譜代大名の諸城(「太田氏」の西尾城(「太田桔梗」の軒丸瓦、1638-1644)、浜松城(同瓦、1644-1678)、掛川城(軒丸瓦、軒桟瓦、1746-1842))など。以上、加藤理文(前褐書)より孫引き。なお太田氏は「江戸城を造った太田道灌(資長)」の一族として有名ですが、意外にも「清和源氏頼光流」であり、その名字「太田」とは、「丹波桑田郡稗田野太田」(現在の京都府亀岡市太田)からきているようです。よって、もし亀岡市太田から「太田桔梗」を含む中世の遺物が出土しても、「明智光秀」に関連付けられてしまう危険性がありますが、幸か不幸か、その事例はないようです。

[家紋瓦、桔梗紋瓦の時系列]

なお加藤理文氏(織豊権力と城郭)は「家紋瓦」の「最古の事例」を、織田信雄段階の清須城における「織田木瓜」紋(筆者注・天正十四~十八年)とされ、また「家紋瓦の成立については、豊臣政権による大坂城、聚楽第、伏見城下の城下屋敷建設であることはほぼ間違いない」とされています。また、前述した、森島康雄氏(聚楽第と城下町)が推定された聚楽第城下町の成立期「天正十九年」も同様の時期です。

こういった状況から、塩川氏による「天正初頭の織田信長段階における家紋(桔梗紋)瓦」という事例は、如何に「突出した早期」であるかがお判りいただけるかと思います。

なお、瓦頭に刻印された桔梗の図案の変遷を時系列でたどると、やはり最古と思われる獅子山城のものが最も“粗い”、“たどたどしい”、“ある意味、写実的”描写で、水口城、清洲城のものがこれに続きます。後世に至るほど、曲線やバランスが洗練されてゆき、慶長~江戸初期には今日見られる“意匠としての桔梗紋”が“立体凸面”として完成されます。この頃には「家紋瓦」というスタイルも一般化し、近世に至って普及します。(京都市「智積院」の軒丸瓦、八幡市「石清水八幡宮寺」中の坊跡表採軒平瓦、滋賀県「高島歴史民俗資料館」展示遺物(軒丸瓦、採集地不詳)等)。

また、加藤清正の桔梗紋使用は比較的有名ですが、桑山重晴、長束正家の城に使われていたのはちょっと意外でした。

以上、これらの「近世初頭の桔梗紋瓦の普及」から推定されるのは、明智光秀の時代においても、「“桔梗”という家紋を使用した家」はけっこうあっただろう、ということです。

④「源氏」の家紋とは??

[塩川氏の本紋は「獅子牡丹(ししぼたん)」]

ところで、「高代寺日記」によると、塩川氏の本紋は「獅子牡丹」です。なお、源満仲の父、「六孫王」こと「源経基」を祀る、京都の「六孫王神社」の神紋も「牡丹」のようですから、これが「清和源氏の初代」以来のモチーフなのかもしれません。そしてこの「獅子牡丹」紋は実際、摂津国に多く分布しており(沼田氏前褐書)、「本来の摂津源氏、多田源氏の紋章」とされています。また塩川氏がその居城を「獅子山城」(高代寺日記)と命名したのも、おそらく本紋(あるいは中国の故事)に絡めてのことでしょう。これは蒲生氏郷がその家紋「対い鶴」(見聞諸家紋)から、会津の居城を「鶴ヶ城」と命名した(出典未確認)のと同様のパターンかもしれません。ただし、「獅子牡丹紋」は、意匠的にあまりにも複雑なので、瓦頭の笵を製作するにあたって、塩川氏が「替紋」として「桔梗紋の中心飾」を瓦師に指定したものと推定されます。

なお、「見聞諸家紋」における「獅子牡丹」の項にも「多田」が記されています。そして「羽継原合戦記」(長倉追罰記)においても、永享七(1437)年の常陸国での合戦の場面で「獅子に牡丹は多田の三郎」が記されおり、こちらは鎌倉時代以降、東国に流れた多田氏の系列でしょうか。さらには、甲斐武田氏に仕えた「多田三八郎(淡路守)」も、多田源氏の末裔を称しており、「獅子牡丹」紋を用いていました(太田亮「姓氏家系大辞典」)。

[ちなみに能勢氏も]

また、近世以降は「矢筈十字」紋を使用したことで知られる「能勢氏」もまた、「獅子牡丹」と「桔梗」を用いていました(沼田氏前褐書)。そういえば能勢惣領家が「頼」を通字としていることも(塩川氏の「満」や「仲」に対して)むしろ「源頼光への帰属意識」が高かったのかもしれません。加えて「見聞諸家紋」(佐々木本)においては「摂州之能勢」として「十二目結」紋が掲載されています。16世紀の塩川氏にとって、「能勢氏特有の紋」として識別されたのが「十二目結」だったということになります。

[いわゆる源氏の「笹竜胆」(ささりんどう)紋について]

なお、世間一般的、常識的には「笹竜胆紋」が「源氏の家紋」と認識されていて、多田神社や満願寺でも「シンボル」として採用されており、川西市では馴染みのあるものとなっていますが、実はこの紋も、重層的に様々な変遷、誤解、乗り換え等を経て、現在に至っているようです。

* まず、総合的な「氏(うじ)、姓の家紋」自体、元々存在しないこと。ですから「源氏の家紋」といったものなど本来は無いのです。家紋とは「○○氏」流の「××家」といった「名字、家」に対応したものです。(そういう意味では、「塩川氏」、「能勢氏」、「足利氏」など、歴史書における「○○氏」という言い回しも、「氏・名字論」的には“不正確”であり、慣用的なものです。)

* 「笹竜胆」とは、単に葉の形が「笹に似ているのでササリンドウと呼ばれた」だけであり、文様に描かれた葉は「笹」ではありません。よく似た「笹紋」とは全く別の系統です。

* 丹羽氏(日本家紋大事典)によれば、竜胆(りんどう)紋は元々「村上源氏流」(補注)の紋が「いつの世にか源氏の代表紋章のように信じられてしまったので、後世清和源氏の一門もこれを用いるようになった」らしく、この紋が一般に広まったきっかけとしては、江戸時代における歌舞伎「勧進帳」において「義経の紋として人気を呼んだ」ことが大きな契機となったようです。

* 丹羽氏も引用されていますが、十五世紀の合戦を記した前述の「羽継原合戦記」において「笹竜胆は石川」の記述があります。石川氏は、源頼光の弟である「源頼信」→「頼義」→「義家」へとつづく「河内源氏」→「石川源氏」の末裔にあたります。河内源氏系統の家が足利時代に笹竜胆紋を用いていた、という点は興味深いことです。丹羽氏(上記)が「村上源氏」(後述)の「竜胆紋」をコピーした、と言われるのはこの事でしょうか。いずれにせよ、源頼朝や義経も「河内源氏」の系統であり、鎌倉時代初頭、「源頼朝」があたかも自分が「源氏の正統」であるかのように「自己演出」→「これが現代に至るまで“嫡流”として信じられている」ことや、河内源氏が「歴史物語」上での「人気者」を輩出したことなどが「源氏=河内源氏」→「家紋は笹竜胆」という認識、を作り上げる大きな要因となったでしょう。多田神社における祭神も、五人中三人までが「河内源氏」です。今や「少数野党」となってしまった源満仲(獅子牡丹?)、頼光(桔梗紋?)にとっては、「他所の紋」なのです。

* 「見聞諸家紋」(室町時代)中における「竜胆紋」の例としては、一例のみ、「笹竜胆」の上に「二つ遠雁」を乗せたバージョンが「和州之越智」(大和の越智氏)の紋として紹介されています。越智氏の出自としては、源頼光の弟「頼親」(大和源氏の祖)という説の他、諸説があるようですが、不詳のようです。

* 河内源氏「源義家」の紋としては、「見聞諸家紋」冒頭において、「源八幡太郎義家」(河内源氏)の使用した紋様として「二引両」紋、及び、「前九年の役」の功績により下賜された「五七桐」紋が提示されています(同書の「冒頭」に表示されているのは、足利将軍家による使用を意味しているのでしょう)。さらに古い資料としては、「後三年役」から260年後の「南北朝時代」に描かれた、国宝「後三年合戦絵詞」中において、義家の陣に張りめぐらされた「幕」に記された文様として、白地に黒の「雁紋」、及び黒地に白の「向い鳩紋(八幡神の紋)」、藍地に打たれた「七宝紋」、「縦木瓜紋」が打たれた五色の幔幕などが描かれています(小松茂美「日本の絵巻14」)。「向い鳩」以外は、一般の「有職文様」として使われているように見えます。また義家軍の掲げている「旗」は「無地の白」です。これらの情報から、少なくとも南北朝時代から室町時代にかけては、まだ「笹竜胆」と「清和源氏・源義家」を結びつける発想自体がなかったのでしょう。

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(補注・村上源氏と竜胆紋)

戦国時代のコラムで、いきなり「村上源氏」なんて言われると、瀬戸内の「村上水軍」とか、信濃の「村上義清」などを連想される方も多いと思いますが、全く別物です。こういった連想は「源氏」→「清和源氏」→「武士」→「武装した村上」という順でなされるものと思われます。しかし源氏は「清和源氏」ばかりではなく、そもそも武士ばかりでもありません。本来は皇族に「源の姓」を与えて「臣籍降下」させた「皇親賜姓氏族」のひとつで、平安時代初期の「嵯峨天皇」の子孫にはじまり、「清和天皇」、「宇多天皇」、「醍醐天皇」等の子孫がそれぞれ「源」姓を与えられたものです。その多くはむしろ「公家」でした。フィクションながら「源氏物語」の主人公、「光源氏」もまた「桐壺帝」の子が「臣籍降下」した「賜姓源氏」という設定でした。

そして、「村上源氏」とは「村上天皇」(在位946-967)の子孫で、その代表的な家として、京の南郷、乙訓郡に所領をもった公家、「久我(こが)家」が有名です。岡野友彦氏の研究(「中世久我家と久我家領荘園」、「源氏長者」)によると、村上源氏は平安時代中期以来、しばしば「公家源氏」の全体、及び、「皇親賜姓氏族」全体の祭祀、儀礼等を取り仕切る「源氏長者」を継承した家でした。そして室町時代になると、この「源氏長者」は「足利将軍家」と(村上源氏である)「久我家」の間で交互に継承されました。さらに江戸時代になると、「源氏長者」の地位は、秀忠をのぞく全ての「徳川将軍家」に奪われてしまい、かろうじて幕末の慶応四(1868)年、久我建通の代に「村上源氏」に取り戻されています。なお「源氏長者」という概念については、前述の岡野友彦氏が「源氏長者 武家政権の系譜」(2018)において、非常に重要な提言をなされているので、是非ご参照ください。

なお、ここでは中世以来、公家源氏である村上源氏がしばしば「源氏長者」の称号を継承したことが重要です。源頼朝が「源氏の正統」を主張したことなどは、言わば「自称」、「政治的プロパガンダ」の一環にすぎません。そして「正統な源氏長者」である「村上源氏」系の紋章が基本、「竜胆」をモチーフにした紋章を使っていました。そこから(室町時代以降?に)河内源氏の末裔、「石川氏」などが、「笹竜胆」を「清和源氏」の紋としてコピーした、というあたりが、「清和源氏 = 笹竜胆」のはじまりだったのではないでしょうか。

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⑤源頼光と多田荘との接点

さて、明智光秀の「水色桔梗紋問題」から始めて「桔梗紋:“源頼光”起源説」が引っ張り出されて来て、土岐系と関わりのない「塩川氏の桔梗紋使用」へと繋がったわけですが、繰り返すように、光秀の「光」の字や、土岐氏における「頼」の字が、「頼光」に由来していることが全てを象徴している、と言えるでしょう。そして文脈上、あたかも源頼光が、多田の「地元の人」であるかのような言い回しをしてしまいましたが、ここでちょっと明智光秀から離れて、「源頼光と多田荘」にまつわる、かすかな「接点」についてみてみましょう。

[“鬼退治伝説”で有名な頼光なれど]

さて、源頼光といえば、戦前は「らいこう」のよみで、「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)」を討伐する「鬼退治伝説のヒーロー」として、子供でも知っている名前でした。しかし、このような、彼があたかも「武士団の頭目」であるかのような創作物語は、平安時代後期~南北朝時代の様々な複数の説話が絡み合って、源氏の末裔である、足利将軍家による多田満仲や多田院への崇敬と連動して、「室町時代に」統合、完成されたようです(高橋昌明「酒呑童子の誕生」)。いわば、武家政権の世の中になってから、「我が源氏は先祖伝来、武門の誉れであった」という願望、操作がはたらいて、「英雄」に仕立て上げられたのでしょう。こうした「頼光観」は、16世紀を生きた塩川氏や土岐氏にとっても同様であったことでしょう。

ちなみに「高代寺日記」の寛弘七(1010)年八月の条に「江劦(州)伊吹山山賊アル由 訟フ 摂津守(頼光)ニ退治ノ旨 宣下セラル 頼光郎従数輩ヲシテ討平之」という記述があります。高橋昌明氏(前褐書)によると、こういった話は「伊吹弥三郎伝説」の系統のようです。その元となった歴史的史実は「鎌倉時代初め、醍醐寺領近江国坂田郡柏原荘の地頭柏原弥三郎が、かずかずの非法を働いたため、近江守護佐々木定綱に宣旨を下し討伐を命じた。弥三郎はいずこともなく姿をくらまし、半年後の建仁元年(1201)五月になって、ようやく定綱の四男信綱に誅罰された(「明月記」正治二年十一月二十六日条、「吾妻鏡」二年十一月一日、十二月二十七日、建仁元年五月十七日条)。」ということのようです。13世紀初頭の近江守護、佐々木定綱、信綱による討伐という史実が「元ネタの一系統」ということでした。そして「伊吹弥三郎伝説」においては、弥三郎を討伐した人物を「佐々木頼綱」と置き換えられており、「頼綱」の音も「ライカウ」であることから、これを元々「弥三郎伝説」とは別系統であった「源頼光の大江山鬼退治伝説」からの影響(佐竹昭広氏による)と指摘しています。

「高代寺日記」の編者としては、おそらく「“鬼退治伝説”の元となった史実」を記そうと試みたのでしょうが、力及ばず「鬼退治伝説の影響」から免れ得なかったものと思われます。また、同書が「川西市史」の史料から「除外」されたのは、こういった点などが警戒されたのでしょう。

[藤原“摂関家”に密着して栄達した摂津源氏]

一方、現実の源頼光は、平安京、左京北辺の一等地、「一条邸」を基盤として、時の最高権力者「藤原道長」の腹心として中央政界で暗躍し、各地の国司を歴任した受領クラスの、まさに「中流貴族そのもの」であったことは、既に昭和40年代に、朧谷(鮎沢)寿氏の研究等で指摘されています。ちなみに「日本における家紋の起源」というものは、平安時代に発達した「有職文様」などが、牛車の「識別マーク」などに用いられて広まったことが一因とされているので、ひょっとしたら源頼光の牛車に「桔梗紋」が表示されていたのかもしれません。なお、こういった行為は決して“優雅”といった次元でとらえるべきではなく、路上などにおいて出会う、他車の「格」や、時として「政敵」なども識別出来るという、いわば、江戸時代の武家社会にも引き継がれた「緊張感を伴なうもの」であったと見るべきでありましょう。

それはともかく、摂津源氏は「満仲」以来、摂関家等の「私的従者」となることで台頭し、「頼光」の嫡男「頼国」にも継承され、その子「頼綱」の代に至っては、私領「多田荘」を摂関家に寄進し、彼自身が「摂関家政所別当」となる(元木泰雄「摂津源氏一門」)など、多田源氏は、公私共々摂関家に密着することで栄達をはかりました。また、摂関家や政界の有力者、富裕な受領と「血縁関係」を築いて、家の安定化を図りましたが、河内源氏などの同族との婚姻関係などは「考慮の外」であったようです(角田文衛「源頼綱の娘たち」“王朝の映像”所収)。

[黎明期の軍事貴族]

とはいえ「頼光」、及び、比較的文官色の強い「頼国」にいたっても、わずかな記録に「武的な片鱗」を覗かせており、やはり摂津源氏は「一般の中流貴族」とは違って、「裏の“家職”」として、実質的軍事力を期待された「兵(つはもの)の家」ではあったようです。「家職」とは、「検非違使」や「追討使」といった「公的な武官職」とは別に、その「私設軍の実力」が期待された存在でした。摂関政治の言わば、私的な「圧力団体」であり、「暴力組織」、「裏社会」、「闇」の部分でもありました。元木泰雄氏はこうした「公的記録に記されない」段階の軍事貴族を「兵家貴族」と命名されています。

[多田荘という“シマ”]

また、源頼光の武力の「人的・経済的基盤」として、満仲から受け継いだ「多田荘」という“シマ”があったのでしょう。多田荘内が、検非違使の介入さえも許されなかった「治外法権」であったという事実は、平安中期~鎌倉初期にかけての「公文書の書式事例」を集めた「儒林拾要」や「雑筆要集」(共に群書類従)に残されています。同書には、「検非違使庁が、多田館に、殺人氾引渡しを要求した“下文”」及び、それに対して「のらりくらりと拒絶している源某の“請文”(返答)」が「例文として」掲載されているのです。また、「儒林拾要」の冒頭においては、なんと「摂津国中山寺の某法師による、供御人(くごにん)某丸殺害事件に関して、太政官が中山寺側に、容疑者引渡しを要求する“宣旨”」及び、それに対する「中山寺執行大法師による請文」が紹介されています。「請文」によると、どうやら「某法師」は「逃脱」して所在不明?のようです。前回もご紹介した、中山寺と多田荘の密接な関係から、この某法師も「治外法権」である多田荘に逃亡、潜伏したのではないでしょうか。

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(枕草子の誤解を解く)

「公家」という存在を“優雅”、“陰険”あるいは“のほほんとしたおバカな世界”のように思えるのも、やはり室町~江戸時代における「耽美化」の影響に加え、「武士」→「質実剛健でカッコいい」、「公家」→「なよなよしてカッコ悪い」といった“ステロタイプ化”や、ドラマにおける “過剰演出”の影響が大きいでしょう。また、学校の授業において「歴史」と「古文」「漢文」が分離されて扱われているのも、双方を“殺している”気がします。

余談ながら、「紫式部」や「清少納言」に代表される、一見「上品で華やかな平安時代」のイメージも、背景には、例えば、藤原道隆、道長間などにおける政争があり、その裏側においては、恐喝、暴力、殺人、放火、リンチといった「仁義なき戦い」のオンパレードでした。誰もが知っている「枕草子」は、実は、そうした政争に消え去った、敗者側(道隆―定子サイド)による、栄光時代の“理想化された懐古録”といった側面が秘められています(三田村雅子「枕草子・表現の論理」)。ともあれ、学校教育においてイキナリ「春はあけぼの」とか、そこだけ読むと自慢話にしか見えない「香炉峰の雪」なんかを教えるのは「誤解と退屈の大量生産」でしかありません。

「枕草子」に、あたかも貴公子然として登場する、故・道隆の子、「藤原伊周」や「隆家」(のち「刀伊の入寇」時の総指令官)なども、史実においては武的な側面があり、藤原道長方と、しばしば争いました。彼らにとっては、道長の腹心の「源頼光」などは、まさに「政敵側の暴力組織の頭目」と、いったところだったでしょう。

なお後年、清少納言の兄、「清原致信」は、大和守、「藤原(平井)保昌」の郎党でしたが、以前大和守だった「源頼親」(頼光の弟で大和源氏の祖)の郎党、「当麻(たいまの)為頼」殺害に関わった「報復」として、頼親の兵に自宅を襲撃されて殺害されています(元木泰雄「源満仲・頼光 殺生放逸 朝家の守護」)。なお、保昌も致信もいわゆる「武士」ではなく「公家」です。また、こうした公家による暴力抗争の記事自体は、決して珍しいものではありません。

「枕草子」の本質の一面は「ナメたらいかんぜよ!(涙)」なのです。

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[実はあまり「多田荘」と接点がなかった?源頼光]

多田源氏は、源満仲が「多田」満仲と称されるのに対し、二代「頼光」、三代「頼国」とも「多田荘」への痕跡が乏しく、また、「多田」の名字で呼ばれることもなく、そういった点においては四代目「多田頼綱」まで“空白期間”があったかのように見えます。また、頼光の弟、「源頼親」が摂津に在住していて「土人(土着の人)の如し」(小右記)と言われたりもしたので、親族が在地経営に携わってはいたのでしょう。

朧谷(鮎沢)寿氏は、源頼光が説話上においては「摂津守」と称されることが多いにもかかわらず、実際に彼が「摂津守」に任命されたのは、死の半年前の一時期だけだったと述べられています(清和源氏)。また元木泰雄氏(源満仲・頼光)は「当時は特定の国に多くの所領を有する人物を、その国の受領に任じないことが原則となっていた」ので、彼の「晩年における摂津守就任」は、いわば「異例の人事」であり、その理由として「所領の経営に専心する布石を打ったのではなかっただろうか」と推測されています。どうやら頼光は晩年に摂津守となって、悠々自適に「国司」と「多田荘経営」を両立させようとしたが、半年で逝ってしまった、ということのようです。

なお、頼光の「若き日」の多田荘における事跡としては、伝承ながら、「多田院縁起」(寛文八(1668)年)に、天禄八(970)年、六十才の源満仲が「多田院」の前身「法花三昧院」を建立した際、

「本堂の中尊には満仲一刀三礼の釈迦如来、文殊菩薩は頼光、普賢菩薩は頼親、四天王の像は頼信の御営作也」

と、親子四人が手づから仏像を彫ったことが記されています。

[「高代寺日記」(上巻)は“魅力的な記事”が満載ながら…]

あと、「高代寺日記」の寛弘元(1004)年十二月条に「頼光 満願寺 仲山へ 米百石ト砂金十両ヲ施サル」の記事があります。仲(中)山寺については前回、および上記「供御人殺人事件」において触れましたが、やはり「多田荘」の黎明期以来から「荘内の寺院」と意識されていたのでしょう。

この時期の頼光は、朧谷寿氏(清和源氏)によれば、長保三(1001)年三月には「美濃守」として同国に「赴任」しており(大江匡衡書状「本朝文枠」所収)、遅くとも寛弘二(1005)年には任期を終えていたようです(「権記」寛弘三年正月二十日条の「美乃頼光解由」)。なお美濃国は砂金の産出国でもあり、さては、頼光は美濃産の砂金を満願寺、中山寺に献じたのか?とも思いましたが、残念ながらこの時期の「高代寺日記」には美濃国赴任の記述は一切なく、むしろそれと矛盾する記事が並んでいて整合性を欠いています。

「高代寺日記」においてはもうひとつ、寛弘六(1009)年に「八月二十七日 頼光 頼親 頼信以下多田院 且 山門ニテ先孝追善修セラル 恵心僧都貴座タリ 如先例ノ三十三ヶ寺ニ施佛及僧セラル~(以下略)」と、多田院と比叡山延暦寺(他に高代寺)において満仲の法要(十三回忌?)が行なわれた記事があります。

元木泰雄氏「源満仲・頼光」によると、頼光は上述した寛弘三(1006)年正月二十日の美濃守の解由(げゆ)提出(権記)の後、同記の寛弘八(1011)年八月二十三日に「前但馬守」とあるので、この時期、つまり上記の満仲の法要の頃には、但馬に赴任中であったと思われるので、「アリバイが成立しない」かもしれません(もっとも、ごく短期間で赴任国から帰る例(時範記)もあるようですが)。なお、連載第十四回において、源頼光が妻(慶慈保章娘)と「但馬国府の館前において」連歌を詠んだこと(金葉和歌集)をご紹介しましたが、これは、まさにこの時の話だったのです。

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(「高代寺日記」編者が参照した資料について)

その信憑性については「玉石混交」である「高代寺日記」ですが、平安中~後期を扱った「上巻」の方は、江戸前期を生きた編者の時代から遠い時代でもあり、特に旗色が悪いようです。なお、編纂の際に参照、引用されたであろう「元資料」については、藤原正義氏が“「高代寺日記」考”(「宗祇序説」(1984)所収、川西市中央図書館にもあります)33ページ~において考察されています。それによると「上巻」で用いた資料としては、「(藤原)仲光カ伝」、「豊島高頼時代記」、「(源)頼仲ノ日記」(もしくは伝記)、「清盛カ家の記」(平家物語のこと?)、「系図」などの名称が文中にみられるようです。ほかに「伝曰」などの言い回しから「高代寺伝」や塩川氏や吉河氏代々の「伝記の如きもの」が存在したのではないかと推察されています。また他に「陸奥話記」には依っていないが、「無関係ではない」(54ページ)こと。「保元物語」「平治物語」「平家物語」には、全面には依っていないが、「資料のひとつであったとみられる」としています。

一方の室町~江戸初期を扱った「高代寺日記・下巻」においては、塩川家当事者(塩川仲朝、山城入道、運想軒、吉大夫など)の「日記」や、「多田神社文書の写し?」を含む文書等に拠った記事を挟み込んでいるのに比べ、「上巻」の記述には一層の「注意」、「警戒」が必要です。

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[頼光の死]

元木泰雄氏(源満仲・頼光)は、「頼光の死」は治安元(1021)年七月十九日(源経頼「左経記」)のことで、これは「武門源氏歴代で、初めてその訃報が貴族の日記に記されたことになる」そうです。また、日記に書かれた日時から、頼光が「京で死去したことは確実」とのことです。

なお「高代寺日記」における頼光の死に関する記事は、同年「(七月)十七日ヨリ頼光御不例(病気)」に引き続いて「二十四日頼光薨ス 多田院 且 高代寺 善源寺 其外ノ寺院ニテ佛事アリ 或説ニ 依遺命 東山禅林寺(永観堂)ニテ様々吊(弔)アリト申ス 且 祇園八尾(坂?)ニテ施行セラル コレ皆遺命タリ」とあります。現在笹部にある「善源寺」は寺伝や「高代寺日記」によると、当時「平野」にありました。なお平野地区の東北部に「蓮源寺」なる旧字名があり、昭和58(1983)年に開校した多田東小学校建設前の、川西市教育委員会による発掘調査において、中世前期の遺跡が見つかっています。遺跡では、鎌倉時代の掘立柱建物群、や馬屋?らしき遺構。瓦器椀、備前焼の甕、中国青磁、刀の断片等の遺物が検出されており、「多田院御家人」関連の集落遺跡とみられています。(「蓮源寺遺跡」、大阪大学考古学研究室のサイトで紹介されていますが詳細不明)

[川西市東畦野の「頼光寺」は、「頼光の多田館跡」か??]

再び「高代寺日記」における頼光死去の記事に戻ると、「傳(伝)曰 其館ノ艮(うしとら:東北)ニアテ一宇ヲ立テ 頼光山地蔵院ト号 其影ヲ彫刻シ安置セラルト云 傳開山供養ハ僧實因タリ 定朝コレヲ作ル 地蔵タリ」と締めくくられています。かつては「頼光の木像」があったようです。また、寺院の西南方向に頼光の「多田館」があったとしています。

そしてこの「頼光山地蔵院」は、現在の川西市東畦野の「祥雲山・頼光寺」に比定されます。頼光寺のパンフレットによれば、創立が「一条天皇長保年間(999-1003)」、本願「源満仲令夫人法如尼公」、開基「源賢僧都(源満仲公五男美丈丸)」、開山が「永寿阿闍梨(源頼光公四男)」、本尊「地蔵菩薩(法如尼公持佛)」とあります。本尊は満仲夫人(頼光母?)による持ち込みであったようです。

この他、江戸時代の資料としては、元禄五(1692)年の「奥川辺村々寺社吟味帳」(川西市史所収)の「多田院末寺 祥雲山頼光寺」の項において、「当時(寺?)由緒之儀は 鎮守府将軍頼光公 正暦年中(990-994) 於此処立館之旧迹(跡)也、薨去之後 頼光四男永寿阿闍梨 治安元(1021)年寺建立~以下略」とあり、こちらにおいては、頼光寺境内こそ、頼光の館の跡だとしています。

頼光寺周辺の昭和30年代末の空中写真を、実体視してみると、頼光寺境内から、段丘開析谷を隔てた「西南隣の台地」(東畦野3丁目)の方には、特に方形区画のようなものは確認出来ませんでしたが、むしろ「頼光寺境内」の方が、南北を開析谷に挟まれた「丘陵麓の細い尾根状の段丘上」という地勢が、「要害の地」であり、「館城っぽい」地勢ではあります(上段画像左下)。もっとも、頼光の時代に、はたして「館城」のような施設が存在したのか、また、仮に頼光の館があったとしても、彼自身はあまり「帰省する暇」などはなかったとは思いますが。なお、頼光寺には、「山下落城」の際に焼亡した伝承が残っています。

[赤い花、青い花]

頼光寺は“紫陽花(あじさい)の寺”として市民に親しまれており、私も先日、季節真っ盛りの美しい「紫陽花」の庭園を観賞してきました。境内にはまた、「源氏ゆかりの寺」として、「笹竜胆」紋も呈示されてはいましたが、「獅子牡丹紋」はありません。また、ひょっとしたらここは、「桔梗紋発祥の地」となってしまう可能性をも秘めていたりして、これらの“四つの花”から、「歴史」というものの「複雑さ」、「栄枯盛衰」、「多層構造」、そして「皮肉」を感じてしまいます。

ともあれ、今後境内において「建て替え」等がある際、「発掘調査」に期待したいところではあります。

(明智光秀関連は「後編」に続きます。文責:中島康隆)

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