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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」:<番外編>山下の「すずさん」と空襲と③【本編】


山下の「すずさん」と空襲と③
~日本に飛来したP-51とは? この日の他地域での被害は?~

山下空襲③eyecatch昭和19年6月、アメリカ陸軍は長距離飛行が出来る新型超重爆撃機、B-29を初めて中国の成都から日本に向けて発進させ、航続距離内の北九州地区への空襲を開始しました。
11月になると、B-29を新たに米軍の手に落ちたマリアナ諸島の飛行場から、東京を含む日本の中枢部に送り込むことが出来るようになり、ここに本格的な本土空襲が始まります。この段階ではまだ距離が遠すぎて、B-29に小型の護衛戦闘機を随伴させるまでは至っていません。そのため日本側の邀撃(ようげき)戦闘機によるB-29への被害もありました。

昭和20年3月、本土とマリアナ諸島の中間にあった硫黄島が陥落。アメリカ陸軍はここにも飛行場を造り、長距離飛行が出来る新鋭戦闘機、P-51の部隊を配置します。こうして4月以後、マリアナ諸島から発進するB-29の編隊に護衛戦闘機を合流、随伴させることが出来るようになり、日本側の邀撃機を駆逐、さらに昼間の中高度爆撃なども可能になって、日本への空襲はさらに酷い状況になっていきました。
すでに2月には日本近海の米空母から発進した海軍や海兵隊の艦載機群が、本土の主に軍事施設や工業施設を攻撃するようになっていました。(映画「この世界の片隅に」において「すずさん」が呉で体験する最初の空襲は3月19日にあたります。)
さらに6月からP-51戦闘機部隊の単独による日本空襲も始まりました。阪神間には7月1日、9日、10日、19日、22日、30日に飛来しています。
7月22日の山下への機銃掃射はそうした状況下での出来事だったのです。

冒頭画像の地図、および右側は、山下空襲の翌日、7月23日の朝日新聞大阪版の1面からの抜粋です。

「中部軍管區(区)司令部、大阪警備府発表(七月廿二日十五時)一、南方基地の敵米P51およそ百七十機はB29誘導の下に七月二十二日 二梯圑(ていだん)となりて近接し十二時以降 紀伊水道より近畿地區に波状侵入、約五十分に亙(わた)り航空基地、交通機関および一部工場などに主として機銃射撃、一部小型爆弾を投下したる後 主力は熊野灘より 一部は紀伊水道より脱去せり、別に約三十機は播磨灘より岡山懸に侵入、香川、徳島両懸を経て脱去せり。二、十五時までに判明する戦果撃墜四、撃破四にて阪神附近市街の一部に小火災せるも被害極めて軽微なり。」

この記事や後述する他地域の目撃証言からすると、空襲の時刻は昼12~13時の間のようで「朝10時頃」とおっしゃっていた菊池浩平さんの証言より遅い時刻のようです。
(藤巴力男さんの記憶は「まだ昼になってなかったような…?」という感じです)

上記事における「中部軍管區司令部」は陸軍の、「大阪警備府」は海軍の組織です。
早くも当日の午後3時には上記の発表がなされており、意外に詳細な侵入ルートを示す地図が掲載されています。(終戦間際の新聞には連日「敵機来襲圖」が掲載されていました。)

日本側も米軍には性能は劣るものの一応電探(レーダー)を複数配備した監視網を構築しており、飛来する米軍機とその位置に関する漠然とした情報は得られていたようです。
この23日の新聞にもP-51の侵入図とは別に西日本の敵機来襲図が掲載されており、B-29(おそらく写真偵察機型のF-13)3機が阪神地区上空をふくむ内陸深くまで飛来しており、他にB-24,PB4Yなど計8機の米軍大型機が太平洋側沿岸に来ています。(22日に太平洋沿岸に飛来した米軍機の中には、P-51搭乗員に対するレスキュー任務もあったかもしれません。)

こうした大型機に対する監視はともかく、今回の山下への空襲で「防空警報が鳴らなかった」ということは、特に最終的に低空飛行で侵入する戦闘機群の監視や位置の予測までは技術的に不可能で、結局連絡網を通じた被害の「事後報告」に止まったのでしょう。
上記朝日新聞左下の「農村でP51の銃撃を浴びるの記」では、この22日、新聞記者自身が大阪北部の農道上で空襲警報を聞いたものの、防空壕に入る余裕もなく附近の高射砲が対空砲撃を始め、接近するP-51のエンジン音が聞こえてきて、傍らの民家に飛び込み、そのまま身動きができなかったことが書かれています。

そして上の侵入図では興味深いことに、まさに菊池浩平さんの証言通り、P-51は山下へ西から飛来しているのです。山下で目撃されたのは2機だけでしたが、上の記事文によれば「主力」部隊の通過ルート上であったことになります。
実は「川西市史」に「多田村では、七月(日時不明)、新田字深山で女性一人、新田字下河原で女性一人が、いずれも機銃掃射で亡くなった」との記事があるのです。これは山下のほんの4km南での出来事です。山下を襲った機体と並行して移動していたこの22日のP-51の仕業である可能性もあるでしょう。
(市史によれば、7月の米軍機による川西市内の民間人の犠牲者は5人で、すべて女性です。)

それから上の侵入図下部に「P-51 200キ B-29 8キ」とあります。B-29は何の為に来るのでしょう。
P-51は一人乗りの小型機です。それが片道1200kmの洋上を飛んで来て、本土低空で暴れ回るわけです。もちろん現在のようなGPSはありませんから、専門の航法(ナービゲーション)担当者の随伴がなければ迷子になってしまいます。迷子になって燃料が尽きたらオワリです。B-29はそれを支援する役割です(写真偵察も兼ねていたかもしれませんが)。8機の、航法士や進んだ電波航法機器を備えたB-29はやや高空飛行を維持しながら(一部のP-51はB-29の護衛担当)、上図のように3手に分かれてそれぞれの部隊を引率したのでしょう。ちょうど遠足で教師がヤンチャな生徒達を日本まで引率してきて「さあ暴れてらっしゃい!」と解き放ち、笛の音で再び集合場所に呼び集め、整列して帰るのに似ています。
P-51は低空で激しい機動攻撃を繰り返しても、常にB-29からの誘導電波を受信して計画通りのルートを進むことが出来るということでしょう。
マリアナ諸島の爆撃部隊とは別に、硫黄島の米軍飛行場の写真には、しばしばこうした航法支援担当のB-29が写っています。

それから前回述べた山下の西、山ノ原の水田に落ちた「爆弾」についてですが。
P-51は両翼の下にそれぞれ1つずつ爆弾架を持っています。しかし硫黄島からの本土空襲は記録的な長距離任務(Very Long Range missions)の為、爆弾架には爆弾の代わりに増槽(落下式の外部燃料タンク)を吊り下げています。
それも通常より倍くらいのサイズの110ガロン入りのタンクをです。このため本当の「艦載機(グラマンF6Fなど)」はしばしば爆撃をしたようですが、P-51による空襲はほぼ機銃掃射が主体で、たまに日本側から上の記事のように「小型爆弾投下」などと記載されています。
後述しますが、米軍側の記録によると、この日山下を襲ったP-51は硫黄島に展開した3つの航空団(Fighter Group)のうち、第21戦闘機航空団(21st Fighter Group)所属の戦闘機と思われます。
さらに、この第21戦闘機航空団を構成する3つの戦隊(Fighter Squadron)のうち、第531戦隊(531st Fighter Squadron)はこの6月からロケット弾(HVAR)攻撃を導入しており、船舶や通信所など、やや大きな標的に限って使用しているのです(21st Fighter Group Homepage)。硫黄島における第531戦隊の写真では両翼下に2つの増槽と共に計6発のHVARロケット弾を搭載した機体が写っています(同上)。

P-51の空襲記録にしばしば出てくる「小型爆弾」とはこのロケット弾のことではないでしょうか。空襲される側は、隠れて退避するのが通常なので、ロケット弾発射の光景は目撃されない事が多かったかと思います。また、よくあるガンカメラ映像やP-51の記録写真によるとHVARロケット弾は左右の翼から計「2発」が同時に発射(照準やトリム安定のため?)されているように思います。

菊池さんによると、山下への攻撃は笹部側からの一航過だけしか記憶になく、藤巴さんによると山ノ原の水田で爆発したのは爆弾「2発」のうち1発だけ、それも東谷国民学校の西(笹部の反対側)の地点。同校舎は鉄筋コンクリート製で、12.7mm機銃弾の貫通力では充分被害を与えられない「大きな目標」であること。5年後の空中写真では爆発地点に大きな爆発痕跡はみとめられないので爆弾は比較的小型であったと思われること。これらから、全くの想像的推測ですが、米軍機側からの視点で今回の山下への攻撃は、一例として、以下のような状況だったのではないでしょうか?。

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西側の猪名川町~山ノ原方面から東に向かって、丘陵スレスレの高度で飛来した2機編隊(element)のP-51。
山ノ原の丘陵を過ぎるといきなり眼下に広がる大路次川、そして現れた山下の町、気づいた時にはもう山下上空を過ぎていて、
長機「今のがこのあたりの中心の町のようだ。よし、ここにも1発お見舞いしていこう。引き返すぞ。」
僚機「了解」
2機、笹部上空の太陽方向で急反転して再び町を俯瞰し、
長機「私は右手のメインストリートに停まってるトラック列をやる。君は左手の大きな…、多分学校だろう。あの鉄筋のビルにロケット弾を打ち込め。」
僚機「了解」
長機はやや高めから降下をかけ、本町通りの中心を集中して機銃掃射し、途中で機体を引き起こす。
僚機は低空から東谷国民学校に向けて両翼からロケット弾を放つが、両方とも外してしまい、ロケット弾は機体と校舎の延長上、段丘崖下の水田に着弾する。しかも爆発したのは1発だけだった。
長機「まあこんなところだろう。よし、次へ行くぞ。」
2機、山ノ原上空で再び機首を東に向け、誘導される次の目標へと去る。

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この再現案だと、前回冒頭の「再現画像」での左手の飛行機がもっと低空から東谷国民学校に迫っていたことになります。
(なお、この山ノ原の爆発は一応、別の日にB-29などから投下された爆弾である可能性も残されています。前回記したように、既に山下では高空を北上するB-29の編隊が何度か目撃されており、B-29はしばしば主要目標以外に、通過中気まぐれのように、1発~数発の爆弾や焼夷弾を農村や山中に落としたりすることがあるのです。近隣では猪名川町中谷や能勢町山辺、田尻、亀岡の保津などが被害にあっています(猪名川町史、能勢町史、亀岡市史)。)

それから冒頭画像左手は朝日新聞24日掲載のP-51の「人相書」です。
日本に飛来したP-51のD型は機体上部に全周囲を見渡せる大きな風防があるのが特徴です。
この風防を通した地上への視界の良さは日本側からみれば悪夢のようで、P-51の機銃掃射は地上を隠れたり逃げ惑ったりしている女性、子どもを含む「民間人」に向けて、しばしば執拗に何度も降下射撃を繰り返したりしています。新聞の見出しにある「憎つくき」という言葉は、単に敵軍だからという意味ではなく、そうしたP-51による機銃掃射の性格への怨嗟なのです。
またP-51の流線型の機首や、胴体下部に突出したラジエーターが、陸軍の三式戦闘機(飛燕)に似ているので、見間違えないようにと比較写真も掲載されています(冒頭画像左下)。
P-51を日本の三式戦と間違えて油断したり、三式戦がP-51と間違われて日本側から攻撃されるなどの事例が続出したからです。
三式戦といえば、山下に最寄りの陸軍伊丹飛行場に展開した、B-29に対する邀撃部隊の主力、飛行第56戦隊の使用機です。5月からは全周囲を見渡せる風防を持った三式戦2型も導入され(渡辺洋二「液冷戦闘機「飛燕」」)、これはさらにP-51そっくりです。
この三式戦闘機についてはもう1例、東谷村と縁があるかもしれない事件があり、これについてはまた次回に述べたいと思います。

最後に、西日本各地のこの7月22日のP-51による被害状況を列挙しておきましょう。

* 西市場町(現、池田市豊島北1丁目)の石橋営団住宅が南西方向から来たP-51に銃撃される。死者二人、軽傷二人。宣新高等女学校の新校舎も十数か所の機銃掃射を受けた(池田市史)。

* 豊中市内では、南刀根山、麻田17番地、中豊島、小曽根が機銃掃射を受け、全焼3、半焼5、重傷1名の被害(「豊中空襲」)。

* B-29に誘導されたP-51二〇〇百機が五波に分かれ、正午から四〇分間大阪に侵入し、その一部が六甲山方向から東進して伊丹基地を機銃掃射した(高木晃治「飛燕B29邀撃記」)。

* 「七月二十二日の昼過ぎ」「敵艦載機P-51一機」が難波駅附近にいた通行人に向けて機銃掃射し、防空壕に飛び込む瞬間に「電柱すれすれに飛ぶ敵操縦手の笑ってる顔」が見えた(2015年7月18日付「70年前の今頃、日本本土、機銃掃射で、逃げ場なし」というブログにおいて、筆者自身の体験談として)。

* 「関西線の列車銃撃」二十二日正午頃、奈良県中北部に侵入の敵小型機群は関西線各駅で機関車めがけて機銃掃射、某町では工場寄宿舎に銃撃を加へ一部に火災を生じたが間もなく鎮火した。右のほか北部農村でも銃撃を受けたが人畜の被害極めて軽微(23日の朝日新聞)。

* 7月22日アメリカ軍の「グラマン戦闘機」が香川県の陸軍高松飛行場に来襲。機銃掃射で民家2軒の屋根が被害(「多肥郷土史」)。この日「連合軍の艦載機」が小田沖で漁をしていた漁民に機銃掃射。2名が腰と足を負傷(「支度風土記」)。(以上fujihara yoshikazu氏の2011年9月3日付「ブログ高知」より、孫引き、要約。これらの「グラマン、艦載機」も実際はP-51だったと思われます。)

* 香川県の小豆島内海町沖で特殊潜航艇「蛟竜」の訓練中、「目標艦」としていた「芙蓉丸」に岡山県玉野方向から飛来したP-51が後方から機銃掃射。4~5回反転攻撃を繰り返し同船は500発被弾。訓練の指揮官、船長を含む9名死亡。負傷者10数名。(高橋春雄氏のブログ「特殊潜航艇「蛟竜」・海軍の自分史」より、引用、要約させていただきました。)

(④につづく)

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