シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十八回
車谷の崩落石は、やはり「石垣由来」だった!!(矢穴痕跡を発見)
①車谷、大堀切直下の崩落石に、矢穴痕跡が…
②肥前名護屋城の思い出
③石材は何処から来た?
④「転用石」も使われた?
⑤緊急提言。「城下町、山下」は無かった? 中西裕樹氏「戦国摂津の下克上」が否定される根拠とは?
①車谷、大堀切直下の崩落石に、矢穴痕跡が…
[“スランプ”で気分転換に古城山に→矢穴とで会う]
ご無沙汰致しております。ちょっと、“スランプ”で、しばらく連載に穴をあけてしまって、どうもすみません。穴あけついでに、今回は「矢穴」の話題です(汗)。
冗談はさておき、原稿が(いつもながら)枝葉を伸ばしすぎて「交通渋滞」状況になりまして…。ダウナー続きでしたので「気分転換に、外の風にでも吹かれよう」と、久々に古城山に登ってみました。そして、「車谷」まで降りてみたのですが、結果これが大正解でした。ふと見ると、谷間の転石のひとつに「矢穴」があったのです(冒頭画像①~⑤、赤矢印、緑矢印)。
「矢穴」とは(私が言葉なんかで解説するより「画像検索」していただくのが一番ですが)、よく、近世城郭の石垣石の縁などに見られる、凹凸凹凸凹状に並ぶ、アレ(矢穴痕跡)です。また、石垣の砕石場や、よくある「残念石」の表面に見られる ╍╍╍╍╍状に並ぶアレ(矢穴列)なんかもそうです。矢穴技法は、岩石の割れ易い「節理」等に沿って、あらかじめノミやタガネで長方形の「矢穴」を複数、等間隔に穿っておき、その矢穴列に、より巾の広いクサビ状の「矢」(金属・木製)を打ち込んで、岩石に「左右にひろげる衝撃力」を均等にかけることによって、石を割る技術です。
もちろん、獅子山城では初めて見るシロモノです。いや、城物と言うべきか(汗)。私は驚きのあまり、開いた口がふははひはへんへひは(訳:塞がりませんでした)。同時に、「これで原稿が書ける!」と救われる思いでした。(スランプから脱却出来て、ちょっとお見苦しい文章となっております。)
[石垣の存在が、ほぼ証明された!]
「矢穴石」は、ちょうど大堀切の真下(画像②、③)の、堀切の砕屑物が形成している“扇状地”の裾の沢に「半分埋まって」というより、「一旦埋まったものが、谷川に洗われて半分顔を出している」状態のようでした。パッと見、明らかに古城山の基盤岩(剥離しやすい超丹波系頁岩主体)とは異なる、花崗岩質の強靭な円礫を、「矢穴」を使って半裁したもののようです。どうやら、側面にも“ハツッた”ような痕跡があります(画像⑤)。いずれも割れ口は新鮮で風化が進行しておらず、おそらく長い間、地中に保存されていたようにも見受けられました。
さて、車谷に転がる大径で強靭な円礫が、「塩川長満時代に大路次川で採取」→「獅子山城主郭の石垣に使われる」→「廃城後に車谷まで崩落」(←今ココ)、という履歴であることは、既に連載第11回「出現?! 「艮(うしとら)櫓」復元の試み」及び、第15回「佐々成政のニュース等から」の章段①「再録、古城山・車谷に眠る「元・石垣の築石たち」」において述べております。
「古城山を構成する“基盤岩”自体は、風化が著しく、剥離し易い“頁岩”(けつがん)が主体で、これらは城の“石材”として、使われていません。わざわざ「人の手」によって、大路次川河川敷や段丘などから、強靭で大径の「円礫」たちを城山まで運び上げて、礎石や石垣に使いました。そして今再び、城山から車谷まで崩落した円礫たちが、昔を思い起こさせるべく、流水に洗われています」(第15回連載より)
第15回の模型画像でも説明しましたが、地図(画像③)のように、崩落石は、元々「主郭の東北角」の、現在“櫓台”~“土塁”の外側を構成していた、高さ5mほどの「石垣」(城内側にも積まれていたと思われるので「石塁」と呼ぶべきか)を構成していたと考えています。「主郭の東北角」エリアでは、斜面に「グリ石(裏込石)」を思わせる拳大の円礫の散布や、根石と思われる石も1点見られます。城のウィークポイントである「尾根側の二重大堀切」を見下ろす、総瓦葺の隅櫓~L字平面の多聞櫓(仮称「艮(うしとら)櫓」)の「櫓台」を想定しています(第15回の模型画像)。なお、写真①の車谷の沢でも、しばしば崩落石に混じって、「桔梗紋軒平瓦」を含む瓦片を採取しています。
また、一方の「主郭の西北角側」のコーナーも、「丸みを帯びたプラン」を呈しているため(地図③)、こちらも「切岸が崩壊した痕跡」の可能性がありますが、斜面中に特に「グリ石」や崩落築石と思しき転石を確認していないので、現在石垣は想定していません。
ともあれ、今回谷間で確認した矢穴石は、「城のどこかから落ちて来た」なんて次元ではありません。あらかじめ、「主郭東北櫓台の石垣が、崩落して来たもの」と想定していた場所にあったわけで、まさに「出るべき場所に出た」ことになります。つまり、主郭に石垣が存在したことが、ほぼ証明されたと言っていいでしょう。
[矢穴の数は時代で変化?]
さて、半分埋もれた矢穴石は、谷側に長辺40cm余りを露出しています。割面側の、向かって右上に「明瞭な2つの矢穴痕跡」が並んでおり、その左隣にも若干風化、剥離して不明瞭ながらも「もうひとつの矢穴痕跡」らしき平滑面がみてとれます(画像④、⑤)。
私は「矢穴」というものに全く不案内ですが、北原治氏の「矢穴考1 観音寺城技法の提唱について」(滋賀県文化財保護協会 2008)によると、古い(16世紀の半ば前後?)「近江・観音寺城」でみられるタイプでは、割面の左右いずれかの肩側に偏って「2~3つ」という、少数の矢穴痕跡が並ぶスタイルのようです。一方、もう少し時代が下った、廃城時期が永禄末~天正八(1568-1580)年と推定されている、「近江・小堤城山城」においては、割面の長辺(2m程)の片側に、最大「7つの矢穴」が並ぶ事例が紹介されており、よく近世城郭等で見かけるものに近くなっています。
さて、獅子山城における「石垣改装の時期」は、瓦の技法や「信長公記」の「城々堅固に相抱へ」(元亀元(1570)年十月)の記事、天正二~五(1574-77)年の山下町の成立(笹部村野山之一件)等から、「元亀~天正初頭頃」と判断され、矢穴技法としては、上記の「小堤城山城」のものに近いかもしれません。獅子山城の矢穴石は、一体どのような姿なのでしょうか。ともあれ、「編年資料」として重要なものと思われ、またこの石は既に「遺構」ではなく、崩落移動した「川原の転石」ではあります。そこで、思い切って輪郭を出すべく、石の山側~下側の土を取り除いてみました(画像⑥~⑨)。
[石を掘り出してみた]
矢穴痕跡は「合計4つ」が、割面の上辺に並んでいました。やはり「観音寺城」のスタイルよりは、進んでいるようです。また、矢穴の芯―芯はおよそ10cm間隔ですので、三寸毎に「墨入れ」をして穿ったのでしょう。割面を俯瞰して見ると(画像⑧)、さすがに「一直線に」破断していることがわかります。墨壷なんかも使ったのでしょうか。
石のサイズは、割面の長辺:およそ60cm。割面左側の巾(厚み):20cm。右側25cm。平面方向の奥行き:長辺50cm。短辺30cm。全体的に、ザッと1m×60cm×25cm程の、やや扁平な円礫を半裁した、といったところでしょうか。
画像⑦は、割面正面方向から、やや望遠気味に撮影したステレオ写真(平行法)です。赤い目盛は10cm。必要な方は、エッジをトレースして資料として自由にご活用下さい。また矢穴のうち、左の2つ(a,b)は、やはり幾分褐色気味に風化、剥離しています。「元々(石を割る以前から)風化が進行していた部位であった」のか、あるいは現状とは逆に、主郭から当地に達するまでの間に「右側が地中に保存され、左上側が地表に露出した状態が続いた」かのいずれかであったのでしょう。
[矢穴の使用は「最後の手段」?]
なお、意識して、車谷の転石を捜してみましたが、目下のところ、他の「矢穴石」は確認されていません。古城山でも同様ですが、これからは「意識して捜索」してみたいと思います。少なくとも、今回の割石の“カタワレ”が、山のどこかに眠っているかもしれません。
「矢穴を使った割石」は、あらかじめ、タガネで複数の穴を用意するなど、システマティックに運用しなければ、大変「手間がかかる」技法です。前述の北原治氏も、観音寺城の時代には、「通常の方法で割れない場合」の「最終手段」であったであろう、と推定されています。いずれにせよ、獅子山城の石垣における、矢穴を使った割石は、かなりの「少数派」ではあったとは思っています。
[矢穴の年代]
さて、画像⑨は右側2つの矢穴痕跡(C,D)をクローズアップしたものです。
森岡秀人氏の「矢穴技法」(織豊系城郭とは何か その成果と課題、村田修三監修、城郭談話会編、2017)の編年によれば、これは、永禄~天正期の「古Aタイプ」に相当しそうです。一応、「獅子山城改修期の編年観」とは整合するようです。なお森岡氏によれば、矢穴技法は12世紀末頃に中国南宋から伝来した技術のようで、川西市内においては、正応6年(1293)の銘が残る「満願寺九重塔基礎」に「先Aタイプ」の矢穴痕跡(中世石造物に見られる先駆的な段階)が見られるそうです。今回の矢穴石よりも、“300歳近い先輩”が、既に市内にもおられるということになります。
[将来的に]
なお、今回のこの「矢穴石」は速やかに、保存の為に土嚢を用いて埋め戻す予定です。将来的には、公的機関の、風化を防げる「屋内展示」が実現出来れば有り難いのですが(川西市郷土館さん、如何でしょうか?)。ともあれ、足場の悪い谷間のことであり、石を安全に搬出するには、専門家の手助けが要りそうです。
②肥前名護屋城の思い出
[名護屋城博物館のジオラマ製作の取材で]
城郭の石垣は、近世に向かうにつれて、次第に割石などの加工石を用いることが通常になっていきますが、その「過渡期の時代」、今回見たような、“自然の「円礫」を半裁した割石”を用いた城といえば、個人的には「肥前名護屋城」(佐賀県)を思い出します。画像⑩は平成五(1993)年に撮影した、「肥前名護屋城・遊撃丸」の石垣です。東松浦玄武岩の「円礫を半裁した」状況や、割面片側に並んだ「矢穴」が見てとれます。当時私は某社の模型職人として、この年に開館予定の「名護屋城博物館」に展示するジオラマ(1/300、名護屋城~名護浦海岸部を含む)製作を担当しており、その取材に訪れていたのでした。正直この仕事は、まだ発掘調査等が緒に就いた時点でもあり、調査成果を充分生かせぬまま短期間で仕上げねばならない制約もあって、(城が好きなだけに)苦痛に満ちたものでした。取材中も、「果たしてこのまま復元の仕事を続けられるのだろうか?」と、途方に暮れながら夕方まで現地の路上を彷徨していた私は、よほど深刻な表情だったのか、偶然車で通りがかった、名護屋城博物館の職員の方が、心配そうに声をかけてくれたほどでした。昨年の当連載の第13回において、豊臣秀吉に関白の位を奪われ、失望のあまり開き直って「肥前名護屋」から朝鮮に渡航しようとした公家、「近衛信輔」の奇行について触れましたが、私はあれを書きながらも、ちょっとこの時の自分自身と重ねていていたのでした。
[編年観の逆転した石垣]
ただ、初めて実見した名護屋城跡の石垣の規模や、隅石などが人為的に崩された「破城痕跡」の凄味は、衝撃的でした。私は、模型の納品時に現地に同行した運送会社の若い運転手さんが、博物館前から名護屋城の石垣を遠望しながら「あれは一体何ですか…」と呆然とされていた表情が忘れられません。もちろん「城跡の石垣」であることは理屈でワカルのだけれど、彼が名護屋城跡の「これまで見たことのない異様な存在感」に圧倒されている気持ちがよく解かりました。
このほか、興味深かったのは、取材時に、発掘調査を担当されていた宮武正登氏に案内、ご教示頂いた“城の石垣のバリエーション”でした。短期間しか存在しなかった城であるにもかかわらず、石垣中の、自然石、割石、粗加工石を用いた比率が、城の部位によって結構違うのです。当時はちょうど本丸の「拡張前の旧石垣」が検出された直後でした。近年、ネットニュースなどで「近世○○城において、石垣の下から、織豊期の自然石の旧石垣が出土した!」なんて報告がよくあるでしょう。しかし名護屋城本丸では逆でした。「ほぼ割石主体で構成された本丸の石垣」を埋め立てて拡張し、その外側に「自然石主体の石垣」を構築していたのです。言わば、「“安土城の石垣”の下から“伏見城の石垣”が出土した」ようなもので、編年観が逆転した、慌しい過渡期の凄まじさを実感しました。「(秀吉は)こんな事する奴なんですよぉ」と呆れたように言われた宮武氏によれば、こうした「割石主体」の石垣が使われたのは、名護屋城(旧)本丸の北、西、南面、遊撃丸、三の丸北面など、城の初期の普請部分や、城下町、名護屋浦など「北方からの視線」を意識した部分に偏っているようです(「肥前名護屋城の石垣について」織豊城郭3号、1996)。割石主体による石垣は、画像⑩のように「割面」を外側に揃えるので、各々の岩石の持つ新鮮な「青灰色」のコントラストが、「平滑面」に鮮やかに映え、視覚的にもセンセーショナルな存在でした。一方、自然石を用いた石垣の表面は、風化作用により、どうしても「灰褐色寄りにくすんだ」彩度の低いニュートラルなものとなってしまうのです。この「石垣の、部位による色彩、質感の差」は、拙いながら模型上でも表現してみました。限られた時間の範囲でしたが、岩石や土、水には少々コダワっております。名護屋城へ行かれたら是非確認してみて下さい。
(なお宮武正登氏は当時まだ「青年」呼べるような感じでした。近年話題の(尾張)名古屋城の「石垣部会」のニュース報道等でお見かけしたご風貌に「時の流れ」を感じます。まぁ、他人様のことを言えませんが…)
③石材は何処から来た?
さて、再び「獅子山城の矢穴石」に話を戻しましょう。この岩石は元々、どこに産する何岩で、どのような過程を経て、獅子山城付近までもたらされたのか?ということを考察してみました。
[岩石の種類]
この岩石は全体に「青緑がかった灰色」をしており、その割れ面は「粒立って」います。また、滑らかな円礫側の表面にも「粒々の斑点」が見えます。一見「砂岩」にも似ていますが、近接して見ると、鉱物粒が角張って“晶出”しているのがわかります。ちょうど「花崗岩」の鉱物粒を「細かく」して、「有色鉱物」が多く占めた「青御影」風の岩石です。マグマが地下で“ややゆっくりめに”冷えて固まった「深成岩」の一種で、「閃緑岩」、「斑レイ岩」、もしくは「輝緑岩」の類でしょう。同種の岩石の円礫は、車谷の転石中に、他に何点か確認しました。ということは、16世紀には、元々、大路次川河川敷においても、普通に見られた石なのでしょう。
参考までに画像⑥には、下に顔を出している「青灰色の滑らかな大円礫」が見えます。こちらは「丹波系(もしくは“超丹波系”)の泥質岩」の一種で、やはり大路次川から採取されて「城の石垣で使われた」のでしょうが、色、質感がまるで違います。車谷には他にも「チャート」、「白っぽい閃緑岩」、赤みがかった「花崗岩質岩」など、「元・獅子山城石垣組」の「OB」たちが眠っています。往時の獅子山城の石垣は、「丸みを帯びた、色とりどりのコントラスト」に富んだものであったでしょう。
[大路次川、田尻川の河川敷に「件の岩」を捜したが…]
繰り返しますが、「獅子山城の石垣や礎石で使用された石材(円礫)は、一庫(ひとくら)~山下を流れる大路次川河川敷から供給された」ということであるならば、この「割石」の材料である「青灰色細粒閃緑岩~輝緑岩質」の岩石も、大路次川河川敷に「普通に転がっていた」はずです。しかし、これを証明するのに大きく立ちはだかったのが「一庫ダム」という存在でした。
連載第15回でも述べましたが、大路次川上流は、1960年代に工事が始まり、1980年代に完成した「一庫ダム」によって、砂礫の供給が止まってしまい、下流河川敷の堆積状況が相当変わってしまいました。さらに平成十四年から、一庫ダム管理所が、鮎を川に返すべく、ダム直下の一庫河川敷に、人工的に「大径の礫」を、投入しているようです(一庫ダム管理所広報板)。それ自体はとても良いことなのですが、もはや、山下付近の河川敷において、「本来の礫種構成」は判りません。
とりあえず(連載第15回でも紹介した)大路次川の「ダム湖より上流側」である、猪名川町“千軒キャンプ場”下流の河川敷を探ってみましたが、「件の岩」はありませんでした。同地には「三草山複合花崗岩体」(「広根地域の地質」地質調査所・1995)と思しき花崗岩質の円礫が豊富でしたが、明るい「桃灰色」を呈するそれは、全く異なる岩石でした。(余談ながら同地右岸に、下財周辺で見かけるのとよく似た「玄武岩溶岩を思わせるカラミ層の露頭」(層厚20~30cm)を実見出来たのは収穫でした。かつて千軒においても「多田銀銅山」の「製錬」が行われていた「遺構」、あるいは「時間面」というわけです。また、「千軒」という地名は、そういった鉱山関係者の集落に由来するようです。)
さて、「広根地域の地質図」によれば、そこからさらに下流側の「龍下吊橋」~「龍下隋道」(猪名川町)付近に岩脈状に産する「細粒単斜輝石含有石英閃緑岩(”D”記号)」が記されています。これも現地の左岸、右岸に赴いて数箇所で石を割って確認しました。これと同種の岩石も、やはり「車谷の崩落円礫群」に見られ、また「矢穴石」との岩相も近いのですが、青みが全く無く、灰白色を呈して石英分が多い点、残念ながら「別の石」でした。
大路次川が“アウト”となりましたので、今度は一庫ダム直上の「出合」で東北から合流していた支流、「田尻川」の谷に移り、やはりダム湖より上流側の「国崎クリーンセンター(川西市)」下流の河川敷や、新光風台西下の「緑色岩(海洋底の変質玄武岩由来)・Nlg」の分布する谷筋も一応探ってはみましたが、やはり同種の岩石は見つかりませんでした。
[「件の岩」は高代寺境内にあった!!]
諦めていったん帰宅して途方に暮れつつ、夕方3時頃に「広根地域の地質図」をボンヤリ眺めていると、高代寺山の山頂付近、標高350m以上に「細粒―中粒角閃石斜方輝石単斜輝石石英閃緑岩・Dko」の紫色表記があることに今更ながら気が付きました。この「高代寺石英閃緑岩」と命名された(松浦浩久氏による)岩石、どうやら、上記の龍下隋道付近の石英閃緑岩より、ずっと「塩基性」(鉄、マグネシウムに富み、しばしば暗緑色寄りを呈する)が強そうな成分なのです。「コイツか!」とあわててスクーターを飛ばして、日没直前の高代寺山に登ってみました。
高代寺山は、「超丹波系」の堆積岩類を上記「高代寺石英閃緑岩」という「マグマ由来の深成岩」が「突き破る」構造になっています。高代寺山が、周囲の山々より「高い」のは、その「接触変成」によって風化に強い岩盤が出来た為でしょう。件の「高代寺石英閃緑岩」は山頂付近の北寄りに顔を出しており、南側の「保の谷」側から登った私は、山頂近くの、まさに「高代寺境内」の真前において、初めてこの岩石と対面しました。ちょうど寺の「駐車場」の山側斜面に、矢穴ならぬ「削岩機」で半裁された直系1m程の「円礫」があり、その暗緑色の明瞭な断面から、車谷の「矢穴石」と同じ岩石であると確認出来ました。塩川氏とゆかりの深い「高代寺山産」というのも嬉しいことです。正直「これで原稿が書ける!」とホッとした(2回目やん!)次第です(石の産地が見つからず、新たな「スランプ」になりかけていたところでした)。
[大きな「山の円礫」が、北~西斜面に崩落→田尻川→大路次川を経て一庫、山下へ]
実は高代寺山の地表面の多くは、山頂(霊園側)も含めて「超丹波系」の堆積岩である砂岩、頁岩で構成されています。これらは獅子山城の岩盤も同じで「細かく角張って割れる」脆弱な岩石です。一方、「高代寺石英閃緑岩」など、中生代の深成岩(花崗岩等)や、酸性火山岩類(有馬層群、相生層群、湖東流紋岩など)の岩石は、しばしば稜線沿いに、節理に沿った「玉ネギ状風化」を呈します。よく、山の尾根沿いに「角丸の巨礫」や「天然の石垣みたいな構造」が見られたりするのもその「玉ネギ状風化」のしわざです。こうした「低勾配な稜線上」で生産されたやや丸みを帯びた礫材は「飯盛城」や「安土城」など、初期の城郭石垣の構築に(おそらく古代朝鮮式山城にも)多大な影響を与えました。
(前述の肥前名護屋城の石垣石材についても、宮武正登氏が、節理面で剥離し易い海岸沿いに産する「緻密質玄武岩」が避けられて、山間部の「多孔質玄武岩」が多用されている傾向を指摘されています(宮武1996の註20)。私見では、粘性の低い玄武岩マグマは、「低勾配の安定した溶岩台地」を形成する為、急斜面が少なく、結果、岩石が「長期間風化作用に曝される」こととなり(転がり去らないので)、玉ネギ状風化によるコアの部分が、「山上の円礫」として大量生産されたと考えています。)
高代寺山の高所に産する「高代寺石英閃緑岩」は、こうして山上において「丸みを帯びた大きな円礫」を量産し、これらは次第に斜面を転がり落ちて、高代寺山の北~西側の麓である、黒川、国崎、保の谷にまで達しています。その「模式地」としては、黒川の「高代寺登山口」の墓地に転がっている、巨大な円礫が典型的です。また国崎の段々畑の石垣にも積極的に利用されています。国崎の岩盤は、脆弱な「超丹波系」の堆積岩なのですが、谷沿いに流下して来た「高代寺石英閃緑岩」の方を石材として使っているのは、まさに獅子山城における状況が「繰り返されて」います。(なお、国崎の「せせらぎ公園」の渓流は、大きな礫を「人工的に取り除いている」ようで、自然な礫種構成を反映していません。)
なお、これらの円礫は、「高代寺山麓に達した段階」においては、まだ表面が「ザラザラ」の状態です。つまり、その次のステップ、「田尻川」→「大路次川」の河川礫として一庫、山下まで流される過程において、表面が完全に「円磨」されたのでしょう。また、水流の多い河川を、互いにぶつかりながら流れ下る中で、脆弱な部分は粉砕、淘汰されてしまいます。結果、一庫や山下において「城の石材」として採取されたであろう円礫達は、強靭な、言わば「選ばれた優等生」だったというわけです。
④ 石垣には「転用石」も使われた?
[織豊期の城郭石垣における「転用石」]
ところで、織豊期段階の城郭の石垣と言えば、しばしば中世の石塔や石仏などを調達した「転用石」が用いられたことで有名です。京の地下鉄烏丸線工事において発見された、織田信長段階の「二条城」。山城乙訓郡の「勝龍寺城」虎口。摂津の「有岡城」櫓台入隅や近年発掘検出された「兵庫城」。また、「三田城」においても、井戸の井筒の石積みとして大量の一石五輪塔が転用されていました。他に丹波の「福知山城」や大和「郡山城」、紀伊「和歌山城」の天守台石垣などの例が、古くから知られていました。
[獅子山城の石垣に「転用石」があってもおかしくない]
塩川氏の獅子山城も、長満段階の元亀~天正初頭にかけて改修されたと思われるので、時代柄、転用石が用いられていてもおかしくありません。特に、河川円礫が主体の当城においては、「角ばった隅石」などが敢えて求められた可能性もあるでしょう。
画像⑪は、主郭で表採された「方形の加工石材」の隅部破片です(花崗岩~閃緑岩質)。用途不明ですが、一応「破城」の際に割られた「石塁の城内側」の石材等の可能性があります。
もう1つの画像⑫は、昭和五年に山下町が、東七段を造成して建立した「愛宕神社」の本殿基壇、西北隅に見られる「転用石」です。何らかの石造物の基壇(閃緑岩質)を「横向け」に使用しています。
これも以前述べましたが、現在、愛宕神社前には、大径の円礫を用いた石積み、及び石段が見られますが(第11回連載画像⑦)、これは、山下町の記録に「神社建築ニ要スル柱 并ニ材木ハ 当城山ノ樹木ヲ以テシ 石ハ城趾ノ石垣ヲ茲(ここ)ニ移ス」(「城山神社 建築工事費報告」昭和五年・山下町文書、藤巴力男氏の御教示による)とあり、近代に城の石垣を破壊して(なんてこと…)、神社建設用に移設されたものなのです。他の石材はすべて、河川円礫由来の自然石ですが、その中に、つまり「石垣の築石中に」この「加工石」が混じっていたのかもしれません。
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(再録:中世甘露寺考察)
なお、「加工石」に関しては、中世「甘露寺」に由来する可能性もあります。以下、連載第8回で述べた内容と重複しますが、現在山下町西南にある甘露寺の寺伝によれば、もともと城山には平安時代中期に延暦寺の源信(恵心僧都)、源満仲の子源賢(美女丸、円覚)草創の「月光山薬師寺」なる寺院があって、その後いったん廃絶しました。貞和年間(1345-1349)には付近に「源頼仲」の館があり、たまたま館に泊まった廻国中の玄誉慧公和尚が、霊夢に導かれて山上の荒廃した寺院跡を発見します。玄誉は頼仲に出家を勧め、寺を再興させ、寺の名も「大雨山甘露寺」と改めました。しかし後に、塩川伯耆守(国満と思われる)が山に築城する際に寺を「他所」に移しました(「カンロジ山」、「カロウ屋敷」等の伝承があり、周辺に中世の墓石(現在登山口にまとめられている)が散在していた、平井の岡(現在観光バス会社がある)か?)。
塩川伯耆守は寺の宝物も没収し、これが原因で病や霊夢に祟られました。そこで鎮魂のために城内に「十王房」なる堂を建てたようです。
また、獅子山城の東三郭~東五郭にかけて、わずかながら東播産の須恵器の甕片や、15世紀以前とおもわれる土鍋の口縁部など、平安末~室町中期の、獅子山築城以前の遺物が散見されます。山岳寺院は山頂を神聖なものとして自然のままに残してその南に建てられることが一般的です。現在主郭の南部が郭面に削平された岩盤を露出しており、ここが自然地形における山頂だったのでしょう。したがって獅子山城の東三郭~東五郭あたりが位置的に旧甘露寺跡だったと私は考えています。
上記の加工石は、この中世甘露寺か、城内にあった「十王房」由来の可能性もあります。
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⑤緊急提言。「城下町、山下」は無かった? 中西裕樹氏「戦国摂津の下克上」が否定される根拠とは?
[影響力の強い本が出たが…]
さて、話題変わって、緊急提言です。本年7月末に中西裕樹氏(高槻市教育委員会)の「戦国摂津の下克上」(戎光祥・2019)という本が出版されました(本件は、たまたま同姓であられる中西顕三氏による「摂州多田塩川氏と畿内戦国物語」(2019)のことではありませんので、どうかお間違いなく)。摂津の戦国史をコンパクトにまとめた本は珍しく、新しい情報も豊富であり、SNS上などにおいても絶賛され、概して「良著」との評価も高いようです。本書はおそらく重版されて、今後も強い影響力をもたらすことでしょう。しかし、評判の高い「良著」であるからこそ、私としては大変困るのです。と、言いますのは、出版前から「ちょっと嫌な予感」はしていましたが、案の定、同書の102ページにおいて、塩川氏の「山下城」の構造、概略について触れられたあと、
「なお、摂津の山城には城下をもつ例がないため、街区が整う山麓の山下町は近世の所産であろう(中西2015①)」
と記されていました。一瞬「ん?」となる表現ですが、この文は、前半で「城下の存在を否定」しているので、氏の言う「近世」とは、「天正初頭の塩川長満段階」のことを指しているのではなく、「塩川氏滅亡後の豊臣時代~江戸時代に町が区画された」と記されているわけです。つまり、中西裕樹氏は「塩川氏の「山下城」には城下町が無かった」と(遠まわしに?)断言されているのです。
中西裕樹氏はNHKの人気歴史番組「歴史秘話ヒストリア」にも出演されており、出版時に東京で開催された、戎光祥主催のセミナーでは「城郭研究の第一人者」と紹介されています。しかし、昭和49(1974)年の「川西市史」の時代ならともかく、令和元(2019)年にもなって、「全国的に影響力の強い本」にこのような見解が記されていようとは、正直、ガクゼンとしました。
[この方、なぜかいつも“山下”だけを否定]
「ちょっと嫌な予感」と書きましたが、実は中西裕樹氏は既に「近畿の名城を歩く・大阪兵庫和歌山編」の「山下城」の項(吉川弘文館、上記の(中西2015①)にあたる)や、論考「城郭・城下町と都市のネットワーク」(「中世都市から城下町へ」中世都市研究18号・2013)等においても、山下町が「城下町起源」であることに、根拠を明示されずに、ずっと否定的な見解を表明されてきました。「城郭・城下町と都市のネットワーク」(62ページ)においては、畿内における「城下町」を列挙する中で、山下町の存在は「完全スルー」されています。同49ページの「戦国期大阪平野の主な都市と城館 推定図」という地図においては、摂河泉における城(凸マーク)、町(○マーク)の分布が表現記されていますが、「山下」と記された場所には城マークが2つも並んでいるのに(左側は「向山城」らしいがこれは「出郭」なので1つで充分では?)、都市マークが記されてないのです。「山下」は都市の名前なんですけどね…。この図は、須藤茂樹氏の「飯盛山城と三好長慶の支配体制」(今谷明・天野忠幸編「三好長慶」116ページ、宮帯出版 2013)にもそのまま引用されています。また、「飯盛山城と三好長慶」(戎光祥・2015)37ページにも、同様の図が部分的に使われています(補注)。
なお45年前の「川西市史」における記述は、決して「城下町の存在を積極的に否定」しているものではなく、執筆者がまるで「山下町の背後に“当地最大の城跡”があることを知らない状態で書いた」かのような、あるいは「城下町」という概念を全く知らない人が執筆したかのような、ある意味「無邪気」な「まぁ、昭和の昔だから、仕方ないか…」といった内容でした。これに対して、今世紀の中西裕樹氏の方は、「意図して」山下が城下町であることを否定されています。
これらを経ての本年度の「戦国摂津の下克上」出版だったわけです。私は他人様がどんな説を立てようが、どうこう言う立場ではありませんし、生来、他者批判のような「ネガティヴな記事」なんて書きたくはありません(そういった迷いも、スランプの一因だったのですが)。しかし、NHKに出演されるような、中西氏の強い影響力を鑑みれば、この「短い活字」が無批判に第三者に引用されて(既に引用は始まっている)、21世紀も再び、「川西市史の悪夢」が再現されて、「山下町は製錬の為に造られた」なんてことにされては、たまったものではありません。もはやNHKを、もとい(汗)、「中西説をぶっ壊す!」(「山下町」のくだりだけですが…)より他なく、よって、少々書かせていただきます。
なお、私は昨年の連載第10回「山下町は、塩川氏による近世城下町が起源 ①」において、既に反論を試みております。未読の方は是非ご参照下さい。
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(補注)
この“中西図”と対照的だったのが、天野忠幸氏の「戦国期三好政権の研究」(清文堂出版・2010)中245ページの「摂津・河内・和泉関係図」でした。都市:○マーク、城:城下町の有無に関係なく▲マーク、といった表現でしたが、塩川領付近を見たら、なんと、「一庫 ○」と表現されていました(!)。「一庫」は、「多田一蔵城」(細川両家記)のことと思われるので、天野忠幸氏は、山下が城下町だと認めておられるのでしょうか?(しかし城マークが無い…)。天野忠幸さん、謎だ…。
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[とても不思議な論理]
ふたたび「戦国摂津の下克上」に戻りましょう。それにしても不思議な文章です。
「なお、摂津の山城には城下をもつ例がないため、街区が整う山麓の山下町は近世の所産であろう」
言葉の「論理性」に敏感であれば、この文章の「詭弁性」に気が付くでしょう。「帰納」でも「演繹」でもないのです。まず、「摂津の山城には城下をもつ例がないため、」なんて、どうして言えるのか?。これは「塩川氏や能勢氏が、城の麓に家臣を集住させることもなく、また商業地域も造らなかった」ことが証明されたうえで、初めて到達出来る“結論”です。山下町が城下町であるならば「摂津の山城には城下をもつ例がある」と変わるだけのことです。
また「摂津の山城には城下をもつ例がないため」という言葉は、別の意味においても「変なククリ」です。「摂津の山城」ということは、中西裕樹氏は 摂津の”平野部”に築かれた「高槻」や「茨木」、あるいは“台地”に築かれた「池田」や「伊丹(有岡)」などの城下町との「対比」を意識されているのでしょうが、塩川氏は、たまたま所領の「地形条件」と「政治的状況」から、台地からの比高80mの「山城」を拠点にしたまでです。「山城だから」、あるいは「平城だから」という地形条件の違いは、「城下町の有無」に直接関係ありません。「城下町」を造らせたのは「時勢」です。蛇足ながら「“城山の下”に造ったから“山下町”(城下町や門前町を意味する普通名詞でもある)」という名称、つまり“町の名前自体が「城下町」”なんですけどねェ。ともあれ、「摂津の山地だから城下町は無い」法則など、ありません。
あと、最後の「近世の所産であろう」という中途半端な表現も、なんか塩川長満時代に一応“逃げ道”作ってるような、ちょっと姑息な言い回しではありませんか?
[城下町が無かったらどうなるの?]
そしてもう一点、「城下町」が無かったとおっしゃるのであれば、塩川国満の時代はともかく、塩川長満の天正期、家臣たちはいったい何処に住んでいたというのでしょう。各々が、かつての「多田院御家人」状態と変わらず、「地侍」として本貫地の村の邸宅から「通い奉公」していたのでしょうか。同時期の有岡、高槻、茨木、三田、花熊では、「侍町と町人地区を分化させた近世風の城下町」が出現しているというのに、「織田家と関係の深い塩川長満」だけが「中世のまま」だったのでしょうか?。そのような「古式ゆかしい兵制」を保ったまま、例えば天正十年の“甲斐・武田攻め”などに参戦したのでしょうか。「城下町」の存在を否定するということは、シミュレーション的にはそのように想定せざるを得ないのです。
[「近畿の名城を歩く」においても]
一方、中西裕樹氏の「近畿の名城を歩く」(2015)の「山下城」の項においては、その末尾で「山下町」や「下財屋敷」の概略に触れた後
「ただし、町並みは屋敷地が直線道路に沿う整然としたもので、近世には幕府の直轄領として役所もおかれた」
とあって、
「戦国期の畿内では城の麓に城下町が設定される事例が稀である。山下城と町との関係は、慎重に検討を加える必要があるだろう。」
と締めくくられています。中西氏は、当方の「城下町説」をご存知なので、なんか私が「慎重に検討を加えていない奴」と批判されているような気分です。
しかし、塩川氏の城下町の存否を問うのであれば、氏の書かれる「戦国期の畿内」といった漠然としたステージではなく、「織豊期の摂津衆の拠点城郭に」城下町が有ったか否か、で問うべきなのです。加えて氏の「山下城と町との関係は」というフレーズも、言葉の使い方が不適切です。これは「山城と山下町との関係は」と書き改めるべきで、そうすることにより、“正確な地形配置が”が視覚化され、“都市史的編年観”も喚起されて、「意味合い」さえ変わってしまうのです。「山下城」という後世の通称が問題なのは、言わばこういうことなのです。
[「破城痕跡」の観点が欠落]
そして、城下町の「否定的根拠」が「町の直線性」だけらしい中西裕樹氏は、おそらく3~4日間で仕上げられた縄張図の作成だけで、「山下城」を「天文期の古い土の城」だと思い込まれたのでしょう(時間をかけて丹念に観察すれば、少なくとも織豊期の瓦の存在に気付くはずですが)。よって「近世的、直線的」なプランを持つ山下町を「後世の廃城後の町」だと判断されたのでしょう。これは1990年代半ばにおいては、結構「主流的な発想」でした。だからといって、山下町自体の調査をなさらずに、城の縄張観だけで、「塩川氏の城下町」という町ひとつを「無かった」ことにするのは、あまりも大ざっぱすぎないでしょうか?。さらに、城郭研究史において画期的であった「城破りの考古学」(藤木久志・伊藤正義編)の発刊から既に18年も経っています。これによって、一見「丸っこいプランを呈する中世の土の城」も、場合によっては「織豊期城郭の石垣を人為的に崩した痕跡」であったりする可能性さえ出て来たのです(補注1、2)。今回の車谷の底に転がっていた「矢穴石」にしても、そのような観点から精査した結果でした。皮肉なことに「戦国摂津の下克上」(147ページ~、208ページ~)においては「織豊系城郭」や「織豊系城下町」にたいして、丁寧な解説がなされています。中西氏は「山下城」が「織豊期に改装」されている点に気付かれていないだけです。言わば、「準織豊系城郭」だから、塩川氏が城の麓に「織豊系城下町」を持っているのは当然な事なのです。
[ご要望であれば、ご案内致します]
私が連載第10回において「近隣の三田、伊丹(有岡)などでも同様なのに、なぜ山下だけ否定されるのか理解に苦しみます。」と書いたのは、実は中西裕樹氏のことだったのでした。私としては、今後重版されるであろう「戦国摂津の下克上」において、「山下町」が城下町でない根拠を明示されるか、あるいは何らかの改訂を希望致します。またご要望であれば、連絡いただければ、現地案内や表採遺物をお見せすることも出来るかと思います。
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(補注1) 藤木久志氏は今秋、逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
(補注2)最近、城郭復元画家、イラストレーターの「富永商太氏」がツイッター上において、凄まじい破却がなされた近世城郭、「宇陀松山城」(奈良県)の「発掘された現状写真」と、同一アングルにおける「復元イラスト」とを対比させた画像を並べて紹介しておられます。近世城郭が、破城によっていかに「丸っこい中世の城」に化けてしまうか、大変解かり易い教材となっていますので、是非ご検索を。「宇陀松山城」は、増してや「発掘前の段階」であれば、おそらく専門家でも「中世の土の城」にしか見えなかったのではないでしょうか。
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[「戦国摂津の下克上」中の「天正十一年「三万クルザード以上」の没収を受けた「他の一貴族」について」
最後にもうひとつ中西裕樹氏の「戦国摂津の下克上」における塩川氏関連記事について見てみましょう。なお、本件については、既に「戦国摂津の下克上」の出版以前に、第16回連載「「1583年のイエズス会日本年報」に記されていた“塩川氏減封”の記事 」において考察していますので、ご参照下さい。とりあえず「戦国摂津の下克上」231ページに以下のような記述があります。
「「1583年度日本年報」によれば、同年の摂津で従来の知行を保障された領主は、右近と「三万クルザード以上」の没収を受けた「他の一貴族」とある。この貴族は、(中川)清秀の跡を継ぐ秀政だろうか。そうであるならば、なぜか中川氏は秀吉から冷遇を受けたことになる。」
中西裕樹氏は、この被没収者を「中川秀政か?」と推測されています。しかし氏の要約された「同年の摂津で従来の知行を保障された領主は、右近と「三万クルザード以上」の没収を受けた「他の一貴族」とある」という文章は、それ自体が矛盾しています。なぜなら、「従来の知行を保障された領主」と「「三万クルザード以上」の没収を受けた(領主)」とは、明らかに「相反する事象」が書かれているわけで、両者は同一人物では有り得ないからです。中西氏の要約は言わば「没収されなかった領主は、右近と、没収されたもう一人です」と書かれているも同然です。元になった「1583年度日本年報」自体には、そんな内容は書かれてはいません(下の②、及び補注)。なお、第16回連載で考察した私見によれば、奪われた「30000クルザード以上」とは、およそ「一万二千~一万五千石以上」に相当すると思われ、小規模な摂津衆にとっては、とても「従来の知行を保障された」とは言えない高額です。つまり、この1583(天正十一)年段階の摂津においては、高山、中川以外の「第三者」がいたことになります。
なお、おそらく中西氏が参照されたのは、村上直次郎氏が訳された
①「かくの如くして河内国を取り上げ、津の国においても同様にし、昔よりの領主のそこに残ったものは瀬兵衛Xefioye(中川清秀)の一子(秀政)と高槻のジュストのみであった。」(1584年1月20日のルイス・フロイス書簡)、及び
②「彼(羽柴)はもと津の国に領地を有した貴族を悉く追ひ、その収入を家臣に与へたが、ジュスト(高山右近)と他の一人の貴族には従前の収入を与へて厚情を示した。ただし異教徒であった他の一人より三万クルサド余を取上げ、ジュストには特別の恵を与へた。」(「1583年のイエズス会日本年報」、補注)
の2点であると思われます。①によって、「塩川氏が既に摂津から消え去っている」と判断したので、②に二回登場する「他の一人」を「同一人物」と判断されたのでしょう。この①に関しては、私自身も当連載の初期において騙されました。しかし②は、その内容から、明らかに「三人の貴族」のことを記しています。そして同年の摂津においては、既に「池田恒興、元助父子」が「美濃国」に転封されたことは、ルイス・フロイス自身が(「1583年の日本年報」の18日後である)「1584年1月20付書簡」に詳述しており、この史実は、摂津や美濃で確認出来る池田氏の発給文書からも明らかです。よって、②における後者の「もう一人の貴人」とは、もはや「塩川長満」しかいないのです。「「三万クルザード以上」の没収を受けた「他の一貴族」」は中川秀政ではありません。彼の父親であった中川清秀は、かつて羽柴秀吉と「義兄弟の契」を結び、この年四月には「賤ヶ岳、大岩山の戦い」で命を失っています。中西裕樹氏が文中で疑問を呈されているように、さすがの秀吉も中川秀政に対しては、冷遇ではなく、心から厚遇したことでしょう。(確か、播州三木に転封時も二万石ほど加増されていると思います。)
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(補注・「1583年のイエズス会日本年報」より)
「彼(羽柴)はもと津の国に領地を有した貴族を悉く追ひ、その収入を家臣に与へたが、ジュスト(高山右近)と他の一人の貴族には従前の収入を与へて厚情を示した。ただし異教徒であった他の一人より三万クルサド余を取上げ、ジュストには特別の恵を与へた。」
のくだりは、ポルトガルの国立図書館“Biblioteca Nacional De Portugal”のサイトが公開している、エヴォラの活字版(1598)、“Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreurão dos Raynos de Iapaõ & China aos da mesuma Companhia da India,& Europa,desdo anno de 1549 o de 1580”(日本 シナ両国を旅行せる耶蘇会のパードレおよびイルマンなどがインドおよびヨーロッパの同会会員に贈った1549年より1580年に至る書簡)においては、以下のように読めます(幾分画像が不鮮明ですが)。
“& tem bé moſtrado o amor que lhe tem ,porque excluindo do reino de Cunoconi todos os fidalgos nobres, & naturaes que o poʃtuiaõ , e tomando lhes as rendas pera as dar a leús proprios criados, ſomente a Iuſto, & a outro fidalgo deixou com ſuas réndas, mas doutro que era gentio lhe tirou mais de trinta mil cruzados de renda,& a Iuſto tem feitas algúas merces.”
なお、16世紀の「ポルトガル古語」については、全く不案内ながら、かつ、超乱暴ながら、現代の「ポルトガル語小辞典」(浜口乃二雄・佐野泰彦編、大学書林、1977)、および「ポルトガル語四週間」(星誠、大学書林、1985)より、判る範囲で、各単語の訳を以下()内に示してみます。
(&(そして) tem(英語のhaveに相当する動詞terの格変化) bé(tem の接尾語?) moſtrado(示した) o amor(愛情) que(関係代名詞) lhe(彼、羽柴秀吉が) tem(抱いた),porque(と、いうのは) excluindo(除かれた) do reino(王国から) de Cunoconi(津の国の) todos (すべての)os fidalgos(貴人たち) nobres(貴族たち), & naturaes(原住民たち)que(関係代名詞) o poʃtuiaõ(配置されていた?”postar“の格変化?) , e(そして) tomando(取られた?)lhes(彼ら) as(その) rendas(収入、領地) pera(por(英語の“for”にあたる)の古体) as dar(与える) a leús (勝手に)proprios((秀吉)自身の) criados(召使 家臣), ſomente(だけ) a(~に) Iuſto,(ジュスト:右近、“I”は“J”の代用) & a (~に)outro(他の) fidalgo(貴族) deixou(残した) com(と、共に) ſuas(それの) réndas(収入), mas(しかしながら) doutro (別の_から、“de- outro”の略か)que (関係代名詞、この場合はfidalgo(貴族)に対応する)era(英語の「be動詞」にあたる) gentio(異教徒) lhe(彼、秀吉のこと) tirou(tirar:「むしり取る」の過去形) mais(以上の) de(の) trinta (30)mil(千) cruzados(クルザード) de renda(収入から),&(そして)a Iuſto (ジュストに)tem(所有させた) feitas(複数形merces にかかる形容詞 feito の語尾変化 「成熟した、作られた」) algúas(同じく「幾らかの」algum の複数形) merces(報酬、恩恵))
最後に僭越ながら、これらから、「超直訳」を試みてみました。
「彼(秀吉)は(右近に)自分が抱いていた好意を示した。と、いうのは、(秀吉が)津の王国(摂津)に配置されていた、すべての貴人、貴族、原住民たちを排除し、そして、その領地を彼(秀吉)の家臣に与える為に奪ったのに、ジュストと他一人の貴人にだけは、その領地を残したからである。しかしながら、異教徒である他の一人(の貴人)からは、その領地から30×1000(三万)クルザード以上を奪い取って、ジュストには幾らかの用意された報酬を持たせた。」
(つづく) 文責:中島康隆