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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十回

新出の“織田信長朱印状”に見る、荒木の乱と塩川長満、そして焼亡した中山寺と

①「荒木村重の乱」勃発時のものと思われる、新たな「塩川長満宛 織田信長朱印状」が公開された!

②塩川領内における戦闘、焼討ちなど

③「荒木村重の乱」で焼亡した平安以来の名刹・「中山寺」について

④巻末コラム:大河ドラマ「麒麟がくる」における「鉄砲導入」及び「集落防衛」の描写などについて

[はじめに]

ご無沙汰いたしております。まさかこんな事が…といった社会状況となっておりますが、皆様つつがなくお過しでいらっしゃいますでしょうか。

さてその後の「塩ゴカ」としましては、前回焦点を当てた塩川長満の娘「妹・慈光院」が実際に「備前・池田家」と深く関わっていたことが明らかになったわけですが、一方、彼女が再嫁した「一条家」との関連については、正直“心もとない”状況でした。しかし3月になって彼女が本当に「一条家の政所」であったことを示す「良質な史料」が「それなりに」残っていることがわかり、その件をまとめ始めていたところ、昨今の“図書館閉鎖”のアオリを喰らって困っておりました。さらに3月末になって別の新たなニュースが飛び込んで来ましたので(例によって)、バタバタと急遽変更、そちらに差し替えさせていただきます。そして今回、皆様の「長期自宅待機の友」として特に長くなりましたので(えーっ!汗)、どうかごゆるりと、10日ほど掛けて(おやくそく)お読みいただければ幸です。(本当はこの3倍くらい書いていて、カットに苦労してのコレです)。宜しくお願い致します。

①「荒木村重の乱」勃発時のものと思われる、新たな「塩川長満宛 織田信長朱印状」が公開された!

[昨今のコロナ旋風の下、新たな美術館が開館したが…]

さて、イキナリ「大ニュース」です!。去る3月22日、東京都町田市に「一般財団法人・太陽コレクション」所蔵の古文書、書画、武具、茶道具等を展示する「泰巖歴史美術館」がオープンしました。「泰巖」(たいがん)とは「泰然自若として威厳のある」という意味で、織田信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」から取られたとのことです。しかしながら同美術館は、昨今のコロナ禍対策の下、早くも4月9日以来「臨時休館」を迎えるという“厳しい船出”となってしまい、関係者の方々のご心境を推察いたします。

しかしです!この短い展示期間に同館を見学された方の発信情報から、なんと「新出」の「塩川伯耆守宛 織田信長朱印状」というものが公開展示されていたことを知り(!)、慌てて美術館に問い合わせると、どうやらそれが年次不詳ながら「十一月三日付」らしく(!!)、図録も販売されているとのことでしたので(!!!)、早速注文し、後日拙宅の郵便受けに配達時の「不在票」を見つけて(!!!!)おっとり刀で?郵便局に駆けつけ、郵便局の前で(家まで我慢出来ずに)包装を解いて(子供か!)分厚い図録を凝視していた私は、さぞかし「怪しい人物」であったことでしょう。

[出るべきモノが遂に出た]

いや、本当に驚きました。まさに「当時、きっとこんな手紙があったに違いない」と想定していた内容だったのです!。

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なお、上記の事情から、翻刻の引用なども控えさせていただきます。とは言え、素人のこのようなレポートで、内容のあらましを間違いなくお伝え出来るかについては不安でもあります。件の朱印状は、「泰巖歴史美術館」様のホームページで紹介されている、2020年発行の「泰巖歴史美術館 図録」(3500円)に掲載されていますので、皆様どうかそちらをお求めのうえ、ご参照下さいませ。)

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さて、今回の美術館の開設にともなっては、「十四点もの新たな織田信長の発給文書」が公開されました。それらに関して、上記図録の冒頭には、金子拓氏(東京大学史料編纂所准教授)による解説文も掲載されています。

それによると、私が見たかったという、NO.14の「織田信長 朱印状(塩川伯耆守宛)」は「いくさなどに関わる命令・指示・連絡」に分類される性格のものであり、断定そのものは避けられていますが、「天正六年十月の荒木村重が織田方を離叛して以降のもの」と判断されており、朱印状は信長による「塩川長満からの度々の書状」に対する返事であり、「塩川氏が織田方に従った」ことへの謝意と出馬の意向を伝えるもの、ということです。

もはやこれは、「天正六年(1578)十一月三日付」発給のもの、要するに「荒木村重の乱」勃発直後の、織田信長が摂津に向けて安土を出陣した、まさにその日に、「摂津で四面楚歌になっている塩川長満」に宛てて発給されたもの、と断言して良いのではないでしょうか!。

荒木村重の謀叛は「信長公記」に「寅 十月廿一日、荒木摂津守逆心を企つるの由、方々より言上候。不実に思食(おぼしめ)され~」という“出だし”で叙述されていますが、その後の展開から、この「方々より言上」した人物の中に塩川長満が含まれていたであろうことは容易に想像されます。

今回「新出」の朱印状は、これらの注進への感謝をこめた返事のみならず、遂に「荒木方が塩川領へ先制攻撃を掛けてしまった」直後の“緊迫感”さえ感じられるもので、「たびたびのご注進、誠にかたじけない。ともあれ作戦が肝要だ。かの朱印の件(?)は了解した。すぐに援軍に行くから。子細は菅屋九右衛門尉の副状を見られたし」といった大意かと思われました。日付の下には「天下布武」の朱印の上部に重ねて「信長」と自著されています。

なお、「荒木村重の乱」において、組下の摂津衆で唯一、塩川長満だけが加担しなかったことは、本連載では既に「第一回プロローグ」において、「大変残念ながら一般には知られていませんが、塩川長満だけが、織田方に踏みとどまっています!」、「荒木村重の乱は歴史小説やドラマでよく取り上げられますが、高山右近や黒田官兵衛のシーンはあっても、誰も塩川長満の存在すら知りません。塩川長満は荒木の乱の最大の功労者といえるでしょう。」と記すなど、度々お伝えしてまいりました。今回の「朱印状」は、まさにこの事態を実証するものと思われます。それにしても、この手紙を安土から、摂津で孤立する獅子山城に届けた使者もまた、命懸けであったかと想像しています。

また、「荒木方による先制攻撃」については連載第十六回“「1583年のイエズス会日本年報」に記されていた“塩川氏減封”の記事“中の[天正六年末の“荒木村重の叛乱”で焼き討ちに遭った清澄寺]項の(補注)においても述べております。ご参照下さい。

[「荒木村重の乱」勃発への伏線]

さて、「荒木村重の乱」が勃発するまでの経緯を、時間的にまとめると、村重の「毛利・本願寺方」への寝返りは、天野忠幸氏の「荒木村重」(戎祥光2017)によると、既に前年の天正五年(1577)秋の段階において、播磨攻略担当だった村重と、織田方の攻略方針との間に不協和音が生じており、そのことを敵である毛利方が敏感に感じ取っています。

そして謀叛の年である翌、天正六年六月二日には、「吉川元春」が「古志重信」に「其外五畿内 荒信(荒木信濃・村重)なとへも涯分御調略 専要候」(牛尾家文書)と、村重への「調略」を指示していたことが紹介されています。

そして遂に「十月十四日」の足利義昭の側近、「小林家隆」による調略(萩藩閥閲録)によって「謀叛が決定」された事を経て、謀叛発覚のわずか四日前、「十月十七日」付で、本願寺光佐(顕如)が荒木村重、村次宛に起請文(京都大学総合博物館蔵)を提出していたという矢先でした。

これらの状況から、「十月十四日以降」「二十一日以前」に、荒木村重から組下の各摂津衆(高山、中川、安部、能勢、塩川)に対し、「根回し」が行われたと思われ、その間に「塩川長満」を含む複数筋から織田信長に「謀叛注進」があったのでしょう。そして「二十二日以降」に信長が「松井友閑」、「惟任光秀」、「万見仙千代」、あるいは羽柴秀吉が「黒田孝高」(勘兵衛)を村重の「説得」、あるいは「様子見」に派遣していた、という情況であったと思われます。

信長が村重に送った使者たちは、いずれもトップクラスの存在であることが、事態の深刻さを示しています。摂津の北に隣接する丹波攻略を担当していた惟任光秀は、既に3年近く前である、天正四年(1576)正月に「八上城の波多野秀治」によって、また播磨担当の羽柴秀吉はまさに8ヶ月前の二月に「三木城の別所長治」によって、いずれも「離叛」という目に遭って以来危機を迎えており、特に秀吉の方は今回の村重離叛によって、摂津一帯が「毛利・本願寺方」になることで、織田方の勢力範囲から分断されるという(瓦田昇「荒木村重の周辺」1975)、もはや自滅の危機に直面する立場であり、村重への「説得」は必死であったことでしょう。

それにしても、北摂の山間部の「塩川」というほぼ無名の小勢力が、まるで「針釘で留めたように」織田方に留まったという史実は、その後忘れ去られたにしては、あまりにも「劇的」過ぎる事件でした。そしてこの事件の「劇性」は後世、様々な創作物で語られたりしましたが、なぜかイエズス会が詳述した「板挟みとなった高山右近への説得」や、脚色化された「黒田勘兵衛の幽閉譚」ばかりが有名になってしまいました。しかし今回「新出」の朱印状は、まさに乱勃発直後の緊迫感と、信長自身の塩川長満への感情が「温存」されていたもので、ようやく「442年目にして塩川長満に正当なスポットライトが当たりはじめた」と言えるのです。

[十月二十八日、遂に荒木方が先制攻撃]

荒木側の「戦闘開始」の状況に関しては、江戸前期(*)に書かれた「穴織宮拾要記」(伊居太神社文書)において「天正六年十月廿八日 空曇たる日暮方 伊丹より賀茂 栄根村栄根寺へ火を掛る」とあり、「十月二十八日」、つまり荒木村重の謀叛発覚が「信長公記」に記された「十月二十一日」からちょうど「七日後」である「辺りが暗くなろうとする夕刻」に「塩川領を急襲、放火する」かたちで、文字通り「火の手が上がった」状況が記されています。

また、江戸中期に編纂された「院徳太平記」は、幾分の脚色や間違い等は見られるものの、「多田院の城主 塩川伯耆守は 信長卿御内縁の有りける故、荒木を背きて信長卿へ一味しける間、さらば軍神の血祭にせよとて足軽を差遣はし、散々に打破らせ、心地よしとぞ悦びける」との記述は、「荒木方による先制奇襲攻撃」を示している点においては、本質を突いていると私は思っています。

そして上記「十月二十八日」という攻撃の「日付」から、今回「新出」の朱印状における「十一月三日」という信長朱印状の日付は、既に塩川長満から「荒木側に攻撃された報告」を受けての返答である可能性があり、「相わかった。今から出陣するから上手くもちこたえてくれ。」という「緊迫感」が滲み出ています。信長はこの言葉通り、この日に安土を出陣、十一月九日には「摂州表御馬を出」(信長公記)しています。

(*)「穴織宮拾要記」は、「川西市栄根寺廃寺遺跡 第20、21次発掘調査報告 川西市教育委員会(2003)」中の註11(山岸常人「中世寺院社会と仏堂」)によれば、寛永十七年(1640)年の成立とのことです。

[中山寺に残る信長の「禁制」は、まさにこの「十一月初頭」に発給されたもの]

本稿では幾度も触れていますが、現在中山寺(現・宝塚市、塩川領、この時中世の伽藍は焼亡した。後述)に残る「天正六年十一月 日付 塩川領中所々 宛」の「禁制」(「中山寺文書」、「信長文書・799」)は、まさにこの「十一月三日~九日」の間に、おそらく安土、もしくは摂津に向けて移動中において、複数作成されたうちの一通が伝わったものと思われます。

「禁制」とは要するに「織田軍はあなたの領域内で、乱暴、陣取、竹木の伐採をしません」という“保証書”で、一般的には発給される側が代価を支払って得るもの、と理解されています。しかしこの禁制においては、宛名が「中山寺」云々ではなく「塩川領中所々」とのみ記されている点が非常に重要です。これは、これから織田軍が摂津に進出するにあたって「急遽、複数の禁制」が作成されてバラ撒かれた「うちの一通」がたまたま中山寺に残されていた、ことを表わしていると思います。発給時の「急を要する緊迫感」が「領中所々」から滲み出ています。織田方としては、「塩川領に持ちこたえてもらうこと」が「最重要な死活問題」であり、「代価の請求」などは全く無かったものと思われます。

なおこの宛名における「塩川領」という言葉は、既に塩川氏が中世の「多田院御家人」などではない独立した領主「国衆」である根拠として、近年しばしば引用されています。

[塩川氏との取次「菅屋九右衛門長頼」]

また今回の朱印状は、末尾に菅屋九右衛門が「可申候也」で締めくくられているので、菅屋長頼による「対・荒木策」の詳細を記した「副状」があったのでしょう。菅屋長頼は信長直属の官吏、奉行、馬廻りなどを担当した存在でした(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」、「信長の親衛隊」(中公新書)など)。

塩川氏と菅屋長頼との関わりは、備前・岡山の塩川家譜類(池田文庫)によると、当初(永禄十一年(1568)十月の信長畿内進出時のことか?)塩川氏は織田信長軍と戦闘に及んだが、丹羽五郎左衛門殿、菅屋九右衛門殿」を通じて帰参したと記されています(なお「高代寺日記」と「槻並・田中家系図」から考察すると、塩川氏は同年八月の段階で「塩川(田中)孫大夫」を使者として、近江在陣中の信長と交渉を始めている可能性があります)。

また、「高代寺日記」天正四年(1576)正月の条に、「長満 使ヲ安土ニ進セ信長ヲ賀 今頃 菅屋玖(九)右衛門ト好ヲ通ス」とあるので、この頃には菅屋長頼が塩川氏との「取次」として定着していたものと思われます。さらに前回連載における[織田信長が森乱を通じて塩川に下した「銀百枚」は婚礼の支度金だった?!]において、四月十八日塩川家に森乱(いわゆる蘭丸)と通じて銀子百枚が下賜された(信長公記)あと、「五月五日 吉大夫 勘十郎 平右衛門尉ヲシテ安土ヘ礼申サル 菅屋玖(九)右衛門ト伯(長満)儀セラレテナリ 各三人帷子二ツ銀十枚ツゝ賜テ皈(帰)国セリ」(高代寺日記)とあり、塩川長満(四月二十八日以降「賀茂岸」砦に異動、信長公記、後述)と菅屋長頼(古池田に居たか)が密接に相談していたことが記されています。

ともあれ、今回新出の朱印状は、これまで「高代寺日記」や「備前・岡山の家譜類」が記していた「菅屋長頼が信長との取次であった」ことを裏付けました。彼の名は塩川家の中で長らく記憶されていたのでしょう。

なお、菅屋長頼は「荒木村重の乱」終息後の天正九年(1581)頃、織田家に収公された旧荒木方領であった能勢郡や有馬郡の領地管理に関わっており(能勢郡旧領主並代々地頭役人記録、余田文書)、塩川長満は、おそらく今回の「乱の被害」の埋め合わせとして、菅屋長頼の管理下で天正八年から一年間あまり、能勢郡、有馬郡の「代官権」を宛がわれていたと思われます(上同、及び有馬・善福寺文書、池田文庫の家譜類)。

なお、「菅屋九右衛門長頼」は惜しむらくも、天正十年(1582)六月二日、京・二条御所に駆けつけ「織田信忠」と共にあっけなく死んでしまいます(信長公記)。こうして「森乱」なども含めて「塩川氏の功績」を知る人物たちが一気にこの世から消滅したのです。

[塩川長満はなぜ、荒木村重から離反したか]

塩川氏が摂津衆で唯一、村重に加担しなかった最大の理由は、天文十七年(1548)以来の30年にわたる、同家における「反・三好氏の流れ」が最大の要因かと思われます。これは同時に「反・(摂津)池田氏」、「反・能勢氏」を意味し、そして「親・伊丹氏」でもありました。荒木村重は天正二年に伊丹氏を滅ぼして摂津を統括しますが、塩川氏は、この「元来三好色の強かった池田家中」を出自とする「荒木村重体制」の中では、言わば「水面下の野党」であったはずです。そして「荒木略記」は元亀元年(1570)、クーデターにおいて「織田方」から「三好、本願寺方」に寝返った「池田氏」(荒木村重ら)が、「織田方の和田惟政」を討取った事を記述したあと、

「伊丹兵庫頭(忠親)は和田が聟にて候故、池田方と度々合戦に及び候得共、池田がた次第々々に威光つよくなり候に付て、兵庫頭 伊丹(町)を相渡し 牢人被致候、塩川伯耆(長満)は兵庫頭妹聟にて候故 可討果所に、池田へ隋ひ可申よし 申候に付、伊丹と不通いたし、其儘(そのまま)多田之城に在城申候」

塩川長満が、荒木村重に対して何も言えず、結局同盟・縁戚関係でもあった「伊丹氏を見捨てた」(要するにヘタレ)という、情けない次第が記されているわけで、これは4年後の「荒木村重の乱」(「荒木略記」はこれを「省略」している)への言わば「伏線」であったと言えましょう。

[「川西市史」は「穴織宮拾要記」の“一部分の記述”だけを採用、歴史叙述した]

なお上述の“荒木方の先制攻撃”を伝えた「穴織宮拾要記」は、後に織田軍が摂津に到着し、伊丹を取囲んだことを述べた後

「此時山下ノ城主 塩川伯耆ハ荒木下ナレ共、家臣共伊丹へ籠城させ菅屋九右衛門 池田へ軍取ノ後来 信長方二ナリ、天正十四年ニ秀吉ノ御時 塩川モ落城ス、沢庄兵衛 塩川家臣 伊丹よりにけ(逃げ)人後 小坂前ニ住ス」

と記述しています。実は「川西市史第二巻(P17)」の“歴史叙述”は「この内容だけを採用」しているのです。具体的には、織田信長による、十一月三日~九日の「摂津への進出」、十一日の「高山右近の降服」、二十四日の「中川清秀の降服」、十二月一日の「阿部仁右衛門の降服」、を「記したあとに」

「山下城の塩川国満(ママ)も家臣を村重の有岡城に籠城させていたが、やがて帰順した」

と記述しました。要するに、塩川氏は、他の摂津衆が皆織田方に寝返ってから「じゃ、ボクも…」と尻馬に乗ったという、「最後に日和見した武将」として叙述されてしまいました(…)。この酷い見解は今でもWikipediaの「有岡城の戦い」中の表に健在です(2020年5月現在)。

[「穴織宮拾要記」内における“相矛盾する記述”が考察、検討されていない]

なお、上記の典拠となった「穴織宮拾要記」の「菅屋九右衛門 池田へ軍取ノ後来 (塩川氏が)信長方二ナリ」という、「菅屋長頼」の池田到着は、「信長公記」においては十二月八日~十一日にかけてのことと思われます。

要するに「穴織宮拾要記」に従えば?、塩川氏の織田方への帰順が「十二月上旬」となるわけですが、これでは遅すぎるどころか、「穴織宮拾要記」自体が記した「荒木方が十月二十八日に塩川領の、賀茂、栄根を急襲、放火した」内容にも完全に「自己矛盾した記述」です。塩川氏は十月末の段階で「既に荒木方から離反していたから」領内を放火されたわけです。もし塩川氏が本当に荒木方であれば、摂津国内は「一枚岩」のはずですから、そもそも戦争が起こる理由がないはずです。

ですから、川西市史が「穴織宮拾要記」という史料を採用するのであれば、同記内におけるこの「相矛盾した両記述」に対してなんらかの「考察」があってしかるべきなのですが、当連載第10回における「山下町は製錬のために造られた」などの見解同様、「記事の“一部だけが採用”された」歴史叙述となってしまいました。

なお、同記に登場する「菅屋九右衛門」に関しては、まさに今回の「新出」の朱印状によって、既に「十一月三日」段階で塩川氏との取次をしていたことが判明したわけで、塩川氏が当初から(密かに?)織田方であったことは、もはや完全に証明されたと思います。

[恣意的?に掲載されなかった史料たち]

ともあれ、本稿の「塩川氏の誤解を解く」における「誤解」というのは、その殆んどが「川西市史第二巻(1976)の「歴史叙述」の訂正」となっています。同書はこのあたり、偏向が甚だしく、「読者が史料から客観的に判断出来ない」という不思議な構成になっています。同書における問題個所の特徴としては常に「特定の史料」、あるいは「特定の記述」のみに焦点を当て、「その他の内容を無視」もしくは「史料集にも掲載しない」というのが共通したパターンです。しかも掲載されなかった史料、例えば「荒木略記」(塩川伯耆守の娘と織田信忠との婚姻や、一条家との再嫁に触れている)や「陰徳太平記」(「荒木の乱」に塩川氏が最初から従わなかった点に触れている)は、川西市史の前年に刊行された伊丹市の「荒木村重史料」(1975)にはちゃんと掲載されているというのにです。そもそも「塩川氏」に関する史料自体が稀少かつ貴重であるにもかかわらず、これらはあえて「黙殺された」ということでしょうか?。(「高代寺日記」はその「分量自体」が多いので、外された事情が全くわからないでもありませんが。)

「荒木村重史料」は新旧の良質な史料(と、私が言うのもおこがましいですが)が集められている印象があり、何故その後の各「自治体史」に、あのような後期塩川氏の歴史叙述が展開されたのか、不思議な観があります。仮に「信長公記」や「荒木略記」を「2次史料」、「陰徳太平記」や「甫庵・信長記」を「3次史料」と呼ぶならば、「自治体史」が大々的に採用した「多田雪霜談」は明らかに後2者からの引用した箇所があるので、「4次史料」以下の“末書”ということになります。「天正以降の後期塩川氏」に対するこの偏向した「歴史叙述」は、同時期の「宝塚市史」や、1980年代以降に刊行された執筆者の違う「豊能町史」や「猪名川町史」にも概ね「横並びに」踏襲されてしまいました。

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なお上記「穴織宮拾要記」における「(塩川)家臣共伊丹へ籠城させ」という記事や、伊丹に籠城していた塩川家臣「沢庄兵衛」などの記事自体に関しては、私はむしろ「信憑性」を感じています。塩川氏は「摂津一職」であった荒木村重の組下として、早々「露骨な離反」は困難であったことは推察されます。また「人質」を取られていた可能性もあるでしょう。一方、塩川領内としても、塩川長満による「家臣の山下集住」など、近世化政策への「反発」は当然あったようで(「安永三年多田御家人由緒之記」今北実之助文書・「荒木村重史料」所収)、塩川家中内も当然ながら「一枚岩」ではなかったでしょう。

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[今回新出の朱印状は「荒木の乱」初期段階の「歴史叙述」を変える決定打]

さて、近年いろんな方々が後期塩川氏の見直しをされる風潮とはなり、織田信忠の妻であったことも定着しつつあるようですが、それにもかかわらず、「荒木村重の乱」において塩川長満が唯一、荒木村重に従わずに「摂津で孤立」したという点についてだけは、なかなか一般レベルでは「明記」されません。唯一、谷口克広氏が「織田信長家臣人名辞典」(1995)の「塩河長満」の項で「同六年、村重が信長に背くと、これを離れ」と、あるだけ(昨年の和田裕弘氏の「織田信忠」もほぼこのフレーズを踏襲)です。なお、谷口氏の同書におけるこの「短いながらも先駆的な記述」は、当方としてはこの20年以上、相当「精神的な支え」になり、感謝しています。

そしてこれに続く、「信長公記」の「天正六年十二月十一日」記事における「御取出(砦)御在番衆」の一覧中に

「古池田 塩川伯耆」

要するに塩川長満だけが「信長本陣の在番」と記されている事が如何に凄いことか。これもまた、その「凄さ」を解説してくれる人もなく、またその理由、経緯について考察されることもなく、この記事はたいてい「淡々と無機的な歴史叙述」の中に埋没しています。そのような事態が続いたので、結局このような素人が「塩ゴカ」なんぞを書き始めるキッカケとなりました。

因みにこの「十二月十一日」の陣配置の記事において、「高槻の城」とか「茨木城」なんて、織田方の城将が「御番手」として接収しています。要するに「裏切り防止策」が施されているわけです。一方、塩川氏の城に関しては、ここに一切記されないので、そのまま塩川の家老が守備を継続したと思われます(高代寺日記の記述から。なお織田家から「目付役」が派遣されたとは思います)。このあたり、“扱い”が全く違うのです。そして考えてみれば、信長が塩川氏の案内で「多田谷」(川西盆地)に鷹狩に出かけた(冒頭画像参照)というのも、その「信頼度」の表れと思われます。

そしてさらに、こういった一連の状況を経て、この直後「織田信忠に塩川長満の娘が嫁いだ」というのは「極めて自然な流れ」でしかありません。

[この手紙は誰が保持していたのだろう?]

こういったことはなかなか明かされないのかもしれませんが、この朱印状は、まさに「嫡流」が家宝として保持しているような価値、内容のものです。如何にして現代に伝わったのか、とても気になる次第ではあります。

塩川氏の滅亡以降、行方がわからない「塩川愛蔵」の子孫に伝わったものなのか?、あるいは、彼と家督を争った「塩川基満」の家系か?(しかし「高代寺日記」中には具体的には触れられていない)。はたまた、比較的生活が安定していたと思われる備前・岡山の「塩川源介」の家か?。あるいは全く「想定外」の経路なのか???。

一方、最末期の塩川家を差配した家老のひとり、鳥取・池田家の「塩川勘十郎」の家系にも、織田信長の朱印状が明治まで存在していた(明治六年の「塩川知行家譜」、「塩川忠通家譜」鳥取県立博物館、連載第15回)とのことですが、おそらくこれは(家臣筋なので)別件の朱印状と思われます。色々と想像が尽きませんが…。

②塩川領内における戦闘、焼討ちなど

さて、天正六年十月末、摂津国内でまさに“四面楚歌”となった塩川氏ですが、引き続き記録に乏しい領内周辺における「乱の痕跡」を見渡していきます。

[平野村での戦闘]

「荒木村重史料」所収の「多田庄十郎文書」、「小池博文書」によれば、平野村の「上津」や「平野馬場」、或いは「池田表」等において荒木方と戦闘が行われた模様です。

荒木方が塩川領内に南から襲来したという、「穴織宮拾要記」や「陰徳太平記」の記事を思い起こさせます。但し、塩川領が外敵から侵攻された可能性は、16世紀だけでもざっと5~6回は思い浮かぶので、それらの記憶と混同されているかもしれません。

なお「平野馬場」というのは不明ですが、古くから現・多太神社の境内直下の台地上に「N45°E方向、長さ200m余り」の不自然な直線道路、及びその延長の地割が存在しています。その南東端は段丘崖によって(ちょうど空母の滑走路みたいに)「突然途切れていた」という不思議なもので、私は、これは「神事」を執り行う「馬場」の痕跡ではないかと勝手に想像しています。なおその「線」は今も大半がアスファルト道路として健在です(多太神社については後述)

[獅子山城西ノ蔵、放火される]

そして「高代寺日記」天正六年の紙面には「十一月 西ノ蔵 為放火焼 重物多焦土トナル」とあり、この「西ノ蔵」は獅子山城主郭の西部あたりにあったのではないかと推測しています。

前述の「穴織宮拾要記」においても、栄根寺等への放火が「空曇たる日暮方」とあるので、「放火」の大半は、夜陰に乗じて忍び込むかたちでなされたのでしょう。

また、これも幾度かお伝えしていますが、主郭「北西」斜面において、「火災により2次焼成を受けたような淡橙灰色を呈する」数点の伏間瓦、平瓦、および主郭面から僅かながら「焼土」を採取しています(冒頭画像左上)。なお、他の遺物から、城内に大規模な火災は無かったと思われます。焼亡した「蔵」も、板葺屋根に瓦棟(平瓦を半裁して「熨斗(のし)瓦」として積み上げ、頂部に伏間瓦を載せる)を頂いた構造を想像しています。

[佐曽利村まで敵対]

一方、塩川領の北隣の「能勢郡」(能勢氏)、及び西隣の「有馬郡」(荒木氏)が「敵国」と化したことはいうまでもありませんが、塩川氏にとってはさらに目と鼻の先、川辺郡佐曽利村(現・宝塚市)の「佐曽利(さそり)氏」が荒木方となって「佐曽利城 三蔵山(みくらやま)城トモ云」に籠城したことは、連載第16回の末尾においても触れました(佐曽利氏系譜、大分県竹田市立図書館所蔵)。「佐曽利氏」は、古くは正和五年(1316)十月十三日の「多田院供養之時、御家人驚(警)固座図」(多田神社文書75)にも記されている「多田院御家人」であり、同村はかつての「多田荘」ですが、戦国時代における塩川氏との主従関係の史料はみられません。むしろ、有馬郡三田の有馬氏→荒木重堅の被官、家臣となっていたのでしょうか。

[「佐保姫伝説」と史実との接点]

さて、三蔵山城跡といえば地元においては、なぜか明智光秀の娘「佐保姫」が住んで居て、丹波八上城の「波多野貞行」と恋愛関係に落ち、父・光秀による八上城攻めという、思わぬ事態に板挟みとなって苦悩したうえ、入水してこの世を去るという、いわゆる「佐保姫伝説」で知られています。

なお三蔵山城跡は戦国時代とみられる郭造成が明瞭ですが、生活痕跡には乏しく、なぜか13世紀前後と思われる須恵器の甕や土師器の小片が僅かに散布しているので、これらの遺物は伝承が残る「三蔵寺時代」のものと思われます。

したがって「光秀の娘」が居た、というハナシはともかくも、少なくとも「佐曽利氏」と、明智光秀が目下包囲中であった「八上城の波多野秀治」とが「共同戦線」を張っていた事自体は史実です。そしてそのため、現・猪名川町と篠山市日置を結ぶ街道(川西・篠山線)は、「佐曽利氏」や、「能勢・西郷衆」によって東西から「封鎖」されていたと考えられます。しかし天正七年四月に至って、織田方による大々的な、いわゆる「北郡征伐」(中川史料集)や織田信忠による「耕作薙捨」(信長公記)が行われ、佐曽利氏や能勢衆の一部は降服します(佐曽利氏は中川清秀の家臣となり、豊後・竹田において明治に至る)。

この佐曽利氏等の降服は、「塩川領と篠山盆地を結ぶ街道の復旧」を表わし、さっそく「高代寺日記」においてはその直後の「五月」に塩川勢「四十騎 都合四百余人」が明智光秀の援軍として丹波に派遣されています(なお同書は「波多野」と「赤井」を完全に混同しています)。そしてこれら一連の経過は、「地図上に時系列で再現」してみると実に絶妙に整合性がとれており、大枠としては史実であったと思われます。ただ、ここで気になるのは、佐曽利氏が波多野秀治を含めた荒木方に「人質を出していた」可能性が考えられることです。佐曽利氏が織田方に転ずることにより、「佐保姫伝説」の元となった知られざる「悲劇」が本当にあったのかもしれません。

[塩川領内で焼亡した主要な寺社]

なお「穴織宮拾要記」には、この乱で焼亡した代表的な寺社が、計十七ヶ所も挙げられており、そのうち塩川領に属する寺社は、仲山(中山)寺、清澄寺(清荒神)、満願寺、栄根寺、多田院、高代寺の六ヶ所です。このうち高代寺の情況を把握しておりませんが、それ以外は発掘調査を含めて、なんらかの16世紀後期の火災痕跡があり、宝塚市や川西市の教育委員会レベルにおいても、おおむね「荒木村重の乱時の焼亡」という認識がなされているようです。

[天正七年三月二十日、織田信長は焼け崩れた「多田院」を訪れている?!]

しかしながら、唯一の例外は現在の「多田神社」さんで、その公式サイトの「御由緒」においては「延享二年(1745)年の御家人由来記によれば、天正五年(1577)織田信澄の手によって焼失した」とのみ紹介がなされています。これは発掘調査まで行って「荒木村重の乱時の火災」と判断した川西市教育委員会の見解(「多田院遺跡第16次調査」(平成19年)、「多田神社発掘調査現地説明会資料」(平成22年)など)との間に、「齟齬」が生じていることになります。

なお私は、この「織田信澄による焼討ち」は、上述した「天正七年四月」の豊島郡~能勢郡、川辺郡北部にかけての「北郡征伐」の情報が間違って伝えられたか、それに加えて、織田家が「平氏」を公称していたこと(公卿補任)から、江戸時代に至って変に強調された「源平交代思想」(「多田雪霜談」の著者などもこの観念をもっている)による「悪意のバイアス」を感じ取ってしまいます。ともあれ、天正五年頃の「多田院」は「織田信長親派」であった「塩川領内の一寺院」という存在であり(連載第16回参照)、織田方が多田院を焼討ちする理由が全く思い当たりません。

それどころか、「陰徳太平記」には織田信長が「天正七年三月廿日」、つまり、信長が「塩川勘十郎」の案内で「多田谷」に鷹狩に出かけた「三月十四日」(信長公記)のわずか6日後に「多田院、箕面の瀑(滝)など見物有りて」の記述があるのです!。そして私個人は、織田信長が実際に「多田院」を訪れた可能性は、塩川氏との翌月における「婚姻関係」(和田裕弘「織田信忠」P42)を考慮すると「非常に高い」と思っています(連載第4回、及び第19回における岐阜城の「金箔牡丹紋瓦」の記事など)。因みに「信長公記」(陽明本、池田本)においては、「三月廿日」の記載そのものが無いので、一応「アリバイ」は崩れていません。また箕面の滝見物の方は「三月晦日」のこととなっています。

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[信長が多田院を訪れた意図は??]

なお、五月の連休時にたまたま読ませていただいた、乃至(ないし)政彦氏の「信長を操り、見限った男 光秀」(河出書房新社・2019)に、織田信長が足利義昭の「若君」を安土城にずっと保護していたことが指摘されており、信長が実は「足利幕府の再興」を密かにもくろんでいたという、非常に斬新かつ大胆な見解が打ち出されています。この信長の「真意」については、私はなんとも言えませんが、古来、多田満仲廟の「鳴動」で知られる多田院は、「足利尊氏」以来、足利将軍家の「祈祷所」であり、その「分骨所」でもありました。信長が多田院を訪れたとすれば、当然そのことは意識されていたと思います。

なお塩川長満の「正室」は、「一条房家」の落胤の血を引く「足利義輝の娘」とされており(高代寺日記)、同記は、彼女が「永禄の変」(義輝殺害)の際に「助十郎(摂津晴門らしい)」の手で「塩川国満」の元に匿われた、と記しています。「高代寺日記」は「土佐・一条家」(*補注)の存在を文脈に結構「意識」しています。また、木下聡氏の「室町幕府の外様衆と奉公衆」P208によれば、「永禄の変」直後の「摂津晴門」の行動は不明とされているので、一応こちらも「アリバイ」は崩れていないのです。さらに塩川氏は翌、永禄九年(1566)六月には、松永久秀、細川藤賢、伊丹親興らと共に、遂に武装蜂起。三好方の摂津・池田氏を攻めて市街戦に及んでいます(九月には和議。「永禄九年記」)。このあたりの経緯はおそらく、織田信長と塩川長満が「長期同時滞在」している「古池田」(信長公記)において語られたかとは「想像」されますが、文献は沈黙しています。

それにしても、「織田信忠」に嫁いだ「長満の娘」(「寿々姫」)は、「伊丹兵庫頭(忠親)妹の娘」(荒木略記)なので、要するに「塩川長満の側室の娘」だったというのも、なんか「立場が逆!」というか、凄いエピソードだと思っています。

ともあれ、乃至政彦氏による「織田信長の“足利幕府再興計画”」説は、織田信長が塩川長満という、多田満仲の末裔を称する(荒木略記など)、足利義輝の義理の息子(高代寺日記)と縁戚関係を持った「不思議さ」、と合わせて考えてみると、とても興味深く思われました。

なお同書はほかに、「天下布武」という言葉に「パロディ性」があったというユニークな指摘も紹介されており、こちらも説得力を感じます。

(*補注:中脇聖氏の「摂関家の当主自らが土佐国に下向する」(神田裕理編「ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち」所収、2015、洋泉社)によれば、タイトル通り「公家大名」などではなかったことが指摘されています。)

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[荒木方による「塩川領の焼討ち」は、十二月中旬にも行われた]

平安時代の「平井(藤原)保昌」の伝承で知られる「平井村」(現・宝塚市)は、元々摂関家領、及び松尾大社領「山本荘」に属していましたが、14世紀に満願寺に寄進されて以来、「多田荘」への属性が強まり、天正初頭には実質的に多田荘を乗っ取った「塩川領」になっていたと思われます。

さて、村内の「白山権現伽藍(現・八坂神社)ハ 天正六年十二月十三日兵火ニ焼失 伊丹ノ城主 荒木摂津守ヲ信長ノ一族攻ル為ナリ」(山本自治会文書)という記録があります。「十二月十三日」という時期は、日付が記された塩川領への焼討ちとしては、最も後(2例しかありませんが)ではあります。この二日前、織田軍は有岡城を囲む付城の布陣を発表しており(信長公記)、荒木方としては、織田方による包囲網が確立する初期段階における、かろうじての遠征を試みたように見えます。

[有岡「岸砦」の守将「渡辺勘大夫」、獅子山城付近で(?)拘束、処刑される]

天正七年(1579)十月十五日、一年間にわたった有岡籠城の落城四日前、城下町の北端「きしの取出(岸砦)」(現・猪名野神社境内)を守備していた「渡辺勘大夫」は、既に本城との連絡が断たれ、町も織田勢に占拠されて砦が孤立したことから、「同者紛(まぎれ)に多田の館迄 罷退(まかりのき)候を、兼て申上ぐる儀もこれなく、曲事の旨 御諚(おおせ)にて、生害させられ」とあります(信長公記)。

渡辺勘大夫は、混乱に紛れて(まだ抵抗を継続している能勢郡を目指したのか?)「多田の館」まで北上して「調略に応じた内応者」のフリをした?ものの、「貴殿の件は聞いてない」とバレて処刑されたものと思われます。

なお「多田の館」とは、「塩川長満の拠点の館」という意味以外には考えられず、「獅子山城」の事と思われます。そして「御諚(おおせ)」「生害させられ」という敬語は、この「裁定」を下したのが「信長自身」であったことを表わしていますが、実は信長は十月九日以来、「安土」に滞在しています(信長公記)。そして塩川長満は高山右近らと共に「七松」(尼崎付近)の砦に駐屯中です(同)。

以上のことから、「山下町付近の警戒網」に「渡辺勘大夫」が引っかかって拘束され、獅子山城の塩川家老あたりから、段階を経て「安土」の織田信長に「注進」が到来し、その「裁定」が下されたのを「傍らの太田牛一」が記録した、といったところでしょうか。

山下町の藤巴力男氏によると、町の南口にあたる「初谷川」にかかる「くろがね橋」付近に「塩川時代の処刑場の伝承」があるそうです。おそらく勘大夫は信長からの返答を受け取った塩川方により処刑され、その首は安土に送られたことでしょう。

この「渡辺勘大夫」という名前は、有名な「渡辺勘兵衛了(さとる)」を思い起こさせますが、やはり近江「渡辺氏」の支族と推測されています(角川「信長公記」註)。

渡辺勘大夫は、「信長公記」においては前年の十一月二十三日、西へ向かう織田軍を迎え撃つべく、中川清秀の「茨木の城」に加勢として派遣されていましたが、翌二十四日には中川が織田方へ変心、渡辺ら加勢の者を追い出してしまいます。彼は「信長公記」においてはロクな目に遭っておらず、お気の毒としか言い様がありません。

そして天正七年暮の十二月十六日、洛中における荒木一族処刑の一覧に「廿一(歳) 渡辺四郎 荒木志摩守(元清)兄むすこなり 渡辺勘大夫娘に仕合せ(めあわせ) 即養子するなり」が混じっています(信長公記)。 勘大夫の娘はどうなったのでしょうか?。

伊丹の「猪名野神社」境内には、今も町の北を守った「岸の砦」の「土塁」が残り、往時の緊張感を偲ばせています。

[塩川時代の「天正六年再建」の記録のある「多太神社」は?]

さて、前述した「平野馬場」周辺で、荒木方と戦闘が行われたという、平野村の「平野社」(現・多太神社)はどうだったのでしょう。

同社は江戸前期の「寺社吟味帳」、「摂陽群談」においては「平野明神」「平野神社」と記され、江戸後期の「摂津名所図絵」においては「多太神社」という名称に変わっており、この名は現在まで引き継がれています。

これは八代将軍「徳川吉宗」(「延喜式」が好きだった)の時代に、同社が古代の「延喜式」における「河辺郡七座」のひとつ「多太(タダノ)神社」に「比定」がなされて石碑が建立され、またこういった「王制復古的な歴史観」が、明治政府の政策とも合致して踏襲されたという結果によるものです。

しかしこの神社が平安中期の「源満仲」以降、中世の塩川時代をも含めて、「京の平野神社」から勧請した「多田源氏の氏神、平野明神」として「800年間以上も」崇敬されていたことは、なぜか神社の説明版にも一切触れられておらず、とても不思議な気がします。

そもそも、地形的にはさほど「平らか」でもないこの地域に何故、「平野」という地名があるのかといえば、多田荘の「核」として「平野社」が勧請されたからに他ならないのです(本件についてはまた近々)。

そしてその崇敬の名残は、塩川国満が天文年間に拠点城郭を移した「笹部村」へも勧請した「平野神社」へ引き継がれています。(こういった神社名の変遷は、能勢郡の「野間神社」が18世紀以前には、大和・石上神宮から勧請された「布留宮」であった事情と同じです。中世の東郷・能勢氏の氏神は「ふるのみや」だったのです。)

ともあれ、塩川氏の信仰の核「平野明神」を焼討ちする事は、多田院や満願寺同様、「精神的ダメージ」を与える戦略から、荒木方によって行使された可能性はあったと思われます(上記「布留宮」も織田信澄の北郡征伐時に焼亡しています(東郷村誌))。

それというのも、現在の多太神社の本殿は「内陣厨子内小宮の墨書きにより元禄六年(1693)造営と判明してゐる」(吉井貞俊「式内社調査報告」1977)とのことですが、境内の川西市教育委員会の解説板によれば、塩川長満時代の天正六年(ママ)「再建」の記録があり、「桃山風」を呈する部材が残されているとのことです。

一方「元禄五年十二月」に提出された「寺社吟味帳」にも「社 八尺四方 檜皮葺」(現在と同じ社殿か)が記されており、これらの諸情報から総合的に判断すれば、塩川長満の時代に本殿が再建され、その部材を生かしながら、元禄六年に修理が完成されたという解釈、つまり「本殿には塩川長満時代の部材が一部残されている」可能性が考えられます。また、長満時代に「再建」されたのであれば、その先代が「戦乱で失われた」ことも推察されます。

なお、織田信長と大坂本願寺との和議が成立し、戦乱が「ほぼ終息」した天正八年(1580)四月、「高代寺日記」は「伯州(長満)庄内七社領分ノ内 都合二十一社 三十余ヶ寺へ濁穢ヲキヨメ 且 祈護ノ報謝ヲナシタマフ 吉太夫 民部 平尾兵右衛門頼明 コレヲ奉行ス」と記しており、塩川長満が戦乱終息の神事、仏事を執り行っています。塩川氏にとって「最重要」であったはずの氏神の社殿がこの頃、(2年ズレていますが)再建された可能性は一応あると思います。

[境内の瓦片は、慶長~元禄間の火災を示す?]

なお多太神社の境内東北部には、近世後期~近代のもの思われる「桟瓦」の瓦礫が散在していますが、それらに混じって、わずか小片2つながら、塩川時代かと思われるコビキA(糸切痕)のある「丸瓦」(側部、広端角)を確認しています。加えて、室町時代~近世初頭と思われる「平瓦」、「熨斗(のし)瓦」(薄手の平瓦)、伏間瓦(広端角、凹面は摩滅)もわずかに見られます。これらは「瓦葺建築」、もしくは「桧皮葺建築の棟」を形成したものと思われます。

そしてそれらに混じって、「明らかな火災痕跡」を呈する近世初頭の橙灰色の軒丸瓦(少なくとも2個体分)を採取しています。思わず「荒木村重の焼討ち時のものか?!」と飛びついた私でしたが、どうもこれらは凹面側には明瞭な「コビキ(年代の指標となるスライス痕跡)」が見られませんが、皺々とした離型時の「布目」が残り、玉縁近くの「釘穴」が「縦に二つ」並んでいるあたりは、「豊臣時代以降のものか」といった印象がありました。

本稿を書くにあたり、もう一度境内を観察すると(人口密度が低い場所なので…)、やはり火災痕跡を呈する軒丸瓦の、「大ぶりな珠紋を伴なう巴紋(左巻)瓦頭」の小片1点を見出したので、この「火災痕跡を伴う軒丸瓦」は現在、年代的には「文禄・慶長頃前後のものか?」とみています。そしてこの軒丸瓦と全く「同様の技法を持つ普通の丸瓦」1個体(玉縁側、火災痕跡無し)も採取しており、上記の「伏間瓦」も断面がやや「橙灰色」を呈すること、「軒丸瓦」は釘穴を伴うこと(「棟」の裾を構成する軒丸瓦に似た「甍瓦」には釘穴が無いらしい)ことなどから、目下「近世初頭の総瓦葺建築が火災により失われた」と推定しています。

もちろん「本殿」が「総瓦葺」であるはずもなく、失われたのは「蔵」ではないかと思っています。そして元禄五年の「寺社吟味帳」は、各建築物の平面寸法と屋根の素材について詳述されているのですが、「平野大明神」の項に記されているのは、檜皮葺の「社殿」、藁葺の「拝殿」、板葺の「弁財天社」及び「愛宕社」の四棟だけです。よって、件の建物は、文禄・慶長以後~元禄五年以前の間に火災で失われたと推測しています。

これが「ただの火災」によるものなのか、あるいはひょっとしたら「大坂夏の陣」の末期、遠からぬ「広根村」周辺などで展開された放火を伴なった戦乱(「寛永諸家系図伝・能勢氏」、「多田雪霜談」、「能勢物語」、「長澤聞書」など)に伴う可能性もあるかもしれません。もちろん、表採した僅かな遺物から、ここまで「想像」を膨らませるのが「危険」であることは言うまでもありません。

③「荒木村重の乱」で焼亡した平安以来の名刹・「中山寺」について

[中山寺に上がった煙、炎明かりは塩川長満も目撃しただろう]

さて、冒頭で述べたように、織田信長から「天正六年十一月 日付 塩川領中所々 宛」の「禁制」(中山寺文書)を急遽発給された中山寺(現・宝塚市)でしたが、結局他の多くの寺社同様、

「本山諸堂 為兵火焼失 仮下院建之」(慶長八年(1603)九月の豊臣秀頼再興札・中山寺所蔵)

「天正年間、嘗羅兵火、所有殿堂僧舎、悉為煨燼(わいじん) 後徙于今地」(元禄五年「伽藍開基記」)

とあるように、その境内はことごとく焼亡してしまう事態となりました。中山寺が焼討ちに遭った日付は不明ですが、おそらく「荒木の乱」の初期、天正六年十月末~十二月半ばの間であったかと推測しています(後述)。

以下、「中山寺縁起」(続群書類従二十七集下)や「中山寺の歴史と文化財」(大本山中山寺)「宝塚市史」「平凡社・兵庫県の地名」などを参考にさせていただくと、既に幾度か述べているように「中山寺」は平安時代の開闢以来、この天正六年(1578)暮までの7~800年間にわたり、現在の山麓の地ではなく、「奥の院」の近く、長尾山系の八合目以下尾根上の、まさに「中山」の地にありました(下段画像)。

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なお「中山」の由来は、私は(山頂までの)「途中の尾根、峠」に由来する意味かと勝手に思い込んでおりました(汗)が、「中山寺縁起」によれば、山体を密教法具の「三鈷杵」(さんこしょ)の三本の「鈷」(爪状の突起)に見立て、その「中央の尾根に建立された寺院」という意味でした。あらためて地形図を参照すると、確かに中央の尾根の“直線性”と、両翼の尾根の“内側への廻りこみ”が見事に「三鈷杵」の「鈷」の形状を呈しています。なお現在の中山寺境内の地は、その東に並べられた法具「独鈷杵」(とっこしょ)に見立てた「独鈷尾」の先端の「下院」にあたるようです。以上、謹んでお詫びのうえ訂正申上げます。

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中山寺は聖徳太子創建と伝えられ、平安時代前期作とみられる本尊「木造十一面観音立像」(国指定重要文化財)を今に伝えています。“本格的な寺院の造営”が、遅くとも「平安時代前期」には遡ることがわかります。

そして「熊野詣」で知られる、空前の巡礼ブームが起こった「平安時代後期」には、ほどなく成立した「西国三十三所巡礼」において「十一 仲山寺 等身十一面 摂津河辺郡 願主聖徳太子」(寺門伝記補禄、なお現在は二十四番)とあり、中山寺は既に名立たる観音霊場でした。

そしてその華やかなかつての山岳寺院時代の伽藍の様子は、室町時代に製作された「中山寺参詣曼荼羅」(中山寺蔵)や、江戸時代の写しながら伽藍の詳細な描写が「室町時代の真景」と思われる「中山寺伽藍古絵図」(大阪市立美術館)に描かれています(大本山 中山寺「中山寺の歴史と文化財」所収・2013)。

ともあれ、寺院境内はそのような長尾山系の高所にありましたので、「荒木村重の乱」の焼亡時の“煙”や、夜間における“炎明かり”は獅子山城からも視認されたはずで、塩川長満は衝撃を受けたことでしょう(下段画像右下)。また、古池田の信長本陣からも、この旧境内全体が、稜線上に遠望出来ます。中山寺の焼亡時期を「十二月半ば以前」としたのは「古池田」からの火災目撃の記録が一切無いからです。織田軍が到着した時には、既に灰燼に帰していたのでしょう。

[天台宗の比叡山延暦寺の末寺だった中山寺]

野地脩左氏(宝塚市史・建築編)によれば、中山寺は天福二年(1234)の比叡山延暦寺の「所領注文」(華頂要略五十五)に「大成就院領」とあり、また上記絵画資料から考察した伽藍の配置、及び「仲山寺年行事書状」(川西市史「多田神社文書」497)に中山寺の「法華堂」の存在が記されていること(後述)などから、中山寺が「古くは叡山末の天台系寺院」であり、「室町末」あたりに「多田院末」(真言宗)に転じたか?と推定されています。

これは、同じく昭和45年の発掘調査によって「荒木の乱」による火災痕跡が検出され、また平安後期以来の「多田院型」から発展した「天台系の伽藍配置」が明らかになった近所の「清荒神」こと中世の「清澄寺」(宝塚市旧清(もときよし)遺跡、なお清澄寺は現在真言三宝宗)も同様のようです(野地脩左氏・前褐書)。

また、「旧清遺跡」の調査、研究のあらましに関しては平成三年(1991)に五十川伸矢氏が「兵庫県宝塚市 旧清遺跡」(古代学協会創立四十周年記念シンポジウム資料)にまとめておられます。

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中山寺も清澄寺も、共に長らく「多田院に従属する寺院」であったことは、連載第16回「「1583年のイエズス会日本年報」に記されていた“塩川氏減封”の記事」中の「⑥具体的にどこが奪われたのか」、「(B)清澄寺(清荒神)周辺」、及び連載第17回「明智光秀と桔梗紋と源頼光と」の「⑤源頼光と多田荘との接点」中の項[多田荘という“シマ”]をご参照下さい。

なお、多田院から見て、「高代寺」は「鬼門」方向にあたり、中山寺はまさに「裏鬼門」にあたります。

また、多田院から中山寺に至るルートは、現在の感覚であれば「一旦、川西能勢口まで出てから」といったところですが、当時はストレートに多田院から「西多田村」もしくは「芋生村」を経て「若宮」に至り、そこから南西の尾根に取り付いて「現・中山山頂」を経て尾根沿いに南下したものと思われます。

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[多田院も当初は「天台系」だった]

さて「天台系寺院」の話に戻ると、そもそも源満仲の建立した「多田院」は、天禄元年(970)に「比叡山の慈恵」(良源)を導師として堂塔供養を行っており、創建当初は「多田院鷹尾山法華三昧堂」と呼ばれた(歴代編年集成)という、まさに「天台系寺院」でした。

因みに満仲の三男が後に「延暦寺」に修行した実在の僧「源賢」(多田法眼)となりますが、彼は室町時代に成立した謡曲「満仲」においては、若い時分に「中山寺」に修行に行かされたものの勉学をおろそかにした「美女丸」として登場しています。

多田院が「真言律宗」として奈良「西大寺」の末寺となるのは、既に「多田源氏」が滅亡したはるか後、当時「領主」として多田院を崇敬していた鎌倉の「北条得宗家」の肝煎りで、鎌倉「極楽寺」の「忍性」を別当、勧進職に任じて堂塔を復興した建治元年(1275)以来のことです。明徳二年(1391)の「西大寺末寺帳」(川西市史、一般編年史料154)にも「多田院」の名が記されています。

ということは、多田院の従属下であったと思われる中山寺や清澄寺も、13世紀末から遠からぬ段階で多田院に従って「真言宗」に転じたのではないでしょうか?

(それにしても一応「桓武平氏」を称した(実際は諸説あるようですが)13世紀の「北条得宗家」による「多田院再興」が、今日の「源氏の多田神社」の繁栄への「橋渡し」ともなっている、というのが感慨深いところです。)

[12世紀、中山寺で作製された「大般若経」が東播・住吉社領に伝わり、今も神事で用いられる!]

なお以下は余談ながら、平安時代の中山寺の「遺産」が今に伝わり、生かされているという大変興味深いお話です。

「社町史」(2007)などによると、平安後期に「仲山寺」において「書写」されたという「推定計八十巻以上」ほどの「大般若経」が、(その後鎌倉~南北朝時代に他所で作製された巻なども加えて)「総計五百四十四巻」、今も兵庫県加東市社町「上鴨川の住吉神社」、及び同じく加東市社町「馬瀬の住吉神社」に伝来し、後者は「八朔(はっさく)の転読法要」に用いられているというのです(加東市指定文化財)。

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実は、最初本件を調べ始めたのは、誠に申し訳なくも、「荒木村重の焼討ち時に、中山寺から略奪された経典が、反織田勢力圏であった播磨に流れたのか?」などと短絡的に思ったから(汗)でした。しかし「社町史」を読むに至り、これら経典は、早くも「天文五年頃」には播磨で共同購入(まさにクラウドファンディング)されていたと知りました(汗)。よって、本件は「荒木の乱」に関するかぎり、完全な「余談」となったのですが、平安期の中山寺に関するあまりにも興味深い内容であったので、御侘びの意味も込めてカットせずに掲載させて頂きます。

(なお、本項に関しては加東市の藤原光平氏に様々なご教示を得ました。この場で御礼を申上げます。)

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さて総計「五百四十四巻」が伝わる大般若経のうち、「中山寺旧蔵分」の経典は、本来「六百巻」あったうちの、第二百~六百の間の「巻数」を示すものが主体のようで(例外あり)、その幾らかには「仲山寺 (経)一部之内」とあって、同寺の所蔵であったこと、そして、うち十数巻には「最古」であることを示す「長治二年(1105)九月十日」に筆写が開始されたことが記されています。

以下「社町史(河村昭一氏執筆分)」や「中山寺の歴史と文化財」を参照すると、これらの「願主」(本願)は「僧 賢昭」もしくは「大法師 賢照」(同一人物)とあります。

この「大法師」とは「僧位」を表わすものと思われ、中山寺においては(例えが悪くて申し訳ありませんが)「儒林拾要」や「雑筆要集」(平安中期~鎌倉初期の公文書例示集、群書類従)に、「摂津国中山寺の某法師による供御人某丸殺害事件に関して、太政官が中山寺側に容疑者引渡しを要求している宣旨」及び、それに対する「中山寺執行大法師某」による「請文」(回答)が紹介されています(「用例文」であるので実名が伏せられている)。「大法師」とは中山寺を代表する最高位の「執行」(しぎょう)の事でありましょう。また「願主」としては他に「女 藤原氏」という記載の巻もあります。

そして筆写を担当した僧の名としては「快意」、「宴俊」、「禅融」もしくは「種珍」、「禅珎」、応実」、が判明しています。このうち「応実」は「摂津国西成郡柴嶋(くにじま)仏性院僧」ということです(現在柴島にはこの名称の寺院は無い模様)。

また、筆写の目的は「勧進無縁書写」、「為法界衆生一味利益」、「為上求菩提下化衆生」とありますから、純粋に哲学的というか、まさに(大乗仏教)における修行の一環としての写経・奉納であったのでしょう。

またうち、三巻分の奥書には、76年後である治承五年(1181)三月~四月にかけて「於摂津国河辺北条仲山寺東室一交了」などとあります。

「仲山寺」のこの「東室」とは、「河辺北条」と記されていることから、これは山上の境内ではなく、近年まで「条理区画」が残存していた平野部の、かつての「下院」、要するに近世以降の「現・中山寺境内」の「前身の地」の名称ではないかと思われます。

それにしても、この平安時代後期に中山寺で旧蔵されていた経典一式が、何時、如何なる経緯で東播磨の二社の「住吉神社」に伝わったのでしょうか。

河村昭一氏(社町史)によると、「巻二百五十」には「建長五年」(1253)の年紀に続けて「仲山寺一部之内」(異筆)と記されていることから、「少なくとも鎌倉時代中期までは中山寺に伝来していたのではないか」と考察されています。

加東市ホームページによると、馬瀬の住吉神社の経典の解説に「中山寺で書写されたものを基に、1325年(正中二年)に「摂津・蓮花寺」で版経を加えて一応完備され、1367年(貞治六年)ごろ、さらに補写・補筆されたようです」とあります。

14世紀に「多田荘」の西北端にあたる「摂津・蓮花寺」(現・三田市下槻瀬)において、「大山寺」(現・三田市小野、廃寺)や「香下寺」(同・香下、中世には羽束山の上)における筆写分も加えて、大々的に揃えられたようですが、河村氏は「中山寺」の分が「蓮華寺」にもたらされた可能性は「否定はできないものの、きわめて低いといわざるを得ない」と判断されています。要するに、それぞれ別系統で、最終的に「住吉神社」に合流したもののようです。

そして、その時期はどうやら、天文五年(1536)頃に「上鴨川の住吉神社」の所蔵として、周辺の集落である「山口」、「上鴨川」、「下鴨川」、「馬瀬」の“僧侶”や“在俗の個人”によって、一人十巻分の費用を負担して共同購入がなされたようです。そしてさらに、近世初頭の元和六年(1620)に至って、「馬瀬」の氏子が「鴨川」から分離し、同村に新たに「住吉神社」を建立され、この時「二百巻分」が馬瀬に分与されて現在に至るようです。

なお三橋正氏の「平安時代の信仰と宗教儀礼」によると、神社で「般若経」を読むという「神前読経」は、既に平安時代初頭の8世紀末には見られ、9世紀には「不作と疫病流行の対策として全国の明神への祈願がなされ」るような「国家的宗教儀礼」(「日本後記」大同四年(809)正月、「続日本後記」承和三年(836)七月)となっていたようです。天平~平安前期頃の成立とみられる「住吉大社神代記」(国指定重要文化財)においては、既に住吉大社を「住吉大明神」とした記載もあるようです。この「神代記」には、摂津の「住吉大社」の荘園の範囲として、現在の「加古川(河川)以東~三田市西部にかけて、南北は黒田庄町から三木市にかけて」の広大なエリアが記されています(今田町史)。そして今でもこの域内には上記の二社を含む多くの「住吉神社」が存在しています。

また、「上鴨川の住吉神社」は「国指定重要無形民俗文化財」となっている「神事舞」で有名であり、あたかも「中世そのまま」を彷彿とさせる神事がyoutubeなどでも閲覧出来るので、是非検索してみて下さい。

[天正期の「塩川伯耆守」が、長らく「国満」とされたのは「中山寺文書」も影響している]

さて、中世の中山寺は、多田院の「末寺」であったことから、「明応の政変」以降の細川京兆家(高国、晴元)の元で台頭し、実質的に多田荘の権限を横領、掌握していった天文十八年以前の「塩川国満」や、天正期における「塩川長満」が、中山寺にとっての(国満は実質的に)「領主」となりました。これらの複雑な経緯、変遷については、連載第16回でも触れました。

ところで中山寺は、既に明治四十五年(1912)という早い段階で「紫雲山中山寺記」という、寺院の由来、歴史解説書を発刊しています。そしてこの中に「(伯耆守)国満」の署名のある塩川国満の「下知状」と「免除状」を掲載していたので、おそらくここから「大日本史料」に採用されて「塩川伯耆守」→「国満」が定着し、さらに実際には塩川伯耆守(長満)の事跡を記した史料の綱文にも「国満」と記されてしまいました。これが奥野高広氏の大著「織田信長文書の研究」や、各自治体史における歴史叙述にも踏襲されて、専門家の間でも、長らく「塩川伯耆守といえば“国満”」が定着してしまいました(今ではWikipediaにさえ「国満」の項がなく、これはこれで極端ですが…)。

なお江戸中期以降に書かれた軍記物「多田雪霜談」や「美濃雑事記」にも「豊臣時代の塩川伯耆守国満」が(後者は一瞬名前だけが)登場します。前者はおそらく仁部家の家譜(「国満」は記されているものの「長満」の記載がない。「川辺郡猪名川町における多田院御家人に関する調査研究 その2」所収・2016)あたりから「国満」の名を比定したかと思われますが、後者の著者「間宮宗好」(尾張の人)がどういう出典で「国満」の名を知ったかは不明です。

[塩川長満が「賀茂岸砦」に着任した時の、信長による「覚」書が、なぜか中山寺に伝来]

以下は、何故か中山寺に伝来してしまったという、「荒木村重包囲網」の「“陣城における心得”を記した織田信長の朱印状」の話です。

「信長公記」は天正七年(1579)「四月廿九日」条に、有岡城を包囲する諸将に対して布告された「大掛かりな布陣替えの一覧」を記しています。塩川長満は、前年の「十二月十一日」以来、信長の本陣「古池田」担当という、栄誉的なポジションにいましたが、この新たな一覧においては「一 賀茂岸、塩河伯耆・伊賀平左衛門・伊賀七郎」とあり、「賀茂岸」砦への異動となっています。

「賀茂岸」とは現在の「川西市加茂」の「鴨神社」あたり?に構築されたと思われる「付城」です。信長の嫡男「信忠」が構築、守備していました(信長公記三月七日条)。「岸」とは、有岡の「きしの取出」もそうですが「段丘崖」を意味する名称でしょう。

しかし織田信忠は「四月十二日」から「播州遠征」に出陣して砦を留守にします。そして、この信忠留守中の「四月十八日」に、例の「森乱」を通じた「銀子百枚」が塩川長満に下賜されています。

そして上記「布陣替えの一覧」が布告されたまさに「四月廿九日」の朝に、播州遠征から「古池田」の信長本陣に戻った「織田信忠」に対して突然、「岐阜への帰還」が命ぜられ(信長公記、御湯殿上日記)、塩川長満が「信長の古池田」から「信忠の賀茂岸砦」へ陣替えとなっているわけです。

そしてこの一連の、信長、信忠、長満の不審な動きこそ、まさに「信忠と長満の娘との婚姻」に関連したものではないか、ということは既に連載第5回、及び第19回「嫁ぐ日」などで度々お伝えしております。

因みに塩川長満と共に賀茂岸砦担当となった「伊賀平左衛門・伊賀七郎」とは、西美濃の国衆「安藤守就」の嫡男「安藤平左衛門尉定治」及び、その叔父「安藤七郎」とのことです(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」)。

美濃・安藤氏は、おそらく大河ドラマ「麒麟がくる」においても、守護代・斎藤氏の被官として稲葉山の城にも詰めている「その他の国衆たち」の一人として、おそらく(村田雄浩さん演じる)「稲葉良通」の近くにいるのでしょう。谷口克広氏によると、安藤氏は永禄四年(1561)、新たに仕えた「斎藤義龍」(高政)が「一色」に名字を改めた際に名字を「伊賀」に(他の国衆達もそれぞれ)改められたようです。

そして「麒麟がくる」において、織田信長が「村木砦」に篭る今川勢を「鉄砲で」攻めるにあたって(この場面の鉄砲使用についてはちょっと苦言を→下記「巻末コラム」参照)、自らの「那古野(なごや)城」の守備を同盟者、斎藤利政(道三)に依頼するシーンがありましたが、(ドラマでは描写されなかったものの)この時美濃から尾張に派遣されたのが「安東伊賀守大将(守就)」に率いられた美濃衆でした。「信長公記首巻」によれば、この時信長は、到着した「安東伊賀に一礼仰せられて」村木攻めに出陣したとあります。

さて、長々と引っ張りましたが、実はこの「信長公記」において「賀茂岸」砦への異動発表がなされた一日前である「四月廿八日」付で、織田信長から「塩川伯耆守とのへ 安東七郎とのへ」宛てた「布陣の心得を五箇条にまとめた覚」を記した「朱印状」が(どういう経緯で伝わったのか)中山寺に残されています。

この朱印状は奥野高廣氏が「天正四年」に比定(信長文書638)されていますが、後に谷口克広氏(前褐書)が指摘された「天正七年」の「布陣替え」の時のもの、という解釈が正しいと思われます。

以下、奥野高廣氏による「覚」の概略を引用させて頂くと

「まず敵がどの口から出撃してきても迎撃するように命じ、油断した者は名簿をそえて報告させた。次に守備は昼夜の別がないこと、こちらから進撃することを禁止し、もし調略するのによい口があれば調査して命令を待つこと、守備兵が退屈するような勤務ぶりを厳禁した。そしていずれは今年中に決着がつくのだから、不要な行動をして有為な者が鉄炮などにあたらないように注意して勤めることが肝心だと指示している」とのことです。

なお古文書学の素養の無い(汗)私は、こういった「宛名が二人分記された朱印状」というものは、「二通」が発給されてそれぞれに下されたのか、あるいはやはり「一通だけ」なのか、また後者であれば、一応「塩川伯耆守」が筆頭で記されており、「安藤七郎」はどうやら「当主」では無さそうなので、格上と思われる塩川長満が所持していたのか、さらに「信長公記」に「賀茂岸在陣」を記された「伊賀平左衛門(安藤定治)」宛ての「覚書」が当時「別に存在」したのか等々、疑問が尽きません。(どなたかご教示頂ければ幸です。)

なお余談ながら「安藤伊賀父子」は翌、天正八年八月十七日、佐久間信盛、信栄父子らに引き続き、織田家を追放されてしまいます。そして天正十年六月、「本能寺の変」直後の美濃における混乱のさなか、領主の地位奪回を賭けて挙兵しますが、稲葉良通(一鉄)らに滅ぼされてしまいます(谷口克広氏前褐書、及び「信長と消えた家臣たち」中公新書)。

[影の薄い、旧中山(もとなかやま)寺遺跡]

続いて、山上の中山寺の跡地を見ていきましょう。

「平安以来の中山寺は、荒木村重によって焼亡した事」、あるいは「豊臣秀頼によって再興された事」は、多くの方がご存知ですが、誰も(歴史に詳しい人でもたいてい)中山寺の旧地の存在を知らないというのは「ちょっと懐かしい感覚」です。

「懐かしい」というのは、小中学生の頃に感じた理不尽、不条理のことで、

「豊臣時代の大坂城は残っていない。なぜなら、夏の陣で焼け落ちたから」←(木造建築しか見ていない。誰も石垣の造り替えの事を語らない)とか、

「近江・六角氏の観音寺城跡は、織田信長に焼かれて何一つ残されていない」←(誰も山の上の石垣を見ようともしない)

というあの「懐かしさ」(汗)です。そういった意味から、また中山寺の本尊が「観音菩薩」ですので、私は中世中山寺の跡地のことを、密かに「宝塚の観音寺山」と呼んでいます。その遺跡の広大さも込めて…。

「旧中山寺遺跡」は既に昭和50年代に公刊された「宝塚市史」おいて、その位置が表示され、また絵画資料に基づいた伽藍配置の考察や将来の発掘調査への期待、などが上記「野地脩左氏」によって語られてはいました。しかしながら「兵庫県遺跡地図」に示される遺跡範囲は、実際の遺構分布範囲のおそらく十数分の一~二十分の一くらいしか記されていません。

しかし近年、2013年に大本山中山寺によって発刊された「中山寺の歴史と文化財」中の「旧寺地伽藍」の項には、伽藍中心部の「旧寺地略側図」が掲載され、「瓦片」や「焼け土」などの散布についても言及されており、ようやく中世中山寺跡の解明に向けて具体的に照明が当てられ始めたように思われました。但し「尾根上の伽藍」や、「谷部に面した僧坊跡」の全域はさらに広大で、今後詳細な遺構分布を示す「航測赤色立体地図」などの活用が期待されます。(遺跡の規模や、寺の著名度から、おそらくこれ以外にも、どなたかが調べておられるとは思うのですが…)

[「荒木村重の乱」を、この地上で体感出来る唯一の場所]

広大な遺構の全貌についてはとても語る事が出来ませんが、上記「旧寺地略側図」の範囲を越えて、遙か南の尾根上まで人口平坦面や段築造成が伸びており、その末端には山上における「畠地」なども存在したのではないか、と想像しています(後述)。

山上部境内の入り口としては、現・中山寺の境内から「奥の院」に至る「旧参詣道上」の同院やや手前(南東)に、結界を思わせる「石垣」があり、そこが中世の「総門」の跡かと思われます。

そして尾根上を占位する伽藍の中心部は、その北端を「堀切」で仕切られ、その南に広大な造成平坦地や石積を用いた「基壇」や「石段」、あるいは墓地などもあり、往時の繁栄を偲ばせます(下段画像参照)。

境内中心部には、火災を示す「橙色」がかったものを含む「瓦片」や「焼土」(壁土)も散らばり、これは基本、「荒木村重の乱」によって堂塔が焼亡、倒壊したそのままの状態に近いと思われます。

「荒木の村重の乱」は442年前という、遠い昔の出来事ではありますが、ここに立つと、この歴史的出来事が「地続き」で実感されます。(発掘調査ではなく)「荒木の乱」を体感出来る場所としては「唯一の存在」ではないでしょうか。

[救出された仏たち、あるいは失われたものも…]

なお、平安時代前期の本尊「木造十一面観音立像」(国指定重要文化財)や、寛元二年(1244)の墨書のある二体の「木造脇侍十一面観音立像」(兵庫県指定重要文化財)が現在の中山寺に伝来しているということは、金堂の焼亡時に、とかくも金堂の御本尊や脇侍は、寺僧達によって救出されたことを表わしています。また、現在の中山寺に同じく「国指定重要文化財」である「木造薬師如来像」や「木造大日如来像」(共に平安時代)が伝わっていることも、同様でしょう。

戦国時代に寺社が焼かれる例はあまりにも多く、おそらく全国レベルにおいて当時の寺社などは(現在における「避難訓練」などとは違って)、それぞれ日常的に、有事の際の仏像や寺宝の救出方法などを意識、確立していたように想像しています。

一方、中山寺は聖徳太子開基と伝えられ、室町時代の「中山寺参詣曼荼羅」等にも「宝形造・桧皮葺」の「太子堂」が描かれており、この堂舎は主要境内の北端付近(堀切の南あたり)にあったと思われます。しかし現在の中山寺に伝わる「聖徳太子勝鬘経講讃坐像」は、「国指定重要文化財」においては「室町時代」とされていますが、2007年に大谷大学の特別展に出展された一覧表には「桃山時代(17世紀)」と記されていることから、おそらく豊臣秀頼による再興の際の作であり、先代の「聖徳太子像」は荒木村重の兵火の犠牲となってしまったのでしょう。

[瓦は16世紀中期~後期か。そして「豊臣期大坂城」と同范の瓦も!]

以下、しばらくまた瓦レキの話になりますが、こういうのが苦手な方は、どうかざっと流して下さい。

伽藍主要部における、瓦片が散布するエリアは3~4ヶ所程あり、これと永禄~天正頃の景観を描いたと思われる「中山寺参詣曼荼羅」や「中山寺伽藍古絵図」における建物配置から判断すれば、瓦散布地は北から「講堂(入母屋屋根)」、「金堂(入母屋屋根)」、「不詳の小堂(入母屋屋根)」、「中大門?(仮称、切妻屋根)」かと推測しています。

「中山寺の歴史と文化財」(2013)には、伽藍跡地に「時期の決め手となる瓦が見つかっておらず」と記されていますが、実際に現地で観察すると、散布している瓦は「室町時代後期~末期」頃のものと思われました。

このうち、「金堂」基壇周辺、及び「中大門?(仮称)」と思われる「石段の下」に散布している瓦は、サイズが“大ぶり”で、建物の規模を反映しているようです。非常に大ザッパな印象ながら、15世紀末~永禄六年頃?(後述)といったところでしょうか。

一方、金堂の北に隣接する「講堂」と思しき瓦は“やや小ぶり”で、塩川長満期の「獅子山城」や、「吉川井戸城」と同時代か、といった印象で、元亀~天正六年(焼亡の年)の間のものかと思われました。なお境内における丸瓦の凹面などに認められた、いわゆる「コビキ」は「A」(糸切り痕)タイプのみです。

なお、「講堂」の瓦が相対的に「新しい」ことは、上記2点の絵画資料のうち、より古い景観を示す「中山寺伽藍古絵図」において、講堂がまだ「桧皮葺」で描かれていることに符合しています。また、「隅軒平瓦」を1点確認しているので「中山寺参詣曼荼羅」に描かれている通り、屋根は「入母屋造」だったのでしょう。

さらに興味深い点は、「講堂」の軒平瓦の瓦頭文様が、「寺院瓦風」ではなく「安土城」等の「城郭瓦」に通じる「中心飾」りや「反転する唐草文様」を呈していることです。

そして実際に、この「講堂」と同じ「木型」で文様を打ち出された「同范の軒平瓦」が、なんと昭和59年(1584)に発掘調査された(近年「豊臣石垣公開プロジェクト」で知られる)豊臣期大坂城の「詰丸南東隅石垣」下の「中ノ段」の地表面上で、「大坂夏の陣」の落城時のおびただしい火災痕跡とともに検出されています(黒田慶一「豊臣大坂城の瓦について」織豊城郭創刊号(1994)P68の拓本35番)。

この大坂城の瓦は、いわゆる「中井家本丸図」等に基づく宮上茂隆氏による復元案などから、詰丸南東隅付近の「隅櫓」や「多聞櫓」、「塀」などを形成していたもののようですが、同地点で採取された軒平瓦の文様は、少なくとも14種類にも及んでいます(黒田慶一氏同上P68の挿図から)。

豊臣氏段階だけでも、幾度にもわたって瓦が造られ、また転用瓦(再利用されたもの)がかき集められた可能性もあるでしょう。

なお「中山寺参詣曼荼羅」には「金堂」と「講堂」の「瓦葺建物」が並んで描かれており、これは両「瓦屋根」が「同時に存在した」ことを示し、加えて「講堂」跡にも「焼土」が見られることから、この講堂(の少なくとも屋根瓦)は、塩川長満の時代に新調され、金堂と共に、天正六年暮に焼亡、倒壊したものと思われます。要するに、上記「瓦頭文様の同范関係」から導き出されかねない「瓦が豊臣時代の再建時のものである可能性」等は極めて低いと思われます。これは瓦片の「散らばり方」や、丸瓦が「コビキA」であること、そして焼亡後の寺の様子を記した文献(後述)においても一貫しています。

[瓦は「大和(奈良)系瓦工」によるものか? その1「帯状横桟」]

「講堂」の瓦が「織豊期の城郭瓦」に通じる「近世の黎明期」を感じさせるのに対し、「金堂」や「中大門?(仮称)」跡の瓦は、軒平瓦の「波状紋」も含めて、「いかにも中世末期の寺院瓦」という感じがします。

獅子山城の瓦は、「軒平瓦の唐草文様」や「鬼瓦の顎髭の表現」から、「泉州あたりの瓦工」によるものか?と漠然と推測していますが(連載第11回参照)、この中山寺の「金堂」及び「講堂」の瓦はそれらと共通する要素はなく、同范、同紋関係こそ見出していないものの(「多田院」の瓦を含めて)「大和の瓦工」によるものか、と思っています。そしてこれは、13世紀以降の「西大寺」と両寺との繋がりが大きな要因と思われます(後述)。

なお、金堂も講堂も、その「軒平瓦の上面(凹)面側部」に「耳状の立ち上がり部」(痕跡)がみとめられ、両堂は“(なるべく)釘を使わずに瓦を屋根に固定出来る”という室町時代特有の、いわゆる「引っ掛け瓦」とか「滑り止め瓦」と呼ばれているタイプの瓦を用いていたことが判ります(但し金堂においては「釘穴」を持った軒丸瓦、軒平瓦の小片を確認)。

そして、講堂の軒平瓦においては、その下面(凸面)中央に、屋根木材の軒際に突出する「瓦座」と噛み合わせる為の「横桟」(突起部)が、あるのですが、これは山崎信二氏の「近世瓦の研究」(2008)P428~P434に“帯状に両側面に達する”「帯状横桟」タイプ(「日」の字の中央横線状)に分類されているもので、山崎氏によれば「大和系瓦工」の特徴とされています。

なお、川西市教育委員会が「多田院」で検出した瓦も、同様の「帯状横桟」タイプです(多田院遺跡第16次調査(2007)など)。

要するに「多田院」も、その末寺であった「中山寺」も、共に13世紀末以降は、「大和・西大寺」の末寺であった(後述)関係から、瓦もまた、大和の瓦師によって焼かれたのではないでしょうか。

(因みに「獅子山城」の軒平瓦も。下面に「横桟」を伴いますが、その長さが、瓦巾の約1/3程度の「長方形横桟」タイプ(上記山崎氏の分類)です。)

[瓦は「大和(奈良)系瓦工」によるものか? その2「久安寺鬼瓦」との比較]

次に「鬼瓦」を見てみましょう。金堂跡近辺で表採した鬼瓦の「下顎」、「頬髭」、「鬼板の珠紋」の表現が、現在池田市伏尾の「久安寺」(真言宗)の庭園に展示されている鬼瓦に「極めて酷似」しています(下段画像中央)。比較にあたって、新旧様々な鬼瓦の画像と見比べてみましたが、ここまで表現が一致するものはありませんでした。(なお下顎の破片は、2013年に、中山寺の奥の院に届け出ています。)

そして「久安寺」は、山崎信二氏の「中世瓦の研究」(2000)のP105~P106、及び「近世瓦の研究」(2008)P432において、15世紀後半の製作とされる「大和・薬師寺」の軒平瓦との「同范関係」を含む製作技法及び、推定される瓦工名から、「大和の瓦工」が関わっていたことが確実視されています。よって、「中山寺金堂鬼瓦」も「大和系」であることが間接的に示唆されます。

因みにこの久安寺で展示されている鬼瓦は、幾分「割れた」痕跡があり(右下部分)、「表面の燻し」が若干消えた「桃灰~橙灰色」を呈しており、「火災」に遭ったもののように見受けられました(なお、久安寺さんに問い合わせましたところ、この鬼瓦の由来については不明ながら、それほど古いものではないような?といったご返事でした)。そして「穴織宮拾要記」は「荒木の乱」で焼亡した寺院の一覧の中に「久安寺」の名前もあげています。

以上のことから、中世・中山寺の瓦は、大和の瓦工によるものである可能性が高いと思われます。

[多田院の作事には、大和・長谷寺の番匠が出向していた]

なお参考までに、永正二年(1505)に「大和・長谷寺」の番匠(大工)が「多田院」に出向していたという、大変興味深い記事があります。

この記録を残してくれたのは「尋尊」。興福寺の第百八十代別当にして大乗院門跡。彼はまた摂関家の「一条兼良(かねよし)」の子でもあります。そしてこの尋尊はまた、橘寺、薬師寺のほか、「長谷寺の別当」をも兼務していました(高田良信「国史大辞典」)。そして近年は呉座勇一氏によるベストセラー、「応仁の乱」(中公新書)において「尋尊の日記」が大々的に取り上げられたのも記憶に新しいところです。

さて20年ほど前、図書館で興福寺の「大乗院雑事記」の索引から「多田」を検索していたところ、「尋尊大僧正記」の「永正二年(1505)二月十一日」の条に「多田塩川湯ニ入云々」という記述が目に飛び込んできて驚いたことがありました。

「多田塩川湯」とは、上記でも取り上げた「現・川西市平野」に江戸時代以前に栄えた「平野温泉」のことです。「温泉施設」は廃絶してしまいましたが、昭和40年代まで「湯ノ町」という町名が残されていました。旧道の一角(「しまむら」の近所)には、現在も石碑や薬師如来を祀るお堂があり、「コーナン」西北部の「塩川」(河川名)の底には、今も発生する「泡」や鉱泉の流入、枕着物、微かな「硫黄臭」にその名残を見せています。「高代寺日記」にも入湯の記事が僅かに出ています。温泉(鉱泉を沸したもの)宿の往時の繁栄は、寛政年間の「摂津名所図絵」に詳細にレポートされ、「味は醎(しほはゆ)く渋味を帯たり」とあることから、鉱泉が「塩辛かった」事がわかります。そしてここから「塩川」の地名が生まれ、「摂津・塩川氏」の名字の由来ともなりました。また「高代寺日記」冒頭には“薬師如来(高代寺の本尊でもある)と多田満仲の妻”にまつわる「塩川名字由来」の伝承が記されています。

しかしそれよりもなによりも、鉱泉に関係する当地は、むしろ「多田満仲伝説」にまつわるブランド名「三ツ矢サイダー」の発祥の地として知られています。ついでながら、この情況は、近隣の武庫郡伊子志村(いそしむら。良元村は間違い)「塩谷川」の「宝塚温泉」が「ウヰルキンソン」発祥の地となったことに似ています。

さて、晩年の「尋尊」が記したこの「多田塩川湯ニ入云々」は、自分の知るかぎり、平野温泉に関する「初見」と思われます。一瞬、この「一条家出身の興福寺大乗院門跡」が平野までお見えになったのか?!と驚きましたが、周辺をよく読むと尋尊はこの前後の「三月四日」から「三月廿五日」まで、なんと「湯山」(有馬温泉)に逗留しています。尋尊が大和「長谷寺の別当」をも兼務していたことを紹介しましたが、どうやら彼の配下の「長谷大工」が、湯山から遠からぬ「多田寺(多田院)」に滞在中であり、「多田塩川湯ニ入云々」というのはその「大工・某」からの音信の内容だったのでした。

ということはまず、「大和・長谷寺の番匠が多田院で何らかの「建造」や「修繕」作業に携わっていた」ことが判ります。そして大工・某はこの期間、多田院の現場から「塩川湯」に通っていたか、あるいは「湯之町」の宿あたりに宿泊していたかと思われます。

なお、こうした堂塔維持の財源としては、多田院が幕府から「徴収の特権」を与えられていた段銭、棟別銭が当てられていましたが、この翌年にあたる永正三年(1506)年には、台頭しつつある「塩川太郎左衛門」(種満と思われる)に徴収の代行を斡旋したり、既に荘内に「未進」が出るなど、多田荘はその“崩壊”の前兆を呈していました。(永正四年(1508)の「多田荘段銭結解算用状」多田神社文書、川西市史による)。

なお、「長谷大工」に関しては、半世紀前の「大乗院寺社雑事記」長禄元年(1457)十二月五日に「藤井国晴」(小法太郎)なる人物が補任されているようです。多田に来たのはその後任あたりの人物でしょうか。

さて、「尋尊」の話に戻ると、面白いのは、彼が湯山滞在中にどうやら予算をオーバーしたらしく、上記の「長谷大工」とのやりとりは、「借金の依頼」が主目的であったようです。「多田」からは二回?の音信があり、一度は「多田ニ(三名を)遣人」して結局合計「六~九貫」程?を借り入れたようです。(ひょっとしたら、大工・某が多田院に「前借り」、「前払い」等を懇願してかき集めたとか??)

ともあれ、尋尊の「ご利用は計画的に」でなかった湯山費用のおかげで、「多田院」と「大和の寺大工」との繋がりや、「室町時代の平野湯」を垣間見ることが出来ました。一条家の方々には何かと有益な情報を頂いている塩ゴカです。

 [「金堂供養」をめぐって「中山寺」と「多田院」が、ひと悶着]

ここからしばらく、文字資料に記された「中山寺の金堂」を眺めてみます。

室町時代の中山寺の「金堂」に関する文献としては、しばしば以下の永正七(1510)年の「知事高義書状(案文)」、「中山寺性尊書状」、「塩川正吉(しょうきつ)書状」(以上多田神社文書)における「三者のやりとり」が引用されたりします。以下、その概略を現代語で再現してみると、

多田院知事・高義:「今度仲山寺で「金堂供養」を執り行うとか?。「四箇寺」における「供養」は、そちらは「末寺」なのだから、古来「御判」を得て「多田院の仕切りで執り行う」事が規則にも記されているのですよ(怒)。勝手に「千部経(於)堂供養」なんて称して、基本を怠り、上を軽んじているのではありませんか?(怒)。この事態は上意(西大寺か)にも訴えるべきかと、目下議題となっております。恐々謹言」(二月二十八日)

仲山寺・性尊:「御書札拝見しました。その「千部の御経」とは「妙正庵願人」による興行の事です。当寺はその権限が無いので「供養」ではないことは願人も申されています。どうか趣旨にご理解のほどを。恐々謹言」(二月晦日)

塩川加賀入道正吉:「仲山寺の「千部経」とは「本堂供養」のことですか?と「妙正庵願人」に尋ねましたところ、「供養ではない」と申されていました。以後また「供養」かと疑われる(?)ならば、その時は(願人が?)「証」を届けられる(?)とのことです。恐々謹言」(二月晦日)

と、両寺の間における「供養」をめぐってのトラブルを示すものでした。そしてこの一連の「やりとり」は、中山寺が(西大寺を上位にいだく)「多田院の末寺」であった典拠として知られています。

[「○○堂供養」とは、「落慶法要」のことか?]

「仏教用語」にも疎くて恐縮ですが、この「供養」という現代でも普及している言葉は、「多田神社文書」における「金堂供養」の記事を見る限り、指図(平面図)を伴っていること(正和五年)、あるいは「本堂棟上」(弘安元年)や「修理」(応安元年)といった「作事」に関する用語を伴うことがあり、また「南大門供養」(多田神社文書93)といった用例もあることから、堂舎の名称に続けて「○○供養」などと用いられる場合は、その「堂舎そのものを仏に供する」という意味、すなわち「建立」や「修繕の完了」に伴う、こんにちで言う「落慶法要」のことかと思われました。

要するに「○○堂で供養を行う」という意味ではなく、「○○堂を仏に供養する(ささげる)」という意味合いです。

つまり「“落慶法要”であれば上位の寺院に「導師」を仰ぐというしきたり」であったが故の多田院からの抗議だったのでしょう。因みに「多田院」における正和五年(1316)の「多田院金堂供養」は「導師西大寺長老浄覚上人 読師八幡大乗院長老道禅上人 職衆西大寺僧八十余人」という構成でした(多田神社文書75)。儀式はたしかに「西大寺の僧侶」によって占められています。(なお「大乗院」は「石清水八幡宮寺」(現・八幡市)下院にかつて存在した真言寺院)。

一方、中山寺側が返信で説明している「千部経」の位置付けは、「願人」が存在することから、「願掛けに伴う法要」という、言わば「プライベートな行事」であり、多田院に導師を仰ぐべき「堂舎の供養ではないのです」という意味だったのでしょう。そして上記の書状のうち、批難をしている多田院知事の高義のみが「供養」という名称の前の「堂」という文字にこだわっているフシがみとめられるのもその為でしょう。

[中山寺を擁護した「塩川正吉」とは?]

なお上記最後の、中山寺を弁護している「塩川加賀入道正吉(しょうきつ)」の書状は、17世紀の「高代寺日記」の編者も閲覧、考察しています(永正七年条)。

因みに「塩川正吉」はこれより3年前の永正四年(1507)七月、「宿坊中之坊・義範」と共に、中山寺に「山内独鈷尾」の「我等人夫開発」した「畠」を寄進(中山寺文書)しています。

塩川正吉は信仰心の厚い、寺院からも一目置かれる人物だったのでしょう。因みにこの「山内」というのが、「境内の内」の意味なのか、或いは本当に“山中”を意味するのか、私は「旧中山寺遺跡」の平坦面分布の広大さから、気になっておりますが、それはともかく「独鈷尾」とは、現・中山寺境内の近辺ではあります。

さらに「高代寺日記」においては、上記「寄進」の2ヶ月前である「五月朔日 塩川又三郎仲方 入道正吉ト号ス 仲景ノ孫ナリ 本家ノ後見タリ 仲繁カ弟ナリ 兄弟二人 當家名字ヲ許サル 且 山小路カ家ヲ ツカシム 閼伽井行司」とあるので、彼は「吉川・高代寺」(真言宗、寺号は「高野山に代わる寺」という意味)の登山路あたり?に居をあてがわれ、(空海伝説のある)「閼伽井坊」の「房主」?も務めたのでしょうか。

[中山寺「法華堂」の供養にも、多田院の導師が「御登山」]

なお、中山寺における「供養」が多田院の仕切りであったことを示す別の事例としては、年次不詳の「仲山寺年行事書状」(多田神社文書)に、「就当寺“法花堂”供養、自多田院、任先例、御導師 可有御登山之由~」とあり、中山寺側が、「法華堂供養」に際して、「自多田院」(ただいんよりの)「御導師」の「御登山」を仰いでいることが記されています。

[「金堂」の瓦は、永禄六年(1563)の「金堂供養」の時のもの?]

さて、長々と「供養の定義」にコダわってまいりましたのは、「多田神社」には「仲山寺金堂供養衆 并 役者交名(きょうみょう)」という、中山寺における大々的な「金堂供養」の「引付」(報告書)が残存しており、そこに「于時(ときここに)永禄六年(1563)癸癸(ママ)二月廿四日 執行之」という「年次」が記されているからです。

この「永禄六年」(1563)という年次は、上述した推定「金堂跡」周辺に散乱する「瓦片の編年観」にも近いことから、この「供養」が「金堂の建て替え」もしくは「少なくとも屋根瓦の新調」に伴う「落慶法要」を意味し、「金堂の瓦」を「永禄六年(1563)」に比定出来るかも、と思ったからなのでした。

なお、この引付文書は、その冒頭に「堂上曼荼羅供 大阿闍梨 多田院住持 尊珠大徳」とあり、やはり多田院の代表者(住持)が導師を勤めています。

そして以下、「職衆」として「十七名」の僧侶の一覧が並んでおり、うち「五名」が、その肩書きに「「西大寺」と記されていて、それぞれ「唄師」、「散華師」、「□?」、「讃」、「前讃」といった儀式の「役」を占めています。(こんにちyoutube等でも閲覧出来る「落慶法要」を彷彿とさせます。)

因みに他の「職衆」のうち「九名」は「当寺住」とあるので「多田院」の僧侶がやはり最多であり、中山寺僧侶か?と思われる「肩書き無し」は「四名」しかいません。残り一人は肩書が抹消されているようです。

さて、瓦片の話に戻しますと、一般的には、堂舎の棟を形成する「伏間瓦」や「鬼瓦」等には、「瓦工棟梁」による年月日を示す「銘」が刻まれているはずなので、私は将来の「金堂」の発掘調査において「永禄六癸亥年」を示す瓦が出土される事を期待しています!。

なお、偶然かつ余談ながら、この供養の日から六日後に「細川晴元」が薨去しています。そしてこの頃の摂津・塩川氏は、「三好政権」の下で逼塞していたとみられ、中山寺や多田院に対する権限などは、おそらく剥奪されていたものと思われます。永正年間に「塩川正吉」が「口添え」したような、「多田院に対する政治力」などは失われていたでしょう。(前述したように、塩川氏はこの3年後に松永久秀や細川藤賢、伊丹氏と組んで、ちょっとだけ「暴れる」のですが)

[焼亡後も、一旦は山上伽藍の復興に期待した「過渡期の」中山寺]

最後に、山上の伽藍廃絶後の光景を見て終わりましょう。

以下、「荒木村重史料」(1975)に掲載された、近世初頭の山の麓、「米谷」(まいたに)、「中筋」両村と、山下へ降りてきた寺僧側との興味深い「訴状」のやりとりをごらん下さい。

「仲山寺と申ハ 山上に御座候ヘ共 荒木殿乱ニ破壊仕候、其時坊主衆 被申候ハ、此山ニ居候而ハ たはんニつまり申候間、ふもとへ下り 作をも仕度(つかまつりたく)と 被申候而 右弐ヶ村へ相談仕、弐拾二三町ふもと(麓)ニ寺地ヲ渡し 少之観音堂 かやふき(萱葺)ニ立被申、其以後、秀頼様御代ニ 御造供被為成候御事」(寛文五年(1665)米谷・中筋両村百姓訴状、和田正宣文書)

「仲山寺之儀ハ 荒木一乱之刻、兵火ニ而 焼失仕候得共、寺僧等 再興之無力 唯今は鎮守弁才天之宮地わすかの所ニ 仮ニ堂を立 本尊安置仕、寺僧ハ御年貢地之内ニ 居所を構 罷有候、若(もし)信仰之旦那出来候ハゝ 如前々 本山ニ諸堂を建立仕度 奉存爾 今礎残置、其上数多之神所 御座候故 無退転 勤行仕候(後略)」(延宝四年(1676)中山寺僧百姓返答書、和田正宣文書)以上2点「荒木村重史料」所収。

両者の争点の詳細はともかく、ここに語られている内容は、天正八年(1580)の塩川氏末期から慶長八年(1603)の豊臣秀頼による復興の間の出来事と思われます。

中山寺側としては当初、一旦山下に「仮堂」を建てて救出された本尊を安置し、将来的に山上に伽藍を復興することを夢見て「今礎残置」していた時期があったようです。

それが計らずも?豊臣秀頼によって、山麓における再興という結果となりました。

なお、中世の山岳寺院が戦国末~近世初頭に山の下の平野部に移転する例は枚挙に暇がなく、近隣においては清澄寺(清荒神)のほか、能勢郡の月峰寺、有馬郡の大舟寺や香下寺、生瀬の浄橋寺などがあります。山下町における甘露寺もまた同様です。

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④巻末コラム:大河ドラマ「麒麟がくる」における「鉄砲導入」及び「集落防衛」の描写などについて

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に、国広富之さん演じる「細川晴元」や、山路和弘さん演じる「三好長慶」の登場が発表され、実際に始まった物語が「光秀による鉄砲買い付け」→「本能寺経由で鉄砲を入手しようとする」という展開に至った時、これはエライことになった!と思いました。

当連載の第8回、9回で触れましたが、「細川晴元」が本能寺経由で鉄砲を購入した際の「礼状」が今に残されています(本能寺文書)。これは我が国における「鉄砲導入を示す早期の良質な史料」として知られているもので、天文十八年(1549)に比定される、「四月十八日」付のものです。そしてこの日付は晴元が「塩川国満」の「多田塩川之城」に到着する(細川両家記、厳助往年記)わずか8日前(!)にあたります。情況的に晴元は、国満の獅子山城にひと月も滞在している(細川両家記)ので、この間、この鉄砲を試射、研究した可能性もあるでしょう。なお「高代寺日記」は国満の妻が実は「晴元の姉」(表向きは近江・種村高成娘)だったとしています。

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この晴元の礼状は現在、京都市中京区寺町の本能寺「大寳殿宝物館」に「展示」されています。本能寺さんによると「宝物館は一応、5月18日から再開の予定」とのことです。もしご覧になりたい方は、どうか事前に開館のご確認をお願いします。075-231-5335)

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そして翌天文十九年(1550)、三好長慶に対抗すべく、近江・坂本亡命組の足利義晴(五月薨去)、義藤(義輝)、細川晴元らは洛北の東山に「中尾城」(なかのをのしろ)という、「銃撃戦に対処した要塞」を築いています。その築城法を記した「万松院殿穴太記」は、幾分誇張はあるものの、まだ「城が現役で機能している段階」に記されたものです(その「壁土」は、連載第9回の下段画像で見ることが出来ます)。

「中尾城」の築城法はまた「両軍が鉄砲を一定量所持していた」ことを示しており、実際その直後の七月の京市中における合戦では、細川晴元と戦った三好方に「日本における銃弾による戦死者の初見」が記録されました(言継卿記)。

こうして「細川晴元」は日本の銃砲史に「鉄砲入手の礼状」、「銃撃に備えた築城法」、「銃撃による初めての戦死者」と3件にもわたる、大きな痕跡を残しました。

これは私が20代後半の時に読んだ今谷明氏の「戦国三好一族」(新人物往来社・1985)において、最も印象的だったくだりでもあり、遂にこの場面がNHK大河ドラマで再現される日が来るのか!と勝手に展開を予測してエキサイト(汗)しました。

「ははぁ、おそらくこの合戦を光秀に「目撃」させて、彼が「銃撃戦」に目覚めるというストーリー展開だな。ひょっとしたら晴元ベッタリの「塩川国満」も登場するかもしれない」などと…。

ところが、実際ドラマで描写された「細川晴元」は、結局「鼻をかんだだけ?」という酷すぎる「愚将扱い」であったうえ、かんじんの京における、細川VS三好の「内紛」のシーンは「弓矢と長巻」しか登場しないという(太平記か!)非常に残念な描写でした。そしてなぜ、細川晴元が三好長慶を「暗殺」(?)するのに、「チャンバラ」なんかするのか。しかもなぜか(義輝の意?を汲んだ)光秀や細川藤孝が長慶に「助太刀」するというカオス。(どうせデタラメにするのであれば、いっそ晴元と松永久秀を組ませて「トミーとマツ」にして欲しかった…汗)

このあたり、「織田信長の上洛以前の京は、“中世の旧勢力の雑魚ども”が空しい内紛に明け暮れ、人々の暮らしは荒れ果てていた」とか、「鉄砲に本気で着目していたのは、織田信長くらいのものだった」とか、「昭和の大河ドラマ」そのままです。でもこれほど史実を曲げますか…。

一応、あとから取って付けたように「斎藤利政のセリフ」として「将軍が鉄砲攻撃に対処した城を築いたらしい」という伝聞を、本木雅弘さんに言わせてはいましたが、肝心の合戦シーンが「弓矢と長巻」だけだったのは、次の信長の「村木砦の戦い」を際立たせる為の「構成」だったと言えましょう。

細川晴元の事跡を使いながらも、それを一切彼の功績として表現しなかった(ヒストリアでも)大河ドラマ。これからは彼を「細川“報道被害者”晴元」(汗)と呼びたいと思います。

これはドラマ中の美濃の守護「土岐家」にさえ「桔梗紋」を一切使わせなかったのと同じ手口です。実際の美濃国は「桔梗だらけ」だったと考えられるので、せっかくなら逆に「多くの桔梗紋意匠」を登場させた上で、明智の桔梗紋に「他とは違った配色」等で、差別化をはかればよかったのですが。

「鉄砲といえば織田信長でしょう」、「桔梗紋といえば明智光秀でしょう」というのは、全くの嘘ではないものの、「強調されすぎた共同幻想」のキライがあります(連載第18回参照)。

実際には「珍しくもない存在」だったのに、あたかもそれが「特殊例」や「専売特許」であったかのようなウソ。当「塩ゴカ」としましては、これからも塩川氏の「桔梗紋瓦」の説明に苦労させられることでしょう。(桔梗紋は「源頼光」の故事に由来するもの(見聞諸家紋)。「頼光系」であった土岐氏の「頼」、明智の「光」といった通字も「頼光」に由来するもの。そして、頼光の荘園こそ、当地「多田荘」であった。云々)

一方、これとは逆に、「聖(正)徳寺の会見」のシーンに「根来の鉄砲傭兵」を採用したという設定は、それ自体は「フィクション」ではあるものの、「鉄砲の先進地は紀州だった」とか「当時の傭兵産業の存在」、「鉄砲の使用階級の実体」などが「公共電波」で表現、紹介されたという点においては、「史実全体を象徴したシーン」として私は「いいなあ!」と思いました。

但し、斎藤利政らが潜んでいた、街道筋の田園地帯の民家(商職人か農民の家)が、あたかも江戸時代の民家の如く、「全くオープンな状態で」、「木戸や柵、塀、寺社などの“総構え共同体”に守られずに」無防備に建っているのは、私は「有り得ない」と思っています。あれでは「襲ってくれ」と言わんばかりの自殺行為です。

これは「日本の町(集落)には城壁が無かった」という、近代以降の「常識」が尾を引いている結果です。確かに日本には、諸外国のような石やレンガを用いた恒久的で立派な「市壁」のようなものが無かったことは、「長安」と「平安京」を比べてみる間もなく明らかです。日本の都市の「壁」に相当する設備は、近世初頭に至っても、せいぜい「堀と土塁」が精一杯、かつ、それすら稀少な例でした。

しかし中世末~戦国時代ともなると、ちょっと事情が違います。「壁」の定義を石垣や土塁(地形の高低差を含む)堀、あるいは築地といった「恒久的な素材」に限定せず、木造の塀や柴垣、柵、竹林といった「消えもの」にまで広げると、当時の日本は「壁だらけ」で、言わば「大・総構時代」であったと言えるのです。諸外国からみれば、「ウサギ小屋」レベルのインフラでしょうが。

実際に絵画や文献、集落における寺院や神社、辻堂などの配置、溝や段差、発掘調査資料などを「集落防衛の視点」で総合的に見てゆくと、おそらく戦乱の16世紀は「武家」のみならず、「都市」も「村落」も「寺社」も全て、力ある者は大掛かりな、力なき者も実現可能な範囲で、「何らかの総構え」(必ずしも堀、土塁といった「普請」を伴うとは限らない)で自らを守り、夜には木戸が閉じられて「毎晩ロックダウン」を繰り返していたことがわかってきます(たまに「原則」を破った者が叱られたりしていますが)。有名な「洛中洛外図」に描かれる「町(ちょう)のかこい」などはその1例にすぎません。また、集落はたいてい「バイパス」を設けないので、「木戸の閉鎖」は「街道の夜間封鎖」をも意味しました。

「総(惣)構え」といえば「堺」や「伊丹(有岡)」、「小田原」、あるいは「真宗寺内町」などが、あたかも「特殊な例」ででもあるかのような「解釈」も、「日本の町(集落)には城壁が無かった」という「常識」から生まれました。この点「桔梗紋といえば明智でしょう」という「リアクション」と同じパターンです。

そもそも「信長公記」にしても、「首巻」(幾分問題はあるが)から既に、「町口」、「町口大堀」、「惣構」という単語が「ごくあたりまえに」出てきます。「惣構」自体を珍しいと思っているのは「現代人」くらいのものです。

要するに「堺」や「有岡」、「小田原」などの事例は、その「規模の壮大さ」や「遮蔽能力」から評価されるべき存在なのです。「総構があったから凄い」のではなく「大規模で遮蔽能力の高い総構があったから凄い」という風に。

或いは「真宗寺内町」の場合は、天文年間以降に「直線的街区を伴う、よく似た類型の新都市が広まったこと」や、「一向一揆」と結び付けられて「特に著名度が高まった」という事情がありました。

「集落を防衛する行為そのもの」は、結構ありふれた存在なのに、「真宗寺内町」のレッテルが貼られていなければ、誰も「総構」の痕跡を「捜そうともしません」。

寺院を囲む町としては、例えば、京・東山の「清水寺」の山下(さんげ)である「清水坂の町屋」は、「清水参詣曼荼羅」や「東山名所屏風」を見ると、見事な「狭間」を伴う多重の塀、木戸で囲郭されています。また、近江・多賀大社の最古の「参詣曼荼羅図」における町屋も、「城か!」と見まがう塀、櫓門に囲まれています。洛外西の「長福寺」を囲む「東梅津村」も、室町時代の惣構えが絵図に描かれています(「長福寺文書の研究」所収)。これらは皆「真宗寺内町」ではありませんし、特殊例でもありません。

しかし「真宗寺内町」ではないので、誰も「総構」に結び付けて語らないのです。

「日本の町には城壁が無かった」という「常識」は、復元模型や、復元イラスト、CG等における城下町復元などにも影響を与えています。これらにおいては、武家屋敷のエリアはそれなりに防備がなされているのに、町屋や農家はたいてい「完全なオープン状態」で描かれるのが「定番」となっています。このことからわかるように、これは専門家においても「主流的な見解」です。おそらく9割以上の??。

しかしここで問いたいのですが、もしあのような「無防備な」商家や農家に「あなたご自身」や「あなたの大切な家族」が住んだと仮定した場合、例えば近所の方々と互いに協力し合って、何らかの自衛策をこうじたりしませんか?。いつ何時、略奪集団に襲われて、全てを失うかわからないあの時代にです。

もちろん戦争ともなれば、密集した町や村などは真っ先に放火されているので、脆弱な存在ではあったことは確かです。が、だからといって開き直ったように「垣根ひとつ」も設けなかった、と復元するのはあまりにも「短絡的」です。そのような証拠は無いはずです。そして町人もまた、「わが身や家族を守ろうとする人間」であったという視点が完全に欠落しています。

もちろん相手が「領主の軍勢」などの「強者」であれば事情は別です。もし交渉ままなくば、諦めて逃げるしかありません。そこは自他の強弱を鑑みて、「最善の方針」を決めたことでしょう。「町(ちょう)のかこい」が縦横無尽にあった京も、戦争に直面すれば難なく全焼させられてしまいます。これは天正六年暮、伊丹から荒木村重の手勢が襲来した際も同様だったでしょう。

しかし、「粗末な防衛設備しかなかった」ことと「はじめから守ろうともしなかった」ことは、全然違います。

さらには「洛中洛外図」(歴博本、上杉本)においては、洛外の普通の「惣村」でさえ、「狭間を設けた土塀」や「立派な村木戸」で囲郭されています。これが「惣構」でなくて何なのでしょう。「未確認要塞的物体」UFO(Unidentified Fortresslike Object)でしょうか?

そして「クランク道」や「T字路」、「寺社を防御拠点に使う」などの事例も、これまでは「城下町」や「真宗寺内町」における例だけが「偏って強調」されてきましたが、現実には村落などにも普通に見られるプランです。(どうか、お近くの「古い集落」を地図を片手に観察してみて下さい。)

黒澤明監督の名作「七人の侍」(1954)で描写される、村の「防衛設備」は、実は「当時の常識」どころか、「なくてはならない」の存在であったと思っています。あの「回想する長老のセリフ」は「燃えていたのは(防備を怠った)その村だけじゃった!」くらいに変えていただき、村人には、あの「せっかく略奪していた甲冑や槍」をフル活用してもらって、偵察に来た少数の野伏なんか「映画の冒頭」で殺していただいて、武器や馬、所持金、身ぐるみ全て剥ぎ取って村の装備品とすれば(“映画”にならない…)、当時の実態により近いと思われます。

ついでながら、こういった自衛村落は、「惟任光秀の最期」の場面なんかにも有効活用出来るので、「麒麟がくる 最終回」にも超うってつけです。その際は「醍醐~山科」あたりの村人に、どうか「竹ヤリ」なんかではなく、「村の惣構え土塀の狭間(「洛中洛外図」歴博本、上杉本)から、複数の鉄炮で狙撃」してもらうのが、私の想定する「一番カッコイイ光秀の死に方」です。鉄炮にはじまり鉄炮に終わるという…。

ともかくも、「日本の都市には城壁がなかった」というのは、16世紀には当てはまらない、まさに「都市伝説」でした。「戦国時代には、都市も村も、寺社も全て、“何らかの総構え”で自衛していた」という「パラダイム」で洗い直すと、これまで「見てきた」ものがまた「違って見えます」。

いや、べつにNHKさんとしては、ただ数百の根来衆を「ひとつ画面に」収めたくて、ああいう野外ロケになったのでしょうけれど、かえって「平和でのどかな光景」が際立ってしまいました。あの「覗き見」の舞台は「富田寺内町」の「町末の小家」(信長公記首巻)なので、窓越しに「垣根や町木戸」の存在だけでも表現して頂ければ、「戦国時代、集落はあたりまえのように自己防衛していました」という、江戸時代とは一風違った「画」になったのに…、と思った次第なのでした。

そして令和2年(2020)の春。世界は、ドラマの撮影すら規制されるという、また違った意味で「皆が“構えた”光景」を呈しています。

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(つづく。文責:中島康隆)

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