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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第五回


シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第五回
寿々(鈴)姫と三法師の周辺④
~ 天正七(1579)年四月二十八日~三十日の出来事 ~

(以下、基本「信長公記」に拠ると)
織田軍による荒木村重包囲中の天正七(1579)年四月初め、織田信長と塩川長満は共に「古池田」の陣城に居ましたが、織田信忠は四月十二日に賀茂砦(川西市加茂)の守備を他の者に任せて播州遠征に出立します。
これは信忠を大将として「御連枝衆」の織田信雄、信包、信孝、信澄らを率いての軍事アピールでした。砦の留守番は永田刑部少輔、牧村長兵衛、生駒市左衛門の三人が任命されます。
信忠は二十一日に(「信長公記池田本」谷口克広氏による)三木城で合戦、数十人を討ち取り、砦6ヶ所築城を指示します。そして摂津へ向けて帰路につきます。四月二十八~三十日の「信長公記」の原文を挙げると

「四月廿(二十)八日、有馬郡まで中将信忠卿御馬入れられ、是より直(すぐ)に野瀬(能勢)郡へ御働。耕作薙捨」

「四月廿九日、古池田まで御帰陣。信長公へ播州表の様子仰上げらるる処に、則、御下国候への旨御諚候。其日、東福寺まで御成。次日岐阜に至って御帰城。」

二十八日には有馬郡~能勢郡まで戻り、能勢で「耕作薙捨」つまり収穫前の麦畑を刈り取りました (兵糧攻めの為)。翌二十九日には信長や長満の居る「古池田」に戻り、信長に播州遠征の報告をしますが、すぐ帰国せよ指示され、その日のうちに京の東福寺まで達し、あわただしく翌三十日に岐阜に戻っています。

さかのぼって、能勢で「耕作薙捨」をした二十八日の晩、信忠をはじめとする御連枝衆や彼の軍団はどこで泊まったのでしょう?。史料がありませんが、もっとも自然なのは能勢と池田の間で、織田方の最前線である塩川氏の獅子山城~向山砦ではないでしょうか。
荒木方になびかず、終始織田方だった塩川の城は何よりも安全で、それなりの施設があり、兵たちも山下に分散して宿泊が可能です。
織田信忠をはじめ、信雄、信包、信孝、信澄らが来城したとあれば、町をあげての歓迎騒ぎになったかもしれません。残念ながら記録は無く、ただ「信長公記」に正確な日付と移動地が書かれるのみです。
(城郭研究家の木内内則氏は、向山砦の縄張りが播州の念仏城(加東市。織田方の陣城と思われる)に瓜ふたつで、織田方の専門集団が改造した公的な前線基地ではないか?塩川氏が裏切らないよう監視の意味も込めて、という見解をもっておられます。)

また、信忠らが獅子山城に泊まったとすれば、主郭に泊まるのが当然で、小説的な想像をすれば、この晩に信忠と長満の娘、寿々が顔を合わせることも有り得ますし、婚礼が決まっていたとすればなんらかの挨拶もあったかもしれません。また、この時に寿々を連れて岐阜に戻った可能性も皆無ではないでしょう。

いずれにせよ、信忠は池田で信長から突然の帰国の指示を受けてあわただしく2日後に岐阜に戻り、再び荒木包囲網に戻るのは4ヶ月後なのです。この4ヶ月間、信忠には軍事的動きが一切なく、ひょっとするとこれが彼の「新婚時代」だったのではないでしょうか?
また二十九日朝、信忠が古池田の砦に信長を訪ねた時、塩川長満とも挨拶をしたかもしれません。なぜなら前日長満は信忠の築いた賀茂砦を引き継いでいるのです。「信長公記」の二十九日分に各砦の配置換のリストが挙げられており、

「賀茂岸、塩河伯耆、伊賀平左衛門、伊賀七朗」

と3人での担当になっています。(伊賀平左衛門、伊賀七朗の二人は安藤姓で西美濃衆。「織田信長家臣人名辞典」)。
この前日四月二十八日付けの信長の辞令が塩川領内であった中山寺に残っています。この文書は奥野高広氏の「信長文書の研究」によって天正四年の石山本願寺包囲時のものとして紹介されていましたが、谷口克広氏によって、この天正七年四月二十八日の賀茂砦着任時のものであることが指摘されました(「織田信長家臣人名辞典」)。この文書については稿を改めて紹介します。

この項で気になる要点をまとめると、

* 四月二十八日に織田信忠ら御連枝衆が獅子山城に宿泊している可能性があること。
* だとすれば、信忠と長満の娘が対面していることもあり得ること。
* その日の辞令で塩川長満が信忠の賀茂砦を引き継いでいること。
* 翌日、古池田砦で信忠は信長から急きょ帰国を言い渡され、以後四ヶ月あまり戦陣に現れなかったこと。
* 翌年に三法師が生まれていること。

ここで気になるのが三法師の誕生日ですが、残念ながら今のところ手掛かりがありません。
三法師が天正十(1582)年六月の本能寺の変から清洲会議にかけての頃、三歳であったことは有名ですが(「多聞院日記」ほか)、これは「数え年」によるものでしょう。すなわち生まれた天正八年が一歳であり、以後正月を迎える度にひとつずつ歳をとるというものです。
ルイス・フロイスは「イエズス会日本通信」において、本能寺の変の際の岐阜での混乱に触れ、「死せし王子(信忠)の幼児は約1歳なる」と書いていますが、彼は日本人の風習に造詣が深いので、3歳から2を引いて西洋風に満年齢に訂正したのでしょう。「約」を入れるあたりがきめ細かいフロイスらしい気がしますが、三法師の誕生日の参考にはなりません。
いずれにせよ、ここでは織田信忠が能勢→(山下?)→池田と動いた直後、急きょ帰国を命じられ、4ヶ月あまり戦陣から遠のき、翌年に三法師が生まれていることが重要です。
ともあれ、塩川長満の娘が信忠に嫁いだとすれば、この天正七年四月末~八月の間が最も可能性が高いと思います。

参考までにこの時、信忠の岐阜への帰路、京に立ち寄ったことが他の文献から裏付けられます。
朝廷の女官の日記である「御湯殿上日記」の四月三十日の項に

「けさ三ゐの中将(三位中将:信忠のこと)ちんかへ(陣替え)にて。きゃうよりくたり(京より下り)のよし申て。かけふくろ(懸袋)とく(疾く?:早く用意せよの意味?)とむら井(村井貞勝:織田家の京都所司代)申ほとに。くわんしゆ寺中納言(勧修寺晴豊)して。かけふくろ卅(三十)つかはさる々。~以下省略」

とあります。信忠自身が御所に出向いて陣替えの報告をしたのか?あるいはそれは村井貞勝が伝えたのか?。また村井貞勝が無心?した懸袋(贈答、下賜品と思われる)は信忠の帰国と関係あるのか、別件なのか。(例えばこの3日後に小御所の修理が完成するので、その際に関係者に配るなど。貞勝には四月十八日にも二十袋渡されています。)

それから、信忠が京都を出たこの「四月三十日のうちに岐阜城に帰った(信長公記)」というのは、随分速いと思いませんか?。旧東海道~旧中山道経由でたどれば120kmはある距離です。徒歩なら3日は欲しいところです。

下坂守氏の「近江の城と信長―佐和山城と安土城と坂本城」(2015)によると、織田信長は既に天正元(1573)年、坂本城と佐和山城という水に面した城の間を百挺櫓の大船をもって、京都~岐阜間を最速、最短距離で結んでいました。
この方法ですと、坂本(現大津市)~佐和山(現彦根市)間は直線で50kmほどですから早船だと5~6時間で着く可能性がありますし、その間は船上で休憩だって出来ます。佐和山~岐阜間は、ほぼ京都~大坂間くらいの距離ですから、信忠が1日で岐阜へ戻った早さも理解出来ます。

当然、織田家のVIPである寿々の輿入れの時にもこの坂本城~佐和山城間の船旅を用いたことでしょう。(なお多忙な坂本城主、明智光秀はほぼ丹波攻略に出張していて、この頃坂本城に帰っていたのは六月下旬~七月初旬だけだった(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」)ようなので、寿々と顔を合わせたかどうか…)

坂本城から船出したときは、おそらく彼女の人生初のクルージング体験だったのではないでしょうか?
そして後に、この坂本の地は彼女にとってつらい思い出の地となります。
それを含めて彼女はこの地を愛したのでしょう。晩年には隠棲の場所、そして墓所にさえなるのです。
(冒頭写真右側は織田家の宇佐山城跡(大津市)から、坂本城跡(右手手前湖岸)越しに琵琶湖、および佐和山城方面(画面右端の長命寺山の向こう側)を遠望したもの。)

(⑤につづく)

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