歴史ロマン

実は歴史の重要人物であった塩川氏


「秀吉の多田銀銅山で有名ですが、東谷や近隣里山一体に広がる鉱脈を支配下に治めた大名・塩川氏」

 幸か不幸か、塩川氏は歴史の表舞台での重要な活躍がやたらと歴史家たちに見落とされている。(これには秀吉政権が故意に隠蔽した要素もある。)

 ひとつは天正68年の「荒木村重の謀反」で、もうひとつは織田信長の嫡孫である三法師(信長信忠三法師のちの秀信)の母(寿々すず)が塩川長満の娘であった可能性である。(川西市史の中では、塩川長満が同じ「伯耆守」を名乗った父の国満と間違われているのも塩川氏の不幸のひとつである。)

三法師は、本能寺の変により信長亡き後、織田家の重臣(宿老)により信長の後継者を話し合う清須会議で、秀吉が担ぎだしたことで知られている。

 「荒木村重の謀反」は天正6年、織田方として摂津国のリーダーだった荒木村重が突然、石山本願寺方に寝返った事件である。これによって織田軍団の勢力範囲から羽柴秀吉主体の播州攻め部隊が摂津で分断され孤立するという大きな危機であった。

 実は、村重の有岡(伊丹)、尼崎、花隈(神戸)、三田に加え、高槻の高山右近、茨木の中川清秀、大矢田(神埼川)の安部二右衛門、能勢郡の能勢一族など、全ての摂津衆が荒木方(毛利、石山本願寺方)に従った中で唯一、塩川長満だけが織田方に踏みとどまっている。この為、塩川領の多田院(江戸期以前は寺でした)、栄根寺、満願寺、中山寺、清荒神等が村重の先制攻撃で焼失した。

高山右近、中川清秀を調略して、やっと摂津に到着した信長の感謝ぶりは印象的で、伊丹包囲網の中で塩川長満だけが池田(池田城)の信長本陣に一緒におります。なお、長満の「長」は信「長」からの一字拝領と考えられている。

 次に移動する加茂砦も織田信忠とのバトンタッチであった。信長が川西盆地に鷹狩に入るのも、森蘭丸らがお礼の使者として派遣され「過分忝き(大変な働き、かたじけない)由候」(信長公記)とあるのも、この塩川氏の踏みとどまりを鑑みると納得出来る。そしておそらく、この頃に長満の娘が織田信忠に嫁ぎ(荒木略記)、翌年に三法師が生まれている。

 塩川氏は、真偽は不確かだが多田源氏の末裔を自称していたようで(高代寺日記)少なくとも当時は回りからもそれが認められていた。(荒木略記)

 したがって小身ながら名家だったことになり、信忠との婚礼もあながちアンバランスではなかったかもしれない。

 能勢氏はこの荒木村重の乱に加担した後、塩川氏に謀殺され滅亡する。
(
この天正8年以前の戦いがリメイクされて塩川氏滅亡譚が創作されたのだと考える。)

 また荒木村重の後に摂津国のリーダーになった尾張池田氏(池田恒興、元助、輝政)との絆もこの頃出来る。長満の娘が池田元助に嫁いでいる。(荒木略記)この後、長満は病気だったのか表には出ず、家老の塩川勘十郎、吉太夫の二人が表舞台に出ている。(信長公記) 天正9年の信長の京での馬揃え(パレード)もわざわざ信長の指名でこの家老二人が参加して「特別扱い」の感がある。

 しかし、信長、信忠亡き後、三法師の縁者となれば、秀吉政権の元で邪魔者に他ならず、ましてや摂津一国が秀吉に奪われる事態となり塩川は滅亡した。仲間の池田氏は美濃に追い出され、小牧長久手の合戦で恒興、元助は戦死している。高山、中川氏も摂津から追い出されている。

 この頃、塩川勘十郎、吉太夫署名の文書が尾張国府宮にあったようだが、塩川浪人の多くは豊臣秀次に仕えるので(高代寺日記)秀次の清洲城時代に尾張での行政官だった可能性もある。また秀次も滅び、関ヶ原の後、塩川浪人の何人かは池田輝政に拾われたと「高代寺日記」は記されてしているが、池田氏の岡山藩、鳥取藩の資料で裏付けが取れる。塩川勘十郎、吉太夫の子孫はそれぞれ鳥取、岡山で「勘十郎」「吉太夫」を明治維新まで襲名していた。

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