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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第六回


シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第六回
寿々(鈴)姫と三法師の周辺⑤
~ 寿々姫は信忠の正室か ~

インターネットの普及のおかげで
「塩川伯耆守の娘が織田信忠に嫁いで三法師を産んだ」
という知見が、昔に比べれば随分歴史ファンの間に普及したように思います。
しかし、この説を紹介しつつも彼女を「側室」と断定している方が多いように思います。寿々は本当に側室だったのでしょうか?

史料に立ち帰ってみましょう。

シリーズ第4回で紹介した「織田系図」の「信忠」の項には

「娶(めとる)塩川伯耆守(摂州多田城主)女」

と記されてあるだけです。正室とも側室とも記されていません。「荒木略記」の記事は

「塩川伯耆守。是は満仲の子孫と申伝へ候。それ故伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候。壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前。壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄庄九朗(元助)室にて御座候。池田出羽守(由之)継母にて御座候。後に城之助殿御前は一條殿(一条内基)北之政所。庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」

でした。この記事が書かれたのが寛永十八~二十(1641~43)年頃であり、寿々(仮に姉と呼びます)、及びもう一人(仮に妹と呼びます)が亡くなったのがそれぞれ寛永10(1633)年、寛永14(1637)年ですから、まだ二人が亡くなって数年後の生々しい記事と申せましょう。

ここで著者の「妻」を意味する言葉の使い分けが見事に対称的です。
この姉妹の夫たち、織田信忠と池田元助はそれぞれ本能寺の変、小牧・長久手の戦いで戦死するので、二人共に未亡人になるわけで、文の後半では共々一条内基の正室と側室になったことが記されています。
一条内基は従一位、関白にも就任した藤原摂関家の嫡流でしたから、このように「北之政所」「政所」などと物々しい呼称でよばれる以上、彼女たち自身にも三位以上の官位が授けられたと思われますが、女性に関する叙位にはまとまった資料がなく未確認です。
(それにしても国人領主の娘二人を語るのに、「従一位」だの「関白」だの「北之政所」だの「織田信忠夫人」だのと、日本史の中枢に関わる凄まじさで、しかも地元の歴史書に全く書かれていない!というのが「塩川問題」のスゴ味であります。)

彼女たちと一条内基とのいきさつはまた後に譲るとして、文の前半を見てみましょう。

「荒木略記」の著者はここでも姉妹の用語を使い分けています。
姉の方は「城之助殿の「御前」」、妹の方は「庄九朗「室」」です。
「御前」も「室」も共に「正室」「側室」の両方の意味で使えるので、これは決め手にはなりません。
ただし妹の方は

「庄九朗(元助)室にて御座候。池田出羽守(由之)継母にて御座候。」

とあり、「備前池田家譜(岡山池田文庫)」「校正池田氏系譜(鳥取県立博物館)」から総括すれば、元助の妻は「伊勢兵庫頭貞良ノ女(由之の母)」が正室でしたが、死去したので「塩川伯耆守信氏(ママ)ノ女」を「継室」に迎えたとのことです。「継室」とは正室が亡くなった後に迎える正室のことです。(なお、塩川「信氏」という名前は真田「幸村」(実際は信繁)、池田「信輝」(実際は恒興)と同じく、系図や軍記物語などに多い適当に捏造される類の諱(いみな)と思われます。)

著者は妹の方にたいしては「室」「後家」と表現しているのに対して、姉の方は「御前」で統一していて、1ランク上の敬意が感じられます。
これは織田信忠が「三位中将」という「公卿」だったこともあるでしょう。
ともかく史料にはこの姉のほうが「側室だった」とは一言も書かれてないのです。
それではなぜ彼女が「側室であった」なんて話が広がったのでしょう。
私は以下のような複数の要因があったと考えています。

* 最大の要因は「織田家」と「塩川家」という、どうみても不釣合いな組み合わせでしょう。この縁談の記事自体、「川西市史」で無視された程、学者たちに「信じられない」と思わせたレベルですから、「ましてや正室なんてとんでもない!」という先入観がはたらくのでしょう。

* それに対して武田信玄の娘、松姫のエピソードは小説、映像作品を含めて有名です。実際の彼女は信忠の許嫁(いいなずけ)に終わりましたが、そのため「織田信忠は正室を持たなかった」といった根も葉もない伝説を生み、自動的に塩川長満の娘は「側室」に降格されたのでしょう。

* 当連載第四回で紹介した松田亮さんの論考のタイトルが「織田信忠の内室寿々(鈴姫)・―摂津多田山下城主塩川伯耆守国満の娘―」というものでした。この「内室」という言葉は単に「妻」という意味ですが、これが「側室」という意味に誤解されたのではないでしょうか。なんとなく現代語である「内縁の妻」を連想させますし、さらに上記のような先入観が加わればなおさらです。

* 「荒木略記」で彼女の事を「御前」と呼んでいますが、歴史上、と言うより「歴史物語」で有名な「常盤御前」「巴御前」「静御前」のいずれも正妻ではないので、「御前」=「側室」、「愛人」といったイメージが先行してしまった可能性があります。

(⑥につづく)

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