歴史ロマン

シリーズ「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第一回


プロローグ

獅子山の城と山下町
中世と近世の狭間に一瞬存在したものー

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平安時代中期~室町時代半ばの「中世」の時代、ここ摂津の国、多田(川西盆地)の地は少し特殊な地域でした。
鎌倉幕府や室町幕府も崇敬する清和源氏の祖、源満仲を祀る寺院、多田院(現在は「多田神社」ですが、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合でした)があり、多田院を中心とする荘園、多田荘を管理する「多田院御家人」と呼ばれる、それぞれ独立した在地の武士たちがいました。

十六世紀半ばの天文十(1541)年、御家人の「盟主」的立場から「国人領主」に変貌しつつあった塩川国満は、拠点城郭を平野村周辺の台地(おそらく新田)から、ここ盆地北部にある笹部村の要害堅固な山の上に移して篭城します。

時代は、中世が崩壊して近世が生まれようとする化学反応のまさに第二段階、足利将軍家や管領細川氏を中心とする、畿内中を巻き込んだ戦乱に対応出来る強力な山城が必要な時でした。

当時、川西盆地一帯は「多田」と呼ばれたので、京都や奈良の人々の日記にはこの城のことを「多田(一蔵)の城」とか「塩川の要害」などと書かれています。
塩川氏自身は「獅子山城(ししやまのしろ)」と銘名したようです。
(この城跡は現在「山下城」と呼ばれていますが、これは「龍尾城」と共に江戸時代以後の通称です。後述しますが、直訳すれば「城下町城」という変な意味になり、いろいろと不都合なので、本稿ではこの名称の撤廃を推奨しています。)

城跡で表面採取される遺物から、塩川氏の居住区は山頂の主郭であったと考えられ、重臣たちも上部の郭に居たようです。安全上、当然です。
「高代寺日記」には城での宴会の記述が何度も出てきます。上流階級は宴会で大量の土師器皿を使い捨てします。そうした土師器片や明国から輸入した磁器(当時日本の技術では磁器は作れなかった)片などの遺物は城の上部の郭に集中しています。一方、山麓の郭群(段)では、わずかにスリ鉢とか貯蔵甕(カメ)など日常の生活雑器しか見出されていません。

さて、塩川国満は、既に滅亡した管領、細川高国から「国」の字を拝領しており、この築城は「高国派残党」としての反抗だったようです。

国満は天文十四(1545)年には高国に対抗していた細川晴元側に属しており、今度は元高国派である能勢西郷(にしごう)を攻めたりしています。
(この戦いは江戸時代に、天「正」十四(1586)年の「能勢氏との戦い」「この争いが豊臣秀吉の怒りに触れて塩川国満が攻められて落城、切腹」、などといった創作軍記物語、「多田雪霜談(ただせっそうだん)」というフィクションを生みだしました。こんな話が今だに「史実」として扱われているのは嘆かわしいかぎりです。)

天文十八(1549)年、三好長慶との戦いのなか、劣勢になった管領細川晴元がひと月あまり当城に逗留するのも大きな出来事でしょう。ほどなく晴元も没落し、永禄二(1559)年には畿内を制した三好長慶に塩川氏も服したようです。

国満は獅子山築城後、氏神であった平野社(多太神社)を笹部村に勧請し(干支から天文十四(1545))年か?)、また元亀二(1571)年、信仰していた善源寺も平野村(旧字「蓮源寺」の地か?)から笹部村に移し、単なる軍事要塞ではなく、本格的な拠点の移動でした。
不明ながら、山下の台地地形を考慮すると、最初から新たな都市建設の構想があった可能性もあります。全国的にもこうした拠点城郭の移転が行われていた時代でした。

塩川家が国満から嫡男、長満に引き継がれようとする頃、織田信長が上洛し、戦国時代は後半期に入ります。塩川氏は信長に降服し、以後信長の死まで背くことはありませんでした。長満の「長」は信長から一字拝領したと思われます。
(長満は国満と同じく「伯耆守」を称していたのでよく混同されます。「信長公記」に出ている「伯耆守」はすべて長満です。)

塩川国満は天正四(1576)年に病死します。「高代寺日記」や善源寺の過去帳、五輪塔墓石の情報が見事に一致します。
(川西市史はこの墓石の調査までしていますが、国満の墓かどうか疑っています。例の天正十四(1586)年の切腹話の方を信じてしまったようで、本末転倒としか云い様がありません。)

信長のもとで、近世化は一層加速しました。

天正二~五(1574~1577)年頃、城山の麓を区画整理して、領内の御家人たちを在地から切り離して「家臣」として集住させました。これは人質の意味もあります。
またその南隣に商業区画も造りました。おそらく楽市楽座、呉服や鮮魚の販売での優遇など誘致策なども行われたことでしょう。
そしてこれら両方を笹部村から行政的に分離、独立させました。
新しいスタイルの近世城下町「山下町」のはじまりです。「山下(やました、さんげ)」というのは、城下町や門前町を意味する古い日本語です。

(織田信長の城下町は天正五(1577)年の文書で「安土山下町」と記され、備前岡山の城下町は「内山下(うちさんげ)」「中山下」「外山下」などと区画され、豊臣秀吉政権の広報担当だった大村由己は「柴田退治記」の中で大坂城の城下町の事を「大坂の山下」と記しています。ですから当城の名称を、山下町にあるから「山下城」と呼ぶのは不都合ですし、「山下城には城下町はなかった」という主張自体が、すでにジョークになってしまっています。)

中世風だった城にも主郭(本丸)に総瓦葺きの建物、おそらく「天守」が追加され、主郭北東角、及び南壁に部分的ながら石垣も築かれたようです。
(崩落した石垣の築石や大量の裏込め石が分布しています。)
主郭付近で見つかる「桔梗紋を持つ軒平瓦」などは、当時最先端のスタイルです。こうした家紋瓦は10~20年後の豊臣時代に爆発的に流行するので、まさに先駆けです。

(塩川氏の家紋としては「高代寺日記」に「獅子牡丹」が記されるのみです。桔梗紋は源頼光が用いていたという伝承があり、有名な美濃の土岐氏なども「頼光系」です。塩川氏も「高代寺日記」の記述から頼光の孫、頼仲(実在の人物)の子孫を称しているようです。この家紋瓦の存在は、当地こそが「桔梗紋のルーツ」であることを表しているかもしれません。)

町に通じる街道も、城がランドマークとして見映えする演出効果も狙った新たなルートに整備されています。
時代はまさに安土城-安土山下町や有岡(伊丹)、近江長浜など、近世城郭-近世城下町のセットが築かれ始めた時期でした。

天正六(1578)年十月、織田方の武将で、摂津国のリーダーであった有岡城主の荒木村重が毛利・石山本願寺方に寝返ります。これは織田方にとって大きな危機でした。
織田方の勢力範囲から、播州攻めを担当する羽柴秀吉の勢力範囲が分断されたのです。
荒木氏の支城である花熊城(神戸市)、三田城はもちろん、高槻城の高山右近や茨木城の中川清秀、能勢郡の能勢氏など、すべての摂津衆が村重に従いました。
大変残念ながら一般には知られていませんが、塩川長満だけが、織田方に踏みとどまっています!。
そのために、領内の多田院、栄根寺、満願寺や中山寺、清荒神(共に当時は山の上にあった)など多くの寺院が焼かれました。獅子山城も「西ノ蔵」が放火で焼失したとあり、(高代寺日記)、確かに主郭西端~北西斜面にかけてわずかながら焼けた壁土や火災を受けた棟瓦?片が散見されます。(城の遺物全体から、大きな火災はなかったと思われます。)

40日後、ようやく援軍に駆けつけ、感謝した信長は、塩川氏の案内で川西盆地内を鷹狩(視察?)したり、森乱(いわゆる森蘭丸)を塩川褒賞の為に派遣したりします。
多くの歴史家たちが見落していますが、荒木村重包囲網の多くの陣城の中で、塩川長満だけが唯一、信長の池田の本陣担当なのです!。しかも陣の中で信長と長満は合計六十日以上もいっしょにいるのです!。特別扱いとしか思えません!。
荒木村重の乱は歴史小説やドラマでよく取り上げられますが、高山右近や黒田官兵衛のシーンはあっても、誰も塩川長満の存在すら知りません。
塩川長満は荒木の乱の最大の功労者といえるでしょう。
乱後、おそらく信長の指示で能勢氏を誘殺し、能勢郡、有馬郡まで一時的に塩川領となります。(両郡とも1年後には織田家に収公された模様)

この乱の功績が効いたのか、この頃信長の嫡男信忠に長満の娘が嫁ぎ、翌年、三法師(秀信)が生まれたようです。「側室だった」と言われるのは誤解で、史料を読むかぎり、正室だったと思われます。(彼女の名は、市内の故塩川利員氏の家伝によれば寿々(鈴)姫です)

塩川長満は荒木村重の乱後、病気、あるいは引退したのか?塩川家は家老である塩川勘十郎、塩川吉太夫の二人体制で切り盛りします。

とにかくこの頃が塩川氏の「絶頂期」であったでしょう。
しかし、こうした「塩川氏の城下町」時代は数年で終わってしまうのです。

天正十(1582)年、本能寺の変で織田信長、信忠が死ぬと、羽柴秀吉が攝津国を強引に奪い取り始めます。秀吉が大坂城を築いたことは誰でも知っていますが、それはつまりこういうことだったのです。

「高代寺日記」での獅子山城の記事は天正十一(1583)十月、一族ことごとく集まって「興」の記事が最後になります。破却時の解散式だったのでしょうか?。
ポルトガル人、ルイス・フロイスの書簡によればこの年の末に河内、摂津の領主で元の場所に残されたのは中川秀政(茨木)と高山右近(高槻)だけだった、とあり彼らも2年後に播州に追いやられます。

詳細は不明ですが、断片的な諸史料から類推すると、
まず塩川氏は秀吉の広報メディア(「惟任退治記」など)から名前を消され、この天正十一年から十四年にかけて少なくとも多田院、清荒神、多田鉱山など領地はことごとく三好秀次(後の豊臣秀次)領もしくは秀吉領になっている事から、多くの所領が没収されおそらく秀吉家臣として、大坂城の建設労働に強制従事させられ(ルイス・フロイス「日本史」)、秀吉が擁立のポーズに利用した三法師の母、つまり長満の娘さえ秀吉に奪われました。(同上)
塩川氏はこの頃は城でなく大坂城下に居たのではないでしょうか?
かつて塩川氏が多田御家人たちを山下に強制移住させたように、「在地否定」→「城下町に強制移住」が近世化の一大要素なのです。(この究極的な形態が後に大名たちの江戸屋敷への参勤交代に結実します。)

失意のなか、塩川長満は天正十四(1586)年十月に病死、彼の子の愛蔵と辰千代(頼一)が家督を争ううち、天正十六(1588)年五月頃には塩川家の家督は廃絶されたようです。
「高代寺日記」では秀吉のことを「木下」と呼び捨てにし、さすがに怨嗟を感じますが、編者は淡々と寡黙であまり詳細には触れられていません。

時代は完全に近世へ移りました。

秀吉の時代、多田銀銅山の新たな鉱脈が開削され、精錬技術も向上しました。秀吉は信長の下で但馬攻略担当だったので、生野銀山の進んだ技術に精通していて、それを多田鉱山に移植した可能性もあるでしょう。
そうした状況で、残されていた商業地「山下町」と城跡の間、「侍町」跡の区画が、銀、銅の精錬工業団地「下財屋敷」として再スタートしたと思われます。第二期山下町のはじまりです。以後、工業地域と商業地域の両輪を兼ね備えた山下町は近世~近代を通じて東谷地域随一の「都市」として栄えました。

しかし、この町を造った塩川氏の史実は、あたかも化学反応の触媒の如く、忘れ去られるか、誤解されてきました。いわば、
「塩川消えて山下残す」という感じでしょうか。タイトルに
「中世と近世の狭間に一瞬存在したもの」と書いた所以です。

つまり

* 城の名前は忘れられ、山下にあるから「山下の古城」と呼ばれていたのがいつしか「山下城」という固有名詞になりました。

* 多くの城郭研究者は城の縄張り(平面プラン)だけを見て「山下城は古い中世の城なので近世的な城下町はなかった」と断定しました。(総瓦ぶきの建物や石垣痕跡など近世的要素を見落しており、「山下」という日本語自体が城下町の意味で、町のプランが城を基準点にした近世城下町特有の区画を持っているにもかかわらず…)

* 江戸末期、文化十二(1815)年の「笹部村野山之一件」という文献の記述だけが採用されて「山下の町は銀銅の精錬のために造られた」ことにされました。(都市史、歴史地理、城下町研究の視点が欠落している)

* 織田信長の時代に活躍した当主の名前を「塩川国満」と誤解されています。

* 摂津衆で唯一、荒木村重の反乱に組しなかった功績は忘れられ、あるいは川西市史で、他の摂津衆と同調したと書き換えられました。

* 一級史料である太田牛一の「信長記(信長公記)」は世に広まらず、それを改悪、俗化した小瀬甫庵の「信長記」がベストセラーになり、その中で「塩川伯耆守は民政がよかったので信長に誉められた」と荒木の乱の功績をすりかえられてしまいました。(実は「高代寺日記」の編者も甫庵「信長記」からも引用しており、この点は同記のマイナス要素になっている。)

* 三法師の母方筋だった事も忘れられ、あるいは書き換えられました。(近年も三谷幸喜さんの小説、映画でもある「清洲会議」において、三法師の母親が武田信玄の娘「松姫」という乱暴な設定がなされました。)

* 天正十四(1586)年に「能勢氏(実際は天正八年に滅亡済み)との抗争が秀吉の怒りに触れて「塩川国満」が切腹して滅んだ」という「多田雪霜談」の創作、つまりフィクションばかりが、近隣の市町村史類にあたかも史実であるかのように掲載されてしまっています。

* 二次史料ながら比較的良心的な史料(ざっと7割方は信頼出来るか)「高代寺日記(下巻)」は近隣の市町村史類から「完全無視」されたままです。(近年、市内在住の中西顕三氏によって活字化、刊行されるまで、東京の内閣文庫で数万円かけてコピーするほか、一般人には読む手立てすらなかった)

……などなど、誤解と忘却、不幸と不条理にまみれていました。

ですから、このシリーズは塩川氏の名誉と栄光の回復を兼ねた問題提起でもあるのです。

さて、

大坂城が落城し、豊臣氏が滅亡した翌年の元和(げんな)二(1616)年二月、すでに落剥した塩川長満の孫にあたる少年が京の一条邸を訪ねます。
先代の当主は5年前に亡くなった元関白の一条内基(うちもと)でした。
秀吉の前の前の関白で、藤原摂関家の嫡流の人物でした。少年はなぜ、そんな大物貴族の館を訪ねたのでしょう?

実は内基の正室、側室の二人が、塩川長満の娘でした。正室の方はかつて織田信忠に嫁いだあの寿々です。少年は未亡人となった叔母たちを見舞ったのでしょう。(彼女たちの数奇な運命については次回また稿をあらためてお伝えします)

一条内基は、浪人となった塩川氏の一族を池田輝政に推挙、再仕官させるなど、塩川家に同情的な人物だったと思われます。
そして少年は元服の際、父(頼一)の意向で、「塩川源兵衛基満」と名乗ります。(少年の元服の記事について、「高代寺日記」は重複、混乱しています。)
基満の「基」の字は、故一条内基から一字拝領したと思われます。

つづく。
(2015年展プロローグを一部改変)

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