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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十一回の3


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十一回の3

「間部詮房の誤解を解く」

令和四年(2022)となりました。
目下、慶賀の辞を述べられない身の上ですが、本年度もまた“塩ゴカ”を何卒宜しくお願い申し上げます。

[慶長二年の瀬波郡絵図に描かれた越後・村上の城と町]

さて冒頭画像は元々、3年前(2019)の正月の「第16回連載」で使用するつもりで作成したもので、予定変更によりボツとなっていました(いきなり⑦とか⑧とか記されているのはそのためです)。

年頭からこんな話題で申し訳ありませんが、昨年(2021)秋にもまた、「山下町」があたかも城下町ではなかったかのような「城郭分布図」を掲載した「専門書」が2冊も(仁木宏編「戦国・織豊期の地域社会と城下町 西国編」、中西裕樹編「松永久秀の城郭」、共に戎光祥出版)出版されたので(…)、誤解を解くべく「お蔵入り」していたこの画像に登板いただきました。下記の内容もまた、その「3年前のボツ原稿」の焼き直しです(情報が古い点もあるかと思いますが)。

画像の上⑧と右⑨が、「獅子山城と山下町」であり、⑨の地形模型は「天正五年~十六年頃」の景観としていますが、ひょっとしたら天正八年の「摂津一国破城」(多聞院日記)や、天正十一年の塩川領減封(「イエズス会日本年報」ほかより推定)、天正十四年の「塩川愛蔵、及び四十人の大坂出仕」(高代寺日記)に伴う何らかの「破却」、「縮小」が順次行われた可能性があります。

一方、画像左⑦は豊臣時代の末期、慶長二(1597)年、越後を統治していた上杉家によって作成された「越後国瀬波郡絵図」(米沢市立上杉博物館蔵)の中に描かれた、「村上の城と城下町」の部分です。これは後に出羽国米沢に移封された上杉家に伝わったものです。
伊勢の「木造(こつくり)城下町絵図」や「洛中洛外図・上杉本」(永禄期)に描かれた「さいのしろ」(西院城)などと共に、「中世」(厳密には織豊期)の城や城下町が「現役時代に描かれた」という数少ない資料の一つです。

私は今から四半世紀前、「朝日百科・歴史を読みなおす・城と合戦」所収「伊藤正義・城を破る(わる)―降参の作法」において、初めてこの「図」を目の当たりにして衝撃を受け、「いつか、「山下」の復元をしてやろう!」と心の中で決意したことを覚えています。
しかしながら結局、「模型製作の参考までに」調べ始めた塩川関連の調査で泥沼に落ち込み、模型製作自体は四半世紀ばかり前に止まったまま、現在の「塩ゴカ連載」至るという、全く「想定外の人生」を継続中です…。

ともあれ、塩川氏の獅子山城と山下町も、ヴィジュアル的にはざっとこの「村上絵図」ような感じであったと思われます。

[絵図が描かれた時代と背景]

「越後・瀬波郡絵図」は天正十九(1590)年、前年に天下を平定した豊臣政権が朝廷に献上すべく、全国の大名に提出を命じた「国絵図」「郷帳(検地結果を記す)」作成に伴ない、文禄年間の検地結果をふまえて慶長二(1597)年に上杉氏によって作成されたようです。本図自体は提出分の「控え」かと思われます。なお「村上」は越後国(現・新潟県)の東北端、出羽国(山形県)との境目近くに位置しています。

さて、当地の中世以来の城主家系であり、最終的に上杉氏の被官となった「本庄繁長」は、絵図が描かれる直前の天正十九(1591)年、秀吉の命によって改易されており、豊臣家奉行、増田長盛による文禄四(1596)年の検地~絵図が作成された慶長二年頃には、上杉家臣の大国実頼が城に入っており、これは「城代」的立場だったかもしれません。
また、絵図製作の翌年、慶長三(1598)年には、上杉氏自体が越後・春日山から会津に移封されてしまい、代わって越後に入部した堀秀治(秀政の子)の与力、村上頼勝が入ります。
ただ、村上氏が入部して「村上」の地名が成立したというわけではなく、「新潟県の地名」(平凡社)によれば、天文四(1535)年~永禄十二(1569)年の文書に既に出現しているらしく、本庄氏段階で「村上」の地名はあったようです(補注)。なお城と城下町は、元和四(1618)年に入部した堀直竒以降に大々的に近世的に改変、拡張がなされます。つまり、絵図に描かれている城や町は現在では見ることが出来ない「中世と近世の狭間」段階の村上の景観なのです。

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(補注)
城は本庄氏の段階においては「本庄城(ほんじょうじょう)と呼ぶのがが正しい」という指摘もあるようですが、これについては「う~む…」です。
そもそも戦乱の戦国時代、「城」の呼ばれ方は、例えば寺院の名称とは違い、機能を重視した「実用道具、インフラ」の呼ばれ方と同じです。
現代の用例で言えば、橋、踏切、トラック、信号などと同じです。
日常会話で使われる、「○○病院前の橋」、「○○駅前の踏切」、「○○運輸のトラック」、「○○丁目の信号」など、いずれも「正式名称」ではありません。実際これらには、それぞれを管轄する役所、会社、メーカー等による「正式名称」がある筈ですが、それらは一般人や日常会話においては無縁の存在です。
ですから、戦国時代の「城」もまた、当時の文献に「○○城」と記されていても、これは「○○じょう」と読む“固有名詞”では決してなく、「○○(地名、山の名前、もしくは城主や城将の名字)のしろ」と読んで、「固有名詞+の+城」から構成される“フレーズ”と理解しています。(現在の「佐川のトラック」などと同じパターン)
要するに「本庄城」は「本庄のしろ」(城主が本庄氏なので)と読み、当時「村上」の地名もあったとのことなので、「村上城」(むらかみのしろ)と呼ばれても、べつにどっちでも構わない、のが「当時の一般的感覚」だと思います。

しかしながら、江戸時代を経て近・現代において「城」は、もはや「実用道具」から「名所・旧蹟、遺跡」へと転じてしまいました。城の呼称を「○○じょう」と固有名詞化するのは、むしろこういった「近・現代的なセンス」ではないかと私は思っています。
なお「城」を「じょう」と読む用例自体は、既に「日葡辞書」にも掲載されていますが、その例文として「城(じょう)を落とす」が挙げられていることから、あくまで「普通名詞としての「城」“じょう”」であったようです。
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[城の描写]

⑦の「瀬波郡絵図」全体は、日本海の海岸線を下にしています。つまり、この「村上」は、北西側上空から南東側を見おろした視点・構図となっています。

「村上ようがい(要害)」と記された山城部は、土もしくは岩盤の切岸が剥き出しで、まだ総石垣化する前の姿ながら、およその郭配置は近世以降に踏襲されているようです。
郭外の斜面は樹木が伐採されて見通しを良くしているものの、郭内は意外に樹木が繁茂し、これは城外からの見通しの遮断、木陰や資源、水源の確保に対処しています。この状況は越前朝倉家に伝わった指南書、「築城記」における記述と符合しています。
城内の建物は瓦葺きではなく、柿葺きや杉皮葺きのようです。ほとんどが単層の建物ですが、二棟だけ見られる「二層の櫓」の描写は、伊勢・木造(こつくり)城や西院城における櫓の描写に酷似しています。
土塀は白漆喰で塗り込められているようで、三角や丸の「狭間」を伴っているあたりは、さすがに「銃弾への対処」が窺えます。ただし塀の屋根は「草葺き?」で、これは「肥前・名護屋屏風」における「山里丸」や「諸大名の陣所」、また「大坂冬の陣屏風」における「総構え」の塀における描写に共通しています。
柵には下部の横木がなく、つまり「足を掛けて登れない」ように対処しており、これもまさに「築城記」の指南と同じです。
麓からの登城路のうち、北東側の道は、「上段の曲輪からの攻撃が容易な、ツヅラ折れ」になっており、これも近世村上城の「七曲道」にそのまま引き継がれているようです。

[内山下、および村上町の描写]

現在、城山に残る遺構から、本庄氏時代の「表」は日当たりの良い城山の南東側、つまり絵図の視点では城山の「反対側」に内山下、すなわち山麓の居館や被官達の武家屋敷群があったようです。ただし描かれている商業地「村上町」もまた、その伝承から本庄氏段階の町場を引き継いでいるようです。つまり、内山下(侍町)自体は城山をはさんで反対側に移動したか、あるいは一時的に両側に展開していた?のかもしれません。
絵図において山麓左に描かれている屋敷状の建物は、近世村上城の山麓御殿に相当する区画と思われ、その右の柵と森に囲まれた部分が武家屋敷のようです。あるいはこれらは、ひょっとしたら大国氏段階の改造、増設なのかもしれません。

手前に軒を連ねているのが商業地区で、絵図には文禄検地による「村上町 家 合弐百五拾弐けん(252軒)」と説明がかかれています。
課税(地子)対象となる家数で、江戸時代の摂津・山下町(狭義の商業地区のみ)の家数が80軒ほどでしたから、それに比べておよそ3倍あまりの規模です。
街道は近江へ通じる北国街道が右手前へ、出羽・鶴岡へ向かう出羽街道が右奥へ、海岸沿いに鶴岡へ向かう羽州浜街道が左へ、それぞれ町木戸を通じて「通り抜け」ています。町は柴垣を廻らせた「総構え」で囲まれています。

昔は、街道が集落を「素通り」出来ない配置になっていることが普通であり、町そのものが通過を強制、規制、コントロール(時には通行税徴収)する「関所」、言わば“チェックポイント”でした。(ですから、よくある「城下町の復元イラスト」等で、あたかも“24時間通り抜け可能”であるかのような表現がなされているものは、私は嘘っぱちだと思っています。)
夜間や有事の際は「木戸」が閉められ、基本的には「通行」は遮断されたと思います。
(山下町においても、「平野村」と「能勢・吉川村」を結ぶ旧道は、わざわざ山下の東南端の町口(塩川時代は番所を伴う「関所的構造」であったと思われる)で「90°右折れ通過」をさせていたのです(画像⑨右下の「町口」)。)

町屋は(武家屋敷らしきものも)すべて、草葺きの屋根ですが、その多くの妻側に「棟柱」が描かれています。草葺きながら、合掌ではなく棟柱で棟を支える形式は古いようで、大坂の「冬の陣屏風」「夏の陣屏風」などにも描かれています。私は昭和50年代前半の頃、よく北国街道の起点である滋賀県の湖北地方を歩きましたが、当時わずかながら「古風な棟柱を持つ萱葺きの家」を目撃して、“いかにも北国へ来た”という実感を味わっていました。

[間部詮房、最期の地、村上]

さて、城下町の景観復元の参考としてご紹介した「越後・村上」ですが、読者からは「摂津・塩川氏とは基本、何の関係もないのでは?」と思われてしまいそうです。

1998年、私は山下の公民館でおこがましくも、戦国塩川氏に関する講演をさせていただいたことがあります。会場には城山~山下の地形模型と、この村上の絵図のコピーを並べて展示していました。当時会場にいらっしゃった、青山短期大学理事長の故・塩川利員さんから、「実は越後・村上も、塩川氏とご縁がありますよ」と教えて頂きました。

江戸時代を通じて、越後・村上には譜代を中心に、九つもの大名家が入れ替わりました。
その八番目、享保二(1717)年に村上に入部したのが、「間部詮房(まなべあきふさ)」でした。

「間部詮房」は元々甲府の「徳川綱豊」に仕える下級武士で、能役者出身(!)でしたが、その才覚と努力から抜擢され、綱豊が後に六代将軍、「徳川家宣」(いえのぶ)となるのに伴い、家宣、及び、「七代将軍、家継」の側用人(そばようにん)・老中格となり、儒学者・「新井白石」と二人三脚で、短期間ながら日本の実質的な政治を主導したという、まさに奇跡的な政治家でした。
しかしながら、次の「徳川吉宗」の世となり、吉宗の反対勢力であった詮房は政界を追われ、藩主を務めていた「上州・高崎」から、遠いこの「越後・村上」の地に移封され、三年後に五十五歳で亡くなりました。

そしてこの間部詮房が、なんと「塩川伯耆守の子孫」を「公称」していました!。塩川利員さんは、そのことを指摘されていたのでした。

[間部詮房といえば]

どちらかと言うと、“退屈な(?)「日本史 近世」の授業で暗記させられる名前”というのがもっとも一般的なイメージではないでしょうか。
あと、「側用人政治」、「徳川綱吉の死後、悪名高い「生類憐れみの令」をすみやかに廃止した」といったところかもしれません。

そして詮房が活躍した、徳川家宣~家継期の二代にわたった「正徳の治」というのは、親政をしいた前代の「徳川綱吉」と、「享保の改革」で知られる次の「徳川吉宗」政権の陰に隠れてしまいがちです。

しかも両政権がそれぞれ「29年間」も続いたのに比べ、家宣~家継の二代含めて「わずか6年間」にすぎませんでした。

その中で、志は高いが既に初老で病気勝ちだった家宣、幼少のまま亡くなった家継のもと、実質的に日本の政治を運営したのが、共に低い身分から、その努力と才能で抜擢された「間部詮房」と「盟友・新井白石」のゴールデンコンビだったのです。

「新井白石」は浪人あがりの儒学者で、家宣の甲府時代以来の侍講でした。
ついでながら家宣の正室は、甲府綱豊時代から、「近衛基熙」(もとひろ)の娘、「熙子」(天英院)であり、徳川家宣時代の近衛家は、戦国時代の「足利義晴・義輝」と結んだ「近衛尚通・稙家・前嗣(前久)」以来、久々に将軍家と結んで繁栄することとなりました。

[大河ドラマ「八代将軍吉宗」]

なお、間部詮房、新井白石が登場する映像作品といえば、1995年のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(脚本:ジェームス三木、主演:西田敏行)が印象的でした。
細川俊之:徳川家宣、石坂浩二:間部詮房、佐藤慶:新井白石、草笛光子:天英院(近衛熙子)といった配役でした。
詮房と白石は、ドラマにおいては主人公、徳川吉宗の「反対勢力」として駆逐される立場であり、かつ短期間の登場でしたが、この生真面目、かつリベラルであった政権にスポットを当てた稀有な映像作品でもありました。ドラマでは、紀州藩主の徳川吉宗から

「能役者あがり(詮房)も偉くなったものよ…」(by西田敏行さん)

などど、ヤッカまれるセリフもありましたが、私としては

「恐れながら、我が祖先は「塩川伯耆守」なる者にて…」

なんてセリフを石坂浩二さんに言ってもらいたかったところです。

[若き日の近松門左衛門と一条家]

ついでながらドラマ「八代将軍吉宗」は同時代の浄瑠璃作家、「近松門左衛門」(演:江守徹)を「狂言廻し」として展開する演出がユニークでしたが、以前触れたように、近松門左衛門は、本名を「杉森信盛」という浪人あがりで、若い時は京で複数の公家に奉公しており、そのひとつが(当連載では皆様お馴染みの)「一条昭良」(兼遐、恵観)でした(杉森系図)。昭良は有職故実や古典の知識などにおいて、後の近松に影響を与えたとも言われている人物です(河竹繁俊「近松門左衛門」)。昭良自身も、一条家で養育した塩川家の後裔にいろいろ世話を焼いており、つまり、若き日の近松門左衛門と、一条家に出入りしていたであろう塩川家の末裔が顔を合わせたこともあったことでしょう。

[間部家家系図について]

「寛政重修諸家譜」や「系図纂要」を見ると、「間部」という名字は、徳川家宣の命名で詮房の代から称しはじめました。
詮房の父「西田久右衛門清貞」の代から甲府徳川家の「桜田御殿」に仕官していたようです。詮房は一般的には「猿楽師、喜多七太夫の弟子だった」と言われるようですが、目下その出典を把握出来ておりません。
「系図纂要」においては「藤原北家」の祖、房前の九世にあたる「塩川左衛門尉満任」の子孫ということになっています。詮房の七代前に、弘治元年に死ぬ「伯耆守 信氏」なる人物がおり、その弟として永禄八年に死ぬ「山城守 満定」、天正十三年に死ぬ「伯耆守 国満」が記されています。
はたして西田家に「塩川家末裔」の伝承が本当にあったのかどうかわかりませんが、系図はどう見ても史実とは思われず、詮房の父が仕官する段階か、あるいは詮房が「間部」に改名、綱豊のもとで栄達する段階で、系図作成の専門家に「あつらえさせた」ものだと私は思っています。
「塩川伯耆守」という名前自体は、小瀬甫庵の「信長記」を通じて、一応全国区で知られていました。
またこういった行為は現代においては「経歴詐称」かもしれませんが、江戸時代においては、士分に取り立てられた者が「刀を用意する」のと同様、「源平藤橘」など、いずれかの「姓氏」と結んだ「家系をあつらえる」のは、ごくごく当たり前の「しきたり・義務」でした。学生が就職にあたって、スーツをあつらえるようなものです。
身近な一例をあげると、彦根の井伊家では、平民(農民、町人、職人など)が「足軽」(平民でも「足軽株」を購入すれば採用される)になった場合でさえ、「源平藤橘」の4択から「氏(うじ)」を「選んで」登録する義務がありました。実はこれは私の先祖のことで、ウチの高祖父(四代前)は明治四年の「廃藩置県」時の戸籍には、「源姓」が添えられていました。これは他の足軽たちも全員同様でした。

そういうわけで、この「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」は、井伊家足軽の末裔「源康隆」が執筆しております。まっ、「源氏のよしみ」ということで…(汗)。

よって、間部詮房の先祖が「塩川伯耆守」(因みに藤原姓)というのは、全く信じていないのですが、私個人としては「塩川氏を選んでくれて、どうも有難うございます」という感じです。

[男の花道]

享保元(1716)年、徳川吉宗が将軍に就任すると、「側用人」という役職自体を一時的に廃し、間部詮房、本多忠良(側用人次席)、新井白石は解任されました。彼らは歴史の表舞台から追放されたのです。
そして、その後の吉宗時代~こんにちに至るまで、間部詮房といえば、「将軍家宣の寵愛を受けた小姓あがりで、絶大な権力をふるった」「側用人政治の悪弊」といったイメージで、徳川綱吉時代の側用人、「柳沢吉保」(かつて石坂浩二さんも演じられましたが)と同列に語られたりします。
徳川家継の母、「月光院」との密通まで取り沙汰されたりするあたりは、ちょうど徳川時代における「石田三成と淀殿との密通譚」と似ています。身分の低い者が政治中枢にたずさわったことへの嫉妬心に加え、後世の創作をも含めた徳川吉宗人気や、そのブレーンであった大岡忠相人気さえも、詮房にとっては「逆風」となった気がします。

仕事に全人生を捧げた間部詮房には妻も実子もなく、弟、詮言(あきとき)を養子に迎え、間部家は越前鯖江へ移封されて明治を迎えます。幕末に七代目の「間部詮勝」が老中として再び歴史の表舞台に立ち、大老、井伊直弼と共に「安政の大獄」を推進しますが、直弼の強硬な弾圧には反対して、結局辞任しています。

再び話を戻して、詮房と共に引退した新井白石は、その晩年を多くの著述に費やしています。そして彼の自叙伝、「折りたく柴の記」は、まさにそのラストを、間部詮房への賛辞で締めくくっているのです。

「今はもうみんな忘れているけれど、かつてすばらしいお方がいたのですよ」

というコンセプトは、清少納言の「枕草子」における、若くして死んだ「藤原定子」への思いに通じるものがあります。
(本当は“熱い作品”である「枕草子」もまた、長い間「誤解」に包まれてきましたが、2022年現在、「片渕須直監督」によって、「定子」をメインにした新たな「史実再現」のアニメーション映画の製作準備が進められています。)

[「降りたく柴の記」・桑原武夫氏 訳」]

以下、「中公クラシックス「降りたく柴の記」・桑原武夫氏 訳」から引用させていただきます。

「詮房殿、(本多)忠良殿などがいままで勤めてこられた職務は、時がたってしまうと、どんなことがあったかとわからなくなるだろうから、このことをここに注記しておこう。」

「御先代家宣公が世を継がれてから、老中の人びとが、日々御下問をうけることがあったけれども、この人たちは、元来、世間でいう「大名の子」であって、むかし道理を学んだということもなく、いまのことをよく知っているわけでもなく、年来、上様の御命令を伝えただけで、前にも書いたとおり、国家財政の有無すら知らない程度であった。ましてや、機密の政務など、その本末がわかろうはずはなかった。だから、上様の明敏さにおそれをいだき、たびたびの御下問に対する適当なお答えができなかったことがたびたびであった。そこで一般の政務も、まず(上様が)内々で詮房殿を通じてお考えを仰せ出され、人びと(老中、若年寄)の討議するのをまって、そのあとで御前にお召しになって、仰せつけられたのである。理論が深遠で容易に理解されないようなことは、何べんも詮房殿を通じて議論をやりとりされ、どうしても理解させられないようなことは、人びとのわかりやすいように議論の調子を落とし、みんなの納得がえられたあとで仰せつけられ、ちょっとしたことでも、強引に御沙汰になるなどということはなかった。だから老中の人びとも、申し上げるべきほどのことは、まずこの間部詮房殿を通して申し上げた。詮房殿は幼いときからいつもおそばに仕えて、その心のなかもよくよく知っておられたので、こういう任務をあたえられた」

「詮房殿は、むかし藩邸(桜田御殿)のころから、朝早くから夜おそくまで、上様のおそば近くにお仕えして、家に帰ることは、一年のうち、わずか三回ないし五回にすぎなかった。」

「(家宣の死後も)だから私のような者に意見を求められたのも、御先代が言いおかれて、御在世のときと同じように、詮房殿がはからってくださったからであろう。」

「この方(詮房)は幼いときからいつも忙しく、学問をするなどということはなかったが、きわめて立派な性質で、およそ古代の君子とくらべても恥ずかしくないところがあったので、御先代(家宣)の遺言によってあとのことをまかされ、近年、幼い将軍(家継)をお助けして、天下大小のことを決定したが、すべて人びとを感服させ、ただ一つとして廃止したり、欠陥を生じたりすることがなかった。末代として珍しいくらいのことである。ところがこんにち(徳川吉宗時代)では、人びとにとやかく言われることもあるようだ。もし本当に、この人がこうした職につかれることが適当でなかったとするならば、たとえ御先代(家宣)のときといえども、その職を停止することは、老中たちの権限でできたはずである。ましてや幼い将軍の時代に、その職をやめさせるのに、なんのむつかしいことがあったであろう。万事この方がただひとりで処理したようにも言われ、そればかりか、私のような者も、思うままに天下の政治を行なったかのように言われるが、詮房殿でさえ、人びとの意見が一致しないことは、どうすることもできなかった。」

「詮房殿のことに関連して、御先代(家宣)のことも悪しざまに言われるようなことは、百年をへて、世論が定まる日に、天下の人びとから批評されることは恥ずかしいことである。」

間部詮房は新井白石より九歳若かったものの、白石より五年早く、享保五(1720)年七月十六日、「村上に移封されてわずか三年」で没しています。

[ここでいきなり「マキちゃん日記」のことなど]

勢いで、これまで「間部詮房」役を演じられた俳優さんをWikipediaでみてみると、上述の石坂浩二さんのほか、内田稔さん、佐藤慶さん、天知茂さん、菅貫太郎さん、西沢利明さん、榎木孝明さん、及川光博さんなど、「物静かなインテリ」、「一匹狼」、「冷徹」、「悪役も多い」といったイメージの役者さんが起用されているようです。なぜか、菊川怜さんの名前もありました(汗)が…。

あと、かつてNHKで放映された、徳川吉宗を描いた「男は度胸」(1970、主演:浜畑賢吉、原作:柴田錬三郎)というドラマで、故・「根上淳」さんが間部詮房を演じておられたようです。

根上淳さんと言えば、以前もちょっと触れましたが、まさに「男は度胸」(1970)の直前にあたる昭和44~45年(1969 – 1970)にかけて日本テレビ系列で放映されたドラマ「マキちゃん日記」(宝塚映画・よみうりテレビ)において、主人公「マキちゃん」の「お父さん」役を演じられたのを、60代以上の方であればご記憶もおありかと思います。

「マキちゃん日記」は「大和ハウス工業」提供のドラマで、「マキちゃんの家」はまさに「東谷」地域である「川西市大和団地」に設けられた家で撮影され、私も8~9歳の頃に「マキちゃんの家」に向かう「ロケバス」を1度だけ目撃したことがあるので、あるいは根上淳さんもそのバスに同乗されていたのかもしれません。
(余談ながら、このドラマが縁となり、脚本家の一人であった故・「市川森一」さんは、ヒロインを演じられた「柴田美保子」さんと結婚されたようです。またドラマの「美術」を担当された故・「近藤司」さん(当時 宝塚映画社員)は、「マキちゃん」直前に「黒澤明」監督のたっての願いで、映画「トラ・トラ・トラ!」(1970)の「戦艦長門」や「空母赤城」のセット(1/1!)を製作指揮すべく「出向」(会社が違うので)されていました(わが青春の宝塚映画)。)

ともあれドラマは1年間も続いたので、根上淳さんにとっても、川西市東谷地域の風景は”お馴染み”のものであったことでしょう。
そして、根上淳さんが「マキちゃんのお父さん」の直後に演じられた「間部詮房」もまた、「マキちゃんロケ地」の地元領主「塩川氏」の末裔を称していた、というのも、思えば”不思議なご縁”という感じです。

さて、塩ゴカ第2会場ことnote版の方は、年末にアップしました。
「岸和田城からやってきた謎の貴人」と、一庫ダム近くの「“保の谷”に将軍・「足利義晴」が来ていた!?」という話題を扱っております。リンク 第2会場へ

(つづく 2022,01,03 文責:中島康隆)

#間部詮房 #足利義晴 #塩川長満  #徳川家宣 #徳川吉宗

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