シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十一回
インタールード
― 幕間、及び雑記事色々 ―
①遅ればせながら、ご挨拶、お詫び、お知らせなど
②塩川長満の本妻は、救出された足利義輝の娘??
~「麒麟がくる」に「摂津晴門」が登場するに際しての補足~
③永禄九年、織田信長の“幻の上洛計画”と塩川氏
④画像解説、及び次回予告など
~水運に特化した脇坂安治から、水運繋がりで阿波・三好氏のことなど~
①遅ればせながら、ご挨拶、お詫び、お知らせなど
ご無沙汰しています(なんか最近は“1本/4ヶ月以上”のペースになっておりますね…)。
またまた間を空けすぎたので、ちょっと今回は中継ぎの小ネタ集、「インタールード」(幕間劇)ということで、宜しくお願い致します。
さて、まずはお詫びから。
* 実行委員会のツイッターの方に、5月3日にコメント頂いていたk2様、気が付かず、すみませんでした。もしお差し支えなければ、実行委員会の方にご連絡いただければ、と思います(実行委員会アカウントはAIではないか?という噂が(汗))。ともあれ、長い間失礼致しました。
* 連載第19回の下段画像中において、岡山市の空中写真の説明文で“工藤洋三”様のお名前の漢字を誤って記しておりました。訂正の上お詫び申上げます。
* 連載第20回中の項[恣意的?に掲載されなかった史料たち]において、伊丹史料叢書の「荒木村重史料」の公刊年を、川西市史第2巻(1976)の前年である「1975」年と記しましたが、実際は2年後である「1978」年の間違いでした。こちらもお詫びのうえ訂正申上げます。但し、典拠史料として川西市史には掲載されなかった「穴織宮拾要記」の内容が、明らかに部分的に選択されて川西市史の歴史叙述に反映されており(具体的には、織田軍が池田まで来てから塩川氏が織田方に付いたという記述)、「荒木村重史料」の公刊後も、市史の「後の巻」には何ら歴史見解の訂正も見られないので(川西市史第8巻は1981年公刊)、「恣意的?に掲載されなかった史料たち」という本質には変わりはありません。
この他、以下に補足など。
* 連載第19回の末尾において。現在も備前・池田家の墓所を護持しておられる妙心寺の塔頭「慈雲院」敷地の前身が、やはり「盛岳院」であったことが、発掘調査報告書「妙心寺境内の調査」(花園大学考古学研究室、1985)所収の、安政己未年(六年、1859)の「妙心寺塔頭総図」において確認出来ました。
* 続けて、連載時にはまだ未見であった「池田氏家譜集成・三十」(内閣文庫蔵)に「盛岳院略記」なる史料があることを知りました。それによると、「池田光政」によって廃絶された「護国院」(養徳院が妙心寺境内に建立した池田恒興の菩提寺)は、光政の嫡男「池田綱政」(仏教寺院との関係改善を進めた)の時代、その「御内意」(黙認)により、「護国院」の“百年忌”を機に、貞享元年(1684)に「盛岳院」として復活したようです。その場所は、やはり廃絶していたであろう「桂昌院」(池田輝政によって母・養徳院自身の為に建立された塔頭)の旧跡地でした。なお、「盛岳院」もまた明治初頭、廃仏毀釈によって消え去り(位牌や養徳院木像などは岡山市・国清寺に移された)、入れ替わりに、妙心寺北総門外にあった井伊家ゆかりの菩提寺、「慈雲院」がその跡地に移転、池田家の墓を引き継いで現在に至る、という経緯でした。
* 同じく連載第19回中において、私は元禄の「赤穂事件」のことに少し触れていますが、ウカツにも備前・池田の仕置家老、「池田出羽守由成」の姉妹が、「大石内蔵助良雄」の母「池田熊子(くま)」であったことを全く見落しておりました。そして池田由成の娘「夏子」は、「池田信成」(池田元信の子。池田輝政らの遺骨を妙心寺護国院から備前片山まで移送した担当奉行)の妻となったわけですから、池田信成は大石内蔵助のイトコと結婚したことになります。このことは「たぶんや ぶんこ」さんという方が「小説家になろう」というサイトに発表されていた小説“「赤穂浪士」内蔵助の母、熊子・妻、りく 不思議な縁”という作品(池田信成や塩川氏の記述も登場する)において知りました。
* さらにこの小説から導かれて、上記「池田氏家譜集成・七」(内閣文庫蔵)所収の「池田元信」(池田元助と塩川長満娘(慈光院)の子)の「系図」に辿り付き、(連載中で推測していた)元信の子孫達がその諱(実名)に「信」や「元」の字、及び何人かの通称に「勝吉(しょうきち)」が引き継がれていることも確認出来ました。色々と不思議なご縁です。
* いわゆる「山下吹き」とは、本当に我が東谷の「川辺郡山下町」がルーツなのか?!愛媛県の門倉秀公様という方の「気ままな推理帳」というサイトにおいて、目下「山下吹き」の由来が考察されています。別子銅山の研究を軸に、全国的な金属製錬技術の発達や工法の情報伝達が専門的に考証されています。各回、テーマを絞り込んで1歩1歩詰めてゆく門倉氏の手法、私も見習わなくては。本稿も引用して頂いております。多田銀銅山研究者には必見のサイト!
* ドラマ「麒麟がくる」に「関白・近衛前久」(本稿ではおなじみの近衛信尹の父)がフィーチャーされている事も含めて、ひょっとしたら“公家社会見直しムーブメント”が到来しているのでしょうか。神田裕理氏の「朝廷の戦国時代」(吉川弘文館、2019)が「戦国・小和田チャンネル」(!)の「戦国時代の改元」において紹介されたり、谷口研語氏の「流浪の戦国貴族 近衛前久」(中公新書、1994)や、神田裕理編「ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち」(文学通信、旧版は洋泉社・2015)が「復刊」しています。後者はウカツにも持ってなかったので、前回中脇聖氏の論考「摂関家の当主自らが土佐国に下向する」を参照させていただくにあたり、京都市の伏見・向島図書館(市内にはここしか無かった)まで複写に出向いたくらいでした。この9月4日にやっと(!)入手出来て貪るように読みつつ、原稿を書き改めたりしています。
* 今回、非常に悩んだのですが、塩川姉妹と一条家との関係記事は、「次々回」以降に繰り越させて頂きます。なお上記「ここまでわかった 戦国時代の~」所収の水野智之氏の論考から間接的に、「一条内基」に再嫁した塩川長満の娘「慈光院」が晩年に「後水尾天皇」から「天盃」を拝領していたことがわかりました!(←早くお伝えしたいのだけれど…)
* 実は私が目下悩んでいるのは「姉」こと「寿々さん」の方です。彼女が「織田信忠の妻であった」という情報は、最近「荒木略記」以外の「別ルート」においても確認出来ました。加えて「正室、側室」という概念自体、どうやら江戸時代中期以降の産物(福田千鶴氏の論考による)のようなので、彼女は「家臣扱いの“妾”」ではなく、やはり「嫁娶り式を挙げた正式な妻」ではあったのでしょう。しかし第19回で触れましたが、和田裕弘氏が「織田信忠」(中公新書)中で指摘された、彼女がのちに「二条殿北政所」(三之丸殿?)となったという「典拠」が今更ながら(汗)判明しました。姉が再嫁したのは「一条内基」か「二条昭実」か?(どちらも関白なので超贅沢な悩みですが…)。塩川家は一条家、近衛家とはなにかと接点があり、天文四年(1535)、「細川晴国」旗下の塩川国満にいたっては、京を出奔した直後の「元関白・九条稙通」を小浜(現・宝塚市)に饗応さえしているのです(「高代寺日記」)。しかしながら、塩川家と「二条家」との接点が殆んど見当たらず、この「一か二か問題」を廻って目下、「塙保己一」(和学講談所)、「林大学頭家(道春、述斎ら)」(昌平坂学問所)、「徳川光圀」(水戸彰考館)の三者が頭の中をグルグルしております(ぎゃーっ!)。そこで気をとり直して、せめて「織田秀信」の母(徳寿院)が塩川氏であったという確証を得ようと、北陸・金沢まで「塩川孫作」(岐阜落城時に秀信から感状を与えられた家臣)の子孫の家譜を確認に出向いたのですが、こちらも「微妙な空振り…」に終わりました。
* と、いうわけで、「大津市歴史博物館」において、来たる2020年10月10日(土)~11月23日(月・祝)、開館30周年記念企画展として「聖衆来迎寺と盛安寺 -明智光秀ゆかりの下阪本の社寺-」が開催され、あの「徳寿院像」や「織田秀信像」も展示されます(!)。徳寿院が「織田秀信の母」であること自体は明らかと思われますが(「聖衆来迎寺文書」、美濃・「阿願寺文書」)、その出自については、目下「進藤氏」説と「和田氏」説も絡めて、「やや謎めいて」います(「森可成娘」説は可能性が低いはと思う)。ともあれ、私には「初対面」である御肖像、今からドキドキではあります。
②塩川長満の本妻は、救出された足利義輝の娘??
~「麒麟がくる」に「摂津晴門」が登場するに際しての補足~
放映が再開されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、どうやらもうじき、「片岡鶴太郎」さん演じる「摂津晴門」という(前回たまたま触れた)“超マイナーな人物”が登場するらしい、と聞いてこれまた驚いております。
ドラマでは一応「最大の悪役」らしいですが、晴門を撃退するには「熱いおでん」が最も効果的でしょう(←「ひょうきん族」と混同している)。
冗談はさておき、「高代寺日記」における「摂津ノ国(つのくに)絲丸が父、助十郎」なる人物と「塩川国満、長満」との不思議な関係については、前回連載の[信長が多田院を訪れた意図は??]の項で軽く触れております。これは「永禄の変」で自害した「摂津糸千代丸」(言継卿記、細川両家記、ルイス・フロイス書簡など)の父という意味から、足利義輝の下で伊勢氏亡き後の「政所執事」を務めていた「摂津晴門」に比定される人物です。
せっかくですので、参考資料として「高代寺日記」から、この該当箇所を引用してみましょう。この部分は同記の天正六年(1578)の後の「源長満」“名目”(プロフィール)の項に記されています。
「傳(伝)曰 始 永禄八年(1565)乙丑八月 伯耆守従五位上 同十一年戌辰正月ニ婚礼 三十一歳 室者 光源院(足利義輝)ノ娘ナリ 御コト(永禄の変)アリシ時 十三才ナリシヲ摂津ノ国絲丸カ父 助十郎 コレヲ抱テ多田ヘ退 終ニ古伯(国満)ノ養育トナリテ如此 是女子ハ土佐ノ一條殿 房家ノ落胤 辰子ノ腹ナリ 辰子縁アリテ 慶寿院(義輝母)殿ニ宮仕シ 終 義輝ノシタヒニヨツテ女子ヲ生ム 永禄三年ニ彼女子瘡疱(疱瘡)ヲイタワリ 其形見(外見)悪シ故ニ 尼ニセント兼思ワレケルニ 此乱発テ御父失給フ 助十郎カ働故ニ 古伯(国満)養子トナル 始ノ間 世ニ密スト云共 后ニサタアリ 義昭ヨリノ通ハ渡辺宮内(昌)取次申サレケルトソ聞ヘシ 世俗ノ沙汰スルハ 信長ノ娘ト云リ 當家信長ト甚シタシミアル故ニ推テサタセシナリ 實(実)ハ如此ナリ」
要するに「塩川長満の「正室」は「一条房家の孫」にあたる「足利義輝の娘」とされており、彼女が「永禄の変」(義輝殺害)の際に「助十郎(摂津晴門らしい)」の手で「塩川国満」の元に匿われた」という驚くべき内容なのです。また、(「次期将軍候補」として名乗りをあげた時点の?)「足利義昭」との連絡や、日記編者の生きた江戸時代初期には広まっていたらしい「塩川氏が信長の娘を娶ったという俗説?」なども興味が尽きません。1970年代に「高代寺日記」が「川西市史」の参考史料から外されたのは、こういった他の史料に見られない記事などから“警戒された”のが大きな要因であったでしょう。
もしこれが史実であるとすれば、晴門は「永禄の変(足利義輝殺害)」の直後に塩川国満の元に身を寄せていた事になります。前回も述べましたが、木下聡氏の「室町幕府の外様衆と奉公衆」P208によれば、「永禄の変」直後の「摂津晴門」の行動は不明とされているので、一応こちらも「アリバイ」は崩れていないのです。(晴門はその後、越前・一乗谷で「足利義昭」のブレーンとなるようです。)
なお「日記」においてはさらに、関連記事が塩川長満の訃報を伝える天正十四年(1586)条にもあります。
「十一月五日 長満卒去 四十九歳 輝山源光大居士ト号ス 此法号イワレアリ 前ニ記スコトク 室家 光源院殿ノ娘ナリシ故 故義輝卿ノコトヲ 常ニコイシクヲモワレケル故 長満ワリナク(辛く)察セラレ 古室一代ノ中 ツ子(常)ニ念セラルゝヤウニト 心指ヲ以テルト云字ヲ上ニヲキ 光源ヲ上下ニナシテ輝山源光大居士ト号セラル」
なお、前回もチラッと触れましたが、「高代寺日記」は「土佐・一条家」を含む「一条家」の存在をかなり意識して編纂されています。これはやはり江戸期の日記編纂者が、上記「一条房家の娘、辰子と足利義輝との娘」や、「一条内基」以降の「塩川家と一条家との縁」を意識した「構成」であるとは思われます。
③永禄九年、織田信長の“幻の上洛計画”と塩川氏
[「永禄の変」翌年の伊丹、塩川らの蜂起と、足利義昭、織田信長との関係]
また前回、「塩川氏は(永禄の変の)翌、永禄九年(1566)六月には、松永久秀、細川藤賢、伊丹親興らと共に、遂に武装蜂起。三好方の摂津・池田を攻めて市街戦に及んでいます(永禄九年記)」という、これまであまり知られていなかった「三好政権下末期」における「塩川長満」の動きにも軽く触れました。なお長満はこの前年に家督を次いでいます。
この知られざる事件、「麒麟がくる」の展開とも絡みそうなので、(←追記:結局一気に飛ばされた)せっかくですので「永禄九年記」からちょっと引用してみましょう。なお「永禄九年 丙寅 記」(群書類従)は、「厳助往年記」で知られる醍醐寺・理性院「厳助」の著作(とすれば七十三歳)ではないか、とも考えられている年代記です(中村一「群書解題」)。
まず六月九日条に
「去月(五月)廿八日 伊丹 塩香 中嶋等 人衆三千計 池田押寄 市場忠付散々相戦 池田衆三百計切出 伊丹同道塩香内衆 彼是十二人打取云々」とあります。
結局この時の池田攻略は失敗、敗退した模様です。ちなみに「中嶋」とは「典厩殿 中嶋の堀と云処に御在城」とある、摂津中嶋城(現・十三公園付近か)の「細川藤賢」のことです。「藤」の一字は、「細川藤孝」同様、故・義輝の以前の名「義藤」からの偏諱でありましょう。
そして早くも九月五日条には
「晴 伊丹塩香両人 篠原被出 美麗言語道断 四国衆驚目云々」とあり、これは「細川両家記」における「九月中頃伊丹大和守三好方へ一味被成候也」に符合しています。四国から阿波・三好氏の篠原長房が畿内に進出し、どうやら伊丹氏、塩川共に、あっという間に三好方に降服したようなのです。
さて、この(連載当初では見落していた)「永禄九年」における塩川長満らの「謎の動き」は、東大寺の大仏焼失で知られる「三好義継、三好三人衆、松永久秀らの内紛」に関連づけて意識していましたが、近年変わりつつある諸研究の成果に鑑みれば、もう少しグローバルには、「足利義栄」vs「足利義昭」各擁立に向けた、四国~中部地方にわたる「一連の有機的な動き」の一環として捉えられるようです。永禄九年は、“幻の織田信長の上洛”さえ予定されていたようです。
私は3年前の連載第九回において、「高代寺日記」の永禄九年「九月 能勢頼幸ヨリ栗松茸至ル」の記事から「まだ能勢氏との平和は維持されています。それにしてもこの記事、塩川氏と能勢氏間の出来事の中で最も微笑ましい感じがします。」なんて、実に間の抜けたことを書いてしまいましたが(汗)、能勢氏は一貫して三好三人衆方だったと思われるので、この「栗松茸」は「戦闘の一時的終結(手打ち)に伴う能勢氏からの贈答品」であったかと反省して思い直しています。「高代寺日記」は引き続き「十二月(阿波から摂津に進出した足利)義栄 叙爵ス(実際は翌年か) 長満使以賀シ玉フ 謂有故 好ヲ通ス」と記し、塩川長満は再び「猫をかぶって」(ニャ~ォゥン)三好三人衆の下に服しています。
[youtube上の優れた解説動画群]
この複雑な「永禄九年」における「塩川氏による久々の反乱」の背景、情勢についてはつい最近、youtube上の「太田うしいち」さんの「ゆっくり歴史解説」の「空白の1年間 織田信長 幻の上洛計画」や第2話「新説織田信長「上洛戦」幕府編#1」、あるいは「いい悪いまとめ管理人」さんのチャンネル「戦国まとめ管理人の戦国談義 「織田信長ってどういう人なの?」その5「みのおわり 完」」などの動画において、簡潔にまとめられております。
“現在の新しい諸見解の多くの情報”が、“地形図上などにヴィジュアルに時系列表現”されており“ボケとツッコミの対話形式”も効果的で、これは「難しすぎる活字媒体」でも「“わかり易く”しすぎてウソになっている“テレビの歴史番組”」でも出来ない領域、芸当です。このほか、「古事鏡」さんの「畿内戦国史[9/10]幕府再興!織田信長の登場~三好長慶、足利義輝死後の動乱~」(7/10では一瞬ながら塩川国満も登場する)、あるいは本稿の特に苦手な“細川高国時代”を扱う「右京大夫政元[室町時代歴史解説]」さんの動画群にも助けられており、この場にて御礼を申上げます。これらには「参考」「引用」の文献が明記されており、ギャグとは裏腹に、実に真摯な御姿勢の動画群です。
④画像の解説、及び次回予告など
~水運に特化した脇坂安治から、水運繋がりで阿波・三好氏のことなど~
さて今回は、まとまりのない小ネタ集でしたが、「画像」がなくてはやはり寂しいので、2年前に「ボツ」にされた“幻”の「天正十三年秋、脇坂安治は能勢郡に来なかった??」の回の画像(上段)を引っ張り出しました。(こういうのが結構たまっております。)
せっかくなので、ちょっとだけ解説しましょう。(←追記:結局「ちょっとだけ」で済まなかった)
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なお、いつも文章が長すぎて(汗)画像が見づらくすみません。取りあえず、上の2点の画像を「新しいタブ」、もしくは「画像ファイル」等にそれぞれ保存され、逐次ご参照いただくカタチで読んでいただければ、スクロールの手間から開放され、より見やすくなるかと存じます。以上、宜しくお願い致します。
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[脇坂安治は天正十三年秋、能勢郡に入部するはずだったが…]
「秀吉子飼いの大名」として知られる「脇坂安治」には
「摂州能勢郡一職八千五百石、同太田郡宿村千四百五十石余、合一万石、相添目録別紙、令扶助畢、全可領知者也、天正十三 九月朔日 (朱印) 脇坂甚内とのへ」(龍野図書館所蔵文書、豊臣秀吉文書集1607)。
という、能勢郡を宛がわれた史料が存在するのですが、どうも安治が実際に能勢郡に来た形跡はありません。
「同(天正)十三年乙酉五月、安治伊賀国より摂津国能勢郡にうつされて、采地壱萬石を領す。同七月秀吉関白に任する時、安治従五位下に叙し、中務少輔に任す。八月に能勢より大和国高取の城に移りて二万石を領す。十月淡路の国にして三万石給はり、須本(洲本)の城にうつる。安治三十二歳。」(「脇坂記」続群書類従所収)。
冒頭の史料とは幾分日時が異なりますが、どうやら彼はタライ回しされた後、結局淡路一国を宛がわれています。
そして連載第15回中の第②章でお伝えしましたが、天正十三(1585)年八月~閏八月、越中において羽柴秀吉に降服した「佐々成政」(「麒麟がくる」にも1回だけ登場しました)が、赦されて大坂在住を強いられ、秀吉はそれを「不便ニ被思召、摂津国能勢郡一色(職)ニ妻子堪忍分として被下」(「豊臣秀吉文書集」2505~2511、1366、1367)
つまり、大坂での生活費として便利な様に、結局「能勢郡一職」の方は「佐々成政」に宛がわれていたわけです。秋の収穫期を目の前にした成政は、秀吉の細かな配慮に感謝したことでしょう。因みに「川角太閤記」にも「内蔵助(佐々成政)御対面被成 其後 丹波野瀬郡へ被召置候事」という記述がありました。また連載15回でご紹介した萩原大輔氏が確認された「木倉豊信氏の写しによる「筏井寿夫氏所蔵文書」」により、成政の能勢領有はさらに具体的に裏付けられました。
ついでながら、能勢郡の領有はおそらくこの後の「佐々成政の肥後移封」により、大半は豊臣家に収公され、その後
* 「結城ジョルジ弥平次(当時、小西行長家臣)の所領である能勢」(詳細不明。「余野」周辺か?。ルイス・フロイス「日本史」(第2部110章)1588年)や、
* 「水野忠重」に「能勢郡内参千五百七拾四石」が「天正十五年九月廿四日」付で宛がわれる。「下総結城水野家文書」及び「能勢郡旧領主并代々地頭役人記録」
* 「島津義久」に「在京賄料」として能勢東郷を主とした「五千百二十六石」が「天正十六年七月五日」付で宛がわれる(島津修理大夫入道宛知行方目録)。
といった情況です。このほか、「加藤清正」が能勢を領有していたという伝承があり、能勢町倉垣には清正を祀った「清正公堂」が建てられています。というと「どうせ伝説でしょ」と笑われそうですが、清正は若い時分には意外にも「文吏」として豊臣直轄領の管理などに携わっていたらしく(大浪和弥氏「加藤清正と畿内 肥後入国以前の動向を中心に」)その信憑性は決して低くないと思われます。
なお、「佐々成政」は(越中領以外は)能勢から「肥後」へ移封されたわけで、成政の後継として「肥後」へ入ったのが、やはり能勢に縁のある(?)「結城ジョルジ弥平次」(主君である小西行長と共に)と「加藤清正」でした。そして「島津義弘」はもちろん「薩摩人」です。能勢郡はどうやら豊臣家における「九州関係者用地」の傾向があるようです。
なお南隣の川辺郡北部を領有していた「塩川氏」は、「佐々成政切腹」のやや後に滅亡しています。
なお、能勢・東郷が島津氏の領有となっていた天正十九(1591)年九月、大和大納言家(豊臣秀長、秀保)の家臣であった(能勢物語)と思われる「前領主・能勢頼次」は、現・領主である島津氏の許可を得て、島津氏奉行人立会いの下、氏神である「布留宮」(現・野間神社)の本殿を再興しています(「東郷村誌」所収の同社本殿棟札)。この時、島津氏の氏神「住吉大社」の祠もまた境内に勧請・建立され(上同)、その祠は「島津氏領有の痕跡」として今に残って(!)います。
[水運に特化した脇坂安治]
結局、「脇坂安治」は能勢や高取に入部せず、「仙石秀久」から「淡路・洲本」を引き継ぎました。その最大の理由は、彼がいつの間にか「水運のエキスパート」に成長し、秀吉もこの部下を、山地に閉じ込めておくのは「宝の持ち腐れ」と判断したからでしょう。
こうした安治の姿はごく近年、龍野歴史文化資料館や東京大学史料編纂所、兵庫県歴史博物館によって整理、修復された「龍野神社旧蔵文書」などから明らかになったようです。
脇坂安治は洲本に移封される二年前、天正十一年六月五日、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の戦功で「山城國下津屋と太井(田井)と云所」(脇坂記)を与えられました(現・久御山町)。この地は「木津川」がまさに「淀川」、「桂川」と「三川合流」するやや手前の地に位置しています(画像①)。なお、木津川の上流は伊賀国であり、川の名前自体が、伊賀からの材木運送に由来しています。
なお、画像①左に見える「石清水八幡宮寺」は、中世の淀川の舟運や、京における海産物の卸売りを扱う「淀魚市」に大きな利権を持っていた存在で(今谷明「兵庫北関と淀魚市」)、今も山下(さんげ)に「航海記念塔」(!)という中世の巨大な五輪塔が祀られています。
さて、天正十二年(1584)、秀吉側と抗戦した伊賀が平定され、脇坂安治は伊賀の城々の「破却」など(脇坂記)伊賀の仕置を担当し、また「禁裏の造営」や「淀橋の架け替え」に使用する木材を、伊賀から筏で京方面へ搬送する奉行を務めました。
そして淡路へ転封後の天正十四年(1586)にも、六甲山麓「灘」地域の扇状地に分布する「円礫」を大坂城の「ぐり石」として搬送しています(龍野神社旧蔵文書)。
こうして次第に「水軍の将」に特化していった「脇坂安治」は「小田原の陣」(下田城攻略)や「文禄・慶長の役」(「唐島の海戦」「熊川の海戦」など)において、やはり「水軍の将」として活躍しました(飯田久「群書解題」)。
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「脇坂安治」は現在、「日本の戦国ドラマ」においては、知名度はイマイチですが、なんと「韓国の歴史ドラマ」では「李舜臣の好敵手」という役どころで「知らない人はいない」存在だそうです。(サイト「カクヨム」中の「夜間飛行」さんの「海馬戦記 -脇坂安治を探して-」より)
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脇坂安治にとっての「水運の学校」がこの「田井・下津屋時代」であったのでしょう。ともあれ、たとえ安治が「能勢」に封じられていたとしても、時代の欲求が彼を再び「水辺」に引きずり出したこととは思われます。
[2006年“幽霊舟”の旅]
さて次は画像③にまつわる雑談、バカ話でございます。
これは2006年11月25日16時6分に撮影された「川下り」時の写真です。
たまたま、平安時代後期の久安三年(1147)、京・仁和寺門跡の法親王「覚法」(白河天皇の第四皇子)が、紀州・高野山まで参詣に出かけた際、まず桂川沿岸の「梅津」(現・京都市右京区)から舟に乗って出発した、という記録(御室御所高野山御参籠日記)に接したので、「せめてその出発日だけでも追体験してみよう」と、衝動的に試みたものです。
舟は1989年頃、当時“カヌーブーム”で比較的安価で輸入、販売されていた「東ドイツ」(ドイツ民主共和国)製“Pouch”の“Faltboot”(ファルトボート:折りたたみ式カヤック)E-65です。“Pouch”は「プーフォー」とカタカナ表記されていました。
因みに「嵯峨・嵐山」などは今でも大きな製材所があって、かつての筏流しの港津の面影も感じるのですが(画像④)、一方の「梅津」は、現在では「東梅津」に“津”の名残が“ごく微か”に窺える程度で、もはや一隻の舟も係留されていません。「西梅津」の方は平安時代前期以来、「橘氏」の氏神であった「梅宮大社」を頂いており、その神職は「橋本家」(梅津にあった橋が由来か?)でした。
かの「山科言経」も、勅勘(連載第14回参照)を蒙る直前は「梅津」に田畠を領有しており、「言経卿記」には年貢の請負をしていた梅宮社の「橋本孫助」なる人物が頻出します。なお、つい先代の神職、故・「橋本以行」氏は戦前、なんと海軍兵学校に入られ、大戦末期には潜水艦「伊58」の艦長もされていました。平安時代の“津”が後年「潜水艦乗り」を輩出していたという…。実はここから、「広島に投下された原爆」や、果ては「映画“JAWS”(1975)の設定」に至るまで、「この世界」は繋がっているのですが、その話はまたいつか、ということで…。
ともあれ、私は早朝に梅津の「松尾橋」の下で、“Uボート”ならぬ旧・東独製の“Fボート”を組み立て、「今日中にどこまで下れるか?」というテーマに挑みました。
(出航時、橋の下で偶然「嵯峨美術大学」の学生と思しきグループが、何やら映画の自主制作ロケを行っていたので、ひょっとしたら作品に写り込んでいるかも…)
しかしこの川下りは、予測はしていましたが、結果は散々。5ケ所の堰で舟を下ろし(このうち魚道を下れたのは1ケ所のみ)、1ケ所の「テトラポッド地帯」の隙間を、舟を担いで川面を這い、その度に一旦岸に降ろした荷物を取りに上流側に歩いて戻り、下水処理場の下流では黒い汚水にまみれ、ズタボロになって早くも「大山崎手前」で陽が傾いておりました。
さて、最後の難所である大山崎南の「瀬」(舟が布製なので。おそらく近代の流路直線化で露出した岩盤か)を越え、ようやっと人心地がついたので、自作の帆柱と帆(ジャンク風)を装着して「真追手」の風に乗り、三川合流地点(画像①左端)を通過して摂津国に入り、暮れなずむ水無瀬~橋本間の水上を滑っているのが③の画像なのです。
そういえば文禄(1592)元年十二月十四日、泥酔した「近衛信輔」がこの左岸の橋本から舟に乗って大坂へ下り、そのまま肥前・名護屋まで下向しています(連載第13回)。
この時突然、右岸の暗がりで釣をしていたらしいオジサンが「うわああ!帆掛け舟やああ!!」と、殆んど「オバケが出たああ!!」くらいのノリで叫ぶのが聞こえました。オバケといえば当地には確か「夜、無実の罪で処刑された山崎橋の燈明守をしていた娘の生首が飛ぶ」という伝説がありました(「怪奇大作戦」を思い出すなァ)。また、平安時代末期の「信貴山縁起絵巻」冒頭における、「空を飛んでゆく蔵」を「待ってくれええ!!」と皆で追いかける場面もここでした。
ともあれ、私はオジサンが「カヌー」という横文字ではなく、古風に「帆掛け舟」と呼んでくれたことに非常に満足しました。何よりも“昔の川下り”の気分を味わいたかったので「帆掛け舟やああ!!」なんて、最高の「合の手」ではありませんか。
この後、右岸の「中島本町」…ではなくて(汗)、ようやっと「高浜」(大阪府島本町)に上陸(16時30分)。舟を分解して終了しました。
因みに平安時代中期の「菅原孝標の娘」が「夜、“高浜”という所で停泊していると、“遊女の唄”を披露する舟が漕ぎ寄せて来た」(更級日記)と記録した「高浜」は、ここよりずっと下流である、神崎川の右岸、現在「大幸薬品吹田工場」のあるあたりです。
さて、例の仁和寺門跡「覚法」の方はといえば、「梅津」を出発したのが「天漸明」(空がようやく明るくなる頃)で私よりやや早く、「於鴨河尻」(鳥羽)で「乗移大船」し、「申刻」(16時)にはなんと「窪津」(現・大阪市天満橋付近)に上陸して「乗輿」、すなわち輿に乗って陸路を南下し、「酉刻」(18時)には「到 住吉前浜」(住吉大社前)で「新造」の屋形船に乗り移り、そのまま艇内で一夜を明かして、翌朝に和泉・「日根湊」(現・泉佐野市)に向けて出航しています。
平安時代の「覚法」様、「♪~あんたの時代は良かった~」という感じです。まぁ、中世より優れている点は「通行税を徴収する関所がない」ことでしょう。(あるわけない…)
さて、高浜の川土手で、折りたたんだ舟を灰色のリュックに詰め終わった頃、あたりは既に真っ暗で、寂しい旧道沿いに、専用の「折りたたみ台車」をゴロゴロ引きずって駅に向かいました。そのタイヤには“MADE IN CZECHOSLOVAKIA”と刻印されていました。亡国の道具ばかりです。余談ながら、私は「中島」と申しますが、実はこの世には「チェコ製のNAKAJIMA」というものが結構あったりするのです(軍用機の模型なんですけどね…)。
ともあれ、無事に水無瀬駅に到着して阪急電車に乗り、私の“この世のものならぬ旅”は終わりを告げました。
[城下町はなかった(?)三好長慶の飯盛城]
さて、水運にまつわる話を延々申上げてまいりましたのは、次回の連載において、水運のエキスパート、阿波出身の「三好長慶」の本拠、河内・飯盛城(現・四条畷市、大東市)に触れたかったからです。
下段画像は、飯盛城から遠望した、我が東谷方面の光景です。獅子山城は見えませんが、羽束山(香下城、三田市)や、銀山の城山(猪名川町)は視認出来ます。
近年、発掘調査を含む飯盛城解明への動きには目覚しいものがあり、その成果は四条畷市教育委員会や大東市教育委員会の各ホームページにおいて、縄張図や赤色立体地図、復元イラスト、石垣等の遺構写真など、良質でヴィジュアル満載の資料(PDF)類を複数ダウンロード出来ます。
一方、飯盛城は現在「城下町がなかった」という評価が定着しています。既存の商人の流通ネットワークが発達していたから、城下町は不要だった、ともいわれています。また、「城下町の都市機能の代わり」を近隣の「三箇」、「砂」、「岡山」などの「町」が果たしており、飯盛城の「外港」は「三箇」であったとされています。(「飯盛山城と三好長慶」、戎光祥・2015)
なお、三好家の家臣達は皆、山上の「城内に家族ごと住んでいた」、つまり「侍町」は城内そのものであったので、飯盛における「城下町がなかった」とは「町場(商工業地)がなかった」ことに意味が限定されます。
確かに飯盛山麓には、(例えば)甲斐・武田氏の「甲府」や美濃・斎藤氏の「井口」(岐阜)、尾張・織田信長の「小牧」のような「大規模城下町」の痕跡は見当たらず、加えて三好家と「堺」をはじめとする大都市やその商人との繋がり等を重視すれば、刺激的な「新規城下町」を造らなかったという「無城下町論」は大筋としては理解しています。
[「山下」が無ければ城内は飢餓に…]
しかしながら、そういった次元ではなく、「無城下町論」では「飯盛城内に住む、支配者階級でもある、大消費人口が、日常の生活物資をどのように得ていたか」という具体的な映像がどうしても思い浮かべないのです。「町人地の無い江戸」が想像出来ないように。
「流通ネットワークが発達」といわれても、AmazonとかUBER EATSみたいに、比高300mの城まで配達してくれるわけでもないし…。「無城下町論」とは具体的には
「昼間は「仮設店舗」で賑わうが、日が暮れると店舗が撤収され、「振り売り商人」は各々の町に帰ってしまい、「夜間人口が激減」する」という意味なのでしょうか??。ともあれ冷蔵庫も缶詰もない時代です。
また、都市機能を代替わりしていたという「町」に至っては、「キリシタン集落ばかり」が挙げられているし(異教徒はどうするのか?)、日常の買い物には「遠すぎる」し(特に夏は大変な体力の消耗)、そもそも「町としても小さすぎる」(商品の奪い合いにならないか?)というか、「本当に「町」なのか?」という規模でもあるし、「舟で渡らなければならない“外港”」(2度手間である)なんて「発想が近・現代的」すぎるし、そもそも「イエズス会側の史料」に「これらの集落が商業で賑わったという記述」自体が存在しないし、なにかと「違和感満載」なのです。
加えて、こういった「復元案」には「“籠城”を念頭に置いた基本的な危機管理」や「物資の補給計画」が一切感じられません。
「飯盛落とすのに“城攻め”いらぬ。街道の二、三本も封鎖すればよい」で簡単に「干殺しの危機」に直面するのでは?と危惧するのですが、皆様如何思われますでしょうか。
[「北条」という「大手?」直下の集落]
代わりに私が注目しているのが、目下「過小評価」されている(というより“無視”に近い)飯盛城直下の集落「北条」です。小さな集落ですが、城から「最短距離」に位置する「大手」と思われる「城ヶ谷」の正面直下に「市場」という旧字名(!)が残っています。これは近江・六角氏の「観音寺山城」の麓「石寺」を思わせるポジションです。(「大東市史」(1973)の段階では指摘されていました。なお「飯盛山城と三好長慶」P49図においては「麓北市場」(私心記)が全く見当違いな場所に推定されています。)
また、「北条」は「水運」の面でも、権現川を通じて、実質的「外港」であったと推定される「津の辺」(「飯盛山城と三好長慶」P49図では水没させられている…)と共に、平底小舟程度であれば「深野池」から直接アクセスも可能であったでしょう。物資搬入には最適のロケーションなのです。(元亀元年(1570)、敵前の「野田・福島」へ物資搬入して橋頭堡を築いたという、あの「水軍の阿波・三好家」の山下(さんげ)ですよ!)
というわけで、次回は「寿々さん」ではなく、「北条さん」が主役です。
[“超アウェイ”の中で]
実はこのテーマ、「麒麟がくる」に登場するであろう「三好長慶」を意識して、昨年の今頃に盛んにフィールドワークしておりまして、昨冬にはアップする予定だったのですが、(悪いクセで)膨大になり過ぎて一旦スランプになったヤツです(連載第18回冒頭で触れている)。複数の方に助言も頂き、不義理も重ねており、次回はなんとか「吐き出して」みたいと思います。なおドラマ中ではつい先ごろ、長慶さんが“飯盛城で薨去”されてしまい、結局間に合いませんでしたが…。
なお、「飯盛城」は三好氏以前に「木沢長政」や「安見宗房」が城主であった段階もあるのです。特に「木沢長政」という不思議な武将は、天文十年(1541)九月に塩川国満が「多田一蔵城」(獅子山城)に籠城、三好長慶(当時越水城主)を含む攻城軍に対して孤立した際、援軍(後巻)を差し向けてくれたという、稀有な存在でした。長政のおかげで国満の「首がつながった」わけです。そして長政自身は、塩川に手を差し伸べて身を滅ぼした感もあります。不思議なご縁ですが。
さて、下段画像をもう一度眺めてみましょう。多田荘方面は「木沢長政目線」で見れば「貴重な味方のいる辺り」であり、「三好長慶目線」で見れば、「なにかと刃向かう奴らのいる辺り」といった感じです。
というわけで次回は、塩川国満に救いの手をさしのべてくれた恩人「木沢長政」及び、寛大にも“塩川氏を滅ぼさずにいてくれた”大人「三好長慶」へ捧げたいと思っています。
(なるべく早急に(汗)第22回へつづく。2020,9,29 文責:中島康隆)