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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十二回


元関白・九条禅閤稙通、獅子山の城にあらわる!!
(摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第32回)

[九条稙通“特別公演”@獅子山の城]

永禄十一年(1568)の四月~八月のある日、獅子山城主郭の大広間で、先代の塩川国満や現当主・長満はもちろんのこと、観覧を許された一部の重臣やその家族が熱く見守る中、「源氏物語」と「古今集」の講釈が開催されました。

演者は泉州・岸和田からやってきた元・関白で従一位も授かった貴人「九条禅閤稙通」(くじょうぜんこうたねみち、行空、六十二歳)でした。

「九条家」は「近衛家」「二条家」「一条家」「鷹司家」と共に「五摂家」とも呼ばれ、我が国で唯一、「摂政」や「関白」に就任することが出来る「藤原氏嫡流」の最高家格の家でした。また「禅閤」とは、関白を辞めて出家した人物への尊称です。

獅子山城にはこれまでも、細川晴元、三好政長、摂津晴門(& 足利義輝の娘)、森乱(蘭丸)、或いは織田信忠?や山名禅高(最近小説化された)といった歴史上の著名人が訪れているかとは思われますが、九条稙通は中でも「最大級の大物」と言えるでしょう。

彼はまた、古典文学の権威「三条西実隆」の孫でもありましたので、古典や文芸への入れ込みぶりは、筋金入りの遺伝でもあったのでしょう。

そして「源氏物語」の研究家でもあった稙通は、現在執筆中の源氏注釈書「孟津抄」(もうしんしょう)の一部などを塩川長満に分け与えることを約束し、城をあとにしました。

[稙通の「日記」の裏に塩川長満からの手紙が残されていた]

さて今回、上記のような「出来事」が判明した経緯についてですが…

実はこの出来事から17年後の天正十三年(1585)七月、「天下人・羽柴秀吉」は近衛前久(「麒麟がくる」にも出てた公卿)の養子となって「藤原秀吉」となり、「関白」に就任しました。

これは、これまで700年以上も関白の地位を独占してきた藤原摂関家にとっては、天地もひっくりかえらんばかりの大事件です。

しかも「九条家」の宿敵、「近衛家」の養子を経ての関白就任であったとは…
九条稙通としては、もはや二重の意味で許せない出来事でした。

ともあれ、九条稙通は、怒りとストレスにさいなまれながらも、この秀吉の関白就任にともなって起こったトラブルや、藤原氏の嫡流が近衛家ではなく九条家である由来などを日記に記し、これを「別冊」に綴じて残していたのです。

この自筆の日記、「稙通公別記」は近代以降「宮内庁」に伝わっていました。

そしてこの日記帳に使われていた「用紙」のうちの二枚が、これより17年前に九条家に出されていた「塩川長満」からの手紙の裏側だったのです。

当時、「紙」はやはり高価でしたので、五摂家の公家といえども、古い手紙や書類の「裏表」を逆にして帳面を作り、日記を書くことはごく普通におこなわれていました。単なる「節約」だけでなく、おそらく後世への「記録」も意識されていたかと思われます。

要するに、上の出来事は、その「稙通の日記の裏側である長満の書状」に記されていたわけです。

この塩川長満の手紙は当然ながら、「獅子山城の主郭」で書かれたものでしょう。
それがまわりまわって、現代の宮内庁に伝わり、令和3年(2021)に日記の帳面が解体、裏側が撮影、公開され、その全貌が明らかになった、というわけだったのです。

[長満の城に来たのは“足利義昭上洛戦”に参加するため]

では、なぜ九条稙通という、元・大物公卿がわざわざ塩川長満の居城を訪ねて来たのでしょうか?

「余興」でもなければ、「東谷ズム1568」の為でも(汗)ありません。
(ついでながら、当時はまだ「山下町」が開かれる6年も前でした。)

そして塩川長満の二通の手紙のうちの一通は、「八月二十七日」付のものでした。
これは「足利義昭」を奉じた「織田信長」が上洛戦を開始する、わずか「十日前」の日付です。

当時、すでに三好長慶はこの世になく、仲違いした

「三好三人衆 VS 松永久秀・三好義継(三好家当主)」

が戦争を繰り返し、昨年などはこの戦争のトバッチリから「東大寺大仏殿」が焼亡していました。(「戦争」という言葉が生々しい昨今ですが…)

近年の研究によれば、どうやら九条稙通という人物は、「三好義継の祖父」でもあったようです(!)。
つまり、今や「三好家当主の祖父」でありながら、同時に「反・三好三人衆」の後見人の立場でもあったという…(図に描いて整理してみましょう)

そしてこの連載をお読み頂いている皆様には、塩川長満が水面下では「反・三好」であったことはご存知でありましょう。

そして九条稙通が塩川長満を訪ねた理由も、もはや、おおよそお察しいただけるかと。

塩川長満はすでに「近江・佐和山城」に一旦出向いていた織田信長(信長公記、)と密かに連絡していました。くわえて塩川家と縁戚を結んでいた近江・六角家家臣「種村大蔵丞」を通じて、「六角承禎」へも「足利義昭上洛」に協力するように要請していたと考えられます(高代寺日記)。

つまり九条稙通は、塩川長満を通じて、彼の孫である三好義継を、足利義昭の上洛戦に加わらせるべく「外交官」として来城してきたのでした。

上の「源氏物語講演」は要するに手土産の一環だったわけです。

さて、「問題」は、「三好義継が3年前に将軍・足利義輝を殺害した“張本人”でもあった」ことでした。
今や岐阜で満を持していた「足利義昭」からすれば、義継は「兄の仇」でもあったわけです…

[波頭をこえて]

さて、九条稙通のもう一人の孫(三好義継の弟)が、和泉国の国主で岸和田城主でもあった「松浦光」(まつらひかる)という人物でした。

この松浦光の方は、すでに兄に先立って2年前から「松永久秀」陣営(反・三好三人衆)で活動していました。

ということは、「反・三好三人衆」の孫二人の祖父にして、その「後見人、外交官」でもあった九条稙通の「安全な居場所」は、もはや「和泉・岸和田城」くらいしかなかったと思われ、今回の塩川訪城も「岸和田城から来た」と推定されます。

くわえて、今回の九条稙通の訪城を手引きしたのは、やはり水面下で動いていた伊丹城主にして長満のイトコでもある「伊丹忠親」であったようです。

上画像は、岸和田市地蔵浜の埋立地から望遠で撮影した獅子山城の方面。
対岸の海岸線が、あたかも水面下に沈んでいるように見えるのは「地球が丸いから」です。

おそらく九条稙通は、岸和田から船で一直線に北上し、尼崎あたりに上陸して「伊丹城」を経て獅子山城まで来たものと思われます。

さて、これらを詳しくお伝えする為、今回は宮内庁の画像使用と翻刻(解読)の許可を取得した、豊能町教育委員会のページでお伝えいたします。

今回の長満書状の内容はまた、「高代寺日記」の記述とまさに「整合する」ものでもあり、「高代寺日記」の信憑性の証明にも繋がったからです。
(余談ながら、宮内庁もまた「高代寺日記」の近代の写本を所蔵していました)

塩川家と九条稙通の交流にしても、「高代寺日記」に記された摂津・小浜(宝塚市)の記事などが、これまで唯一の史料であり、塩ゴカでも幾度かお伝えしてまいりました。
この史料の原本が伝わったはずの「吉川・高代寺」は豊能町に属しています。

それでは、豊能町の第3会場へまいりましょう(リンク)

(つづく 2022,03,04 文責:中島康隆)

#九条稙通 #足利義昭 #塩川長満 #織田信長

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