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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十一回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十一回

~ 出現?! 「艮(うしとら)櫓」復元の試み~

[このままでは城跡が消滅してしまう!!]

もうここ10年あまり、獅子山城(いわゆる「山下城」)跡に登る度に、とても憂鬱な気分になることがあります…。あるベテラン城郭研究者が城跡で私に質問しました。「ここ、畑として耕されたの?」。

これは山頂の主郭(本丸)から東二段、東三段、東四段、東五段にかけて、つまり「現在の登山路に沿って樹木が伐採され桜の植樹がなされているエリア」に限って「イノシシにより郭面が掘り返された地表面の凹凸」を見ておっしゃった質問です。おそらく遺構面まで荒らされていると思われます。さらに最近頻繁に起こる「豪雨」も加わって土壌が流出しつつある状況です。私が憂鬱なのは「今、城跡が消滅に向かって進んでいる」という事実を見なければならないからです。

決して大げさな表現ではありません。私は草木が無くなり、保水力を失ったある城跡が、ここ30年ばかりで「土の無い石だけの山」と化してしまった近隣の事例を見ています。

1997年頃まで、いわゆる「山下城跡」はイバラや篠を含むブッシュが高密度で生い茂っていて、実測するのも大変でした。当然、地表面は腐葉土で覆われ、「遺物」などめったに見かけませんでした。それが10年ほど前あたりから地表面に遺物が頻繁にあらわれ出したのです。

樹木を伐採しすぎたこと、イノシシによる掘り返し、そして降雨による洗い出しの結果です。この10年、城跡は確実に「減りつづけて」います!。30年後の姿を想像すると、恐ろしい…。遺物から得られた情報から多くのことがわかりましたが、城跡自体が無くなってしまっては元も子もありません。今、対策を始めなければ手遅れになってしまいます!。

第1段階。耕運機のように地面を掘り返すイノシシの侵入を防ぐことがまず先決です。現在、防獣ネットが使われていますが、これが全く無力なのは見てのとおりです。少なくとも急激に荒廃しつつある上記の郭群だけでも金属製のフェンスで囲うことが急務です。

第2段階は、地表面に植生を甦らせて保水力を高め、降雨による土壌流出を止めることです。比較的自然状態に残されている「北西尾根の郭群」は程よく樹木や腐葉土で覆われています。こういったところまで戻せたら理想ですが。

この二つが目下、城跡に関する「最優先課題」と思います。ここまで残されてきた城跡を亡くしてしまっては後世に顔向けが出来ません。この文章を読まれた方でこうした対策実行に経験や良案をお持ちの方、どうかご意見をお聞かせ下さい。(補注1参照)

さて、このような複雑な心境を踏まえつつ、今回の本題に移ります。

[「櫓台」から礎石が顔を出す]

連休初めの4月29日、久々に獅子山城跡に登って驚きました。山頂である主郭土塁の北端、三角点のある通称「櫓台」上面になんと、礎石がひとつ、顔を出しているではありませんか!(これも土壌流出の副産物です…)。写真①は南側から撮影したもの。右手前の石がそれです。刷毛で掃除してみると直径が60cmほどもあります。ちゃんと平面側を上にしていて「据わりのいい」実に安定した風格です。これまで城跡で「礎石っぽい石」はいくつか見てきましたが、礎石と断定出来る石に出会ったのは初めてです。

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[当城で使われた石材について]

この礎石をはじめ、獅子山城において石積み、石垣の築石(つきいし)、石垣の裏込め石(ぐり石)に使われたと思われる「石材」は全て、大路次川河川敷から調達したと思われる大小の強靭な「円礫」が使われています。山の基盤岩を構成する泥質岩~チャート質泥岩~砂岩などはいずれも風化が著しく脆弱なので、築城時に「城の石材として使うな」と厳命されたのでしょう。また山の標高180m以上の尾根線には基盤岩上に薄く「大阪層群」と呼ばれる未固結の堆積層(いわゆる「洪積層」)が乗っており、こちらも円礫を含みます。大阪層群由来の円礫は、獅子山城跡地表面や向山城跡、あるいは城山背後の標高200mあたりの尾根線でも確認出来ますが、これらは風化が著しく、礫径もせいぜい2~3cm以下が大半です。礫層は山裾の山麓郭群基部や、美術館北の城山斜面崩落部、平野神社裏の登山道登り口においても、「山下町の段丘構成層の続き」と見られる層が分布していますが幾分風化しています。後述しますが、獅子山城跡で時折見られる大量の「拳大の強靭な円礫」は、石垣の裏込め石として、大路次川河川敷や、段丘礫層から風化していないものを調達したと思われます。(なお向山砦の南部、「升型痕跡」切岸には破却された石積みと思われる石列が見られます。石の風化度合いから、これらは山の石で築かれたと判断されます。)

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さて、話を戻しましょう。礎石の出現に(複雑な心境ながら)驚いた私は、副郭にある「バーベキュー道具小屋」から「鉄の棒」をお借りして、礎石から一間(いっけん:2m前後)間隔くらいの地面をあちこちブスブスと突付いてみました。その結果、礎石の北側一間、さらにそこから西北西へ一間離れて、地表面のすぐ下に大きな石が顔を出しかけているのがわかりました。早速刷毛で掃除してみると、同様の大きさの、安定した円礫が顔を出しました。

写真①、及び図面③をご覧下さい。礎石を黄色の矢印、黄色の点で示しています。ちょうど三角点を囲むように、2方向の軸線が108度の鈍角を形成する逆L字型に並びます。状況から、かつて北東の礎石は顔を出していて、三角点は礎石を避けて設営されたように見えます。

礎石の芯~芯の間隔はおよそ2.1~2.2mほど。一間:七尺といったところでしょうか。左奥の礎石上面はやや西(左)に傾斜しており、微妙に「崩れかけている」のかもしれません。すぐ西に斜面が迫っており、斜面に礎石、もしくは石垣由来の転石(大きな円礫)が2点みられます(図③)。北側の転石は平瓦を「踏んづけて」います。

なお、以前からこの三角点より西側の「櫓台上面~肩部にかけて」しばしば軒瓦を含む瓦片が表採されていて、私はこれを不思議に思っておりました。

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たとえば、石垣造りの櫓台上に建てられた瓦葺きの櫓を「破却する工程」を想像してみましょう。

まず屋根の瓦を落とし、次に建物を解体します。櫓台下には瓦礫が散乱し、その上を崩された壁材が覆うでしょう。

次にバールを用いて石垣の上部築石を崩します。築石は瓦礫や壁材の上に重なります。築石が転落すると、その裏側の「裏込め石」が崩れ、築石の上を覆います。さらに長年の降雨により一番内側の土壌が築石や裏込め石を覆います。こうして石垣造りだった城跡は、角の丸っこい、いかにも中世の城といった感じの「土の城」に化けてしまうのです。こうした城跡は、斜面の所々に不自然な巨石や、河原石がゴロゴロしていて、稀に瓦片なんかが表採されたりします。そして発掘調査をしてみると、意外にも地中に石垣の下部がきれいに保存されており、旧地表面から大量の瓦片が見つかって、「ここは近世城郭だったのか!」と驚く、という図式です。

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もし、「櫓台」の天端いっぱいいっぱいに櫓が建っていたならば、櫓台上面からは瓦は見つからないはずです。このため、昨年までの「戦国1日博物館」では櫓台、及びその南に伸びる石塁の「西内側に(穴蔵式に)櫓台に片足を掛けた」櫓を想像して、模型やイラストで展示していました(当連載第1回のポスター画像右上参照)。ちょうど会津若松城天守(二代目)のように、天守台天端まで建物はなく、天端上には塀が建っており「櫓台~石塁上面は武者走りだった」という復元案でした。しかし今回礎石が確認されたことで、往時は建物が礎石ラインの「外側」に建っていた可能性が高まりました。軒瓦を含む瓦片は礎石ラインより内側の「櫓台上面」に多く見られました。礎石ラインより外側からは、表採される瓦が殆んど無く、「空白部」になっていました。空白部は「ここに建物が建っていた」ことを意味します。つまり、瓦は軒先から、建物の内側テラス上に落下したものだったのです!。

[建物の規模や形は?]

礎石はいずれも直径60cmあまりと大きく、瓦も天正初頭の織豊城郭で見られる技法、規模の立派なものです。位置的に城の最高部でもあるので、「天守か?」と言いたいところですが、櫓台のすぐ東北東下には、城との尾根続きを断ち切る「二重大堀切」が迫っています。建物を復元できるスペースは限られています。せいぜい幅二間か二間半といったところです。そこで「最低限」の二間幅を想定し、表採瓦片の分布や種類、形状から「L字型平面の隅櫓」を想定して見ました(画像③、④、⑤)。ちょうど岡山県の備中松山城にある「二重櫓」くらいのサイズです。しかし、こんな小さな規模であっても、現在の主郭北東天端は、かつてより、「3~4m崩落により後退している」ことになります。

当城の最も弱点である尾根線側に設けられた二重大堀切。そこを超える「折れを伴なう通路」や「土橋」。まさにそこを見下ろすポイントに設けられた「監視塔」「銃砲台」としての隅櫓であったと思われます。主郭から見て鬼門にあたる艮(うしとら、丑寅)方向でもあるので、仮称ながら「艮櫓」と命名しました。

[獅子山城における石垣について]

1997に山下で聞き取り調査をした時、山下の藤巴力男さんから「近代になって城山の東七段にある愛宕神社を建てた時、その基檀や石積みの石(画像⑦)は「山頂の城跡から」調達したらしい」との情報を得ました。近年になって藤巴さん自身により、この時の自治会文書が発見されました(「城山神社建築工事費報告」昭和五年四月十五日。画像⑧)。かつて獅子山城に部分的ながら石垣が存在したことが証明されたのです。なお愛宕神社本殿の基檀に見られる石には方形の加工石も一点存在し、天正前半の石垣にしばしば見られる、墓石等の「転用石(旧甘露寺跡から?)」が「再転用」された可能性もあると思います。

また、未確認ながら、笹部の平野神社を整備した時も城山の石を使ったとの情報もあります。これが事実であれば、相当量の石垣が城跡から撤去されたことになりますが…。笹部の自治会文書に資料が残っているかもしれません。他に「水の手」にあたる吉秀神社の基檀なども同様の石です。但しこの神社の境内周辺は城山の「擂鉢状地形の底」にあたるので、崩落してきた転石を利用しただけかもしれません。これら三社の石はすべて、上述した強靭な「河原石」です。

斜面などにわずかに残る石垣築石と思われる転石や、斜面に散在する「裏込め石」と思われる円礫の分布から、当城において「石垣」が築かれたのは、主郭北東角(上記櫓台)、主郭「土塁」内側の北半二十数m、主郭南面(崩壊が著しくわかりにくい)、あと、ひょっとしたら主郭と西帯郭間の小さな段差などにもあったかも知れないと思っています。

天正前半の摂津国において、こうした「裏込め石」を用いた「石垣」が目下確認されているのは他に「有岡城」、「兵庫城」、そして謎の「吉川井戸城」くらいで、いわゆる「織豊系城郭」に限られます。この推定石垣位置は斜面に散在する瓦片の分布から推定される「総瓦葺建築」の位置と重なります。つまり石垣と瓦葺建築はセットになっていたということです。

(また、裏込め石を用いない小規模な「石積み」らしき遺構が、古城山中央谷の旧登城路最上部に残存しています(当連載第1回のポスター画像右上参照)。こうした「石積み」の痕跡は西三~五段の一部、上記向山砦の「升型虎口」、他に塩川氏の支城と考えられる猪名川町城山の「いわゆる“銀山城”」にも見られますが、中世城郭としては特に珍しい存在ではありません。)

[「艮櫓」の石垣について]

さて、再び画像③の図面をご覧下さい。主郭北東角の櫓台~土塁にかけて裏込め石と思われる円礫の分布範囲を薄青色で表現しています。推定される石垣の範囲というわけです。比較的安定している土塁内側エリアには今でも「石垣下部」や一番下の「根石」が地中に残存しているかもしれません。大胆ながら、画像④において土塁「内側の石垣」として復元してみました。恥ずかしながら、幾通りも考えられる復元案の「ひとつのタタキ台として」ご笑覧いただければ幸いです。復元→訂正→復元→訂正→……の繰り返しが肝要かと思います。

ふたたび地図③に戻って、右上の青い点(根石?)をご覧下さい。櫓台下5mの北北東斜面に1点だけ、他の転石に混じって、残存している根石らしい石があるのです!。

上のステレオ写真(平行法)②はこの石を北北西側から撮影したもの。さほど大きな石ではありませんが斜面では唯一「据わりのいい石」で裏には「裏込め石」らしき円礫を伴っています。土の上に乗っています。1点だけでは判断出来ませんが、正面の「走向」はN55°Wくらいです(地図③の点線矢印の伸び方向)。検出された礎石ライン方向に近い方位ではあります。この石を根石として石垣を想定すると、櫓台上面まで高さ5mになります。丹波の「須知(しゅうち)城」主郭の石垣くらいの高さです。

思い切って復元した模型写真が画像④、⑤です。昨年復元していたものを削ったり、膨らませたりして、建物は石垣上に張り出してみました。言わば「復元案Ver.2」です。「石が丸っこいので直角の隅を造るのは難しい」、「織豊期には隅が鈍角の「シノギ角」が多い」、「鬼門除けとして角を落とした」、「高石垣は難しいので近江宇佐山城みたいなテラスを設けてみた」、「礎石ラインの方向との擦り合せ」などなどを考慮致し、こんな模型になりました。これも笑って見て頂ければ幸いです。「と、すれば向かって左側(東)の「高石垣」はちょっと無理かな?といって階段状にするスペースも無いし…」などと今反省しつつ執筆しております。そのさらに南の「多聞櫓」(後述)下の切岸も、現在は微妙に緩やかで、おそらく崩壊→後退していると思われ、かといって斜面には円礫も見られないので、ひとまず「土の切岸」として復元しました。

次に画像⑨をご覧下さい。こうした石垣を構成した石の大半は長年の間に崩落したとみられ、斜面→大堀切→車谷底→谷川に沿って下流へ移動しつつあると考えられます。斜面は急峻であるうえ、石は円礫である為、300m下の谷底まで簡単に転がり落ちてしまいます。現在車谷の谷川には「大堀切より下流側に限り」山の基盤岩と異なる岩石からなる「強靭な円礫」が見られるのです(写真⑩)。自然では有り得ないこれらの石は、かつて人の手によって城山に持ち込まれた大路次川の河原石が、主郭から崩落して再び大路次川に向かって帰りつつある「旅の途中」なのに違いありません。

[獅子山城における瓦について]

1994年の末であったと思いますが、「山下城」(当時は私もそう呼んでいた)の地形模型を作るために、城跡の実測を山頂の三角点から始めた時、この「櫓台」上面で初めて瓦片を見つけて驚いた記憶があります。

当時は「昭和頃の典型的な中世の山城のイメージ」でこの城を見ていました。つまり「山麓に平時の居館がある」、「有事の際にのみ山上の詰め城に篭る」、「いずれも屋根は板葺きで、詰城にはせいぜい小さな掘建て小屋がある程度」、「詰城は土の造成だけで石垣はない」といったイメージでした。もちろん川西市史に書かれた塩川氏後期の歴史も信じきっていました。ですからこの瓦の「発見」は私にとって「えっ、何これ?!」と塩川氏に関する「常識」が崩壊し始める、まさに嚆矢だったのです。

さて、獅子山城における瓦類はほとんど山上の主郭のもので占められています。製作技法的には天正初頭前後のものが1種類あるきりのように思います。したがって瓦が使用されてからごく短期間のうちに城は廃絶したとおもわれます。長期間存続する城は、様々な時代の技法を示す瓦を有するからです(他の遺物からも同様に思います)。

例えば丸瓦は凹面に糸切り痕を残すいわゆる「コビキA」のみ。軒丸瓦、軒平瓦の「瓦頭文」も一種類のみです。軒平瓦は同時代「他に例を見ない桔梗紋の中心飾」を持ち、これはひょっとしたら「日本最古の家紋瓦」ではないかと思っています(連載第四回参照)。瓦頭唐草文は「堺環濠都市遺跡」や「肥後、麦島城」出土のもの(山崎信二「近世瓦の研究」参照)に似ているように思います。軒丸瓦は1点の「釘穴」を持ちますが、軒平瓦は凸面に設けた短い「ブロック状突起」をストッパーとしています(画像⑥左上)。軒丸瓦瓦頭(巴文)は小片しか採取しておらず文様全体は採取していません。連載第一回ポスター右上の画像は複数の破片からPhotoshopで回転→合成して「復元」したものです。軒瓦類は丸、平共に「異常に点数が少ない」印象を持っています(供出された可能性?。後述します)。

城跡全体では、平瓦が圧倒的に多く、これは一部縦に半裁した「熨斗(のし)瓦」として棟押さえに利用されたものも含みます。他に丸瓦、伏間(雁振)瓦、掛瓦、正体不明道具瓦があります。

また主郭下西北西斜面において「鬼瓦」の右下角を採取しています(連載第一回ポスター右上)。右下に「丸瓦に乗るための切り欠き」があるため、総瓦建築の「降棟(くだりむね)」に使用されたと思われます。鬼の立体的な「顔」の部分は剥落していますが、鬼板面上に「イナズマ型に」線刻された鬼の「顎髭」だけが残っています。このような「顎髭表現」は珍しく、文禄四年銘を持つ、土佐・浦戸城から受法寺に転用された鬼瓦の顎鬚が酷似しています(山崎信二「近世瓦の研究」参照。連載第一回ポスター右上の「鬼の顔」は同書から使わせて頂きました)。この瓦(一対)にはそれぞれ「泉州大鳥郡深井郷嶋村」、「文禄四年霜月吉日丹治吾左衛門」とヘラ書きされており、瓦工が泉州人であることがわかります。上記、軒平瓦における唐草紋が「堺環濠都市遺跡」から出土したものと酷似することを考え合わせると瓦工はあるいは泉州系かもしれません。なお、近隣である多田院で使用された瓦類(川西市教育委員会によって発掘調査された)と共通する要素はほとんどありません。

さて、往時は主郭において「総瓦葺の建物」が複数建っていたと思われます。また、主郭で見られる瓦片の中には「棟押さえだけ瓦を利用した板葺建物」由来であるものも含まれているかも知れません。

主郭における瓦を用いた建築物は、郭面や斜面における瓦片の分布から、「櫓台上から土塁北半分上面にかけて」、「主郭北西部」(画像⑨参照)、「主郭南端(天守か?)」の3ケ所を想定していますが、今回礎石が検出された櫓台上以外は位置、規模共に漠然としています。

他に少量ながら東三段郭、東五段郭でも軒瓦を含む瓦片を採取していますが、本来当郭にあったものなのか、あるいは主郭から「崩落、移動」して来たものなのかどうかはわかりません。例外は主郭から「移動不可能な」西三段郭北斜面に散在する瓦片です。当地で採取される瓦片は少量ながら、丸瓦が少なく、伏間瓦率が高く、平瓦は「横方向につながった破片が無い」、つまり平瓦を縦に半裁して熨斗(のし)瓦として利用されたと思われ、西三段郭には、板葺に瓦の棟押さえを持った建物があったのでしょう(連載第一回ポスター右上参照)。

これら西三段、東三段、東五段の郭は、輸入陶磁器など他の表採遺物からみても格式が高かったと思われ、「瓦の使用を許された幹部」が居住していたかと思われます。「高代寺日記」において「山城丸(山城入道の郭)」、「民部丸(民部丞の郭)」と表現された家老級の郭はこれらのいずれかと思われます。

また、「塀瓦」は無かったと思います。塀に瓦を使うと、伏間瓦と軒瓦の比率が高まるはずだからです。「大坂冬の陣屏風」において描かれた総構えのように、櫓建築のみが瓦葺で、塀は板か草で葺かれていたかと思います。

また、瓦を葺くのは「見場」だけではなく、連載第九回で触れたように、天正期には鉄砲で発射する「火災目的の焼夷弾」が存在していた可能性もあるので、耐火性という実用目的も考慮する必要があるでしょう。なお主郭北西斜面において、わずかながら火災痕跡かもしれないやや橙色を帯びた瓦(はっきりしない)を採取しています。「高代寺日記」天正六年十一月に「西ノ蔵為放火焼重物多焦土トナル」の記事があり、荒木村重叛乱時の放火と思われますが、明瞭な焼土なども見出していません。

最後に、山麓郭郡においても瓦片は散見されますが、近世以降のものと思われます。このうち1点の丸瓦(コビキBか)が火災による2次焼成を受けています。(これも毎年展示しています)

[櫓台周辺の瓦片から建物を推定してみる]

さて、写真⑥がこの櫓台周辺で採取された瓦片です。特徴として、城内の他所で採取された瓦片に比べて「破片が大きい」、つまり「あまり壊れていない」ということがあげられます。「破却された建物に近い」というのも一因でありましょう。左下の軒平瓦は、三角点のすぐ左(西、写真①)に裏返しに落ちていました(これも土壌流出の副産物です…)。今回見つかった礎石位置から、「高度差の少ない軒先からポタッと落ちてそのまま」眠っていたのでしょうか。右隣の丸瓦(南側礎石の南南東6mで採取)は城内唯一の「完形」遺物ですし、となり平瓦片2点(櫓台北西斜面)によって、初めて、獅子山城における平瓦の縦、横の「フルサイズ」がわかりました。

平瓦の右に「掛瓦」とあるのは建物の「妻側上面」を覆う軒平瓦に似た瓦です。側面に「水返し」が立っています(瓦が斜めに傾くポジションなので)。この瓦があるため、屋根構造は「入母屋」もしくは「切妻」だったと思われます(おそらく「寄せ棟」ではなかった)。今回「復元模型」においては、入母屋の一層に切妻の上層を乗せてみました。但し「掛瓦」と記したもののうち、下段の1点は「水返し」が低いので、軒の隅近くの「反り」(この部分も瓦が斜めに傾く)に対応した平瓦かもしれません。

⑥の右下に示した遺物は、鈍角(120°)の角を持つ平瓦、もしくは熨斗瓦と思われるものです。屋根の「出隅」もしくは「入隅」に設けられた「隅瓦」かもしれません。例えばこの「鈍角をもつ平瓦」が使えそうな部分として、画像④における下層屋根の入隅部などがあります。その「谷筋」に隣接する平瓦は鋭角と鈍角の角を持っている、というわけです。なお、入隅だとすると、軒先にはおよそ108°の開きをもつ「谷軒平瓦」が来ることになります。はからずも前回の連載で三田城の発掘調査(平成十一年)において「120°の開きをもつ屋根の入隅部の軒先」という、複雑な建築構造を思わせる(荒木氏段階の?)「谷軒平瓦(崩し唐草紋)」が出土したことを紹介しましたが、こうした「直角ではない平面構造」はいかにも織豊期の建物という感じがします。

そこでもう一度写真⑥の軒平瓦(大)に目を転じてみましょう。向かって右上が欠損していますが、瓦の平面形が「微妙に菱形」になっているのがおわかりでしょうか(奥が右方向にずれている)。これは撮影角度でこのように写っているのではなく、本当に歪んでいるのです。最初「昔の仕事は雑だなぁ、左右非対称で…」などと思っていましたが、藤巴さんが2000年に見つけられたもう1点の軒平瓦(連載第4回画像参照・主郭中央から北東寄り郭面地中において植樹中に検出)と並べてみて驚きました。藤巴さんのは「奥が左方向にずれて」おり、櫓台のものとちょうど「鏡面対称」の関係なのです。こうして並べてみると、「この歪みは設計図にあわせてあつらえたのだろうか?。それとも軒の隅部の「反り」に対応しているのだろうか(と、すれば欠損した右上に水返しがあったか?)」などと思い直してみました。今回の礎石は108°に折れていますし、他所の事例でも石垣の隅部の角度などから、織豊期以前の城郭建築は「方眼紙のグリッドに乗らない不規則な」平面配置を呈するイメージです(極端かつ、あまりにも有名な例として、内藤昌氏に代表される安土城天守初層の「復元案」がありますが)。軒平瓦の「歪み」も建物平面の「非直角性」に対応したものかもしれない、と今回の復元模型でも「いびつな隅櫓」を復元しています。あと「鬼門除け」として豊後・日出城の「鬼門櫓」の意匠も参考にしています。これも復元案の1つの「タタキ台」として来たる6月3日の「戦国1日博物館」等においてご意見賜れば幸いです(金槌でたたいてはいけません)。

なお城内ではこの他に「鋭角の角をもつ平瓦?小片」や「玉縁側が斜めに傾いた丸瓦?小片」といったものも表採しており、これも毎年展示しています。

櫓台上面ではこの他の遺物として、白磁坏、土師器皿、土師器燈明皿、備前焼大甕小片などを採取しています(20年以上前に川西市教育委員会に届け出ていますが…)。

また、櫓台の南、土塁内側の上面~肩~斜面にかけて23mあまりのエリアのも瓦片が散在し(図面③)、また土塁上面おいても備前焼大甕の底部小片を採取しているので、隅櫓の南隣に「多聞櫓」を想定してみました(画像④、⑤)。これもまた「想像性の高い推測」の範疇ではあります。

[石垣、櫓等の破却時期について]

城の「廃城時期」についてですが、連載第1回に述べましたように、

* 「高代寺日記」天正十一年「十月二日祝門中悉(ことごとく)獅子山ニ集テ興(宴会)アリ」とあるのが獅子山城(厳密には「山」とあるだけなので要注意)の最後の記述であること。(廃城時の解散式?)

* 「イエズス会日本年報」において、1583(天正十一)年の末に河内、摂津の領主で元の場所に残されたのは中川秀政(茨木)と高山右近(高槻)だけだった、とあること。

などから、私は天正十一年末頃の「廃城」を想定しています。ただし「高代寺日記」天正十一年十二月、及び十二年十二月の記事において「納所(なっしょ:年貢の受け取り)」の記載があり、同記の天正十六(1588)年六月頃に「知行被没収」になっているので、領地の縮小、もしくは代替地への転封も含めて、塩川氏は廃城後5年弱、存続していたと想定しています。

[天正八年の「摂津一国破城」について]

さて次にもう一つ、獅子山城の「破却」時期に関して決して忘れてはならないのが、天正八(1580)年の「摂津一国破城」という大事件です。

天正六(1578)年秋、織田家の「摂津一職」として国を統括していた有岡城の荒木村重が毛利・本願寺方へ寝返ったことは本稿でも何度か触れてきました。この織田家から見た「叛乱」は天正八年春~夏にかけて和睦、鎮圧、収束され、「平和」を取り戻した織田家は新しい支配体制を構築すべく、播磨、大和、河内、摂津に、後の「一国一城令」に通じる破城令を命じます。(小林基伸「播磨の破城令について」、「多聞院日記」、松尾良隆「天正八年の大和指しと一国破城について」)

例えば大和においては筒井順慶が「破城担当奉行」に任ぜられ、大和国内においては、郡山城ひとつのみを残し、彼自身の居城である筒井城を含めてことごとく破却されます。国レベルでの「武装解除」というわけです。順慶は郡山城に入城しますが、もはや「領主としての城主」ではなく、織田家における「大和国担当長官」と呼ぶべき立場でしょう。播磨では羽柴秀吉の姫路城がこれに相当します。これらは検地と同時進行になされ、まさに「中世と近世の狭間」から「近世社会」へと急激に突入してゆく大事件です。

「多聞院日記」天正八年八月八日に「摂州、河州諸城悉破云々」という記事があります。もちろん塩川氏の獅子山城にとって決して「対岸の火事」ではないでしょう。

摂津では織田家譜代の池田恒興、元助、照政(のち輝政)ら池田父子が、荒木村重の後継として摂津一職的立場になったようです(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」)。播磨と同じく「信頼出来る譜代」に支配させたということでしょう。恒興は尼崎城、元助は有岡改め伊丹城、照政は花熊(隈)城を廃して新たに兵庫城を築きました。この織田家直属となった3城以外は破却された可能性が高いのです。

* 兵庫城が新たに築かれたのは「反織田」であった兵庫の港が、花熊城の荒木元清と連携して、毛利氏からの補給物資を三木城へ送る兵站ルートを構築していた為、今回新たに織田家による「海上ルート」を確保するためでしょう。発掘調査によって花熊城の瓦が兵庫城に転用されたことが判明しています。

* 「イエズス会日本年報」によれば、天正六年秋に荒木村重の「謀反」に最初従った高山右近の高槻城も、この天正八年の破城令で、居館部分を除いて武装的要素がことごとく破却されたようです。そのため天正十年六月の「山崎の戦い」においては、城に応急修理を施す必要がありました。この記事から、中川清秀の茨木城や安部ニ右衛門の大和田城なども「武装的要素が」破却されたことが類推されます。

* 以前少し触れましたが、謎の存在が豊能町(旧能勢郡)吉川に残る通称「吉川井戸城」です。元々塩川氏が信長の命令で天正元年に滅ぼした吉川氏の館城であったと思われます(高代寺日記)。この城跡は1980年代に調査もなされないまま国道477号線によるノリ面切取り工事で95%が消滅してしまいました。その後、平成十三(2001)年、崖崩れ防止工事に伴う緊急発掘調査が行なわれ、「皮一枚」残っていた遺構や遺物から、主郭は総石垣瓦葺きの近世城郭だったことがわかりました(小嶋均「吉川井戸城発掘調査概要報告書」)。瓦は天正前半の技法で、(丸瓦凹面はほぼコビキA)、軒平瓦は「宝珠の中心飾」を持つタイプがあり、これは有岡(伊丹)城や三田城に同氾のものがあります。また「折れ橘紋」の鬼瓦が出土し、「高代寺日記」の記事「末々吉河家ノ破風ノ紋ハ立華ヲ三ツ付ルト云伝」に符号するのでこれも超驚きでした(同報告書)。城跡には今でも立派な築石の転石や大量の裏込め石がゴロゴロ散乱しており、その分布から、地下には巨石を用いた石垣の根石がまだ長さ30mばかり残存していると確実視されます。小城ながらあまりにも「進んだ」造りである上、塩川氏の「支城」としても不自然な印象を受けるため、荒木村重段階か池田氏恒興段階かはともかく、「織田家直属の公的な城」であった可能性を想定しています。「高代寺日記」には天正四年十月、死去直前の出家した塩川国満が、かつて勘当した長子「運想軒」を呼び寄せて別れを告げたうえ、「吉河ヲ譲ラルル」という記事があります。運想軒が譲られたのは「領主」というより「代官」的ポジションではなかったでしょうか。なお、「吉川井戸城」が織田家の公的な城であったとすれば「摂津一国破城」の対象ではなく、城は天正十一~十二年頃まで存続したかもしれません。

[塩川氏という微妙な立場]

さて、塩川氏の獅子山城における「武装的要素」、すなわち櫓群や門、石垣、虎口などが、高山右近の高槻城と同じく天正八年に破却されたか、城の廃絶(天正十一~十二年頃か)時に同時に破却されたかは、微妙なところです。と、いうのは本連載の第一~五回で述べたように、塩川長満は小身ながら天正六年秋の「荒木村重の叛乱」に摂津衆として唯一加担せず、織田信長から絶大な信頼を勝ち取って、おそらくそれがきっかけで長満の娘(寿々)が織田信忠に嫁いでいる(荒木略記)という立場であるため、他の摂津衆とは一線を画した扱いを受けた可能性もあるからです。摂津一国破城の時期、信長は大坂に出向いているので(信長公記)おそらく陣頭指揮しているのでしょう。織田家譜代の重臣であった佐久間信盛や林秀貞らを追放したのもこの八月です。織田家の外政、内政ともに、信長の個人的な意図を反映した大改革的イベントだったわけです。

天正八年に獅子山城の武装的要素が破却されたとすれば、主郭や東三段、東五段、西三段など、塩川氏や重臣たちの居館部分のみが残されたか、あるいは城山の施設をすべて破却して内山下(それこそWikipediaの「山下城」の言うように現郷土館あたりに)住まわされた可能性もあるでしょう(補注2参照)。内山下(現・下財町)においても破城時は、周辺に設けたと推定される堀、土塁や「大手門」などの虎口などを、少なくともピンポイント的には破却したことと思います。こうした城の破却のバリエーションは伊藤正義氏の「破城と破却の風景:越後国「郡絵図」と中世城郭」(“城破(しろわり)の考古学”所収)に紹介されています。(こうしたことを踏まえると、有名な「大坂冬の陣」後の講和において、大坂総構えの堀や真田丸などが破却されたエピソードなどは、決して特殊な事例ではなかったことがわかります。)また、こうした「武装解除された城」は近世において「陣屋」へと移行していきます。

[瓦たちの行方は?]

さて、櫓などの破却時期が天正八年か、あるいは十一~十二年かで大きく異なる要素があります。天正八年ですと、国中で城が破却されているわけですから、もはや価値のない瓦などは城跡や斜面に打ち捨てられるのみだったでしょうが、天正十一~十二年となるとちょっと状況が違います。「高代寺日記」天正十二年八月に「大坂ノ御城就ル ニノ丸所々イマタナラス(未だ成らず)」とあります。秀吉による大坂城建設ラッシュです。塩川氏にとって決して他人事ではありません。後の徳川氏による「天下普請」の原形がここにあります。この建設は武士たちに課せられ、特に大阪近隣である摂河泉の領主たちの経済的、労働的負担は莫大で、まさに「奴隷状態」だったようで、自殺者さえ出たくらいでした(イエズス会日本通信)。毎日、石垣に使う石材を満載した船が大坂に向かい(同記)他の建設資材も同様であったでしょう。豊臣期大坂城跡の発掘調査においては、実に多様な文様を持つ瓦が見つかっており(黒田慶一氏による諸研究など)瓦なども方々から集められたことがわかっています。獅子山城全体で地表面に見られる瓦の量は、城の規模に比して「多い」のか「少ない」のか判断出来ませんが、私は少なくとも軒丸瓦、軒平瓦に関しては「異常に少ない」印象を持っており、これらも「なけなしの建設資材」として大坂城、あるいは塩川氏自身の大坂屋敷に供出→再利用されたのではないか?と目下類推しています。

20XX年のある日、「特徴のある桔梗紋の軒平瓦」が大阪市内のどこかの発掘現場で見つかるのではないか、という気がしています。

(つづく)

追記

(補注1)

週末、この「イノシシ&土壌流出問題」に関して、ある方から提案を頂き、希望が湧いて参りました。この場をお借りして御礼申し上げます。

(補注2) 

本能寺の変から三ヶ月ばかり後の「天正十年九月朔日」付の「多田院・新田村際目注記」(多田神社文書四八二・川西市史所収)という史料において、多田院と新田村の間で争われた、領地の境界紛争を、双方代表が「塩川之城」にて申し立てしているという、いろんな意味で大変興味深い史料があります。「新田村より我か領内と号して東順松下町のきハ(際)まて押領し、寺家(多田院)より草刈云々、副物をかの在所(新田村)より取候て、以之外狼藉をいたす之間」、多田院側代表が「於塩川之城」で「往古之支証」を出して訴えていたところに「彼在所(新田村)年寄共」も「罷出申」という、双方が塩川氏の「城」にやって来て権利の主張をしているという状況が記されています。その後、「寺家僧衆(多田院側)」が「登城」して「裁許」が下ります。裁定を下す塩川側は「愛蔵様上候(たてまつりそうろう?)年寄衆、塩川又右衛門殿、代官三屋嘉兵衛尉殿、塩川半右衛門殿、同十兵衛尉殿、河村甚介殿」です。結果多田院の訴えが認められ、九月朔日、現地に於いて、塩川側(三屋嘉兵衛ほか)、多田院側、新田村側の三者立会の下、境界が確定、新田村側も了承し、争いが解決したというものです。裁定のくだりにおいて、塩川長満の子、十四歳の愛蔵が当主として出席しています。長満は前年の天正九年以来、表舞台に出ておらず(信長公記)、病気だったのでしょうか。いずれにせよ、塩川氏の当主が裁定を下す以上、これは塩川氏の表御殿(主殿)においてなされたと思われ、「登城」という言葉からも、やはり獅子山城主郭の殿舎が(武装設備の有無はともかく)この天正十年秋には存在していたと思います。この記録で、もうひとつ興味深い点は、既に塩川氏が完全に「領主」として振る舞っているということです。、もはや「多田院御家人」と呼べるような関係ではないことがわかります。また、裁定のくだりで出てくる「塩川十兵衛尉」なる人物は、「多田院知事元守証状写」(天正十年九月廿六日付、多田神社文書四八三)において、多田院との「取次」とされています。

以下、余談ながら、毎年「戦国1日博物館」にて展示していますが、塩川氏滅亡後の文禄二年十月廿日、豊臣秀次家臣の「塩川十兵衛尉」なる人物が豊臣家の蔵米管理にあたっており(近江・若宮神社文書)、さらに「駒井日記」文禄三年四月にはやはり秀次領の尾張において、田中吉政配下の「塩川十兵衛」が「中島郡堤築之奉行」として(他に正月記事にも登場)出ています(藤田恒春「増補・駒井日記」)。「高代寺日記」天正十七年十一月には「(塩川)橘太夫、右兵衛、勘十郎、半右衛門(上の裁定の場面に登場)、田中有也」らの塩川浪人たちが、先に豊臣秀次に仕官していた塩川運想軒や秀次家老の中村一氏、田中吉政らの口利きで豊臣秀次に仕官しています。よって、この「塩川十兵衛尉」も元塩川家家臣と同一人物の可能性があります。また、近衛信尹(のぶただ)の日記「三藐院記(さんみゃくいんき)」においても、文禄元年十二月十四日、朝鮮渡海の為、京を去る信尹を「生田右京亮、塩川十兵衛」が東寺辺りから、なんと向日神社南五、六町まで名残惜しく見送っています!。しかも、この時、例の一条内基(塩川長満の娘二人を正室、側室にしている(荒木略記)元関白)も、京の六条から向日神社あたりまで、この見送りに同行しているのです!!。他の方々の見送りもありましたが、この三人だけは、本当に信尹を慕っていることがわかる大変感動的な場面です。しかもそのうち二人は「塩川氏に関係ある」っぽい人物だったという…。この「塩川十兵衛」には同日記の文禄三年正月記事においても信尹から「五十疋」が送られています。

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