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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十八回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」第二十八回

 

土御門泰重が見た“一条家政所”「慈光院殿」(導入部)

ちょうど昨年(2020)の今頃、連載第19回において、京都・妙心寺塔頭「慈雲院」境内の「備前・池田家墓所」に、その墓石を確認した「塩川長満の娘(妹)」とその子「池田元信」。

「荒木略記」が記していた、この「妹」と「池田元助」(池田恒興嫡男)との婚姻関係は、ここに「史実」として不動のものになったわけですが、「荒木略記」や「備前・池田家文書」(池田勝造奉公書)はまた、彼女の“再嫁先”が五摂家のひとつ、「一條殿」(一条内基)であることをも記していました。

そしてこの「再嫁の史実」もまた、複数の公家の日記に記されていたのです。

今回は「陰陽師」である「安倍家」の末裔、「土御門泰重」(つちみかどやすしげ)の日記、「泰重卿記」(宮内庁蔵自筆本)に登場する「妹」こと「慈光院」(一条内基未亡人)のくだりを、年代順に追ってご紹介します。

彼女の夫「一条内基」は結局実子には恵まれず、その最晩年に「後陽成天皇」と「近衛前子」(さきこ、近衛前久の娘、のち「中和門院」)との間に生まれた「九宮」を養子に迎えました。

それが「一条兼遐」(“かねはる”か。のち昭良・恵観)でした。

「土御門泰重」は、教育熱心だった「近衛前子」の依頼により、「兼遐少年」の「漢学の家庭教師」としてしばしば「一条邸」に出入りしていたのです。

「慈光院」は「一条兼遐」の「養母」にあたるわけです。

しかも「泰重卿記」に登場する「慈光院」は、ただ名前が出てくるだけの存在ではありません。

彼女は「荒木略記」が指摘したように、やはり一条家の家政を取り仕切る「政所」(まんどころ)でもあり、「土御門泰重」と共に、一条家と近衛家の間に発生した「あるトラブル」を解決すべく奔走さえしているのです。

このくだりは「慈光院」がまさに、「この地上に生きていた」ことを実感させる「ドキュメント映像」のようでもあり、“塩川氏関係者”の史料の中でも“珠玉”の部類に属するものと思われます。

「慈光院」はまた、「一条兼遐」の実兄、「後水尾天皇」から「御目出度事」(“盂蘭盆会”の時期に特定の個人を祝う宮中行事)で祝ってもらったり、天皇の「私的会合」に「土御門泰重」と共に同席していたりもします。

当時の朝廷は、歴史的にはまさに、「徳川秀忠時代の幕府」による“様々な圧迫”に対峙する局面にありました。「慈光院」はまさに、「朝廷中枢部の傍ら」に居たのでした。

ともあれ、目次は以下の通りです。

①“ヲサゴの方”の死後、二条家の「政所」の地位は「二条昭実」の母「位子」が引き継いでいた?(「一条か?二条か?問題」の補足)

②土御門泰重(つちみかどやすしげ)の日記「泰重卿記」に登場する「慈光院殿」

(1)きっかけは

(2)初登場

(3)慈光院、禁裏において“生御霊”(いきみたま)を祝われる(“御目出度事”という行事)

(4)「一条家政所」としての“御振舞”

(5)関白「二条昭実」の訃報に接するも、「姉の夫」であった気配は?

(6)徐々に貫禄を見せてゆく慈光院殿

(7)一条家と中和門院(近衛前子)との間に小トラブル発生?土御門泰重は事態を解決すべく慈光院殿と相談する。

(8)寛永初頭には「政所」引退か?

それでは第2会場に移るとしましょう。

(2021,02,02 文責:中島康隆)

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