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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十四回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十四回

~ 山下町は、塩川氏による近世城下町が起源③ ~

(因幡の小城下町「鹿野」について・ 「鹿野」と「山下」の両方に縁があった武将、「山名禅高豊国」・塩川氏末期の「山下」考証のために「山名禅高の実像」を検証してみる)

[お詫びと予告]

今回は、塩川氏と五摂家のひとつ、一条家の関わりを掘り下げる内容を予告しておりましたが、あれから岡山ほかに取材し、また京都市内で新たに入手した資料の読み込みと整理が長引いて、アップが来年2月以降になりそうですので(汗)、ちょっと“城下町編”の続きとして“小ネタ”を番外編として挟み込もうとしたのですが、この小ネタがまた、「メダカ」だと思っていたら、「クジラ」ぐらいあった(汗)という…、わけで、さらに遅くなってしまいました。そして、今回も「超・長文」(汗)であり、申し訳ありません。

どうか「一気にお読みにならず、小分けして、正月休みのお供として」お読みいただければ、幸いです。内容そのものは、一応「歴史・ロマン的にも」興味あるものとは自負致しております。(どうしても追加される「調査結果」が、文全体に均等に反映されるという「執筆過程」の為、当初からの「小出し」が出来ず、長い連載インターバルで、ご迷惑をおかけ致しております。)

また、本稿の終盤近くに [山名禅高の「摂津多田郷幽居」に関するまとめ] と題して、要点を箇条書きしてありますので、そこだけ(あるいは先に)読んでいただけても、よいかと存じます。

なお、来年分の予告をちょっと申し上げますと、塩川家と藤原五摂家のひとつである「一条家」との間に、一時的ながら「縁戚関係」があったのは、もはや「荒木略記」の記載だけではなく、「史実」であったと断言できます。また、備前・岡山においては、家臣であった塩川氏が「触媒」となって、幕末まで続く、一条家と岡山池田家の縁が形成され、しいては江戸初期の徳川幕府と朝廷の「関係改善」にも間接的に寄与しているという、不思議な構造が見てとれます(この朝幕間の緊張関係は、今回の連載の終盤近くに「伏線」として登場しています)。

さらにもうひとつ、塩川氏と「荒木志摩守元清(元摂津花熊城主)」との新たな繋がりが書かれた記事にも出会い、これは彼の孫が幕府に提出した「荒木略記」の信憑性、具体的には「塩川氏と織田信忠との縁戚」記事をも、間接的に補強するものとなりましょう。

と、いうわけで、今回は一見「番外編」まがいの記事ながら、前々回、スペースがなくて挿入出来なかった、ある小城下町の画像から、ご紹介します。

(1)因幡国気高郡(けたかぐん、現・鳥取市)の城下町「鹿野」について

前々回の連載、「山下町は、塩川氏による近世城下町が起源 ②」において、

「私としては、因幡の“鹿野”を訪ねることを是非お勧めします。20年ほど前に、鳥取藩の塩川家の文書を調べにいった際、ついでに立ち寄ってみたのですが、山城跡、内山下の陣屋跡、町人地区の配置と規模が、ちょうど“獅子山城下町”を南北反転させたように、懐かしく思われ、私は感動のあまり現地で笑ってしまいました。」などと記しました。

[写真で見比べてみた]

私が西暦2000年頃、「感動のあまり笑ってしまった」というのが、上の写真⑥です。山下の写真⑤(1997年頃)と比べてみて下さい。私は現地で、あたかも昭和30~40年代の山下を訪れたような、ちょっと不思議な気持ちになりました。

両者を昭和20年代の米軍の空中写真で見比べたのが画像の①、②です(鹿野の写真は南北を反転しています)。これによると、共に近世城下町のパターンに属しながらも、特に両者が酷似しているわけではないようです。②において「殿町」と記した田園地帯がかつての「侍町」、すなわち「内山下」の跡です。一方、②において街道沿いに町屋が並んでいるあたりが、縮小されつつもかつての「町人地区」を踏襲しています。⑤、⑥の撮影地点が、それぞれ①、②におけるY,X(鹿野町は「立町」)にあたり、共に「町人地区を南北に走る目貫通りが、まさに城山の頂点を“見通し”(ヴィスタ)ている」ことがわかります。また、武家居住区(山下では下財にあたる)では、区画が“見通し”から少し「反れて」いる点も共通しています。

また、それぞれの城山の形状も、尾根線を堀切で遮断し、「平面的に“逆Vの字”状に配置された郭が、中央谷をツヅラ折れして上がってくる「登城路」を左右から見下ろしている」点も共通しています(補注)。鹿野の城山は、ちょうど獅子山を「丸っこくデフォルメ」したような形状です。そのかわり、山麓の「平城部」が主体となったようで、二重の水堀が見事です。

③、④がそれぞれ城山から見下ろした旧城下町です。④では「見通し」部分が右の樹木に隠れてしまっておりますが…。樹木の左に「平城部」の水堀が見えています。鹿野は雪深い日本海(遠方に見える)側の町なので、やはり赤い石州瓦が目立っています。

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(補注)

能勢の野間城とも同じ形式です。獅子山城は昭和初期以降、中央谷から愛宕神社を経て東側の尾根を経由する登山道が造られましたが、往時の登城路は、中央谷を、両翼の尾根から見下ろされながら、ツヅラ折れに登るルートでした。

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[戦国期の鹿野城]

鹿野城は、後世の史料ながら「陰徳太平記」において天文十三(1544)年、山名氏の被官であった鹿野(志加奴)氏が出雲から進出して来た尼子晴久に滅ぼされた記事が、最古のようです。近い年代である天文十年に築かれた獅子山城と基本的な縄張は似ていますが、鹿野城は慶長期にまで及ぶ後世の改築と、江戸初期の大規模な破城によって、戦国期のディテールはよくわかりません。城が位置する地勢が、伯耆国に近い因幡国の「境目の要衝」にあたり、守護山名氏、尼子氏、毛利氏、織田氏の間で争奪戦が繰り返され、永禄期~天正九年までの史料に頻出しています。“中世鹿野氏の城”というよりは、“公的な基地”として、山名、尼子、毛利、織田それぞれの「支城」として変遷したようです。

[織豊期の鹿野城と亀井慈矩]

永禄九年十一月(1567年)に毛利氏によって滅ぼされた出雲の尼子氏の残党、山中鹿之助幸盛が尼子氏再興の為に尼子勝久を擁立して奔走し、織田家の羽柴秀吉軍に属して奮戦、上月城に篭城する話は有名です。

天正六(1578)年、尼子勝久、山中幸盛の死後も、生き延びた幸盛の義兄弟で尼子氏被官、湯氏の一族とされる、「亀井慈矩(これのり)」がその意思を継いで、秀吉の配下で鹿野城を守備し、その功績により、鳥取落城後、この城と領地を拝領しました。近世的な城下町はこの亀井氏段階で造られたと思われます。摂津の山下造営の数年後にあたります。慈矩は海外への憧れが強く、自ら「琉球守」、「台州守」などと称し、家臣をシャム(タイ)へ派遣するなど、東南アジア交易をさかんに行ないました。城も異国風に「王舎城」と命名し、城下にも「鹿野苑(ろくやおん)」、「流砂(りゅうしゃ)河」、「跋堤(ばったい)河」など、異国風の名前を付けました。天守のほか「オランダ櫓」「朝鮮櫓」なる建物があったようですから、エキゾチックな意匠だったかもしれません。

城跡は昭和56~57年にかけて発掘調査がなされ(小坂博之・鹿野城跡調査概報ほか)、慶長期にまでわたる天守台、山腹御殿跡を含む石垣、礎石、破城跡、各種瓦などを検出しています。

亀井氏の治世は二代にわたって36年間続きますが、元和三(1617)年、「石見国津和野」に転封となり、かの地で明治維新を迎えます。鹿野城跡発掘調査では、海鼠(なまこ)壁に用いる「化粧瓦」(備前・倉敷のものが有名)が見つかっており、この海鼠壁は津和野城山麓に現在も残る「藩邸物見櫓」に見られるので、亀井氏城郭のスタイルを継承したものかもしれません。

[池田光政時代の鹿野]

亀井氏に代わって元和三(1617)、姫路城から幼少の池田光政が鳥取城に三十二万五千石で入部しました。鹿野城には家老の日置豊前守忠俊が入りますが、寛永五(1628)年、失火により城の建物を焼失した(池田家履歴略記)とあります(昭和の発掘調査では特に火災痕跡が検出されていないようですが)。寛永九(1632)年、備前岡山の池田忠雄が急逝、嫡子「光仲」が幼少だったため、幕命により、鳥取の「池田光政」と相互に入れ替わります。日置忠俊は備前金川へ移ります。

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ここでちょっと訂正です。当連載第三回において、姫路で池田輝政に仕えていた塩川源介(長満の子)が、輝政の死後、「岡山」に移転して死去、故・荒木元清の孫、石尾善兵衛を中継ぎにして、幼い源五左衛門に家督を継いだ話をご紹介しましたが、塩川源介は池田光政に仕えたので、これらの話はすべて「鳥取」の間違いでした。謹んでお詫び申し上げます。塩川源介は鳥取で死去し、上記の様に寛永九年、塩川源五左衛門の代になってから、池田光政と共に岡山に移転したのでした(塩川源介家譜)。これは同じく池田家に仕官していた「塩川吉太夫」の家も同様でした。一方これとは逆に「塩川勘十郎」の家は池田忠雄、光仲に付いて寛永九年に岡山→鳥取へと移転したわけです。そして、それぞれの地で明治維新を迎えました。

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なお「池田光政」は在職中、様々な藩政改革を行い「日本史」の教科書にまで載る「名君」として有名です。岡山へ移封後も家臣である塩川家とも色々浅からぬ「ご縁」があるのですが、この件はまた次年度以降の回にてご紹介します。

[池田光仲時代以降の鹿野]

池田光仲時代、鹿野には重臣が配置されなかったようで、おそらく焼け残った山麓部に小規模な役所があったと思われます。かつての亀井氏時代、日置忠俊時代に比べて、町も随分寂れたようです(拾遺鹿野故事談)。さらに寛永十四(1637)年、いわゆる「島原の乱」「島原・天草一揆」が勃発します。この時一揆軍が「原城跡」に砦を構築して立て篭もったのは有名です。このため、城跡を残しておくと反乱軍の拠点にされるおそれがあることから、鹿野城跡も「藩の官吏来りて悉く石壁を毀(こぼ)してより、変じて荒蕪の丘墟となる」(同前)、また正保元(1644)年、「足軽あまた群来り石垣を取崩せしといへり」(鹿野筆縋)とあるように、大々的に石垣の上部、隅部が破却され、今日の「丸っこい山容」になってしまったようです。

寛永十七(1640)年、「宍粟騒動」によって改易された播州山崎の池田輝澄が鹿野に一万石の堪忍領を与えられて蟄居させられます。輝澄は、平城部の西に隣接する山麓の現・光輪寺の場所に入ったと推定されています。光輪寺は往時は城下町の北西角付近にあって、城下防衛の要のひとつでした。山麓の現・境内には桃山洋式の庭園を残っており、ここが亀井時代の「西の丸」跡地と考えられています(鹿野城発掘調査報告書)。実質的に「最後の城主」であった輝澄の没後、子の政直は播州福本に移封。以後、明治に至るまで陣屋もなく、番所が置かれた程度だったようです。

(2)「鹿野」と「山下」の両方に縁があった山名豊国

[再び山名豊国(禅高)のこと]

鹿野を訪れた時、私は感傷のあまり「鳥取・池田家に仕えた塩川の末裔たちも、職務などで鹿野を訪れた際、摂津の山下と重ね合わせて懐かしがったのかな?」などとボンヤリ空想していましたが、最近これが愚問であったことに気が付きました。塩川とはいえ、彼らは既に2世代~3世代後の人間で、摂津・山下を見たこともなかったはずだからです。

しかしながら、最近、鹿野と山下の両方を知っている歴史上の人物が一人いることを知りました。前回も少し触れた山陰の守護、山名家の末裔、山名豊国(禅高)です。豊国は、一般には天正八年の羽柴秀吉の鳥取城攻めにおいて、篭城中の城内から単身投降した元・鳥取城主として知られています。私も40年以上も前、中学の頃読んだ司馬遼太郎の小説、「新史太閤記」において、この山名豊国と出会いました。小説では、豊国が「城兵から見限られた」エピソードと、後任の鳥取城の“悲劇の守将”として自決した「吉川経家」との対比からか、「ちょっと情けない、“お公家さん”風でありながら、誇りは失わなかった」キャラクターで造形されていました。

しかし残された経歴を見るかぎり、鳥取落城以前における、現実の山名豊国は、数多くの修羅場をくぐっており、強者たちの境目にあって、バランスをとりつつ生き抜いた、戦国領主のひとりだったと言えるでしょう。

以下「陰徳太平記」や「因幡民談記」など、後世の史料からの要約ですが、山名豊国は、「但馬山名氏」の出で、「因幡山名氏」の弱体化に乗じて、因幡守護職を乗っ取った「山名豊定」の子で、兄の「豊数」が守護職を継いでいましたが、永禄年間に家臣、武田高信の謀反に会い、守護所を追われ、豊数が一時期、この「鹿野城」に退いて再起を図ったこともありました。しかし、豊数もその後但馬に落ち延び、そこで亡くなったようです。弟である豊国は岩井城を守っていましたが、前述の「山中鹿之介ら尼子氏残党」と結んでその援助を受け、無事、武田高信が篭っていた鳥取城を奪い返し、山名の家督を相続しました。

しかし天正初頭になって、毛利方の吉川元春・元長が因幡に進出。山名豊国は毛利氏と和平を結ぶなか、必然的に尼子氏の残党と離反します。そして「鹿野城」には毛利氏の守将が入り、山名家の「子女二十余人」の人質を鹿野城に預かるという、いわば毛利家による「目付けの城」となりました。山名豊国と鹿野城の関係は、このように緊迫した状況ばかりでした。

天正八(1580)年、播磨から織田方の羽柴秀吉が進出、「毛利方」である山名豊国の鳥取城を攻めるなか、毛利方の鹿野城を奪い取り、なんと、山名家の人質まで押えるのです。こうして山名豊国は秀吉に降服します。鹿野城には山中鹿の介の死後、秀吉の下で再起を計っていた、例の「尼子系の残党」、亀井慈矩が入ります。かつて山名豊国が「捨てた」武将です。

一方皮肉なことに、その後、鳥取城内の「毛利派」が再び巻き返して毛利方へ転じることとなり、「織田派」であった城主、山名豊国は単身、城を追われます。

こうした変遷を経て、結局山名豊国は秀吉方として、「吉川経家」を守将に迎えたかつての自分の城、鳥取城を攻めることになってしまいました。そして、「鳥取の飢え殺し」として史上有名な、食糧を断たれた包囲戦が行なわれます。長期戦を予想していなかった城内は飢え、「人肉まで食べた」と言われた鳥取城は降服。吉川経家や、毛利方に先導した山名家老達は切腹しました。

戦後、豊国は秀吉から仕官を勧められますが、かつての自分の城を攻めたことに加え、また城兵が凄惨な状況だったことに責任を感じたのか、結局秀吉に仕官を勧められたのを断って浪人となり、「摂津国河辺郡多田庄に来りて多田氏が館に幽居あり」(サイト「山名氏史料館「山名蔵」」中の「山名家譜 巻之八」より)と、塩川長満家臣の多田氏の食客となって、おそらく獅子山城下の現在の「下財町」にあったであろう、多田氏の邸宅に引き篭もった、というのは前回お伝えした通りです。この鳥取城攻めには池田恒興組下で塩川家の家老、塩川吉太夫が参戦していた(信長公記)ので、包囲陣中で豊国と塩川家臣の多田某が知り合ったのかもしれません。

(また余談ながら、「鳥取と塩川吉太夫」といえば、上述したように後年の寛永初頭、池田光政家臣の塩川吉太夫(二代目)が、鳥取城下に住むという奇縁もあります。)

一方、かつて山名豊国に裏切られ、今回も不利な状況で最後まで織田方の基地である「鹿野城」を守りぬいた亀井慈矩は、戦後その功績により、拠点城郭として鹿野を与えられ、加えて信長からも出雲受領を約束する朱印状(現・国立歴史民俗博物館蔵)まで拝領します。こうして、かつて縁のあった亀井慈矩が、鹿野に「城下町」を造営しはじめた頃、鹿野城と因縁のあった山名豊国が、鹿野によく似た獅子山・山下に来て隠棲していたという、パラレルな状況でした。

[「寛政重修諸家譜」や「山名家譜」に記された山名豊国のその後]

上述「山名家譜」によると、「多田氏が宅に幽居あり時に 譜代の家人等に皆暇を授け 時節を待べき旨を命ぜらる」、「多田庄に隋逐するものは田結庄 宮田 垣屋 上野 三上 浅田 多賀の輩のみなり 此時豊國三十四歳なり」とあります。「時節を待って」身の廻りを世話する家臣七名と共に、「鹿野を思い出すなあ」などと、語っていたのではないでしょうか?。また豊国が出家して「禅高」を称した時期は(後述しますが)、隠棲していたこの「山下時代」であったかもしれません。

「天正十四年丙戌に徳川家康公豊臣秀吉公の招によりて上洛あり 此時に豊國は多田庄より家康公の旅館に至り本多中務大輔忠勝榊原式部太輔康政永井右近大夫直勝西尾隠岐守吉次等に逢て家康公に拝謁せん事をこ(乞)わる 各相儀して家康公に執し申則ち旅館に於て家康公に拝謁せらる 是よりして恩恵日々に厚く直々に供奉して関東に下向せらる 此時に多田氏が多年の懇情を謝せん為に重代の脇指を多田氏に授け離別の情をつくさる 今に至て多田兵部元朝が子孫此脇指を所持すという」(山名家譜)

天正十四(1586)年十~十一月、二年前に小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対していた徳川家康が、ようやく秀吉への帰属と叙任の為に上洛。この機会をとらえて、豊国も上洛して思い切って家康に拝謁。どうやら召抱えられそうな見込みが付いたので、家康について東国に去ることを決意し、多田氏に感謝しつつ、ここで山下を去った、ということが記されています。

[なぜ、塩川家臣の多田氏の元に?]

これも繰り返しになりますが、「高代寺日記」天正五年九月に故・「多田継」宅が「山下」にあったと記載があり、「山名家譜」における「多田兵部朝」と「元」の字が共通している点から、知られざる元継の後裔の名前として実在の人物と思われます。つまり、「山名豊国が多田氏のもとに身を寄せた事自体は史実と思われる」のです。なお「寛政重修諸家譜」においては、豊国が身を寄せたのは「多田将監某がもと」になっています。

なお山名氏は、河内源氏の血を引く上州・新田氏の一族が上州多胡郡山名郷(現・高崎市)に定住したのがはじまりで、すべてを失った豊国が「源氏の末裔」である事をアイデンティティとしていたならば、この「多田元朝」とその方面で意気投合したり、あるいは多田院に参詣したりしたことも想像されます。多田氏はこの時点で、塩川氏の家臣でしたが、その名字から「多田源氏の直系」に最も近い家系と意識されていたらしく「高代寺日記」永禄十(1567)年の項に「伝曰 筑前守(先々代の多田元継)ハ元祖二十一代血脉(脈)十九代ナリ源全後也」とあります(つまり江戸初期の世代である“「高代寺日記」の編者”から見て、山名豊国を世話していた「多田元朝」は「二十代目」と意識されていたか?)。

元祖とは「多田満仲」と思われます。摂津源氏はなぜか二代目(頼光)、三代目(頼国)と飛んで、四代目「頼綱」から「多田」を号しています。

山名豊国は、当地を去った後も鹿野の亀井慈矩とは何かと縁があり、「山名家譜」によれば、慶長五年のいわゆる「関が原」の戦いでは東軍である慈矩らと「一備え」で参戦したようです。戦後も慈矩と共に因幡~但馬の平定にあたっています。近年の「お城ブーム」で「但馬・竹田城」という存在が超有名になってしまいましたが、「寛政重修諸家譜」や「山名家譜」によれば、家康の命により、西軍に属していた竹田城は、山名豊国によって接収、戦後の「仕置き」がなされたのでした。そして、豊国は戦功により但馬七美郡を与えられ、交代寄合の旗本として、明治に至っています。但馬・山名家は、寛永三(1626)年に領内に「福岡陣屋」(現・香美町村岡区福岡)を構築し、寛永十九(1642)年には陣屋を領内黒野村に移転、ここを「村岡」と改名しました。2つの町は、共に「山陰道を取り込んだ陣屋城下町」のプランをよく残しています(西尾孝昌氏「但馬地方における戦国・織豊・江戸期城下町の研究」)。同時期に能勢郡領主に返り咲いた「能勢頼次」の状況とよく似ています。

[塩川氏は少なくとも、天正十四年まで、山下に居た?]

そして、私としては「山名豊国が「天正十四年」に多田氏の元を去った」という記事を重く受け止めています。本シリーズでは何度も触れているように、領主である塩川氏が、何時」、「如何にして」この「獅子山城―山下町の地」から去ったのか?が、正確には「謎」であるからです。その時期としては、天正十一(1584)年~十六(1588)年の間には違いないとは思います。

ともあれ、後世の二次史料ながら、本来塩川氏の詳細など知らないはずの山名家の記録に「天正十四年まで、「多田元朝」宅に身を寄せていた」という、実名を挙げた記述があることは特筆すべきことです。「多田元○」の名前など、「高代寺日記」ぐらいでしか、お目にかかれず、しかも日記の編者にとって主人(塩川基満)の母方の実家という存在です。この時期に多田氏がまだ路頭に迷っておらず、塩川家臣としていずれかに知行地を持ち、まだ内山下に居たことの傍証となるからです。

そして、山名豊国が多田を去った時期は、「山名家譜」や「寛政重修諸家譜」に従えば、上洛した家康に拝謁した直後ということですから、「天正十四年十一月上旬頃」ということになります。

天正十四年末といえば、通説というか、「川西市史」「猪名川町史」で通史として採用されている(?)「多田雪霜談」において、「天正十二年~十四年における能勢氏との戦い」に怒った秀吉が、「池田輝政、堀尾吉晴、片桐且元」らの「塩川討伐軍」を差し向けるのが「天正十四年十二月十四日」です。

もちろん、何度も述べているように、この時期に「領主・能勢氏」は存在し得ず、この時期の「能勢氏との争い」というものは、天文十四年~天正八年にかけての古い史実を「再構成」した「創作」に他ならないものです。また、「多田雪霜談」という作品は、その文体や内容から、実際の戦国時代が相当忘れられた、江戸時代後期以降の作品のように思います。

[「高代寺日記」における天正十四年の記事から、「山名豊国の多田退去」を考える]

一方、秀吉による「塩川討伐軍」の話こそないものの、「高代寺日記」に記された天正十四年の塩川氏の状況も、“凋落記事”のオンパレードであることに違いはありません。まず、「三月」条において、まさにこの「多田氏」に関して以下の記述があるのです!。

「元継ノ古室尼サカヘ上ラル中院 町ニヲイテ運想軒ニ見参シ女子ヲ養子ト定ラルゝ 后(後)頼一ノ妻トナレリ」

「尼」が京の嵯峨・中院町の「運想軒」のもとを訪れ、娘を養子として差し出しています。

彼女は天正五(1577)年二月に泉州で戦死した「多田元継」の未亡人であり、娘と共に山下に在住していました(高代寺日記)。「運想軒」は塩川長満の兄で、天正十一年から既に塩川家を離れて、攝津に入部した三好孫七(秀次)「雇分」になっています。共に「塩川家の勢力・経済的衰微」を思わせるエピソードです。なお「女子」は後に「塩川基満」を産みます。この基満の家臣が「高代寺日記」を編纂します。多田家は、「高代寺日記」の編者にとっても「主人(基満)の母方の実家」でした。

ともあれ、山名豊国としては、すでに多田家に「居づらい」状況であったのではないでしょうか。さらにそこへ追い討ちのごとく

「同月(三月) 長満疾 玄沢カ門弟野間玄寿カ薬ヲ用ラル」

塩川長満が病に倒れてしまいました(野間玄寿の家は後に徳川家に仕えています)。加えて

「五月五日 愛蔵大坂へ初テ出仕 家僕六十余人同従フ」

「愛蔵」は長満の嫡子で十八歳。「出仕」とは、この頃完成した大坂城で小姓となる「人質」に他ならず、塩川氏は羽柴秀吉への臣従の礼に屈しているのです。「家僕六十余人同従フ」とは、愛蔵の世話係りが同伴した、とも解釈できますが、あるいは塩川家臣団そのものの「大坂移転」、つまり「内山下(侍町)」の消滅を意味する可能性もあります。

状況はさらに悪化していきます。

「六月 長満病急也 然ニ愛蔵ト辰千代(頼一)不和」

「八月 辰千代愛蔵両人家督を争フ」

長満の病気が急変しているのにもかかわらず、その「実子」である愛蔵と「猶子」辰千代(永禄十二年に戦死した塩川(田中)孫大夫の子)がこの有様です。また家臣らも、両派に分かれたようで、この後天正十六(1588)年まで続く「御家騒動」に発展してしまいます。そんな中、ついに

「十月五日 長満卒去四十九歳」

を迎えます。塩川長満がこの世を去りました。塩川家としては最悪ともいえる状況です。

そして歴史的には、この長満の死から一ヶ月以内の「十一月一日」に、徳川家康が任官のため上洛しているのです。

多田家の食客となっていた山名豊国としては「東国から家康がやって来た」というチャンスだけではなく、「もはやこれ以上、ご当家の厄介となるには忍びない」というタイミングでもあったことになり、状況はそれなりに整合性を持っています。

(3)しかし実在の山名禅高は少し違う→禅高のアリバイを追跡せよ

[ここから「泥沼」に突入してゆく…]

ここまでで終われれば良かったのです。話の「整合性」はありそうだし、「歴史ドラマ」にも使えそうな「ちょっといい話」でもある。しかし、そうは問屋が卸しませんでした。

まず、谷口克広氏の「織田信長家臣人名辞典」における「山名豊国」の項によれば、

「本能寺の変後、秀吉に仕え、お伽(とぎ)の衆(太閤記)。文禄元(1592)年、名護屋陣に従っている(太閤軍記)」とあり、「山名家譜」、「寛政重修諸家譜」の記事と矛盾しています。また「近世人名辞典(芳賀幸四郎氏)」においても、山名豊国は

「武家故実に通じ、和歌・連歌はもとより茶湯や将棋もよくしたので、秀吉に重んじられ、その御伽衆の一員に加えられた。秀吉の没後は徳川家康に接近し~中略~しばしば駿府城に出入りして、家康の御伽衆的な役割をつとめた。」

と記されていて、「家康への接近時期」が違っています。

結論から言えば、豊臣時代以降における「山名豊国の身の振り方」は、これら辞典類の記事が正しかったのです。「山名家譜」や「寛政重修諸家譜」は、江戸後期~幕末に編纂されており、徳川家への配慮からか、秀吉に召抱えられた歴史を「カット」したのでしょう。加えて、「御伽衆」という役職自体、江戸初期で消滅しており、江戸後期以降、現在に至るまで、「文弱なイメージ」として「誤解」されており、これも「カット」されたと思われます。

これに反して、Wikipediaの「山名豊国」においては、秀吉の御伽衆であったことは記されておらず、「秀吉から家臣でなかったのに九州肥前名護屋まで、同行を命じられる」などと記されている有様です。これも間違いで実際は「家臣だから」命じられたのです。

要するに、「山名家譜」、「寛政重修諸家譜」共に、山名豊国の「武将的側面」だけを記載しています。

しかしながら、これとは別に、山名豊国が「多田元朝」の食客となったこと自体は、その「名」から史実と思われます。加えて、豊国が歴史の表舞台からいったん消えていることも事実のようです。何よりも、これは「塩川時代の山下」に関する、「フィルター」がかけられているにしても、「数少ない貴重な情報」として無視出来ないものでもあります。

ここにおいて「実際の山名豊国はどうだったか?」、つまり「彼のアリバイ」を証明することが、「城下町・山下」を考察する上においても、私には避けられない課題となってしまったのでした。こうして次の局面である「図書館通いの泥沼(おやくそく?)」に突入したのでした。

[御伽衆・山名禅高(豊国)を先駆的に研究した桑田忠親氏]

桑田忠親氏はすでに戦前、昭和十(1935)年に「御伽坊主山名禅高」という論考において、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に使えた「御伽衆・山名禅高」について考察されています。また、それらを所収した大著「大名と御伽衆(昭和十七(1942)年出版)」において、「御伽衆」という存在そのものに関する総合的研究をされています。

(本稿では以後、豊国を出家後の号「禅高」に統一して記すことにします)

論考「御伽坊主山名禅高」において桑田氏は、「山名家譜」「寛政重修諸家譜」に、禅高が秀吉に仕えた事実や「御伽衆」としての事跡が記されていないことを問題視され、「御伽衆としての禅高の事蹟を鮮明にすることは、同時に戦國武士の生活の未だ知られざる方面を研究する事にもなりはしまいか」と提言されています。まさに今の私が捜していた本でした。

桑田氏は、禅高が豊臣家の御伽衆であった典拠として、江戸初期の「寛永年間頃の聞き取り」に基づくと推定される「岩渕夜話」における、禅高と家康との出会いのエピソードの舞台が豊臣家の「聚楽亭」であること(補注)、「阿蘇玄與(玄与)の日記(近衛信輔に付いて薩摩から上方に登った僧)」や「西笑承兌の「日用記」(「日用記」は間違い。鹿苑日録内だが実際は承兌の執筆分ではない)に登場する禅高が、「他の豊臣家御伽衆との同座」で記されていること挙げています。また、「甫庵太閤記」巻二十に、秀吉の死去に伴なって「禅高を含む、御伽衆二十二人に金子が下された」金額リストが記されていること、及び「版本天正記」の記事から、禅高の豊臣家御伽衆における席次が、800人中の22位という「上席」であることを推察されています。

そして、禅高が徳川家康の正式な御伽衆になったのが「少なくとも關原役以後で「駿府記」の慶長十七年三月二十日及び二十二日の條に禅高が駿府の家康の御前で将棋の相手をした事」等を最古の出典とされています。これは大坂冬の陣のわずか2年前であり、「山名家譜」記事における「天正十四年」より24年も後のことになるのです。

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(補注)

京の聚楽の館において徳川家康は、よく山名禅高と同席したが、禅高は儀式めいた時に限って「肩のくたびれた茶色の羽織」を大事そうに着ていた。家康がその訳を尋ねると、禅高は、この羽織は、私がかつて光源院殿(足利義輝)から直接拝領したものだと答えたので、家康は感じ入ったという。この話は幕末の「山名家譜」において、家康との将棋の席上での会話(慶長末年か)に変えられ、また江戸中期の「常山紀談」においては、時期をぼかしながらも、羽織を万松院殿(足利義晴)からの拝領としている。なお余談ながら、「常山紀談」の著者、湯浅常山は備前岡山の池田家家臣。しかも塩川長満の血が流れており(!)、長満から四代目にあたります。さらに、この「繋がり」には、例の京都「一条家」が関与しているのですが、この件はいずれまた。

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[「御伽衆という役職」の誤解を解く]

「御伽衆」と聞いて、皆さんは何をイメージされますか?。この名称を知っている、おそらくほとんどの方が「ネガティブ」な印象をお持ちではないでしょうか。私なども正直、真っ先に連想したのが「大坂城でスパイ活動する織田有楽斎(長益)のイメージ」でした(汗)。

こうした「諜報活動」のほか「綺麗な着物を着て、畳の上で、殿様のご機嫌をとる寵臣」、「舌先三寸だけの、ズルそうな人」、「ひ弱」といった連想が大半ではないでしょうか。

こうしたイメージは、「武士・武将」→「カッコいい」に対する「公家・貴族」→「カッコわるい」といった、現在に至る「ステロタイプ化」された「誤解」とも通底しています。

私たちは、こうした後世につくられた様々な「フィルター」を除去して過去を評価する必要があります。

加えて、「御伽」と聞いて、現代人がまず思い浮かぶのが「おとぎ話」という言葉です。現代語で「説話」と訳され、英語の“フェアリー・テール”、ドイツ語の“メルヘン”にあたります。具体的には「一寸法師」や「浦島太郎」、あるいは西洋の「白雪姫」などを指します。

さらに学校教育における歴史の授業で、「室町時代に「一寸法師」や「浦島太郎」などの「御伽草子」が成立した」といったことを習った記憶もあるかもしれません。

これらを総合して、「御伽衆」とは?→「殿様に、面白い「説話」などを聞かせて楽しませる役目」「エンターテイナー」「ご機嫌とり」といった誤解を助長しています。

桑田忠親氏は「大名と御伽衆」中「御伽草子の本義」の項において、こうした室町時代以来の民話、説話に対して「御伽草紙」の呼称が付けられたのは、江戸時代中期の出版業者、「渋川清右衛門」による命名以降のことであることを指摘され、それ以前の説話をも含めて「御伽草紙」と呼ぶことは、「危険な誤解」につながると、警告を発せられています。

つまり、まず「御伽衆」と「御伽草紙」、「おとぎ話」は全く別物ということです。

桑田氏は「大名と御伽衆」の中で、戦国時代の周防・大内氏から、江戸初期の徳川家光にいたる「御伽衆」の変遷の実例をあげ、その定義と存在意義を以下のようにまとめられています。

「一国の政務を執行すべき大名、若しくは一国の兵権を掌握すべき武将が、自らの見解を広くする為の機関として設けられた職員であって」「その主を益し、旧家の秘事、名将の隠徳、みな語り伝えられ」「彼らは本来、実戦、国政、もしくは世事に経歴深き老功の武士か、或いは学者、医者、僧侶の如き特殊な知識の所有者かであった」「元来戦闘的な、或る意味で原始状態に近い社会に発生した特殊な職員」等など。

つまり、「帝王学」として、あらゆる文武、政治、哲学、経済、芸述、遊戯、人生経験、(もちろん、エンターテイメントも含む)等を、カリキュラムを設けて、伝授する総合「講師陣」、「教授陣」であり、「それぞれの得意分野」がありました。

解りやすい実例として、林道春の「近代雑記」に記された、徳川秀忠の「御咄之衆(御伽衆と同義)」の一人、「九鬼大隈守(守隆)」の採用理由として「海手舟手之事能存候故」が挙げられています。九鬼守隆はいわば「海事や水軍の講師」だったわけです。同じく「平野遠江守(長泰)」の採用理由は「太閤之事能存候ゆへ」です。若いころの羽柴秀吉を知っている人物の話は、徳川秀忠にとって「対価を払ってでも聴くに値する」ものだったでしょう。御伽衆の役割の裾野の「広さ」がわかる例です。

そして、「中世以来の名家」が採用されることは多かったようです。実は徳川家康の下で能勢家を復興したかの「能勢頼次」も、家康の「御咄衆」の一人だったのです(語當家記年録・五)。山名禅高が採用された要因のひとつとして、「中世以来の名家」というのが挙げられるでしょう。

[茶会記関連史料では?]

今日見られる山名禅高の肖像画(トップ画像左)は、「堺の南宗寺」に残されていたものが原本です。また、禅高が「茶の湯」にも造詣が深かったことが、人物辞典などに触れられています。と、なれば堺の商人や茶人達とも付き合いがあったと思われ、とりあえず図書館に出かけて「茶道古典全集」にざざっと目を通してみました。残念ながら「禅高」の名前は見つけられなかったのですが、天王寺屋・津田宗及の「宗及自會(会)記」天正九(1581)年四月二十二日の条に「有岡 八木入道」との茶会の記事が出ていました。「八木入道」とは、かつて但馬守護であった山名本家の被官で、但馬・八木城主であった「八木豊信」のことです。山名禅高よりも一足早く、天正八年の羽柴秀吉の鳥取城攻めにおいて、秀吉側に付いて、若桜鬼ヶ城を守備していました(織田信長家臣人名辞典)。そしてWikipediaにおいては、天正九年に鳥取城主が山名豊国から吉川経家にとって代わられた後、なんと「消息不明」とされています。しかし、この津田宗及の日記にあるごとく、伊丹(有岡)において出家、隠棲していたのです。伊丹は池田元助が城主時代の城下町でした。つまり、山名禅高と非常に似た立場の但馬の城主が、後に伊丹城下に隠棲していた、ということは、禅高が鳥取落城後に山下に隠棲したことと、全く同様のパターンで、大変興味深い記事です。宗及は翌年、天正十年二月十七日にも八木但馬入道と茶会をしています。

なお、宗及は上記、天正九年四月二十二日の八木但馬との茶会において「志野茶碗」を使用しているのが印象的でした。ウル覚えで申し訳ありませんが、一般に「志野焼」といえば、白っぽい砂糖菓子のような釉薬のかかった「豊臣時代後期の茶陶」の一つとして認識しています(唐津焼や織部焼同様)。塩川氏の獅子山城跡においては、国産茶碗といえば中世以来の天目茶碗(瀬戸・美濃)の破片ばかりが見られ、いわゆる「志野」の破片など見たことがありません。もし「志野」が出てきたら、廃城時期の修正が必要となるのでは?。そしてWikipediaの「志野焼」の記事においても、津田宗及の日記に天文二十二(1553)年という早い段階から出現する「志野茶碗」がいったい何なのかは、やはり謎のようです。ただし、獅子山城主郭の西直下300mの「車谷の沢の中」において、瀬戸美濃焼かと思われる肌色の丸茶碗の破片が1点ありまして、その表面に塗られているのが(瀬戸美濃焼丸皿にあるような)黄緑色の「灰釉」ではなく、「志野焼」同様、白っぽいやや肉厚の「長石釉」なのでした。見かけはちょっと「井戸茶碗」に似ています。素人目に「初期の志野なのだろうか?」などと思っておりましたので、思わず書いてしまいました。また次回の「戦国1日博物館」でも展示致しますので、お詳しい方、ご教示いただければ幸いです。「これはあなた、ダイソーで売ってるヤツですよ」となんてことにならないことを祈りつつ…。

[「言経卿記」に関して]

偶然、パラパラと、今谷明氏の「戦国時代の貴族」(講談社学術文庫)を眺めていたら、公家であった山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」に山名豊国の名前が出ていることを知り、再びあわてて図書館に出かけました。

山科言経は当連載第九回において、足利義晴の「中尾城」を見学していた、あのエネルギッシュで、かつ好奇心旺盛、多芸、超筆まめで、大酒飲みながら品性を失わない、ある意味“戦国スーパーマン”の一人である「山科言継(~天正七年)」の子です。言経自身もなかなか父似のキャラクターであったことが、日記から窺えます。しかし言経には父以上に「大きな試練」がふりかかります。天正十三(1585)年六月、詳細が不明ながら義理の兄弟で親友の「冷泉為満」、「四条隆昌」と共に「勅勘」を被り、すべての所領を失い、屋敷を売り払って、為満、隆昌と共に京を出奔する憂き目に遭います。浪人になってしまうのです。なお、この直後に実弟の「薄諸光」が秀吉の命で殺されています。事件の真相は闇に包まれています。

言経はいったん堺の寺庵に滞在した後、同年九月には、同志、冷泉為満の姉の嫁ぎ先で、経済的にも援助してくれた興正寺佐超(顕尊、顕如(光佐)の子)に伴って、新造の大坂・中嶋の天満本願寺寺内町に移転。所領を失った彼は、持ち前の多芸かつ家芸の博識を生かして、有職故実(衣、音曲、謡、和歌、漢詩、蹴鞠など)のコンサルタント等のアルバイトの他、特に家業の薬剤師としての技術をフルに生かして、薬問屋から薬種を仕入れ、様々な薬を調合して、天満本願寺や寺内町民の薬屋、医者として、逞しく生きるのです。同じ境遇の冷泉為満、四条隆昌とも頻繁に連絡をとり合い、互いに助け合っています。

[山科言経、大坂で大村由己と出会う]

言経は新興の大坂・天満寺内町に移転後、お互いに親友となる重要人物に出会います。昨年、新しく造営された(兼見卿記)「大坂天満宮」の社僧に任命された「大村由己(ゆうこ)、梅庵」です。この大村由己こそ、秀吉の「御伽衆」の一人で、秀吉政権の「リアルタイムにおける広報メディア・公式伝記」である「天正記」(「惟任退治記」「柴田退治記」など)の作者であることは、既に連載第一回でも触れました。言経は足繁く由己宅に通い、「天正記」の校正や書き写し、音読などを手伝っています。これらは「太平記」のように声に出して読み聞かせる、今日風に呼べば、新政権のオフィシャルな「講談」のスタイルでもありました。

私はこれまで正直、大村由己に対しては、その歴史的役割から「秀吉政権に媚びた、優雅な売文家」といった「色眼鏡」で見ておりましたが、ほぼ庶民生活の日記に近い大坂時代の「言経卿記」に登場する由己は、苦しい言経に援助の手を差し伸べ、自身、前代未聞である豊臣政権の基礎工事の一翼に身を捧げた、「一人の人間」でした。そして彼は秀吉政権ピークの慶長元(1596)年、燃え尽きるように亡くなっています。

[大村由己主催の連歌会に登場する山名禅高]

さて、前置きが大変長くなりましたが、「言経卿記」には、大村由己(梅庵)亭で開催される和歌や連歌会の記事がいくつかあり、そこに山名禅高が出席していました(!)。その初登場は天正十四(1586)年正月五日における「梅庵亭ニテ和歌會初有之」であり、出席している20人程のうち一人に「禅高 山名伊予入道 因幡國」の名があるのです。この時彼は「山下の多田邸」から大坂まで出向いて来たのでしょうか??。すでに出家して「禅高」を号していることがわかります。やはり彼の出家はこの「幽居時代」になされたのかもしれません。

出席者としては他に「尭凞(たかひろ) 山名慶五郎 但馬國」も居ます。「寛政重修諸家譜」によれば「山名尭凞」は元・出石城主ながら「處士」、いわば浪々の身に転じたらしく、禅高同様の状況であったようです。山名関係者としてはもう一人、「眞継 加陽伊右衛門 山名内」がいます。また、武士のうち「薄田古継」と「佐久間与六郎入道」のみに「関白殿御内(秀吉家臣)」と記載されています。「浪々の仲間」としては山科言経のほか、堺から出向いて来た冷泉為満や四条隆昌もいます。「和歌會初」という一見豪華なイメージとはうらはらに、以外と「食いっぱぐれ」の寄り添う集まりであったかもしれません。

そして「言経卿記」における山名禅高第2回目の登場は、同年四月六日の「梅庵ニテ連哥(歌)有之」の出席者として。今度は「連歌」です。この後も由己邸で連歌会は頻繁に行なわれるものの、禅高は言経ほど盛んには出席してはいません。

そして三回目、同年五月二十五日の「梅庵ニテ連哥有之」における出席を経て、四回目に実に驚くべき記事があります。

[山名禅高が、秀吉に仕官したのは天正十四(1586)年六月か?]

なんと、同年六月一日条に

「山名伊予守入道禅高亭ニテ 早旦ヨリ法楽連哥會有之」、つまり禅高の「邸宅(!)」において、朝早くから、神仏に捧げる「法楽連歌」が開催されたのです。もちろん大村由己も参加していますが、「法楽連歌」にもかかわらず、会場が彼の職場である天満宮ではなく、「禅高亭」であり、禅高に関する注記として、以前はなかった「殿下御内」と記されていることから、山名禅高がこの時点で羽柴秀吉の「御伽衆」として仕官を遂げ、大坂に邸宅を得たことを感謝して、連歌会を主催した、ということになりそうです。

他に山名家臣として「成安」「加陽眞隆」の名前があります。仕官に際しては、おそらく「御伽衆」としての禅高の「適性」を理解出来た、博識な「大村由己による斡旋」があったかと推測されます。山科言経はこの日「終日濟々之儀」すなわち「澄みきった一日であった」と記し、日記の末尾に、禅高と彼自身の二つの句だけを挙げています。

「茂り極(?)く 古とのは深し 夏の山」(禅高、発句と思われる)

「庭にすゝしき松の下水」(言経)

ここで、連歌の評価など、おこがましいかぎりですが、私のような素人の目にもなんとなく、水(収入)を得て、青々と山(名)が繁栄する様を「言祝いで」いるかのように窺えます。言経の句も「松」という「常緑樹の逞しさ」を、山名家に託したのでしょう。「古とのは深し」は、「言葉が深い」つまり、「歌の世界を極めるぞ!」(後述)彼のスタンスの表明なのかもしれません。この日、言経が帰宅したのは「酉刻(午後6時)」。連歌会の後は祝宴が開かれたことと思われます。

もし山名禅高が、本当に「この時に」秀吉に仕官したのであれば、「山名家譜」に記された、「十一月の家康上洛に乗じて徳川に仕官した」というのは、やはり後世の山名家による「大幅な編集カット」でありました。彼の「アリバイは一部崩れた!」のです。しかしながら、一応「天正十四年に」多田氏の元を去った、という点ではかろうじて「符合」しています。さらには「高代寺日記」における「五月五日 愛蔵大坂へ初テ出仕 家僕六十余人同従フ」の少し後であり、塩川長満が病に倒れる直前にあたります。新しい大坂城と城下町(大村由己言うところの「大坂の山下」)に、新規採用された「山名禅高」と、吸収されてしまった「塩川氏」との明暗が分かれてしまった時でした。

[「言経卿記」ほか、における禅高その後]

さて、「歌会」等の記事を以下に列挙していきましょう。

禅高は、同年九月一日の大村由己邸における連歌会、九月二十五日の由己邸における「法楽連歌会」(山名尭凞も参加)、翌天正十五(1587)年正月九日の由己邸における和歌会始、同正月二十六日の由己邸における「夢想連歌会」に参加しています。

他史料においては、同年三月、島津征伐のために西国へ出発した秀吉一行は、十八日厳島において船上で連歌会を開いており、一行に禅高も混じっています(楠長諳下向記)。二十五日には赤間関の安徳天皇御影の前での詠歌に、やはり禅高が参加しています(懐古詩歌帖)。(この2件は井上宗雄氏「中世歌壇史の研究」よりの孫引き)

再び「言経卿記」に戻って、十二月二十五日の由己邸における法楽連歌会、翌天正十六(1588)年三月二十日の由己邸における連歌会に出ています。

なお、この翌月の四月、いわゆる「聚楽行幸」が行なわれるのですが、朝廷としては式典の有職故実に詳しい山科言経が居ないのに困ったらしく、大坂の言経の元に鷹司信房(前回、名護屋行きの近衛信輔を見送った人)から使者が派遣され、言経が大坂でアドバイスをしています。彼の知識が今だ重要であったことがわかります。またこの六月頃、塩川家が改易され、滅亡しています(高代寺日記)。

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[「多田銀山」に関する初見記事]

なお、大坂における山科言経の近所の住人で、互いに懇意であった「豆腐屋」と「風呂屋」を営む「九朗衛門尉」なる人物がいました。二年前のある日、九朗衛門が湯屋で誰かとケンカとなり、言経がその傷薬を処方してやったのがキッカケのようです。そして天正十六(1588)年九月一日にこんな記事があります。

「九朗衛門尉 摂州多田郷ヘ宿ヲカヘ行了、上ルリ(浄瑠璃)ノ本返了」

これと関連するのか、九日後の九月十日には

「冷(為満)、早朝ニ摂州多田郷銀山見物ニ被行了、此此出来也云々」

実はこの記述が、多田鉱山から銀が産出した「最古の文献」となりました!。しかも「此此(このごろ)出来也」とありますから、これ以前、つまり塩川氏時代には銀は得られなかったことがわかります。冷泉為満はこの時、九朗衛門の所に泊まったのかもしれません。なお九朗衛門の大坂の風呂屋は、この後にも出てくるので、彼は豆腐屋か風呂屋の「多田支店」を造ったのかもしれません。その場所は多田郷唯一の都市であった「山下」か、あるいはこの時に勃興した「銀山町」ではなかったでしょうか。

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少し遡って、上記「九朗衛門尉」 が摂津多田ヘ去った三日後の九月四日、山名禅高は大坂の冷泉為満の宿所を訪れ、「草子共被見」とあります。おそらく(1980年代、その発見が「全国版トップニュース」ともなった)冷泉家に伝わる、古文書や藤原定家自筆の歌集などを見せてもらったのでしょう。これらの多くは現在、国宝、重要文化財に指定されています。この時、言経も、為満から「貴方も見に来なさい」との連絡を受けて、急拠、為満邸に赴いています。三人で「スゴイ!スゴイ!」と唸り合った光景が目に浮かぶようです。後年「平安博物館(京都文化博物館の前身)」による冷泉家文書の調査を遡ること、四百年前の「ある日の光景」でした。

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余談ながら、ここでちょっと「告知」をさせて下さい。(ラジオ番組みたいですが。)

24年前の平成六(1994)年、私は不思議なことに、某社の工場にて「平安建都1200年」イベントの目玉、「平安京」と「鳥羽離宮」の復元模型(1/1000)の製作現場を指揮しており、心身ともズタボロ状態でした。当時、上記「平安博物館」の設立団体、「古代学協会」の方々には、模型製作の資料借用に通ったりして、大変お世話になりました。なお上記模型は、あまりにも巨大すぎた為、その「全体像」はこの24年間で「合計三ヶ月間」しか公開されておらず、私は死ぬまで再会出来ぬものと諦めておりましたが、今年、平成三十年春、突然の「全体公開」が決定されました。ここで、いきなり「宣伝」で恐縮ですが、京都へお越しの再は、ぜひ「京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)」にて無料公開(火曜定休、12/29~1/3は休館)されている、この「巨大ジオラマ」にも是非ご対面いただければ幸いに存知ます。

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話を戻しまして、冷泉為満は、この山名禅高が来訪して「草子共被見」した、「六日後」の九月十日に、上記の「多田銀山見物」に出かけたわけです。ひょっとしたら、「多田に詳しい(?)」山名禅高から「ガイド」を受けた可能性も考えられるタイミングです。

禅高は、十六日には再び由己邸において連歌会に出席。次は翌天正十七(1589)年正月五日の由己邸における和歌会始出席。このあたりから、大村由己は「天正期」執筆に多忙となったのか、次第に由己邸の連歌会は少なくなるようで、一年後の天正十八(1590)年正月の和歌会始以来、禅高の記事が減っていきます。

しかしながら、同年十一月二十八日、冷泉為満の実弟で同じく「勅勘」を受けた仲間である「四条隆昌」がなんと、山名禅高家臣の「山名式部大甫女」すなわち磯部兵部大輔の娘との婚儀の話が持ちあがり、二十八~翌十二月二日にかけて、大坂の山名邸や冷泉為満宿所において祝言のほか様々な祝儀や、贈答のやりとりが執り行われます。儀礼のやりとりは、年が明けた翌天正十九(1591)年正月五日、六日にも行なわれ、山名一族である例の「山名尭凞」も参加しています。

こうして、言経、為満、隆昌の「勅勘トリオ」にとって、今や山名禅高は、「身内」とも言うべき頼もしい存在となったのでした。

また詳細は不明ですが、同年三月二十二日に言経のもとに、大村由己経由で「山名禅高ヨリ条々不審共一紙并書状有之」が到来しています。

[「言経卿記」に登場する患者、伊丹忠親ファミリー]

これも余談ながら、あまりにも興味深く、無視できない記事がありましたのでご紹介を。

この頃の「言経卿記」に、かつての摂津国衆・伊丹氏最後の当主であり、黒田長政家臣として数年後の慶長五(1600)年の関ヶ原で戦死する「伊丹忠親」が、言経の「患者」として家族ぐるみで何度も登場しているのです。伊丹忠親は、往年の塩川長満の「同盟者」として、寿々姫やその妹の「伯父」にあたる(荒木略記)ことは本稿では幾度もお伝えしています。この時はまだ黒田家に仕える前で、羽柴秀吉の馬廻りだったらしく(織田信長家臣人名辞典)、大坂の天満あたりに住んでいたようです。

「言経卿記」上において、この天正十七年から十九年にかけて

「伊丹悪三」「同イモト(妹)」「伊丹兵庫頭孫小児ツレテ」「伊丹兵庫助ヨリムスメ薬取来」「伊丹ヨリ小娘五才薬取来」「伊丹ヨリ薬取来、ア子(姉)ムスメ十才~同イモト五才」「イモトニ才」「伊丹内(家来)廣嶋福寿所労(病気)」「伊丹内孫大夫ヨリ子息所労ニツキ」「伊丹兵庫助~同妻」「伊丹若御乳母播磨國有之云々所労一書来」などの記事が散見され、伊丹忠親が、家族ぐるみ、家臣たちも含めて、「山科先生」のお世話になっており、これはもはや「戦国武将・伊丹忠親」といった抽象的な存在ではなく、生々しい「ドキュメンタリー映像」を見る思いです。そして幼い子供達が「お使い」に薬を取りに来るなど、近所住まいだったことがわかります。また、処方された薬の記録などから、彼らの「病状」まで判明されるのですが、これらは「個人情報」にあたりますので(汗)ここでは記しません。

天正十九年六月十九日には「伊丹兵庫助ヨリ朝食ニ可来之由」と、言経が、忠親から朝ご飯に呼ばれたり、おそらく忠親の勧めがあったのでしょう、翌二十日に言経が息子阿茶丸(言緒)をつれて伊丹の「津ノ國昆陽寺 行基菩薩」に参詣しています。七月二日に「伊丹悪蔵」宅に往診に出かけた際も「サウメン(素麺)」や酒を振舞われており、言経に“亡き父、山科言継”の面影がダブってしまいます。

[山科言経、文禄頃から、徳川家康に接近。そしてその場に居合わせる山名禅高]

天正十七年以降、山科言経は山名禅高を「歌会の席」で見かけることが稀になりましたが、文禄二(1594)年以降、「言経卿記」に登場する山名禅高にはある特徴があります。すでに天正十九(1591)年、本願寺が大坂・天満から京都に移転するのに伴ない、言経にも光佐(顕如)の援助で京に邸宅が与えられましたが、「勅勘」は今だ解かれておらず、相変わらず浪々の身の上でした。実はこの頃から言経を経済的に援助してくれたのが「豊臣秀次」と「徳川家康」だったのでした。秀次に関しては前回でも触れましたが、既に関白に就任しており、自身、古典文学や古典芸能への関心がただならず、古典書籍の蒐集や書写、発刊に本気で努めたようです。当然、有職故実の権威ながら、「フリー」の身の上である山科言経は、そのスタッフとしてお声がかかり、謡曲の校注執筆事業などに参加しています。しかしせっかくの秀次からの援助が、文禄四(1595)年の秀次粛正によって途絶えてしまったことは言うまでもありません。

そして山科言経に、天正十九年二月末、もう一人の援助者、徳川家康を引き合わせてくれたのが盟友、大村由己でした。この頃の事情を今谷明氏「戦国時代の貴族」から引用させていただくと「家康も言経の窮状はよく承知していたらしい。また、父言継のことは早くから家臣松平親乗を通じて知っていた。永禄九(1566)年末の徳川改姓について誓願寺の泰翁とともに奔走したのが言継であった。同十二(1569)年の後奈良院懺法講の献金を依頼してきたのも言経の父であった。」という、家康は父以来の「ご縁」だったのでした。

こうして言経は家康から段階を経て扶持米~最終的に二百石の知行が、また息子、言緒にも八十石の知行や、新たな屋敷地さえも与えられることになるのです。そして秀吉の死後三月後である慶長三(1598)年十一月三日、家康の執奏によって、足掛け14年にもわたった「勅勘」も解け、晴れて禁中での活動が再開できたのでした(田中博美氏、「言経卿記」解題)。なお、恩人、大村由己はこの二年前の慶長元年に亡くなっています。

こうして天正十九年の対面以来、京や伏見において、山科言経は援助者、徳川家康のもとに足繁く通うことになるのですが、ここで本稿の主題に戻させていただくと、この後「言経卿記」における「山名禅高」記事の大半は、「徳川邸に赴く際に同道する」か、あるいは「徳川邸で顔を合わせる」という「シチュエーション」なのです。例を挙げると

文禄二(1594)年閏九月二十一日(同道)、文禄三(1595)年五月四日(同道)、五月八日(同道)、十月二十二日(同道か)、十二月二日(顔合)、文禄四(1596)年三月二十五日(同道)、十二月十三日(顔合)、同(慶長元)年十二月二十八日(顔合)、慶長三(1598)年十一月十九日(顔合)。

そしてこのあと、慶長三年十二月十三日に禅高に書状を送ったのが、「言経卿記」に見られる、禅高の最後の記事です。言経としては、家康の執奏によって勅勘が解け、朝廷出仕を祝っている最中にあたり、二日後の十四日に自邸に、同じ頃に家康により勅勘を解かれた冷泉為満や四条隆昌(勅勘が解かれるのは三年後)を招いて祝宴を開いています。

さて、長くなりましたが、本項における大事な要点は、上の「禅高」の登場の仕方であり、慶長三年八月における「秀吉の死」をはさんで、禅高が家康サイドに「微妙にシフト」しつつあることがわかる、ということです。特に後半は、禅高が家康と食事していたり、碁や将棋を打ったりして「親しげな様子」でもあります。「山名禅高が、家康に急速接近した」のは「山名家譜」に記された、天正十四(1586)年などではなく、その10年あまりのち、秀吉の晩年である文禄~慶長三年頃であった、というのが事実だったのです。

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[前回記事の訂正]

前回の連載において紹介した、「三藐院記」における近衛信尹亭での酒宴の記事

「アハセ安芸(毛利)輝元持参、入夜まて飲酒、山名禅高(豊国)被来、一乗院殿(興福寺一乗院門跡・尊勢、信尹の兄)、一条殿、百疋 長井右近(永井直勝)」(慶長三年四月廿日)

の説明で、私は「山名家譜」の内容からそのまま、この「山名禅高」が同席している「永井直勝」らの取次で徳川家康に仕官していた、と記してしまいましたが、上に再検討したように、実際はこの時点は、秀吉死去の四ヶ月前であり、禅高はあくまでも豊臣家の御伽衆の立場ながら、かなり家康側にアプローチをかけていた時期にあたる、ということになります。謹んで訂正いたします。

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[「時慶記」に見る「山名禅高」]

せっかくの「ご縁」ですから、「山名禅高の実像」をさらに詰めていきましょう。

山名禅高による「徳川家康への接近ぶり」は、やはり中流の公家であった「西桐院時慶」の日記に如実に現れています。取り急ぎ、「時慶記研究会」による、翻刻、索引の充実した慶長十八年以前の分(臨川社 刊)のみを参照させて頂き、「時慶記」に見る「山名禅高」を列挙してみます。

慶長五(1600)年四月三日の連歌会(近衛信尹も出席)において。

同五日の桑山法院(重晴)主催の茶会。この時、近衛信尹は遅刻したが、「名物二種」を持参したのに対し、禅高は「常椀ナリ」とのこと。信尹と禅高の意外な関係はまた後述します。

慶長七(1602)年五月二十七日の里村昌叱の連歌会。

慶長八(1603)年四月二十日の近衛信尹連歌会。

慶長十(1605)年八月十七日、落成間もない二条城における家康との対面の時、大勢に混じって「善高」に会っています。

そして「時慶記」においてはこの後しばらく、「禅高」の記事が途絶えるのですが、「人物索引」に導かれて、8年後の慶長十八(1613)年における、「禅高」の記事の多さに仰天しました。

慶長十八年三月十九日、「~会之衆山名禅高~」(大勢に混じって会う)

翌二十日「~惣社に連哥アリテ、唯心(日野輝資)、禅高、(里村)昌琢出座ノ由聞~」(連歌会の噂)

翌二十一日「~一朽木兵部ヘ帯三筋遣候、一禅高ヘ扇三本、一意庵へ~」(贈り物)

二十五日「~山名禅高二十七日可振舞由預状~」(翌々日の招待状)

二十七日「~山名禅高へ振舞、兼(ねてから)約束ニテ行~」(禅高による招待に出向く)

二十八日「~禅高昨礼状遣、唯心・一身田ヘモ申候~」(昨日の礼状を送る)

四月三日「帰リニ禅高へ行、又一身田ヘ昨日礼~」

[禅高は駿府において時慶に応対していた!]

一体何だ?これは!、時慶とは特に交流もなかった「禅高」といきなり連日会ったりして…と、周りを見たら、実はこれが「駿府」での記事だったのです。そうです、このころ禅高は家康の家臣となって「駿府に在住」していたのです。既に桑田忠親氏の「大名と御伽衆」で引用したように、「駿府記」によれば、少なくとも前年の慶長十七(1612)年三月二十日には駿府において家康と将棋をしています。

西桐院時慶はこの三月十一日に京を出発していたのでした。十七日に駿府着、翌四月十一日まで滞在しています。登城しての大御所家康への対面をはじめ、大勢の徳川家臣たち、金地院崇伝や天海などの僧、そして、禅高のほか唯心(日野輝資)、飛鳥井龍雲など、元豊臣家の御伽衆や、なぜか駿府に滞在している公家衆と挨拶を交わし、贈答、宴席が続く中で、「禅高」の記事だけを抜粋したのが上の記事でした。この時、吉田家の代理として、やはり駿府に滞在していた豊国神社の神宮寺別当、神龍院「梵舜」も平行して家康と対面しています。時慶の日記においては、華やかなやりとりとは裏腹に、文面から「ただならぬ緊張感」が伝わってきます。時慶はこの後江戸で将軍家に挨拶し、折り返し、二十八日から五月八日まで再び駿府滞在。再び禅高とも何度かやりとりがあり、五月十六日に帰京しています。二ヶ月強の旅でした。

村山修一氏の「安土桃山時代の公家と京都」によると、この旅は、還暦を過ぎた時慶が、家督を嫡子、時直に譲る承認を得る為の徳川家への挨拶まわり、との名目のようですが、吉田神社の当主、兼治の代理として、神龍院梵舜も同様に挨拶に訪れている事からも解るように、京都側の人間が、強権化してゆく徳川家に対し、挨拶を怠らず、安堵の保障を得ておこう、という動きなのでした。歴史的にはまさに“方広寺事件”や“大坂冬の陣”が勃発する前年にあたります。徳川家にたいしてピリピリしていたのは豊臣家のみならず、京の朝廷や古い寺社も同様でした。

そして何よりも、この時慶の帰京後から一ヶ月後の六月十六日、徳川家は「公家衆法度」、「勅許紫衣法度」、「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を発布するのです。後の「禁中並公家諸法度」の前段階とも言える、徳川家による京都への圧力、管理が強化されつつあるタイミングであったというわけです。駿府で時慶は、これら法案を起草したと思われる「以心崇伝」とも顔を合わせており、西洞院時慶の行動には当然ながら、“敵状偵察”の要素も含まれていたと思われます。

そして、これらの動きから、「文化人」でもあり今や徳川家「御伽衆」となった「山名禅高」の「役割」が見えてきます。彼は明らかに京側に対する「徳川家の窓口」の一人として機能しています。実際には「所領の安堵」といった生臭い政治目的ながらも、表面的には「由緒ある古典の贈答品」などが交渉の“潤滑油”となっています。時慶は「色紙 院御所(後陽成院)御筆」や「陽明ノ御筆」(近衛信尹の書)などの「名筆」を持参しています。受け取る側の徳川家としても、こうした古典や芸術、有職故実などに造詣が深い「応対者」が必要なわけです。駿府においては禅高ら御伽衆以外に、唯心院(日野輝資)、飛鳥井雅庸(まさつね)、土御門久脩、一斎(水無瀬親具)、などの公家衆、そして、あの家康に救われた“元・勅勘トリオ”の冷泉為満(これは「駿府記」において)までもが、実質、徳川家の“窓口スタッフ”のような役割を果たしていたようです。

ここで“歴史小説的な想像”をめぐらせば、この駿府において、山名禅高と冷泉為満は、互いに浪々の身であった27年前の、今は亡き「大村由己」主催の天正十四(1586)年正月五日における「梅庵亭ニテ和歌會初有之」(言経卿記)における“出会い”を回想して、「お互い、長い道のりでしたなあ」と称え合ったかもしれません。当時、為満は堺に隠棲し、禅高はまだ、塩川家臣の多田元朝邸に隠棲していたかもしれない時です。また為満は塩川氏滅亡直後の「多田鉱山からの銀産出」を見学に訪れた「文献上初見」(言経卿記)の人でもあり、この関連もちょっと面白いですね。なお、上記の「和歌會初」や、四条隆昌の婚儀に一緒に参加した「山名尭凞」の方は、運命が分かれ、豊臣秀頼家臣として、大坂城に篭城する事となりました(寛政重修諸家譜)。

 [駿府で偶然、時慶と同席した「梵舜」のこと]

また西洞院時慶と同時期に「吉田神社の代理」として、駿府~江戸を訪れている、神龍院「梵舜」はその日記「舜旧記」で有名です。家康や本多正純には手土産として「続日本紀」や「職原抄」などの「古典の写し」を持参しています。

彼の日記に登場する「禅高」は、三月二十八日に一回だけ「山名禅高へ唐墨一挺令持参了」と、あるだけなので、禅高は特に「担当」ではなかったのでしょう。鎌田純一氏の「舜旧記」解説によれば、梵舜は吉田兼見の弟ながら、身分の低い神龍院住持にすぎなかったのですが、死後の豊臣秀吉を“神として祀った豊国神社”の神宮寺別当でもありました。徳川家康は、かねてより「吉田神道」に並々ならぬ関心を抱いており、この梵舜の来駿には心底喜んだようで、梵舜は幾度も城に招かれ、家康と質疑応答しています。これが縁となって、結局、後の家康の葬儀までも、梵舜が呼ばれて、吉田流の神葬祭で執り行われることとなったのです。また家康が「日光」の地に祭られたのも、梵舜の意見が多少反映しているようです。これには梵舜に好意的だった「崇伝」の肝煎りもあったようでしたが、一方の「天海」は嫉妬ともいえる大反発をみせ、日光東照宮への「吉田神道」導入はなくなりました。

その後、徳川家による豊国神社廃絶の後も、梵舜は密かに“豊国大明神”を自身の寺、神龍院に勧請し、あたかも、隠れキリシタンの様に秀吉を祀っていたようです。

[「鹿苑日録」に登場する山名禅高]

一方、前述の桑田忠親氏の「大名と御伽衆」の記述に導かれて、京の相国寺塔頭、「鹿苑院」の業務日誌「鹿苑日録」を見てみました。鹿苑院の一行は既に,上記の時慶や梵舜が訪問した前年である慶長十八(1613)年二月~三月にかけて、京→駿府→江戸→駿府→京と挨拶周りをしており、駿府では「禅高」と4度対面しています。また「大坂冬の陣」直前である、翌十九(1614)年、上記、西桐院時慶の行程からひと月遅れの年四月(脱簡あり)~六月にかけて、ふたたび駿府、江戸へと挨拶周りをしており、帰りがけには駿府の禅高邸において風呂(浴室)を呼ばれています。「鹿苑日録」上では、翌年の豊臣氏滅亡直後である元和元年七月二十日、「相國寺去年於駿府指出之面弐百五十石也~」と記されており、昨年度の旅が、収入申告を含めた「寺領安堵」を得る旅であったことをストレートに書いています。また、山名禅高はこの後、七月三十日~八月一日、崇伝らとともに京の鹿苑院を訪れています。「鹿苑日録」においては翌元和二(1616)年八月二十三日、同二十八日、元和八(1622)年三月十二日に禅高の訪問を受けています。

そして七日後の三月十九日の条にはこう出ています。

「十九日、山(名)禅高来臨故、於八條殿有御能。予亦詣而見之。一條殿賜諸白両樽、両肴」

公家衆が山名禅高に「能観劇」の接待をしています。今や、禅高は朝廷との緊張感を高めつつある「徳川幕府のスタッフ」であり、大変気を使う存在となりました。

そして会場に酒(奈良の両白、もろはく)、肴を振舞った「一條殿」とは、一条内基が亡くなる直前、養子に迎えた「一条兼遐(昭良)」のことです。兄である後水尾天皇、近衛信尋(故・信尹の養子)と共に、「だんご三兄弟」の如く(古!)、圧政化する幕府に立ち向かいました。そして、この時点では、一条家未亡人となった寿々(徳寿院)や妹(慈光院)がまだ健在であり、兼遐自身、養父から引き継いだ“塩川家残党の世話”をまだ焼き続けていました(岡山・池田家文書)。

山名禅高が山下の「多田兵部元朝(山名家譜)」邸に幽居していた時期は、ちょうど上記の塩川長満の娘二人が、織田信忠、池田元助に嫁いだ「直後」にあたります。

今や、恐るべき「幕府の顔」となった山名禅高ですが、この、極めて政治的な接待の席に於いて、一条兼遐との間で、兼遐の用意した“両白”の効果も相まって「塩川家、多田家」の思い出が語られたかどうかは、想像に任せるしかありません。

[山名禅高にとって、文芸は「ただの政治の道具」だったのか?]

さて「時慶記」、「舜旧記」、「鹿苑日録」と、「強大化する“徳川家の窓口”として機能する山名禅高」の記事を列挙してまいりました。これらからは、連歌など、禅高の文芸は、あくまで政治交渉における「手段」、「媒体」、「潤滑油」的な側面ばかりが見えてきます。

しかし、「言経卿記」における連歌会など、彼に関する初期の記事、とりわけ、大坂の冷泉為満邸に赴いて、古い草紙類などを見た彼の行動からは、禅高の古典文芸に対する「いれ込み様」も窺えます。

[禅高は、山名家に伝わった「宗砌(そうぜい)」流連歌の「宗匠」か?]

実はこの3週間ばかり、図書館通いで集めた、山名禅高関連資料の中で、もっともボリュームがあったのが、「連歌関連」の資料でした。「蔵書検索」でヒットした、綿抜豊昭氏の論考「山名禅高流「テニヲハ伝授」考」(古代中世文学論考第四集所収)から導かれて、芋蔓式に集ってしまい、私は正直、途方に暮れました。「今回の山名禅高特集」、いつ終わるんだ!?と。あっ、これは読者の方々のセリフでしたね(汗)。

では、ここらでちょっと眠気覚ましに「連歌」に挑戦してみますか?。それでは、まず「発句」から。

「十四回、「鹿野」は遠くなりにけり」

(意訳:第十四回連載で、鹿野のことを書き始めたのは秋(=鹿)の時分であったが、今や遠い昔となってしまったことよ…)

「亀は万年、亀井はどこでんねん?」(超・字余り)

(意訳:亀は万年と申しますが、本稿始めに、主役級で登場した「亀井慈矩」は、いつのまにやら消えてしまったことでございます…)、なんて、やってる場合か!!

失礼いたしました。(咳払い)さて、綿抜氏の論考の冒頭から、大雑把に要約させて頂くと、国文学の世界においても、やはり山名禅高という存在に対する研究、注目度はまだまだ低い状況のようです。

そして綿抜氏はまず、寛永九(1632)年に亡くなった「兼与法橋直唯聞書」という、連歌師「兼与」の語録集を提示され、その中の「哥てにをは 山名禅光ノ流レをも三藐院記御伝授」という記述を紹介しています。山名禅光(高)流の「てにをは」が三藐院、つまり、本稿ではおなじみの「近衛信尹」に伝授されて(!)、それがさらに信尹から兼与に伝授されたという驚くべき記事なのです。綿抜氏はさらに、その実体が伝わっていない「禅高流とは何か」を解明すべく、「てにハ抜書秘訣」および「発句てにハ等秘訣」(猪苗代家旧蔵本)という近衛信尹自身が著したらしい歌論書の中に「山名禅高宗砌流之相伝」という一節があることに注目されます。

「禅高」に続いて書かれている「宗砌(そうぜい)」とは、連歌に疎い私はその名前さえ知りませんでしたが、15世紀前半の連歌界の第一人者で、しかも俗名を「高山民部少輔」といった武士あがりで、彼は山名時凞(ときひろ)、及び持豊(もちとよ、宗全)に仕えた家臣だったのでした。宗砌はいったん主家を離れて東国を漂泊し(廣木一人「宗砌の東国下向」)、のち高野山に隠棲したようですが、再び「山名宗全」に呼び戻され、国内最大の連歌大会である「北野天満宮連歌会」の奉行や足利将軍家の「連歌宗匠」を務めました。非常に乱暴な例えをさせていただくと、「山名宗全にとっての宗砌」は、「秀吉にとっての利休」のように、その芸術的地位が、自らの権威の勲章となったようです。これには五代将軍、「足利義教」による連歌への肩入れが影響したようです(奥田勲氏「連歌史」)。しかし宗砌自身は控えめな性格だったようで、のちの享徳三(1454)年、足利義政の勘気に触れた山名宗全の失脚、引退に伴ない、その「全盛期に主家と共に但馬国へ去った」のでした。応仁の乱から遡ること10年以上前の出来事です。そして、連歌史上、「最大の巨人」となる次世代の「宗祇(そうぎ)」は、その修行時代、宗砌からアドバイスを受けており、上記の宗砌の京退去により、宗砌に兄事していた「専順」に師事したようです(奥田氏同書)。いわば「宗祇」の「師匠」格の、連歌会の先達だったのでした。

ふたたび綿抜氏の論考から、(大雑把ながら)まとめさせていただくと、このように全盛期に京を去った「宗砌流」の連歌が、主家、山名家に「伝書」としてとして相伝し、それらは「家学」とも称するべきもので、山名禅高にも伝授され、あるいは禅高自身、それに自説を加えることもあって、「山名禅高流」として、まわりから認知されていたのではないか、とのことです。

こうしてみると、禅高が自身の流派を伝授した「近衛信尹」との関係もまた「立体的」に見えてきます。綿抜氏(戦国武将と連歌師)によれば、近衛家自体、15世紀以来「近衛サロン」とも呼ぶべき連歌の盛んな家でありながら、他家からの古典伝授にも比較的「寛容」であったようで、信尹自身、伝授された「山名禅高宗砌流」と、父「龍山(前久)」ら近衛家における連歌のスタイルの違いを認識していました(上記「てにハ抜書秘訣」など)。

また、禅高が、勅勘を受けて大坂に流れていた「冷泉為満」の宿所を訪れて、冷泉家伝来の草紙を閲覧した行為(言経卿記)にしても、まさに「藤原定家」(連歌の大家でもあった)の血統を引く「冷泉家」と、「宗砌」の伝統を受け継ぐ「自分自身」を重ねての行為ではなかったでしょうか。それは決して「連歌好きな武将の文芸趣味」レベルではなく、「家業」「プロフェッショナル」として必要不可欠な「素材の仕入れ」であり、「スキルアップ」「自己研鑽」としての行為だったと言えましょう。

さらに「多田家」の元に隠棲したという行為にしても、勿論、人肉まで食べたという、悲惨な鳥取落城が、前城主である禅高の「厭世観」を呼んだのかもしれませんが、同時に、かつて高野山に隠棲した「宗砌」と自身を重ね、単なる隠居ではない「連歌の研鑚に集中出来る機会」を得られた、とも解釈出来るでしょう。また、「宗祇」の先達であった「宗砌流」の「宗匠」として、山下や近隣寺院でささやかな「連歌会」が開かれたことも想像は出来ます。そういった行為は収入的に重要だったようですし(綿抜氏「戦国武将と連歌師」)、かつての「塩川秀満」の頃ほどではなかったにせよ、連歌自体はまだまだ盛んな時代でした。しかしながら、塩川家は確実に没落に向かっていたのです。

[多田氏は、平安中期の“歌人”としても名高い「多田頼綱」の末裔か?]

ここで、ちょっと禅高が身を寄せた「多田氏」に関して、“妄想”をお許し下さい。

上記で少し触れましたが、山名禅高が身を寄せた当時の「塩川家家臣、多田家」は、その名字からやはり「多田源氏の直系」に最も近い家系と意識されていたらしく「高代寺日記」永禄十(1567)年の項に「伝曰 筑前守(先々代の多田元継)ハ元祖(多田満仲)二十一代血脉(脈)十九代ナリ源全後也」と記されています。また、摂津源氏はなぜか「多田」満仲以降、二代目(源頼光)、三代目(源頼国)と飛んで、四代目「源頼綱」から再び「多田」を号していることを述べました。

元木泰雄氏の「源満仲・頼光」によれば、摂津源氏は「多田頼綱」の段階で「多田荘」を藤原摂関家に「寄進」しており、その見返りとして、摂関家の政所別当に任命され、彼の代から、多田源氏の経済地盤の安定と中央政界のポジションの双方を得たようです。さらに頼綱は「勅撰和歌集「後拾遺和歌集」に四編が収録されたほか、「金葉集」にも二首、「詞花集」「続古今集」にも一首が入首するなど、時代を超えて歌人として高い名声を博している」(元木氏同書)とのことです。「歌」に関して、ただならぬ造詣があった山名禅高は、当然「歌人・多田頼綱」の名前も知っていた可能性があり、「あの多田頼綱のご子孫か…」というキッカケで多田氏と意気投合した可能性もあるのではないでしょうか?。

なお、平安時代中期の多田頼綱が当地「多田荘」に実際に滞在していた「数少ない傍証」として、井上宗雄氏がその著「平安後期歌人伝の研究」において、歌集「続詞花集巻十六」及び「新古今集巻十六」に掲載された、著名な学者「大江匡房(おおえのまさふさ)」の歌と詞書を挙げておられます。

“詞書”「よりつなの朝臣、つのくにに羽束山 為贈詠不能送早卒故」あるいは「頼綱朝臣 津の国のはつかといふ所に侍るとき、やらむとてよめりける」とある後に

「秋はつる はつかの山のさびしきに ありあけの月をたれとみるらん」

と続いています。井上宗雄氏は「即ち「はつか」は掛詞で、頼綱は某年秋に羽束山に居り、匡房は九月廿日頃この歌を詠んで送ろうとしたが、「早卒」(「忙しくて」の意か)によって送れなかった、ということになろう」、「ここに(恐らく)頼綱の隠棲地があり、時折か、或いは晩年にそこに住んだ事があるのは確実である」と述べておられます。

羽束山は、多田荘西部の現・三田市に属する急峻な独立峰で、山頂には16世紀の山城跡(香下城:三田市史)があります。現在、西山麓に位置する「香下寺(こうげじ、かしたでら)」は、中世以前は山頂にあったと伝承されており、その名残りとして城跡に「観音堂」が建っています。そして、山頂の南斜面や、城の土塁断面中などに、平安中期~中世とおぼしき、肉厚の「土師器皿」や「東播産須恵器」の破片などが見出され、16世紀の山城以前に、中世の山岳寺院が実際にあったことが実感されます(同様・同時代の遺物は、“中世甘露寺”を山下に移転して築かれた「獅子山城」東三~五郭の地表面や、かつて“三蔵寺”なる寺院があったという伝承のある「三蔵山(みくらやま、宝塚市)城」南斜面などにおいても見出されます)。平安時代当時の寺院の基礎は「土木による平坦地造成」ではなく、おそらく、自然地形の山頂南端に、ちょうど京都市花背の峰定寺(ぶじょうじ)本堂、あるいは「信貴山縁起絵巻」に描かれている寺庵のような、「懸造(かけづくり)形式」の寺坊であったと想像されます。なお元木泰雄氏(「摂津源氏一門」)は、「為房卿記」承歴三(1079)年六月二日条記事に「蜂起した比叡山大衆の入洛を阻止するために、頼綱は検非違使らとともに動員されている」記事があり、頼綱自身はこの時、公的には「前下総守」に過ぎず「武的な官職」には付いていなかった事から、多田源氏における「軍事貴族」という「家職」が、頼綱の頃から、実際の「武的な官職」同様に、「公的な軍事行動に起用され」はじめたことを記しておられます。

この他、禅高が知っていたかどうかわかりませんが、綿抜豊昭氏「戦国武将と連歌師」からの孫引きですが、頼綱の歌も収録されている勅撰集、「金葉和歌集」(1124)には、「源頼光」が詠んだ「七・七」の後から「相模母」が「連歌に聞きなして」、「五・七・五」を付け加えた歌が、掲載されているようです。頼光の死後100年後の歌集です。この歌が、なんと頼光の「但馬守」時代の館(但馬国府跡近くでしょう)において詠まれているのです。言うまでもなく後に山名氏の本拠となる、円山川左岸(現・豊岡市日高町)が舞台です。後世に山名氏の本貫となる地と、多田源氏における“超・有名人”である“頼光”との接点が、なんと「但馬における連歌」だったのです。

[「連歌伝授者」としての権威が、「御伽衆」として政治中枢に開花する]

禅高が身を寄せた多田氏の主家である、塩川氏が次第に傾いていった頃、かつて「宗砌」が奉行を務めた足利幕府主催による「北野天満宮連歌会」(天満宮は連歌の神であった)を想起させるように、新造の「大坂天満宮」の社僧として、「連歌会」を主催した豊臣家の「御伽衆、大村由己」と運命的に出会うのです。彼を通じて、連歌に徹するという行為を継続しながらも、豊臣政権内での禄が食める「御伽衆」という地位を得ることが出来ました。さらに秀吉の死後は、徳川政権による「京側」に対する管理強化という圧力の中で、山名禅高自身の、連歌を主とした「文化人としての格」が、朝廷や寺社勢力との折衝における「潤滑油」として、政治的にも充分機能を果たした、ということになりましょう。

本稿がもうじきアガリそうな12月26日になって、綿抜豊昭氏の「戦国武将と連歌師 乱世のインテリジェンス(平凡社新書、2014)」という本と出会いました。93ページには山名禅高の事も紹介されていました。そして本書副題の「インテリジェンス」とは、いわゆる「インテリ」の意味だけではなく「情報部、諜報機関」の意味もかけておられるのが、すばらしいと思いました。「御伽衆」もまた”intelligence”と英訳出来そうに思います。“007“や”忍者“よりも奥深い存在なのです。同書63ページの「交渉において「言葉」は強い武器となる。またテクニックだけではなく、最後は教養と人間性で決まるのが外交である」という綿抜氏のくだりは、桑田忠親氏による「御伽衆としては、體驗(体験)があつても肝心の咄下手では困るし、幾ら咄巧者でも體驗の伴はない、聞き齧りや、作り咄では、これまた値打ちが少ない。御伽衆たる者は、まづこの二資格を必要とした」(大名と御伽衆)と同様の機微といえましょう。

綿抜氏同書からの孫引きになりますが、鶴崎裕雄氏が「戦国を往く連歌師宗長」において「駿河における宗長の役割」として、「1、お抱え連歌師 2、文化人の接待役 3、今川家の記録者 4、京都との連絡役・交渉役 5、他の大名との連絡役・交渉役」とまとめられており、奇しくも「宗長」が、同じ「駿府」において、後世の禅高と同じポジションであったことがわかります。

[ふたたび「時慶記」にみる、後陽成院と山名禅高]

ここで再び、大坂冬の陣の一年前、慶長十八(1613)年三月~五月にかけて駿府や江戸に赴き、駿府で山名禅高とも会った「西洞院時慶」の日記を見てみましょう。

この年、時慶の帰洛後~年末にかけての京を舞台に、日記には「禅高」に関する記述が十七~八回ほど出てきます。

まず六月、駿府の禅高へ書状を出し、八月、在京していた連歌師、里村昌琢に、駿府の禅高の消息を尋ねています。ようやく十一月二十六日に待望(?)の禅高上洛の知らせを受け取った時慶でしたが、「咳気」のために会えず、三日間は禅高と書状で応対し、ようやく二十九日に禅高の宿所を訪問出来て「相伝之義相談候」、その晩も禅高へ書状を遣わしています。

その後十二月十二日の禅高の駿府への出立まで、時慶は、禅高と何度も折衝するのですが、その後半、十二月七日に、後陽成院が時慶を呼び出し「禅高事被仰出候」とあり、時慶は翌八日、禅高の元に出向いて「仙洞(後陽成院)ヨリ仰ノ義アリ、連哥テニヲハノ三冊ノ義也」と用件を伝えます。十二日にも時慶は後陽成院から呼び出され「テニヲハ義モ色々

ニ承候、以鼻以口」との解説(?)をも受け、禅高に使いを出しましたが「今暁被立ト」知り、在京中の里村昌琢と「直談」し、のち二十二日には駿府の禅高への使者を派遣しています。

こうした一連の記事と、上記の綿抜氏の論考を考え合わせあわせると、少なくとも用件の一端は、後陽成院自身による、山名禅高が相伝していた、宗砌流、もしくは禅高流の「歌論」の写し譲渡の要請のようです。後陽院はこうした歌書など古典の蒐集、筆写事業を積極的に行なっていたのです。

一方政治的には、慶長半ばの江戸開府以来、朝廷は管理強化を進める幕府と緊張関係にあり、「後陽成天皇」は二年前に徳川家への抗議の表明として「強引に退位した」という時勢でした。

“大坂冬の陣”を翌年に控えた裏で、こちらも緊張関係にある、朝廷と幕府との「飴と鞭」を交えた折衝において、まさに「飴」の一端として禅高の連歌が機能した具体例、と言い切ってしまえば、心底、古典、芸能を愛していたらしい御両人に対して失礼でしょうか。

ともあれ、こうした戦国末期における、東西間の「駆け引きの実体」を知らない「江戸時代中期以降」に書かれた家譜や軍記物などにおいて、山名禅高の「武将的な面だけを強調」することも、一方の「御伽衆としての面を軽侮」することも、共に、現実に生きた彼自身、しいては「戦国社会の実像を歪める」行為と思われます。

京側に向けられた、幕府の窓口であった山名禅高は、二代将軍、徳川秀忠の御伽衆をも務め、寛永三(1627)年十月七日、京で亡くなりました。禅高は今でも京の洛西、妙心寺の塔頭「東林院」に静かに眠っています。(トップ画像右上)

[「高代寺日記」を切り捨てなかった「連歌研究者」の系譜]

山名禅高への“追っかけ”を続けているうちに、見知らぬ“連歌研究の森”に紛れ込んでしまいましたが、実はちょっとだけ“デジャヴ感”がありました。と、いうのは「歴史学者」が切り捨ててしまった「高代寺日記」という史料に対して、粘り強くその価値を見出そうとしたのが、「国文学者」「連歌研究者」である「鶴崎裕雄氏」や、故・「藤原正義氏」の論考であったからです。具体的には鶴崎氏の論考「摂津国人領主塩川氏の記録 ―「高代寺日記 塩川家臣日記 下」紹介」(関西大学文学部史学科創設25周年記念論集、1975)及び、藤原氏の著作「宗祇序説(1984)」です。藤原氏は関西から程遠い「北九州大学」の教授でした。なお「宗祇序説」は18年程前に、川西市中央図書館に申請して導入してもらっています。

実は連歌界最大の巨人「宗祇」は、他の多くの芸能者同様、その出自が謎とされています。しかしながら、「高代寺日記」文亀二年七月晦日条に唯一、幕府の奉行人であった飯尾「元運ノ近族」と記されており、この記事を最初に紹介したのが、私は未見ながら、伊地知鉄男氏の「宗祇」(1943)だったようです(伊地知氏はまた、前褐した綿抜氏論考において引用されていますが、宗祇のまだ修行時代、世間に「宗砌流」とも呼ぶべき作風の一群があったことを近代の論考で最初に提言された方でもあるようです)。

ともあれ、伊地知氏、鶴崎氏、藤原氏共に、「高代寺日記」の資料としての不完全性をも認識しておられ、「宗祇の研究に活用しうるか」というという目的も含めて、資料の紹介と、一部ながら分析、検討を試みておられるのが、上記の鶴崎氏、藤原氏の論考なのです。加えて、当時、まだ「高代寺日記」が東京の内閣文庫でしか閲覧出来ない史料でもあったので、特に藤原氏は、史料そのものの「引用」の為に、著書内の多くのページを割いておられます(「高代寺日記」は近年の2012年、中西顕三氏らにより翻刻、出版されています。)。また藤原氏は「高代寺日記」の記述に基づいて、塩川氏と吉川氏の系図まで作成しておられます。そして飯尾元運の娘は、塩川氏によって天正二年に滅ぼされた「吉川定満室」となっています。これも以前お伝えしましたが、吉川氏の館は「高代寺日記」に「末々吉河家ノ破風ノ紋ハ立華(橘)ヲ三ツ付ルト云伝」と記されており、その遺構と思われる「吉川井戸城」跡が、平成十三(2001)年に豊能町により発掘調査され、時代がやや下るものの、天正前半とみられる「折れ紋」の鬼瓦が出土しました(小嶋均「吉川井戸城発掘調査概要報告書」)。私にとって、この「ニュース」を晩年の藤原先生に電話でお伝え出来たのはせめてもの幸いでした。

なお塩川氏においては、国満の祖父、「豊前守秀満」が連歌に造詣深く、鶴崎氏は「新撰莵玖波集」や、能勢氏の主催で摂津・池田氏も参加している「於新住吉御千句発句脇第三」、さらに宗祇が「塩川豊前守許(もと)にて(平野~新田の塩川氏館か!?)」詠んだ「下草」を紹介されています。山名禅高が本当に山下に来ていたとすれば、ひょっとして、塩川氏による「連歌再興」の機運もあったかもしれませんが、幸か不幸かそうなりませんでした。

(なお国文学者の故・井上宗雄氏は「平安後期歌人伝の研究」中「頼綱」の項において、「高代寺日記・上巻」を「全く信拠すべき史料ではない」と切り捨てておられます。)

[禅高、多田に隠棲中にも「連歌会」を開催する!?]

今回、綿抜豊昭氏の「山名禅高流「テニヲハ伝授」考」から導かれて「連歌総目録」という、“連歌の懐紙のリスト”があることを知りました。それによると、綿抜氏も指摘しておられますが、「禅高」なる者が一座した連歌会は「五十を越える」ようです。またその中には「北野社関連」の「禅高」という別人も混じっているらしく、注意が必要とのことです。さっそく図書館で「連歌総目録」中の人名索引から「禅高」分を通覧しましたが、年代がわかる連歌会のうち、山名禅高が豊臣家に仕官した天正十四年(言経卿記)より古いものが2例だけあります。具体的には、「天正十(1582)年七月一日分」と翌「天正十一(1583)年一月二十七日分(*巻末補注1)」の二つです。要するに、「山名禅高が多田家の食客となっていた頃」と推測される時分、彼は少なくとも「2回の連歌会」に参加しているようなのです。

両方共に「開催場所」は不明ながら、当時の連歌の最高権威「里村紹巴」「昌叱」一門との連歌会です。なお「禅高」参加の連歌目録は、最終的に元和八(1622)年まで見られますが、会は、紹巴→昌叱→昌琢と続く「里村一門」との参加が大半のようです。

里村家が、「徳川家の御用連歌師」となっていく過程と、禅高の徳川家へのアプローチが平行していたことは、上記で伝えた「時慶卿記」慶長十八年末に「里村昌琢」が登場していることからもうかがえます。

[天正十年七月一日の連歌会は、山名禅高主催によるもの!!]

「連歌」、「里村紹巴」といえば、たいていの人は、明智光秀の発句、「時は今、雨が下しる五月哉」で超有名な、いわゆる「愛宕百韻」を連想するでしょう。「愛宕百韻」は六月二日の「本能寺の変」の直前、五月二十四に開催(懐紙が二十七日に成立?)されており、宗匠である紹巴にとって、この七月一日は、六月二十四日、同二十六日の連歌会を挟んで(*巻末補注2)、「信長の死後」の第三回目の連歌会にあたります。しかも翌日である「七月二日」を織田信長、信忠の「月命日」に控えています。

紹巴による発句は「秋風のきのふにも似ぬたもと哉」であり、七月一日であるにもかかわらず、いきなり「秋風」と切り込んでおり、「たもと(袂)」は「涙」や「別れ」を連想させます。私はこの連歌会に関する研究解釈に接していませんが、少なくとも小高敏朗氏(ある連歌師の生涯)は「あるいは信長の追善なのかもしれない」と書いておられます。

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ここで、本能寺の変に関する「諸疑惑」に深入りするつもりはありませんが、“変”の時、織田信忠はいったん誠仁親王の二条御所に逃れ、誠仁親王は明智軍が包囲する中を明智軍の承諾を得て退去していますが、この時「新在家之辺より紹巴荷輿を参らせ御乗輿」(兼見卿記)と、なんと里村紹巴が救出にあたっています。この事に関して、「手回しが良すぎるのでは?」という印象から、日記を書き換えた「吉田兼見」共々、「愛宕百韻」の件も含めて、紹巴に疑惑の念が向けられる(平湯晃氏「細川幽斎伝」)こともあるようです。また同じく疑惑が取り沙汰される「細川幽斎(藤孝)」が主催となり、紹巴を宗匠に迎えて、本能寺の焼け跡で信長追悼の連歌会を開いたのが、七月十五日(細川家記の「二十日」は誤り)であり、これは秀吉による細川領安堵の血判が発給された四日後にあたります。ちなみにそれが、この「禅高」による、七月一日連歌会の「次の回」なのです。

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はからずも「本能寺の変」関連に巻き込まれて、前置きが長くなってしまいましたが、今本稿で重要なことは、この連歌会の「脇句」を山名禅高が詠んでいること。つまり「禅高が主催者として会をお膳立てしている」ということです。連歌会の最高権威の一門を招いて。

そして、この記録が山名豊国が「禅高」を称した「初見」かと思われます。一次史料では、2年前の天正八年六月十九日、鳥取城攻めの際、羽柴秀吉は彼の事を「因州屋形」と書いているだけです(利生護国寺文書)。また、本記録は禅高が「紹巴一門と同席している」点においても初見記事です。禅高は、紹巴を通じてこの後大村由己を知ったのかも知れません。

鳥取城は、前年の十月二十五日に落城しており(吉川家文書)、「寛政重修諸家譜」、「山名家譜」によれば、禅高はいったん但馬「村岡」に蟄居した後に、「摂津国多田庄」に幽居したとあります。彼が多田氏の元に身を寄せたのは、この天正十年前半頃ではないかと思います。出家して「禅高」と号したのもこの少し前でしょう。そして「村岡」はやはり遠いので、この連歌会は、山下周辺か、京あたりの、どこか寺庵を借りきって開催されたのでは?と想像するばかりです。

懐紙は、宮内庁書陵部、及び諸本が、国会図書館、天理大学図書館にあるようですが私は今のところ未見です。

連歌会は「百韻」の形式で「賦物(ふしもの、今風に言えば、歌題の“しばり”?)」は「山何」です。

連衆(れんじゅ)、つまり連歌を詠みあった面々及び、採用された句数は、以下の通り。

紹巴(13)、禅高(8)、昌叱(12)、心前(11)、紹与(8)、兼如(8)、等源(7)、隆慶(7)、宗務(8)、正繁(9)、員滋(7)、為(召為、1)

連歌関係の人名に疎い私ですが、大体は紹巴一門の錚錚(そうそう)たる顔ぶれのようです。ただし、七句が採用されている「等源」のみ、他の連歌会目録に見当たらず、当会のみの参加で、「源」の字も含めて気になる人物です。これが「多田元朝」など塩川家の武士か、周辺寺院の僧侶であれば、私としては「してやったり!」というところなのですが…。あるいは、“ギャラリー”はどのような状況だったのか?

「本能寺の変」は、塩川氏にとって、主家のみならず、織田信忠という“娘婿”をも失った事件でもありました。昌慶(塩川秀満)の頃は、あの「宗祇」をも招聘して連歌会を開催したものでしたが、その後はあまり盛んではなく…。ただこの時、折りよく、山下に「山名禅高」という、「宗砌」ゆかりの「連歌継承者」が隠棲しており、あの「里村紹巴」にも顔が利きそうだ…、という経緯で、塩川家の肝煎りで、この「誰よりも先に、信長、信忠を追悼した連歌会」が開かれたとすれば、そして、それが「獅子山百韻」とか、「高代寺百韻」とかだったら、まさに「歴史・ロマン」なんですけどねえ。

(どなたか、連歌に詳しい方、この研究を継続して頂ければ幸いです。)

[山名禅高の「摂津多田郷幽居」に関する まとめ]

*     山名禅高が、天正九年の鳥取落城後~天正十四年まで、「摂津多田郷」で幽居していたという「山名家譜」「寛政重修諸家譜」の記事を反証する史料はない。つまり彼の「アリバイ」は崩れていない!。

*     「山名家譜」には禅高を世話した人物として「多田兵部元朝」の名前が挙げられている。「高代寺日記」には「多田元継」という、「元」を通字とした塩川家の重臣の記事があり、しかも彼が天正五年に戦死した後、その未亡人が「山下ヘ帰ル」という記事もある。これは同記における塩川時代の「山下」に関する唯一の記事である上に、「高代寺日記」編者の主人、塩川基満の母親が、故・多田元継の娘であることから、玉石混交の「高代寺日記」の記事群の中でも、多田氏関連記事は特に信憑性が高い。よって山名禅高が「多田元朝」なる人物のもとに幽居したことは史実と思われ、それは獅子山城の内山下(現・下財町)であったと考えられる。

*     天王寺屋・津田宗及の「宗及自會(会)記」天正九(1581)年四月二十二日の条に「有岡 八木入道」との茶会の記事がある。「八木入道」とは、かつて但馬山名氏の被官で、八木城主として山名禅高とも共闘した八木豊信のことであり、池田元助の城下町、伊丹(有岡)に隠棲していたことがわかる。つまり、豊信に非常に近い立場である禅高が、豊信同様に、塩川氏の城下町、山下に隠棲していたとしても、少しも不思議ではない。

*     「言経卿記」天正十四年六月一日条に「山名伊予守入道禅高亭ニテ 早旦ヨリ法楽連哥會有之」の記事があり、禅高のことを「殿下御内」と、注記がなされていることから、禅高が「この時」豊臣家に「御伽衆」として仕官し、大坂に邸宅を得、それを祝っての連歌会だったと推定される。禅高は少なくとも同年正月には御伽衆である大村由己主催の和歌会に出席しており、この仕官も由己の斡旋によることが推測される。

*     つまり、「山名家譜」「寛政重修諸家譜」にあるような、天正十四年秋の徳川家康上洛に伴なって徳川家に仕官、関東に赴いた話は「後世のウソ」であり、豊臣家に御伽衆として仕官している史実が全面カットされている。この問題点については既に戦前に桑田忠親氏が「大名と御伽衆」において指摘していた。

*     ただし、「天正十四年」に多田氏の元を去ったという点においては「山名家譜」「寛政重修諸家譜」の逸話と整合している。「高代寺日記」においても「天正十四年」は塩川氏や多田氏の「凋落」の記事が列挙されており、上記「言経卿記」天正十四年六月にみられる禅高の「仕官」の直前には「五月五日 愛蔵大坂へ初テ出仕 家僕六十余人同従フ」という記事があり、塩川長満の嫡子や家臣団が、完成直後の大坂城や城下町に移転、つまり「内山下」の侍町が消滅した時期かと推定されるタイミングでもある。後世作られた「多田雪霜談」などの軍記物や地元伝承においても「天正十四年の落城」が語られており、山名禅高がこの時期に山下を去るのは、充分考えられることである。

*     豊臣家の御伽衆である山名禅高が、実際に徳川家康に接近するのは、文禄期~秀吉の死を挟んだ慶長初頭頃であり(言経卿記)、慶長十七、十八年には、完全に駿府在住の徳川家の御伽衆に転じており、徳川家の朝廷や京の寺社に対する「窓口」でもあった。(「時慶記」「舜旧記」「鹿苑日録」)

*     なお、「御伽衆」という江戸初期には消滅した役職は、あたかも「エンターテイナー」であるかのような誤解がなされているが、文武、政治、外交、教養、諜報など、あらゆる分野を網羅する、当主へのカリキュラムを含めた講師陣、スタッフ、の総称といえる役職名である。(桑田忠親氏前褐書)

*     山名禅高にとっての「連歌」とは、単なる趣味のレベルではなく、彼自身、山名家に伝わった高山「宗砌」流連歌の継承者でもあった可能性がある(綿抜豊昭「山名禅高流「テニヲハ伝授」考」)。彼自身、「勅勘」を受けていた「冷泉為満」の所有していた「草紙」(藤原定家関連の歌集など国宝級文書の可能性がある)をわざわざ訪問して見分しており、同じく「勅勘」中であった為満の実弟「四条隆昌」に、家臣磯部氏の娘を嫁がせて身内同然になっている。禅高が摂津「多田氏」宅に幽居した理由は不明ながら、多田氏は「摂津源氏」の直系に近い家と認識されており(高代寺日記)、平安時代に歌人としても著名な「多田頼綱」を輩出し、また源頼光が「但馬国府」において詠んだ「連歌」が「金葉集」に載ってもいる。(なお鳥取城攻めには、塩川家も参加しており(信長公記)、禅高とは陣で出会ったのだろう)

*     禅高が、多田氏のもとに幽居していたと考えられる時期である「天正十(1582)年七月一日」と「天正十一(1583)年一月二十七日」の、「禅高」が参加している連歌会の懐紙が残っている(連歌総目録)。ともに里村紹巴一門との会である。この時すでに出家して「禅高」と称していることがわかる。特筆すべきは「天正十(1582)年七月一日」の会で、翌日が織田信長、信忠の「最初の月命日」にあたり、紹巴による発句の内容からも、この会が「追悼」であったことがわかる。しかも「脇句」が禅高であり、彼が主催者となっている。山名禅高が織田家を追悼するイワレはないが、彼を世話していたかもしれない「塩川家」は「織田信忠と縁戚関係」なので、塩川家が、織田家追悼関連儀式のひとつとして、「肝煎り」している可能性も考えられる。なお紹巴は明智光秀の「愛宕百韻」の宗匠としてあまりにも有名であり、少なくとも後世、本能寺の変に関する紹巴自身の「疑惑」が語られたりはしている。それはともかく、この会は、有名な、細川幽斎主催による、紹巴と共に本能寺の焼け跡で信長を追悼した連歌会の「14日も前」の事であり、「本能寺の変の追悼としては最初の連歌会」と考えられることは注目に値する。

 [おわりに:無関係なものなど一つも…]

本稿は当初、第十二回に載せられなかった「鹿野」の写真を紹介するだけの番外コラム、言わば「城下町編のオマケ」でした。「山下に似ていて、ちょっと面白いでしょう」というだけの内容だったのです。

今年亡くなられたMさんから、「連載、面白いねんけど、どんどん長くなっていくなあ…」などと言われていたので、反省して9月頃にこの「短い番外編」を用意していたのでした。

ところが、前回、10月の連載で特集した、近衛信尹の日記において、たまたま信尹の酒宴の出席者として「禅高(山名豊国)」の名前があったので、軽い気持ちでその経歴を調べてみたら、鹿野城とご縁があったばかりでなく、摂津・多田郷に引き篭もっていたという有様で、私としては、ブルータス、もとい、「鹿野よ、お前もか~!」状態でした。前回「エキストラの通行人扱い」であった人物が、今回「主演男優」となってしまったようなものです。それだけでなく、「山名家譜」の短い記事と「言経卿記」から、塩川氏の「内山下の消滅時期」を「天正十四年」に考え直すという、言わば、禅高によって、塩川氏研究、城下町研究の言わば「中道」に引き戻された私でした。

思うに、「この世界」というものは、ありとあらゆる事象が相互関連して成立っており、「無関係なものなど一つもない」という真理をあらためて突きつけられた気がいたします。

あの世でMさんが「今回もまた、超長っがいなあ~」と苦笑されているとは思いますが、お時間はたっぷりありますので(汗)、どうか気長に読んでやって下さい。

そして次回もまた、「EX・小ネタ」の一編、「越後国・村上編」をお送りします。

「村上っていったいどこ?。なんで塩川が??」との声が聞こえてきそうですが。(ヒント:暴れん坊将軍に「飛ばされた人」)

平成最後の本年度も、この連載にお付き合い頂き有難うございました。

来年も、どうか良いお年を。

(つづく)

(*巻末補注1)

「連歌総目録」より、「禅高」が参加している「天正十一(1583)年閏一月二十七日」成立の連歌懐紙のデータは以下のとおりです。

(種別)百韻、(賦物)何船、(発句)梢をも踏河きしの柳かな、(発句作者)紹巴、(脇句作者)紹清、(作者、句数)紹巴(11)、紹清(7)、昌叱(10)、生(8)、心前(9)、正繁(8)、兼如(7)、寿恩(7)、既在(7)、怒云(7)、紹与(7)、員滋(5)、禅高(6)、猿千代(1)、(所蔵)早稲田大学、国会図書館、宮内庁書陵部

(*巻末補注2)

里村紹巴一門の連歌会は、五月二十四日の「愛宕百韻」以降、六月二十四日(賦物:夢想)、六月二十六日(賦物:何垣)に開かれていますが、会場はいずれも不明で、特に「追悼」目的ではなさそうに見えます。なお二十四日の会は「秀次」なる人物が主催のようですが、藤田恒春氏「豊臣秀次」によれば、羽柴氏とは別人(八月十八日分も)であろうとのことです。

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