シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第三十回
#荒木村重#高山右近#塩川長満#有岡城
「荒木の乱」の塩川長満は“風見鶏”だった?
「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第30回」導入部
御無沙汰致しております…。
2月末から私用が重なったりして、例によってまたまた間をあけてしまいました。
さて、今回は冒頭画像が示すように、いきなりゲンナリする内容です。
塩川氏の研究史において、1995年1月10日に刊行された谷口克広氏の「織田信長家臣人名辞典」(吉川弘文館)の役割は大きいと思います。
21世紀になって全国レベルで知られるようになった「塩川長満」という武将の名前は、同書と同書から引用したWikipediaが世に広めた、と言っても過言ではないと思います。
それまでは、おそらく大日本史料あたりが
「塩川伯耆守 = 塩川国満」
にのみ、比定した事が大きかったと思われ、奥野高広氏の大著「織田信長文書の研究」(吉川弘文館、1969-70)や、角川文庫の名著「信長公記」(1969)においても、すべて「塩川(河)国満」として紹介されています。(なお「川西市史第2巻」の公刊は、それより6~7年も後のことになります。)
ともあれ、「塩川長満」の名前は、たいていの歴史学者の間でも、また(能勢郡や一部寺院を除く)地元においても、殆ど知られていませんでした。
さて、小身であった摂津衆「塩川長満」の、
おそらく「生涯最大の“売り”」というか、「一世一代の踏ん張り」こそが、
天正六年(1578)十月における
「荒木村重の謀反に加担しなかった事」
でした。
その後の有岡城包囲網における「配置」や、「娘が織田信忠に嫁いだ」という「謎」もまた、全てこの「長満の行動」によって説明出来ます。
さらにその事は昨、令和2年(2020)新たに公開された文書によって「実証」されたのです。
ところがなんと、今年になって…というのが今回のテーマです。
冒頭から「ゲンナリする内容」とは申しましたが、実を申せば、幾分“スランプ気味”であった私自身は、これに対する“反発をバネ”にして、なんとか“更新”に漕ぎつくことが出来ました。
ロケットに例えれば、重力からの言わば「脱出速度」を得られたというわけで、そういう意味では、この匿名のWikipediaを執筆された方にも感謝申し上げます。
それでは第2会場 へ参りましょう。
(2021,6,29 文責:中島康隆)