歴史ロマン

シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第三回


寿々(鈴)姫と三法師の周辺②
~史料 「荒木略記」の知られざる秘密~

「塩川長満の娘が織田家家督である織田信忠に嫁いだ」という驚くべき出来事。
きっかけが荒木村重の反乱なら、実はこの縁談の記事を後世に残してくれたのも荒木氏関係の史料なのでした。
それが群書類従に所収されている「荒木略記」という文書です。
群書類従は現在、多くの都市の中央図書館に所蔵されている比較的閲覧しやすい史料集です。川西市中央図書館にもあります。つまり、この縁談の記事が知られていないのは、単に歴史家に「無視」されてきたからなのです。「有り得ない!」という先入観からでしょうか。

この「荒木略記」における「塩川伯耆守」の注釈に
「伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候。壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前。」
と、長満の娘が織田信忠の妻であった記載があります。
「荒木略記」は文字通り短文簡潔ながら、この他にも塩川氏に関する豊富な情報を記しており、やや不思議な印象を受けます。著者は塩川氏に関してどうしてそんなに詳しいのか???

以下、長々と横道にそれますが、どうか我慢して下さい。
この、寿々にとっての重要な文献に関する、ここにも興味深い謎解きがあるのです。

平田俊春氏の「群書解題」によれば「荒木略記」は江戸初期、幕府の「寛永諸家系図伝」発刊の為に寛永十八~二十(1641~43)年頃に書かれました。著者は幕臣の荒木元政という人物でした。元政の祖父は荒木志摩守元清といいました。
荒木志摩守元清は荒木村重の従兄弟で、荒木氏の支城である神戸の花熊(花隈)城主だった武将です。有岡城、尼崎城が織田方に攻められ、天正七(1579)年末に落城した後も天正八(1580)年七月の落城までこの荒木氏の城を守りました(甫庵「信長記」)。後に助命されています。
この城攻めの時、塩川長満は信長の命で、織田信澄、丹羽長秀と共に花熊城に対する陣城を築きました。完成した城には信長の乳兄弟であった池田恒興、その子池田元助、池田照政(のちの輝政)が入ります(「信長公記」「岡山池田家文書」)。

城を守る側の荒木元清、攻める側の池田輝政、そして塩川長満。この3人の顔合わせを記憶して下さい。

池田父子3人は荒木氏滅亡後、その領地に入り、摂津国のリーダーを継ぎます。元助は伊丹城主となり塩川長満のもう一人の娘を継室(前の正室が亡くなった後の正室)に迎えます(「荒木略記」「池田家文書」。ちなみにこの娘にとって伊丹城は元々伯父である伊丹忠親(この人物も父の親興とよく混同される)のものでした)。

しかし、信長の死後の天正十一(1583)年、塩川氏にとって頼みだった池田氏は摂津国を横領し始めた羽柴秀吉政権によって美濃国の大垣、岐阜等に追い出されました。塩川氏もほどなく秀吉政権の下で領地を没収され、滅亡します。
天正十二(1584)年池田氏は小牧・長久手の合戦で恒興、元助が戦死してしまいます。池田家を継いだ輝政は岐阜城に入り、さらに後に今度は関東に移封された徳川氏の後の三河吉田(豊橋)城主に転封となります。

さらに下って、慶長五(1600)年、関が原の合戦が起こります。徳川方についた池田輝政は、かつて自分の城であった西軍の岐阜城を攻略します。この時、岐阜城主であった織田秀信はかつての主君、織田信長の孫であり、かつ塩川長満の孫でもある成人した三法師だったという奇縁です。
戦後、輝政は褒美として播磨一国を与えられ、姫路城を現在見られるような姿に改築したのは皆さんもご存知でしょう。

そしてこの姫路池田家に塩川長満の子であった塩川源介という侍が四百石で仕官するのです。なお、この池田家に塩川家ゆかりの侍が多く仕官したことは「高代寺日記」にも数回触れられています。
(以下基本「池田家文書」から)塩川源介は本能寺の変の時にまだ四歳で、京都で浪人暮らしをし、その後、関が原の合戦で滅んだ宇喜多秀家に仕えていたのでした。輝政時代の姫路侍町の古地図には「塩川源介」の屋敷地がしっかりと書かれています。現在、国立病院機構姫路医療センターの敷地になっています。

慶長七(1602)年、関ヶ原の合戦後に備前岡山に入封していた小早川秀秋が死去、廃絶されると、翌年に岡山も池田家の所領となります。慶長十八(1613)年、姫路で池田輝政が亡くなり、池田家は元和三(1617)年までに備前岡山や因幡鳥取に転封となりました。塩川源介は岡山移転組でした。かつての主君、宇喜多秀家が築いた町です。再び岡山に戻った塩川源介は何やら奇妙な心持ちだったことでしょう。
塩川源介は元和八(1622)年に岡山で病死、しかし跡を継ぐ子供はまだ母親の胎内でした。そこで同僚の子「石尾善兵衛」を養子に貰い受けます。胎内の子(後の源五左衛門)が成人するまでと、この「塩川善兵衛」が塩川源介の家を名代、中継ぎします。実際の善兵衛は4年後に病死。しかし家督は無事幼い源五左衛門に引き継がれました。
実はこの善兵衛がなんと、かつての花熊城主、荒木元清の孫なのでした。確かに元清の三男治一は石尾姓を名乗っています。

かつて花熊城を攻めていた池田さんが大名として生き残り、同じく城を攻めた塩川さんと城を守った荒木さんが共に池田さんの家来となり、塩川さんの家督が荒木さんから養子をもらって救われたという図式です。

(なお池田輝政は荒木村重の乱の後、天正八(1580)年に荒木氏の花熊城を廃して近くに兵庫城を築きました。荒木浪人たちが池田家に再仕官したのはごく自然な成り行きだったでしょう。)

長々と横道にそれて、読者を退屈させたと思いますが、結論!

「塩川氏にとって重要な記事を残した「荒木略記」の著者、幕臣である荒木元政と、岡山藩士塩川善兵衛は、共に荒木志摩守元清の孫、つまりイトコ同士であった。寿々姫は「荒木略記」の著者からみて、イトコの義父(源介)の姉にあたる」

という関係です。
「荒木略記」は塩川善兵衛の死後、14~16年後くらいに書かれています。荒木元政と塩川善兵衛が会った可能性は低いと思われますが、このあいだに荒木一族間の情報のやりとりで、岡山塩川家に伝わった情報が江戸の荒木家にもたらされたとしても全く自然なことでしょう。
塩川氏の情報のみならず、伊丹忠親や池田元助に関する情報も、考えてみれば二人とも荒木村重前後の伊丹城主であるうえ、両名とも塩川氏と婚姻関係があります。

実は今回、さっさと本文である寿々のことを書こうとしましたが、またしても横道の迷宮に紛れ込んでしまいました。
でも「事実というモノの本質」はいつもこんなである気がします。複雑な糸が意外な角度で絡み合っていて、「敵」が時に「味方」であったりして、創作物語よりもずっと奇妙でパターン化されておらず、そして奥が深いのです。

(③につづく)

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