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シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十九回


シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十九回

― 寿々姫と、その「妹」の「嫁ぐ日」―

①まず、「姉」の場合

②そして、「妹」の場合

③「妹」の墓は備前に搬送された?

④妙心寺に残されていた池田家の墓たち

[はじめに]

あっという間に令和も二年となり、気が付けば2月になっておりました。

遅ればせながら(汗)、本年度もどうか「塩ゴカ」(摂津国衆・塩川氏の誤解を解く)を宜しくお願い申し上げます。

さて今回の内容は、昨年8月末に出版された和田裕弘氏の「織田信忠 天下人の嫡男」(中公新書)に書かれた記事がキッカケとなって、“寿々姫とその妹”の婚礼にまつわる“一章段”を書いていたのが、いつのまにか膨らんで(汗)しまったものです。(毎度!)

ちなみに表題とした「嫁ぐ日」は、たまたまyoutubeで「おすすめ」に入っていた“はしだのりひことエンドレス”の歌のタイトルから頂いたものです。(この歌を聴くと既に鬼籍に入ってしまった祖母や両親、そして西条凡児さんの「おミヤゲ、おミヤゲ」を思い出すなぁ…)

また、本稿には昨年11月頃から年末アップの予定で取り組んでいましたが、今年の1月12日になって急拠、寿々姫の「妹」(慈光院)の墓が、京都市右京区の「妙心寺」の塔頭「慈雲院」に残されていたことを初めて知って驚きました。私としては20年間捜していた女性に“やっと会えた”気分です。「妹」、仮に“光子ちゃん”と呼んでいますが(汗)、が京・妙心寺の塔頭「護国院」に葬られたことは、既に平成13(2001)年に岡山の「備前・池田家譜」の記述から知ってはおりました。しかしながら、私は近年、後述する「護国院」の廃絶における経緯から、彼女の墓と遺骨は江戸時代前期に備前岡山藩主「池田光政」の指示によって、岡山の国清寺あたりに移され、昭和20年6月29日の岡山大空襲でほぼ(墓石の刻字が確認し難いほど)「失われてしまった」のではないか?と思い込んでいました。連載アップが遅れたことで彼女に会えたので、“結果オーライ”でしたが、新たなドンデン返しと書き直しが加わってこのような構成となりましたので、宜しくお願い申し上げます。あと、今回も“超長い”のでどうかゆっくり、1週間くらいかけて(滝の汗)お読み頂ければと思います。

①まず、「姉」の場合

[「荒木略記」に記された“塩川姉妹”の記事・おさらい]

何分、久しぶりですので、まず「荒木略記」(群書類従)に記された“塩川姉妹”の記述を以下に引用してみます。

「塩川伯耆守 是は満仲の子孫と申伝へ候 それ故伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候 壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前 壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄 庄九朗(元助)室にて御座候 池田出羽守(由之)継母にて御座候 後に城之助殿御前は一條殿(一条内基)北之政所 庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」

平田俊春氏の「群書解題」によれば「荒木略記」は江戸初期、幕府の「寛永諸家系図伝」発刊の為に寛永十八~二十(1641~43)年頃に書かたとのことです。ここに登場する人物は、この寛永末の時点で既に“故人”ばかりでしたが、塩川姉妹の「姉」は寛永十(1633)年没(聖衆来迎寺位牌)、「妹」は寛永十四(1637)年没(備前・池田家譜)ですので、この草稿がしたためられた頃は、まだ二人の記憶が生々しかったことでしょう。また、仮に彼女らが十四~五歳で嫁いだとすれば、その没年齢は60代後半~70代前半くらいであったと考えられます。

また文中の「池田出羽守」とは、この寛永末頃の行政体制においては、二代目「出羽守(由成)」のことを指すので、幕府側から見て、「岡山の池田新太郎(光政)殿の“仕置家老殿”(由成)のお父上(由之)か…」という認識であったでしょう。

[昨年出版された、和田裕弘氏「織田信忠 天下人の嫡男」から]

さて、昨年(令和元年)8月末に「中公新書」の1冊として、和田裕弘氏の「織田信忠 天下人の嫡男」が出版されたのはご存知でしょうか。和田氏は同書において、織田信忠の妻が「塩川長満の娘」である説を積極的に採用しておられ、これまで専門家や公的機関などが結構“スルー”してきたこの知見は、今後「全国レベルで」拡散、定着してゆくと思われます。こうした廉価で影響力の高い書籍の普及により、昭和の「川西市史・第2巻」が構築した「後期塩川氏」の誤ったイメージは、今後急速に「パラダイムシフト」してゆくことでしょう。

[織田信長が森乱を通じて塩川に下した「銀百枚」は婚礼の支度金だった?!]

さて、以下は「訂正」に関するご報告です。

織田信長が、毛利・本願寺方に寝返った荒木村重の「有岡城」を包囲していた、天正七(1579)年の「信長公記」における

「四月十八日、塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候 御使 森乱 中西権兵衛相副へ下さる 過分忝き(かたじけなき)の由候なり」という記事について。

これは、塩川長満が織田信長から、使者、森乱(いわゆる森蘭丸)を通じて、銀百枚を下賜されたというものですが、私は以前、連載第3回において、この銀子は塩川氏が荒木方の寝返りに加担しなかったことへの褒美、と解釈していましたが、和田裕弘氏(織田信忠)は「輿入れの支度金だったのだろうか」と記されています。そして、今現在では私自身もおそらく「支度金説」の方が正しいであろう、と思い直しておりますので、今回謹んでこれを訂正させて頂きます。

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なお、この「支度金説」に関しては、既に「中西顕三」氏が2019年3月に自費出版された「攝州多田塩川氏と畿内戦国物語」(風詠社)においても呈示されています。同書は「高代寺日記」の編者「神保元仲」に関する研究や、塩川氏と喜音寺(きおんじ、宝塚市山本)との関係など、個人的に注目すべき要素も少なくないのですが、全体的には、本稿とは解釈が相当異なる内容であるため、本連載としては、やはり引用が憚られる本です。

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[「善政への褒賞」にすり替えられた銀子]

一方、「川西市史」や一般世間においては、この百枚の銀子は「軍役の褒美」でも「婚礼支度金」でもなく、変装した鷹狩中の織田信長が、塩川の領民による「伯耆守こそ毎物淳直を事とし給ひて万民穏やかなる事をのみ好ませ給ふなれ」(*補注)という評判に感心して与えた「善政への褒美」として扱われています。これは太田牛一の「信長公記」の記事を儒教的価値観で脚色した、小瀬甫庵の「信長記」からの引用です。甫庵「信長記」は非常に普及したために、しばしばその情報が「信長公記」に「逆輸入」されたり混同されてしまい、「川西市史」においては両者の内容が全く混同されています。また「現代語訳 信長公記」(太田牛一著 榊山潤訳、ちくま学芸文庫、教育社、ニュートンプレス)においては、「信長公記」の訳であるにもかかわらず、「仁政のほまれ高い塩河伯耆守へ銀子百枚をおやりになった」と、明らかに「甫庵」の内容が加味されて「意訳」されています。(余談ながら、榊山潤さんの子供向けの戦国読み物は、小6の時分の我が愛読書でありました。)

(*補注)

小瀬甫庵撰・神郡周校訂「信長記」(現代思潮社)。なお、甫庵「信長記」のおかげで「塩川伯耆守」の名は「全国区」となってしまい、江戸期の末書や系図の類に怪しい「塩川伯耆守○○」や変な「塩川吉太夫××」などが出現する要因をつくることとなりました。また、この芝居がかった甫庵「信長記」のセリフは、そのまま「多田雪霜談」にコピーされています。ただし、“「多田雪霜談」について”(川辺郡猪名川町における多田院御家人に関する調査研究 その2 仁部家史料調査 2016)においては、全くその点に触れられていません。

[輿入れの日取りは?]

「銀子百枚」は「婚礼の支度金」と解釈出来る、と思い直した根拠の1つは、「高代寺日記」における五月初頭の「家老たちの不思議な動き」です。

「高代寺日記」ではまず、甫庵「信長記」から影響を受けた「四月二十日戌申日 信長ヨリ森ノ蘭丸 中西権兵衛尉使トシ 守家作ノワキ指 銀千枚(ママ)賜ル」に引き続き、「家臣吉大夫 同右兵衛尉 民部 勘十郎 出向テ受取両人ヲ馳走ス 各帷子 単物二重 紺青ヲ与ラルゝ モテナシ両人退去」といった「高代寺日記」独自の(おそらく獅子山城における)描写があり、加えてこの場面に当主「長満」が全く登場しないのは、彼がこの時点で信長と共に「古池田」に居ることと符合しています。そして「高代寺日記」ではこの15日後である「五月五日 吉大夫 勘十郎 平右衛門尉ヲシテ安土ヘ礼申サル 菅屋玖右衛門ト伯(長満)儀セラレテナリ 各三人帷子二ツ銀十枚ツゝ賜テ皈(帰)国セリ」とあります。わざわざ家老級の重臣が三人も「戦線から離れて」安土へお礼参りに出かけるなんて、明らかに「普通ではない」動きです。なお信長は去る「五月一日」に「古池田」を離れて上京しており、「五月三日」には安土に帰っているので(信長公記)整合性もある記事です。やはりこれは「寿々姫の輿入れ」に伴なう「挨拶」と解釈する方が自然ではないでしょうか。考えてみれば、「銀百枚」を頂戴しお礼に安土まで出向いた家老三人が、再び「銀三十枚以上」を頂戴したというのも変な話です。これら一連の動きが、婚礼行事に関わる「下賜」と解釈してはじめて説明がつく、と思い直すに至りました。

なお「嫁入り」の時期について和田裕弘氏(織田信忠)は、「「安土日記」(「信長公記」の異本)天正七年四月十八日条には長満に銀子百枚を下賜した記事があり、殿付の敬称で記されている。前年十二月十一日条の記事では敬称は付されていない。天正七年四月までに息女が信忠の室になっていた可能性が指摘できよう」と推測されています。もしその通りであれば、連載第5回において紹介した「信長公記」における四月末の信忠の日程

「四月廿(二十)八日、有馬郡まで中将信忠卿御馬入れられ、是より直(すぐ)に野瀬(能勢)郡へ御働。耕作薙捨」 → (塩川氏の獅子山城に宿泊か?) → 「四月廿九日、古池田まで御帰陣。信長公へ播州表の様子仰上げらるる処に、則、御下国候への旨御諚候。其日、東福寺まで御成。次日岐阜に至って御帰城。」

中の二十八日晩の、「獅子山城に宿泊?」した理由は、「塩川家への婚礼の挨拶」という可能性もあるでしょう。もちろん、二十八日晩に獅子山城で「二人のロマンス」があって、そのまま寿々姫を「お持ち帰りになられた」可能性もゼロではないでしょうが。

[「婚礼による長期戦線離脱」に配慮した「軍役パフォーマンス」?]

もう一度遡っておさらいしますと、今回の織田信忠ら「御連枝衆」による播州遠征は、「四月十二日・賀茂砦(川西市加茂)」 → 「二十一日・三木城合戦(信長公記池田本)」 → 「二十八日・有馬郡~能勢郡~獅子山城で宿泊??(この日、信忠の賀茂砦は、塩川長満らに引継ぎ)」 → 「二十九日・池田~京」 → 「三十日・岐阜へ直帰」 → 「以後八月二十日まで岐阜に滞在。この四ヶ月弱の間、軍事行動なし」 を経て、「翌年岐阜で三法師誕生」(織田系図(群書類従本))を迎えています。

この「四月十二日~四月末」における「信忠の遠征」は、織田信澄をもう一方の大将とした「四月六日~五月初頭」の「摂州北郡征伐」(中川家文書、後述)との“両輪作戦”であったようです。塩川氏へ銀子が下賜されたという「四月十八日」は、まさにこの「北郡征伐」の最中であったという点は留意されてよいでしょう。

また私にはこの時の信忠による三木遠征は、なんとなく、婚礼による「長期間の戦線離脱」を韜晦(とうかい)する為の「軍役パフォーマンス」に見えなくもありません。わかり易く例えると、職場などで、業務が忙しい時に「長期休暇」を取ったりする際に、他のスタッフ達の“ブーイング”に配慮して、敢えて厳しい、かつ、ちょっと目立つシゴトをやり遂げてから「こんな時にすみませんがこれで(汗)…」と、さっと消えるという、あの機微です(汗)。また二十九日に信長が古池田において信忠に「則 御下国候への旨 御諚候」(信長公記)と伝えているので、これは信長自身による親心というか、「家中への配慮」であったとも思われます。加えてこんにちまで、「織田信忠の妻」という存在があまり知られてこなかったのも、こうした戦線における「隠密な婚礼」であったことが大きな要因ではないでしょうか。天正十三(1585)年、武蔵・岩槻城の北条氏房の婚礼時には、長さ400mにわたる豪華な花嫁行列があった(豊島・宮城文書、西ヶ谷恭弘氏「戦国の風景」東京堂)とのことですが、織田信忠の婚礼に関する行事等は、戦局に配慮して、抑制されたものであったと想像しています。

[“百枚=千両”は縁起の良い数字]

「銀子百枚」を、「婚礼の支度金」と解釈出来るもうひとつの根拠として、もし「軍役の褒賞」であれば、下賜された時期が何やら中途半端である点などに加え、もう1つ、「百枚」という金額があります。

「秤量銀貨」においては「一枚」が「十両」(161g)にあたるので、甫庵「信長記」において「森の乱、中西権兵衛尉を御使として銀子千両を遣はさる」と記されたのは、金額的には間違っていません(「高代寺日記」の「千枚」は論外ながら)。そしてこの「千両という単位自体にも富や祝儀性が賦与されていたと考えられる」(“千両の起源”、盛本昌広「贈答と宴会の中世」吉川弘文館)とのことです。百枚(=千両)は、「祝儀」にありがちな金額であったということです。

[再論:三法師の母は正室?それとも側室?]

そして、「織田系図(群書類従本)」によると、三法師は翌年の「天正八年戌辰生濃州岐阜城」とあるので、時期的にも塩川長満の娘が母である公算は高いと言えましょう。また、長満の娘は、一般的には「側室であろう」という見方が大勢を占めているようですが、史料的には彼女が「側室」であったことを示すものは一切無いことは、既に連載第6回「寿々姫は信忠の正室か」においてご紹介しました。それどころか、先日、桐野作人氏の「真説 本能寺」(学研M文庫、名著です)を流し読みしておりましたら、本能寺の変直後に岐阜の「正室塩河氏、嫡男三法師、二男吉(のち秀則)などを清洲に移した」というフレーズがあって(P183)、驚いて出典を確認したら、なんと小瀬甫庵の「太閤記」に「信忠卿御簾中(レンチウ) 并 御若君之事」という章段がありました。「御簾中」とは高貴な身分の「正室」を表現し、これには信忠が「三位中将」という公卿であったことも意識されているでしょう。「荒木略記」において彼女だけが「御前」と呼ばれていることも思い起こされます(「妹」の方は「室」、「後家」)。ただし、「脚色」の常習犯である「小瀬甫庵」の筆による点だけは「微妙」ではありますが、同時代人である彼が本当に「正室と認識していた」とすれば、興味深いことです。また和田裕弘氏(織田信忠)も「信忠とは家格が釣り合わないが、信忠が公家の娘を迎えようとした気配はなく、またこのころには政略結婚すべき戦国大名も見当たらない」と考察されており、「正室」説に肯定的のようにも見うけられます。

[塩川長満の娘の名は、「すずさん」ではなく「リンさん」だった?]

和田裕弘氏は長満の娘について、「名前は「鈴姫」(寿々姫)と伝わるが、不確か。法名の「徳寿院殿繁林恵昌大姉」から連想したものだろう。」と記されています。

実は私も告白をすると、これについては全く同意見です。一応「東谷ズム」を盛り上げる、という本稿の性格上、“寿々姫”で推して参りましたが、やはり本来の「塩川氏の誤解を解く」という観点からは弊害もあるので、これからは“カッコ付き”の「寿々姫」、「鈴姫」として表記し、信忠の死後は「徳寿院」と表記するべきか、と思い直しています。なお、彼女の法名に俗名から「一文字」が入れられたとすれば、彼女の名は「繁」「林」「恵」「昌」も考えられます(「繁子さん」だったかもしれないし、「林」(リンさん)だった可能性も???)。

[「濃姫の金箔瓦」でなく「“塩川姉妹”の金箔瓦」?・岐阜城居館跡の「牡丹紋」瓦]

ちょっとここで、近年「庭園の“滝”の復元」などで話題にもなった、美濃・岐阜城の「山麓居館跡」に目を転じてみたいと思います。この遺跡は、公式的には「信長居館跡」(岐阜市教育委員会)と命名されています。「信長公居館跡発掘調査ホームページ」もありますので、検索してみて下さい。

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因みに今、大河ドラマ「麒麟がくる」で斎藤氏時代の井口(のちの岐阜)城下町が登場したり、斎藤氏の稲葉山城時代らしい石垣が番組末尾で紹介されたりしているようです。なお岐阜城下の「大桑町」、「本町」、「中新町、上新町」の三本の通りは、岐阜城の「七間櫓」と呼ばれた郭(現・展望レストラン)に向けて「明瞭なヴィスタ」(見通し)を形成しており、「大桑町」、「本町」は斎藤氏時代の街区であったようなので(山村亜希「戦国城下町の景観と「地理」 井口・岐阜城下町を事例として」)、斎藤氏の稲葉山の城には、既にランドマーク的な構築物が存在し、城下町とヴィスタを形成していたことがわかります。なお「天守の有無」という言い方で云々すると「呼称」の問題に引きずられるので注意が必要です。「二層以上の眺望が利いて権威を誇示する建築物」があったかどうかが肝要です。また「山城主郭の二層建築に城下からヴィスタを形成するセット」は既に天文年間に近江・六角氏の観音寺山城「本丸」と「石寺新市」の間に出現しています(宮本雅明「公権力の一元化と城下町」)。また冒頭画像の岐阜城復興天守へのヴィスタは織田氏以降に拡張された「新町」からのものです。

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さて、本章で注目したいのが、山麓御殿跡の発掘調査で出土した「金箔・牡丹紋瓦」です(上段画像右下のレプリカ)。なお、以下は、世間で認められている「定説」とは違うので、一見、違和感あるかもしれませんが、とりあえず「可能性のひとつ」として呈示してみます。

この居館跡の複雑な構造は、永禄十二(1569)年にここを訪れた、ルイス・フロイスの「日本史」の記述に非常に整合しており、居館は基本的には、織田信長段階の8年間(永禄十~天正三(1567-1575)年)に、完成したものでしょう。ただ、岐阜城は織田信長が安土へ移転した後も、慶長五(1600)年の「織田秀信」段階の「関ヶ原前哨戦」まで、「25年間」も使用されているわけで、この「信長居館跡」という呼称には、さすがに抵抗を感じます。「観光バイアス」を感じさせる上に、例えば「池田元助」のような影の薄い城主(後述)に関する可能性を端っから拒絶するような遺跡名です。

以下「信長公居館跡発掘調査ホームページ」等を見させていただくと、金箔瓦が出土したのは、平成20~22(2008-2009)年の調査において、「千畳敷」と呼ばれる、館の中心建物があったと推定されているエリア(C区)で、瓦片の分布域から、建物は「池の上」に建っていたようです。ちょっと普通ではない複雑な建物構造が窺えます。この金箔が貼られていた瓦は、桧皮葺の御殿の「棟飾り」に用いられていたものと推定され、「菊花紋」、「牡丹紋」、「無紋?」の3種類が見つかっているようです。この建物は、ルイス・フロイスが「日本史」に「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。」(松田毅一・川崎桃太訳)と記していることから、「正室の公的な御殿」(プライベート生活は山上の城なので)と考えられており、「濃姫の御殿か?」とメディアを賑わせたりもしました。「濃姫」とは、幾分リップサービスもあるでしょうが、瓦が信長時代のものとされたのは、「文様や技術の特徴から、安土城と同じかそれ以前の時期のものである可能性が高い」(岐阜市教育委員会)のが理由のようです。

ただ私が気になるのは、目下「岐阜城」と「牡丹紋」を結び付ける「直接の理由」がはっきりしないことです。せいぜい、「牡丹紋」といっしょに見つかった「菊花紋」と共に、「権力を象徴する花」(小和田哲男氏コメント)と説明されている程度で、「まぁ、わからないでもないですけど…。」といった次元です。

「牡丹紋」は「近衛家」の紋章としても知られており、ふと、織田信長と近衛前久、信基(信尹)との濃厚な繋がり(連載第13回参照)を思い出しましたが、近衛家と織田家との婚姻関係はないようです。

しかし、金箔瓦が「安土城と同時期のもの」と判断されるのであれば、該当する時期の「岐阜城主の正室」は、存在自体が謎めいている「濃姫」だけでなく、実在が明瞭な候補が、他にもう「一人」、いや、区別のつき難い編年幅からすれば、もう「二人」も存在します。しかもこの二人、「牡丹紋」とも関係があります!。

要するに、天正七~十(1579-82)年段階の、「織田信忠の室」と、天正十一~十二(1583-84)年段階の「池田元助の正室(継室)」、の二人でありまして、言うまでも無く、「塩川姉妹」のことです。この二人で合計「4年間」にもわたって岐阜城主の「正室(前者は正室か不詳)」であり続けました。

ここでキーワードとなるのは、関西を主に、女性が嫁ぐ際に「実家の家紋」を用いるという、「女紋」という風習です(丹羽基二「日本家紋大事典」)。

家紋の問題に関しては、連載第17回でも述べましたが、「牡丹紋」は上記「近衛家」の紋だけではなく、清和源氏の始祖、源経基を祭る六孫王神社の「神紋」でもあります。また、摂津源氏の紋章として、塩川氏や能勢氏も用いた、圧倒的に摂津地方に分布が多い「獅子牡丹紋」における、「紋章の分割法」という用い方においても存在したようです(「中川氏」など。沼田頼輔「日本紋章学」)。加えて摂津・塩川氏は、史実としてはともかく、少なくとも16世紀当時は、まわりから「源満仲の末裔」と信じられていました(「荒木略記」、「高代寺日記」)。しかしながら現実問題としては、塩川氏はやはり小身ではあります。そして「公卿補任」における信忠とは、婚姻の二年前である、天正五(1567)年十月十五日「従三位・左中将」に叙されている「平信忠」です。そこで、「桓武平氏」を公称していた織田家としては、「清和源氏の末裔を娶った」という点を強調してバランスをとるだけでなく、むしろメリットとしてそれを利用したのではないでしょうか。

つまり、正室の御殿に「女紋」である「金箔の牡丹紋」を誇示することで、「清和源氏と結びついた桓武平氏」という、天下統一に向けてのプロパガンダだった、との解釈も有り得るわけです。

信忠死後の岐阜城主は、天正十~十一(1582-83)年の「織田信孝」(正室・神戸氏)を経て、天正十一年、摂津から追い出されて来た(連載16回参照)「池田元助」(正室・塩川氏、「妹」)となります。池田家は「清和源氏頼光流」を公称していたようです(「寛永諸家系図伝」など)。しかし翌年の「小牧・長久手」で池田恒興・元助が戦死、岐阜城主は天正十八(1590)年まで「池田照政」(輝政)が引継ぎます。なお、池田照政の正室・中川清秀の娘「糸姫」もまた、実家の家紋が「牡丹折枝紋」でした。要するに、(金箔瓦の「編年的下限」をどこまで引っ張れるかが問題ですが)、天正十八年まで「岐阜城の正室の御殿」は「牡丹紋」とゆかりがあったのです(3人も!)。建物自体が「濃姫時代の御殿」であったとしても、飾瓦などは差し替えが簡単だということを「学術的」に考慮していただきたいところですが、おそらく「大河ドラマ人気」も追い風となって「濃姫の金箔瓦」で押し切られることでしょう。いつものパターンです。因みに次の城主「豊臣秀勝」の正室は有名な浅井氏の「江姫」でした。

さらに蛇足ながら、岐阜城の最後の7年間の城主もまた、塩川氏の血を引くと考えられる「織田秀信」(三法師)でした。結局、遺跡「信長居館跡」は、信長の去った後、四半世後の状態、つまり発掘調査で検出された建物は、「関ヶ原前哨戦」とみられる火災によって焼亡したのち瓦礫を埋め立てられた状態であり、「金箔瓦」(実物)が淡い肌色を呈しているのもその火災のためです。

[織田秀信家臣「塩川孫作」]

ところで和田裕弘氏は「織田信忠」(P44)において、「(織田)秀信の実母が塩川氏という良質の史料はないが、家臣に塩川氏がいるので蓋然性はあろう」と記されています。この「家臣、塩川氏」とは「塩川孫作」のことを指されているのでしょう。

関が原の前哨戦として知られる、慶長五年八月二十三日の「岐阜城攻防戦」において、降服した最後の岐阜城主でもあった「織田秀信」が、健闘した家臣たちに再仕官の推薦状たるべく、感状を発給したエピソードは有名です。しかも、そのうちの一通に「塩川孫作」宛のものがあるのです。これは、加賀前田家に再仕官した藩士、塩川家に伝わったものらしく、金沢市立図書館蔵の写本が岐阜県史に所収されています。

「就今度籠城 碎手無比類働 其上前後見届段 尤感入候也 慶長五年 八月廿三日 秀信(判)  塩川孫作とのへ」

というもので、他の家臣にも宛てられた同様の内容の感状が、全国で10通前後だったか(?)残っていたかと思います。なお「塩川孫作」が、はたして摂津・塩川氏ゆかりの家臣であったかどうかは不明です。加賀藩の「慶長之侍帳」(石川県立図書館蔵)に「七百石」の「塩川孫作」が記載されているので、彼が実在したことは間違いなく、私は以前、末裔の家譜である「諸士系譜」の写しを、石川県立図書館から取り寄せてみましたが、残念ながら家譜には二代目らしい「塩川安左衛門」(慶長十九年仕)以後の経歴しか記されていませんでした。また、孫作の諱(いみな)は不明ですが、子孫は「久」を通字にしている模様です。

[「寿々」は信忠の死後「二条昭実」に嫁いだ?]

また、和田祐弘氏の「織田信忠」中の記述で非常に気になったのは、和田氏が「荒木略記」の記述から、塩川長満の娘(姉)が「信忠自害後は「二条殿北政所」(二条殿の妻)となった」と記されていることです。「二条殿」とは、「二条昭実」のことで、私も以前、同様の「荒木略記」からの引用(活字)を見た記憶があり、今、それが何の資料であったか、捜索中です。そして和田裕弘氏も一応、もし彼女が「二条殿北政所」であれば、それは織田信長息女の「三の丸」のこととなり、色々と不整合が生じるので、「さらなる検討が必要である」とは記されているのですが…。

なお、「荒木略記」の群書類従本においては、活字版(明治27年)も、版木版(国会図書館コレクション・群書類従495-497)も、織田信忠未亡人が「一條殿北之政所」、池田元助未亡人が「一條殿之政所」となっています。そして和田氏は、池田元助未亡人(妹)の方は「一条殿(内基)政所」とされています。

また後藤みち子氏の「戦国を生きた公家の妻たち」(吉川弘文館・2009)によれば、「北政所」とは平安以来、「摂関家の正室」にのみ使われる呼称であり、それは天皇の「治定」(じじょう)を経てはじめて許されるものでもありました(こんにち「北政所」と言えば、豊臣秀吉の正室、寧々さんの呼称として知られているのは、秀吉が「関白」に就任したからに他なりません。)。なお、一条内基も、二条昭実も、共に関白に就任しています。

[徳寿院は、京の一条家の墓所に葬られていない]

また、上記「戦国を生きた公家の妻たち」P140-154においては、室町・戦国時代の公家の夫婦における「墓所」の在り方として、「十五世紀半ばから十六世紀にかけてそれまで夫婦別墓地だった家が、夫婦同墓地へと変化していく。」と述べられています。しかし本稿においても幾度か触れているように、三法師の母・徳寿院の墓は、一条家の墓所である、京の東福寺から離れた、近江・坂本の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)に「伝・織田秀信(三法師)の墓」と共に、ほぼ単独で葬られています。この不審な点については、以前存在した滋賀県のサイト、「近江の姫たち」において、井上優氏が触れられていました。

そして後藤みち子氏(同前)によれば、「夫婦同墓地」が形成される条件として、「夫婦の意思・夫の意思・後継者の意思」に加え、「妻は基本的に正室であり」、「後継者の実母である」ことが列挙されています。しかし最後の点については結局、一条内基は実子に恵まれず、後陽成天皇の第九皇子を養子(一条昭良(兼遐、恵観))に迎えています。塩川長満の娘(「寿々」)は、そういった点から東福寺に埋葬されず、といって実家である塩川家も既に滅亡しており、先に逝った「岐阜城主」でもあった秀信を弔いつつ、かつて息子と共に辛い日々を過ごした「坂本の地」(連載第16回参照)での最期を選んだのではないでしょうか。

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(☆★☆ 聖衆来迎寺蔵 「織田秀信像」 展示のお知らせ ☆★☆)

「寿々姫」(徳寿院)が晩年を過ごした菩提寺であり、彼女の肖像画の所蔵寺としても知られる、大津市坂本の「聖衆来迎寺」(しょうじゅらいこうじ)所蔵の“三法師”こと「織田秀信像」が、2月8日(土)~4月5日(日)まで、「滋賀県立安土城考古博物館」における企画展「安土・桃山時代の近江展」において、展示されます。実は私はまだこの肖像画に対面したことがなく(徳寿院のも)、今からワクワクしております。おそらく晩年の徳寿院自身が、先立った息子の面影を想い起こすべく、眺めていた画像だと思われます。ご都合よろしければ、安土城、観音寺城、近江八幡城訪問ともセットで、この貴重な機会に是非。

(お問い合わせ「滋賀県立安土城考古博物館」 0748-46-2424)

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② そして、「妹」の場合

[妹の婚礼は天正八~十(1580-82)年頃か]

さて、「荒木略記」に

「伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候 壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前 壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄 庄九朗(元助)室にて御座候 池田出羽守(由之)継母(ままはは)にて御座候 後に城之助殿御前は一條殿(一条内基)北之政所 庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」

と記された、塩川長満の娘の「妹」(実際はどちらが姉か妹かは不明)の話題に転じましょう。

彼女は天正八(1580)年の「荒木村重の乱」~「石山戦争」の終結後に、「有岡」から元の「伊丹」に、すなわち、“中世以来の名称”に戻された町に入部した新たな摂津支配者「池田元助」の継室となりました。婚礼の時期もその頃であったでしょう。「継室」とは、二代目の正室のことです。前妻であった「伊勢貞良の娘」(池田由之・由成系譜)は死去した模様で、その遺児として、天正五年に尾張・犬山で生まれた「由之」(上同。おそらく「由元」の間違い)がいました。「妹」が「池田出羽守継母(ままはは)」と記されたのはこういうことです。

また、この婚礼は「中世以来の領主、“伊丹氏”の血筋を引く彼女が、“伊丹城主の正室”になった」ということ、及び、城主の名字が偶然「池田」であるということが重要です。「伊丹」、「池田」という、荒木村重に滅ぼされた「中世の摂津領主の復古」を人々に意識させる効果があったのです。町の名を「伊丹」に戻したり、「系図纂要」において、「池田恒利(恒興の父)」の父を摂津の「池田充正」に結び付けているあたり、この天正八年時点における“摂津統治の正当性”を意識した「操作」だったのではないでしょうか。九州征服を見込んで「惟任」や「惟住」、「原田」などの九州ゆかりの名字に改められた他の織田家臣に比べたら、「池田」は摂津統括に非常に好都合な名字であったと言えます。

しかし、ご存知の通り、天正十一年五月、摂津国は半ば強制的に羽柴秀吉によって乗っ取られ、滅亡した織田信孝の「美濃国」との引き替えに、池田元助はその新妻共々、かつて妻の姉が嫁いだ「岐阜」へと移ったのでした。(これに関しては連載第16回中の「④羽柴氏による摂津への圧迫」をご参照下さい。)

[彼女の名前は「光子」?「花子」?「永子」?「春子」?]

ちなみに、この池田元助室の法名について私は、「慈光院花上永春」(「備前・池田家譜」中の「之助」条、岡山・池田文庫)だと思っていましたが、冒頭で述べた、妙心寺「慈雲院」において今回確認された墓石には「慈光院殿花生永春大禅大姉」と読めました(下段画像参照)。「花上」ではなく「花生」でした。実は「花上」の典拠とした池田文庫のマイクロフィルムがスクロールで?擦り切れていて、「花」の次の文字が「逆T字形に見えた」ので「上」であろう、と判断していました。「花生永春」が正解だったのです。

ともあれ、彼女の俗名は、ひょっとしたら「光」「花」「永」「春」などであったかもしれません。また正直、名前が無いと、書いていて非常に不便です。姉をカッコ付の「寿々」と表現するのと同様に、本稿では、彼女のことを、しばしば「妹」と表現することと致します。

[「妹」のお共として、池田家に赴いた塩川家臣、「藪井八右衛門」]

この「妹の嫁入り」に関しては、「藪井八右衛門」に触れないわけにはいきません。

「高代寺日記」には、塩川氏滅亡後も、離散した元・家臣たちが旧交を温める場面がしばしば登場します。「日記」における最末期、「塩川基満」(塩川長満の猶子「頼一」の子)の死直前にあたる4年間の記事に、「薮井」なる謎の旧臣?が登場しており、晩年の基満と音信しています。具体的には、

①「薮井 西村方ヨリ届事」(慶安三(1650)年七月)、

②「大坂ヘ状上ス 薮井ヲ頼テ或曰 田上某云リ」(慶安四(1651)年二月)、

③「薮井方ヨリ届 去十月初ノ状ナリ 二十七日ニ来」(承応三(1654)年正月。基満の死の年)

の3件です。「薮井」とはいったい何者なのでしょう。

私は平成13(2001)年4月26日、「摂津・塩川氏」の末裔について「川西市史」や「猪名川町史」が一切沈黙している中、自治体史に採用されなかった「高代寺日記」における僅かな記述だけを頼りに、「初めての史料捜しの旅」として、岡山大学附属図書館(池田文庫)や、鳥取県立博物館を訪ねました。そして最初の岡山(暗い雨の日でした)において、「侍帳」類や「家譜」類に「高代寺日記」の記述の通りに池田家の家臣になっていた「塩川吉大夫」(二~三代目)や「塩川源介」の名前を見つけた時の衝撃と興奮は一生忘れないでしょう。あれは自分における塩川氏の「パラダイムシフト」の瞬間でした。それにしても、殆んど検討が加えられていない史料を「信用出来ない」のひと言で、100%無視出来る「公的な専門家」って、いったい何なのでしょう。しかもこの風潮は昭和どころか、令和二年の今も続いているのです。

思わずエキサイトしてしまいましたが、話を池田文庫に戻しますと、この時館内で目にした、池田家家臣の家譜類を、五十音順に翻刻していた「吉備温故秘録」(吉備群書集成(六)・1970)に、かつて「塩川伯耆守」に仕えていたという「薮井八右衛門」の名前があったのです。なお、家譜類をまとめたものとしては他に、倉地克直編「岡山藩 家中諸士五音寄」(岡山大学文学部・1993)があります。他にマイクロフィルムで公開されている家譜、「薮井直太郎奉公書」があり、ここから引用すると、かつて「塩川伯耆守」に二代に渡って仕えた、「生国 摂津河辺多田之庄」の「薮井八右衛門」がおり、同名の後者(息子)の方については

「伯耆守様御息女様 池田勝九郎(元助)様 御縁辺之時 御供仕則 勝九郎様江御奉公仕居申候得供 御暇申請 大和大納言殿(羽柴秀長)ニ奉公仕知行三百石被下候~」

とありました。二代目「薮井八右衛門」は、「妹」の嫁入りにお供して、池田元助の下に奉公した「御付き人」だったのです。婚礼は天正八~十(1580-82)年頃だったと思われるので、池田元助夫妻と共に、伊丹→岐阜へと移転し、天正十二年の元助の戦死後に「御暇申請」となったのでしょう。

薮井八右衛門はその後、羽柴秀長(大和・郡山)、池田照政(三河・吉田(豊橋)?~播磨・姫路)、木下延俊(豊後・日出)配下を転々としましたが、木下家にも「申分」があって、姫路生まれの息子「次右衛門」と共に寛永元(1624)年に木下家を退転。同九(1632)年十二月大晦日に病死しています。次右衛門によれば、父は生真面目で理不尽なことに我慢出来ない性格で、世渡り上手な武士ではなかったようです。

そして薮井次右衛門は、父の死の直前、岡山藩主になったばかりの「池田光政」に仕官出来ました。以後、明治維新まで薮井家を存続することになります。ともあれ、「高代寺日記」において晩年の塩川基満と音信した「薮井」とはこの「次右衛門」だったのでしょう。

因みに「薮井 姓」で検索してみると、「名字由来net」というサイトによれば「薮井」姓は、都道府県別では、「岡山県」が最大であり(!)、240人おられるそうです。「塩川伯耆守」に仕えた、初代「薮井八右衛門」は「生国 摂津河辺多田之庄」とあるので、岡山県本貫の名字でもなさそうであり、もし、これら240人の薮井さんが全て、「薮井八右衛門の末裔」であるならば、「ファミリー・ヒストリー」的にも非常にドラマチックではありますが。

[「妹」は未亡人となった後、秀吉の命で、一条内基に再嫁]

さて、明治維新まで続いた「妹」の末裔にあたる「池田美作」家の家譜「池田勝造奉公書」(岡山・池田文庫)によれば、「妹」は天正十二(1584)年「岐阜」において、夫であった城主・池田元助が「小牧・長久手」で戦死した時は妊娠中であり、夫の死後に息子、「勝吉」(しょうきち・元信)を生みました。そしてその後の経緯は「不詳」としながらも、京都で生活したのち、秀吉の命によって「一条関白内基公、令嫁候由」となったようです。

このあたり、姉の「寿々」が近江・坂本城あたりで、秀吉の妾とされた(「オルガンティーノ書簡」を引用したフロイス「日本史」、連載第16回参照)状況から推測すると、彼女もまた、秀吉によって「姉」と同様の運命をたどったのか、あるいは秀吉はかつて「養徳院」(大ち様)に対して「息子、孫(恒興、元助)」を死なせた負い目があったので、「栄転」や(織田家へも含む)「罪滅ぼし」などの意味をも込めて、子供が出来なかった「一条内基」にこの「美人姉妹」を娶わせたのかもしれません。再び「池田勝造奉公書」に戻ると、

「依此(これにより) 美作(元信)幼少之時分ハ 一條殿 養徳院様なと御役介(やっかい) 御養育 被成候」 とあります。

ともあれ、「一條殿之政所」(荒木略記)と表現された彼女(塩川長満娘・妹)は、姉と違って「“北”政所」とは記されていない「政所」なので、「側室」であったと思います(ただし、従三位以上か?)。そしてやはり「姉」ともども、一条内基の子は生まれませんでしたので、これは夫のからだに“造精機能”の問題があったのでしょう。

[深い関係なのに、影が薄い「W・九郎」&「塩川姉妹」]

なお、これは重要、かつ忘れられ勝ちなことですが、「池田元助」は「織田信忠」とは、互いに「相婿」であっただけではなく、父、恒興も、養徳院を通じて織田信長と「乳兄弟」であったので、この両者は、実質イトコというより、ほぼ「兄弟に近い関柄」だったと言えるでしょう。また、和田裕弘氏が「織田信忠」(P163)において「(信忠の)仮名の菅九郎の「九郎」については相婿の池田元助に与え、勝九郎と名乗らせたが」と指摘されているのも、まさに象徴的といえるでしょう。言わば、「W・九郎」&「塩川姉妹」であります(漫才コンビではありません)。それにしても、この両者と縁を結んだ「塩川長満」という存在もまた凄いと思います。しかし、皆様ご周知の如く、「塩川長満」も、またその子らである「菅九郎・勝九郎」も「塩川姉妹」も、長期にわたって“歴史の表舞台”では「影が薄い」、もしくは「完全に忘れ去られた」存在となったのです。

[中世と近世のはざま・池田恒興・元助父子]

なお、織田信長の家臣として美濃・池田氏を勃興させた「池田恒興・元助父子」という存在は、池田輝政以降の近世大名・池田氏にとって“中世と近世のはざま”に生きた「レジェンド」“的存在ではありましたが、同時に「小牧・長久手の戦い」で戦死したという観点からは、「将軍家に刃向かった”黒歴史“」に属する存在でもありました(谷口眞子「小牧・長久手の戦いの記憶と顕彰」、藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造」所収)。これに加え、江戸時代における池田氏による「恒興」顕彰への態度の変化や、複数の寺社が、恒興の墓所の由来を名乗り出たことなどから(上同)、池田恒興・元助父子に関する情報は撹乱され、その存在はどこか”謎のベール“に包まれています。

[「之助」-「元助」問題のカルチャーショック]

特に池田勝九郎元助は、若くして散ったせいもあって父、恒興以上に、そして織田信忠以上に「影が薄い」存在です。彼の後裔、岡山や鳥取における「池田家」においてでさえも…。

元助の「影の薄さ」を象徴するのはまず、その名前(諱)です。(父「恒興」も、よく系図や物語に登場する「信輝」と記されたりしますが)彼自身の実名は、摂津や美濃における発給文書の署名や花押の意匠からまず「元助(もとすけ)」に間違いないのですが、彼の死後に作成された近世の岡山、鳥取における池田家の文書類においては全て、くずし字体のよく似た「之助」(ゆきすけ)で統一されており、そればかりではなく、岡山などでは、学術的な論考においてさえ「之助」で統一されていたのは、私は相当“カルチャーショック”がありました。はたしてこの「ボタンの掛け違い」、東西の学者さんの間では、どのように対処されているのでしょう。

彼の嫡男(正室、伊勢氏の子)が「由元」ではなく、「由之」とされているのもその為でしょう。のちに池田家の家老級重臣ともなったこの池田「出羽守」家は、代々「由」や時に「之」を通字としたようですから、子孫もまた「元」の字を忘れていたのでしょう。

ともあれ、朝から岡山大学附属図書館にこもっていると、自分の認識さえも「之助モード」に変換されてしまうのでした。そして夕方、図書館の前からケータイで、池田恒興・元助父子の墓所(江戸後期に備前・池田家が整備した。谷口眞子氏による)のある、岐阜県池田町の「龍徳寺」さんに、問い合わせをした際、電話口で御住職が「もとすけの墓は~」と言われた時は、思わず「おおっ~、「元助」ですよね!やっぱり~」と“懐かしさ”すらおぼえたほどです。

[池田「元助」の「元」の表記は、池田「元信」を通じてかろうじて…]

一方、これに対して、幸いというべきか、池田元助の「継室」である「妹」の子の方は、岡山、鳥取の池田家で作成された家系図や編纂書類においても、しっかりと「元信」と記されているので(!)、池田「元助」の“正しい名前”は、この塩川長満の血を引く「元信」→池田「美作」家を通じて、殆んど“皮一枚で”西国に保持されたとも言えます。

[京・一条家邸宅(桃華坊)は「塩川救済所」]

さて、一条家に再嫁した「妹」の「連れ子」であった元信(のち美作守)は、現在の「京都御所」北西隣にあった近世」の「京・一条邸」(連載第13回冒頭画像)で、「美作幼少之時分ハ 一条殿 養徳院様(池田恒興母)なと 御役介(厄介) 御養育被成候 承伝候」(池田勝造奉公書)とあり、「養父」となった一条内基のみならず、妙心寺に居た(後述)養徳院もまたこの「曾孫」を可愛がったのでしょう。

なお塩川姉妹が嫁いで以降、京・一条内基の邸宅(屋号:桃華坊)は、滅亡した塩川氏にとって、言わば一種の「救済所」的存在となりました。連載第3回でご紹介した塩川長満の子「塩川源助」は、塩川氏滅亡後は「京都ニ浪人仕居」(塩川搾?奉公書)していたとあります。彼はおそらく、一条家に厄介になり、一条内基の「口利き」によって「内基の側室(「妹」)の前夫の弟」、言わば「義理の兄弟?」にあたる「池田輝政」に仕官出来たものと思われます。そして一条内基が慶長十六(1611)年に薨去し、「一条昭良」(兼遐、のち恵観)が当主となって以降の元和元年、及び二年(1615.16)においてさえも、塩川長満の孫「源太」が「一条殿」を訪れて「元服」して摂関家の通字を拝受したらしく「基満」と名乗っています(高代寺日記)。また、江戸時代初期においても、「一条様」(おそらく昭良)が塩川長満の孫「塩川八右衛門」とその妹の二人を養育、宗門改めの世話を経て、岡山・池田家への仕官、及び、池田家臣・湯浅家への縁談をも斡旋推薦しているのです(岡山・池田家文書、池田光政日記、後述)。

[池田元助の遺児、池田美作守元信のこと]

そして成人した池田元信もまた、一条家から「藤原姓拝受」(池田由之・由成系譜)しており、この経歴は後々生かされることとなります。慶長四(1599)年、彼は大坂城の豊臣秀頼に仕官します。そして、連載第13回で触れましたが、「近衛信尹(のぶただ)」の日記、「三藐院記」の慶長七(1602)年四月の条には「廿三日、乙卯、鯉一 池田勝吉(しょうきち・元信)」とあるので、彼が「実家」の“隣人”である近衛信尹に鯉を送ったことがわかります。

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[重要:「荒木略記」と摂津・塩川氏を繋げる「もうひとつのリンク」]

なおこれは、2018年秋に知ったことですが、「池田家履歴略記」及び「池田勝造奉公書」によると、豊臣秀頼に仕官した池田元信は“馬術の名人”だったらしく、大坂城内で誰も扱えなかった「朝鮮から献上された月毛の馬」を、秀頼の命で難なく乗りこなし、褒美としてその馬と鞍を下賜されたようです。しかも彼の「馬術の師匠」がなんと、馬好きの近衛信尹とも親しかった「安志」こと“荒木流馬術”の創始者、「荒木志摩守元清」(かつての花熊城主)だったのです。

摂津・塩川氏と「荒木元清」家との繋がりについては、既に連載第3回において、鳥取・池田家臣であった「塩川源五左衛門」の、幼少期の家督を、荒木元清の孫「石尾善兵衛」が「名代として中継」していたという(岡山・塩川「搾」?奉公書)経緯に触れましたが、今ここに「別のリンク」が判明したわけです。また、そもそもの塩川氏と美濃・池田氏との関わりも、「荒木元清」が籠城した花熊城攻め(「信長公記」天正八年二月廿七日)の折りでありました。

要するに、荒木元清の孫で徳川家に仕えた「荒木元政」が著した「荒木略記」において、塩川長満の娘と池田元助の縁組の事はもとより、織田信忠や一条内基との縁組や、他に見られない塩川氏に関する細かな知見が記載されているのは、もはや、極めて自然と言えるでしょう。(それにしても、今だに「荒木略記」や「高代寺日記」に対しては、二次史料、もしくは編纂史料という理由だけで「信頼出来る史料ではない」などとする「一次史料至上主義」の方が結構いらっしゃいます。)

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[“A day in the Life”]

なお連載第13回の末尾近くで紹介した、「三藐院記」慶長六(1601)年五月一日の記事に、

「晴、一條殿八瀬ヨリノ御帰京ニシユカクシ(修学院)出合申、賀茂ヘ同道申、リウハウ(柳芳院休庵)所ニテ 御女房衆一所ニ予ヘンタウ被参了、足ソロへ(賀茂競馬足揃)不見帰京 ウミタケ(海筍・二枚貝)一桶・ミリンチウ一桶 安志」とあり、

近衛信尹は「賀茂競馬足揃」見物の予定を、往路で偶然出会った(釜風呂遊山帰りの)一条内基やその「御女房衆」(おそらく塩川姉妹も居たと思われる)一行と共に「弁当」を楽しむことでキャンセルし、帰宅後に「安志」から肴と味醂割の焼酎が届いています。状況から察するに、近衛信尹は、「馬友達」であった安志(荒木元清)と一緒に「飲み食いしながら競馬見物」する予定を途中でキャンセルしたので、自宅に安志から「酒と肴」が届いたのではないでしょうか。

この日の一場面を敢えて“大河ドラマ風”に想像、再現してみると

柳芳院休庵邸の庭を臨む縁側で昼食がてら談笑している一条内基の一行と近衛信尹。

(弁当を楽しみながら・信尹)「安志殿には先ほど、予定変更の使いを送りました。」

(弁当を楽しみながら・「妹」)「お気の毒に(笑)。安志殿には勝吉(元信)から何か贈らせることにしましょう。」

(カメラ、引きながら音楽、そしてナレーション)「やがてこの「安志殿」の孫にあたる人物が、塩川家と池田家、そして一条家との関係を後世に伝えることとなったのです。」(画面フェードアウト)

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さて、池田元信は、慶長七年四月十一日に「従五位下・美作守」に叙任されます。彼が近衛信尹に「鯉」を贈った(三藐院記)というのはその12日後にあたります。そして大坂城では豊臣秀頼の「御書院番」配属となります。しかし彼が一旦養子として継いでいた「船越五郎左衛門家」と不和となり、船越の娘と離縁、結局慶長十五(1610)年、大坂を退去。なお大坂にはキリシタンであるイトコの「塩川信濃丞」(後述)が残留していました。

元信はひとまず京の妙心寺(「護国院」もしくは養徳院の居た「桂昌院」・後述)に逼塞していましたが、彼を気にかけて合力してくれていた叔父「池田輝政」に招かれて姫路・池田家に「家臣」として仕官。最終的には、輝政の孫、幼少の「池田光政」に仕え、備前・岡山から因幡・鳥取に移封されました。寛永七年六月七日に四十七歳で鳥取に病死しています。(池田勝造奉公書)

[「元信」の命名に、近衛信尹が関与してはいないか?]

なお、元信の末裔「池田美作」家の代々の「諱」を把握しておりませんが、「元信」の子、二代目「美作」の諱は「信成」(「池田由之・由成系譜」鳥取県立博物館)であり、また三代目「池田佐兵衛」(岡山・諸士勤書摘録)の諱は「信起」(柏木輝久・「大坂の陣 豊臣方人物事典」後述)とのことなので、「信」が通字とされたのでしょう(補注)。このあたり、全くの推測ですが、ひょっとすると、一条家で育った池田元信(勝吉)を、幼少期から可愛がっていたと思われる、隣家の「近衛信尹」による命名や意向もあったのではないでしょうか。なお、「池田由之・由成系譜」においては「元信」の項に「初実名 宗次」とあります。彼は大坂で一旦「船越家」を継ぎかけたので、そちらにおける名前かもしれませんが。

近衛信尹については、連載第十三回でも詳述したように、元服時に織田信長の加冠を受け、終生信長を父同然に慕い、五摂家の筆頭、近衛家の身でありながら、織田弾正忠家の通字「信」に異常なまでにコダワって、「信基」(信長の命名)→「信輔」→「信尹」(のぶただ)と、最終的には“信長の嫡男と同じ読み”にまで改名し、自分の養子(後陽成天皇の実子、一条昭良の兄)にまで「信尋」(のぶひろ)と命名したという、ケッタイな公卿でした。

近衛信尹が、豊臣秀吉や公家社会から警戒されたのは、信尹のこの「織田信長フリークぶり」にドン引きした、という要因もあったでしょう。そして、このような信尹とウマの合った隣家のアル中オジサン、一条内基邸に、“塩川姉妹”という、「織田信忠の未亡人」(徳寿院)及び、信忠と兄弟分ともいうべき「池田元助の未亡人と遺児」が転がり込んで来たわけですから、「信長フリーク」の信尹が“放っておくはずはなかった”のではないでしょうか。

[備前・池田家「番頭」格の身でありながら、「勝」の字さえも]

「妹」の末裔である「池田美作」家の“不思議さ”はこれだけではありません。池田元信の通称は「勝吉」(しょうきち)でしたし、明治三年に提出された家譜の名は「池田勝造(しょうぞう)奉公書」です。と、いうことは、全体は未確認ですが、「池田美作」家では代々「勝」の字を通称(仮名)に受け継がれた可能性があります。例えば塩川氏嫡流における「源」の字や、能勢氏における「十郎」や山名氏の「五郎」のように。それは当然ながら、池田「勝」三郎→「勝」入(恒興)や「勝」九郎(元助)以来の伝統でしょう。しかし「池田美作」家は、一族とはいえ、「家臣」の扱いで、家老より一段下の「番頭」格(三千石)でした。

これに対して、藩主の方はどうでしょう?。池田輝政の最初の正室(中川清秀の娘、糸姫)の血を引く「利隆―光政―綱政~」と続いた備前・岡山城当主の家系などでは、別段、通称に「勝」の字に拘ってはいないようです。池田元助の嫡男、由之―由成(出羽守)系においてもまたしかり。

一方、藩主で「勝」の字にやや拘っているのは、池田輝政の継室(徳川家康の娘、督姫)の血を引く「忠雄―光仲―宗泰―重寛~」と続いた因幡・鳥取城当主の家系の方で、「通称」がしばしば「勝五郎」であり、光仲の弟、仲政が「勝三郎」でした。このあたり、備前・池田家としては、因幡の徳川家系統の池田家を「一応嫡流として」持ち上げることにより、徳川体制の下で保身を図ったものと思われます。

それらを思うと、この「勝」の字に拘ったらしい「妹」の「池田・美作」家は、家老より一段下の「番頭格の家臣」であったにもかかわらず、本来の嫡流であった池田恒興―元助系の「片鱗」を、その名前の中に保持していたのです。こういった要素といい、「元」の字といい、一条家から拝受された「藤原姓」といい、「池田・美作」家は、備前・池田家中にありながら、非常にユニークな存在であったと言えるでしょう。

[「妹」は、先立った息子と共に、京・妙心寺に眠る]

さて、この「妹」は寛永14(1637)年七月十日に京で亡くなりました。彼女もまた、「姉・徳寿院」と同様、一条家の墓所、「東福寺」には葬られませんでした。「備前池田家譜」によると、彼女が葬られたのは池田家の菩提寺であった京の妙心寺塔頭「護国院」で、その戒名は「慈光院花生永春」(前述の墓石から)だったということは繰り返し述べました。

この塔頭「護国院」は「養徳院」(信長の乳母・大ち様)が、天正十二(1584)年に小牧・長久手の戦いで戦死した息子、池田恒興の菩提を弔うべく、「文禄年間(1592-95)」に創設したようです(池田家履歴略記)。なお、池田勝入斎恒興の法号は「護国院雄岳宗英大居士」といいました。そしてその境内には当然ながら、恒興と共に戦死した「妹」の夫、「池田元助」の墓もあったはずです。

かつて、池田元助の妻であった「妹」は、結局「最初の婚家」である池田家の菩提寺に葬られたというわけです。そして既にこの「護国院」の墓地には、7年前の寛永七年六月七日に鳥取において四十七歳で病死した息子、元信が眠っていました(池田由之・由成系譜)。「妹」もまた、「姉」と同じく、息子に先立たれていたのです。なお、既に元信の家督は、鳥取生まれの二代目「美作」こと「池田信成(この時十三歳)」が継いでいました(諸士勤書摘録)。

葬儀は、今や彼女の新たな「息子」となった一条家当主、「昭良」が喪主となったと思われます。

(現在の「妹」の墓所である塔頭「慈雲院」さんには、墓の施主が「一条内基」と伝わっているとのことですが、内基は彼女に先立つこと24年の慶長十六(1611)年に薨去しているので、これは「昭良」の誤りと思われます。)

[ここでちょっと「一条昭良」のことを]

「一条昭良」は、結局実子を持てなかった晩年の一条内基が、後陽成帝の第九皇子を迎えた養子でした。「後水尾天皇」や、同じく嫡子に恵まれなかった近衛信尹の養子となった「近衛信尋」の実弟にあたります。

繰り返しお伝えしている、塩川長満の孫「主殿 一条主ニ居 則 源兵衛ト改ム 中書(頼一)ノ任意 基満号ス」という記事(「高代寺日記」元和二(1616)年二月、元和三年、及び四年にも同様の記事が重複)において、塩川基満は「一条邸で元服」しているようですし、また「基」の字は摂関家の通字、かつ故・内基の実名の一字でもあります。「基満」の命名は父の意向とのことですが、当然ながら当主である「一条昭良」(当時「兼遐」かねとお)の認可を得ているはずですし、昭良がこの「義理の従弟」の元服に立ち会った可能性もあるでしょう。

なお当連載では既に第14回後半においても、一条昭良にご登場いただいています。

元和八(1622)年三月十九日、朝廷との緊張感を高めつつあった徳川幕府の使者「山名禅高」を「能」の観劇、及び「奈良の酒“諸白”(もろはく)」でもてなしている「一條殿」(鹿苑日録)が彼です。「山名禅高」もまた塩川家と不思議な縁があったことは第14回で特集しています。

そして昭良も実父、養父の影響があったのか、酒好き、芸能・芸述好きの浪費家でした。実は江戸前期の有名な戯曲家「近松門左衛門」は、まだ「杉森信盛」であった若い時分、「恵観」(えかん)と称した晩年の一条昭良の家司であったらしく(杉森家系図)、河竹繁俊氏(「近松門左衛門」・吉川人物叢書)は、近松が昭良から受けた影響を推察されています。そしてもうひとつ、昭良の嗜好を象徴するのが、彼の別宅を昭和34(1959)年に鎌倉市に移築した「一条恵観(えかん)山荘」であり、これは国の重要文化財となっています。

[テルちゃん、ノリスケさんに嫁ぐ]

実はこの「一条昭良」もまた、彼の養母となった「塩川姉妹」の甥、姪、要するに昭良の「義理のイトコ」にあたる「塩川八右衛門」とその「妹」の備前・池田家への「仕官」と「池田家臣・湯浅家」への縁談」を斡旋してくれているのです(「池田家文書」「池田光政日記」)。しかし寛永二十一(1644)年、この両人に「八右衛門の母」を加えた三人に対して「キリシタン疑惑」(*補注1)が持ち上がります。そんなトラブルもキッカケとなって、一条昭良と岡山藩主の「池田光政」との関係が深まります。

加えてそこに“偶然”なのかどうか、3年後の正保四(1647)年、池田光政の妻「勝子」の母である「天樹院(千姫)」とその弟「将軍・徳川家光」から突然「上意」が通達されます。

それは、「徳川家光」が密かに推し進めていた朝廷への「懐柔策」の一環として、一条昭良の嫡男「一条教輔」(当時“伊実”)に、「池田光政」の息女「輝子」を、急拠「徳川家光の養女“通姫”」ということに仕立てて嫁がせたい、というものでした(池田光政日記)。これは、かつて一条昭良の実兄「後水尾天皇」に「徳川秀忠」と「江」の娘「和子(まさこ)」を強引に入内させ、幕府が朝廷への介入を試みた出来事を思い起こさせます。

池田光政にとっては「寝耳に水」の事態でしたが、「一条家」といっても、べつに「雲の上の存在」ではなく、既に一条昭良とはつい3年前から「塩川八右衛門キリシタン疑惑事件」に関して書簡のやりとりをしたばかりです。昭良は、誠意ある対応を見せてくれていました(池田家文書)。加えて光政の祖父の兄嫁にあたる、池田元助の妻(要するに「妹」のこと)が一条内基に再嫁していて、光政の家臣にその子、孫もいました(池田元信、信成のこと)。要するに、備前・池田家にとって「一条家」とは、「塩川氏」という小さな存在を通じて「入魂」とはいかないまでも、「予習済み」、「旧知」の間柄ではあったわけです。

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これは偶然とは思えず、おそらくこのあたりのインテリジェンス(情報)は、密かにこの縁談を計画していた徳川家光、天樹院の側としても、幕府が3~4年前に提出させた「寛永諸家系図伝」や、旗本「荒木元政」の記した「荒木略記」の記述(本稿冒頭)、及び、「一条家の斡旋」によって池田家に仕官したという「塩川八右衛門」のキリシタン疑惑を捜査、告発していた宗門改方「井上筑後守政重」(*補注2)あたりから提供された「諸情報」を把握、加味したうえで、最終的に「池田光政の娘」に“白羽の矢”を立てたのではないでしょうか。なお光政の母は徳川秀忠の養女(鶴姫、榊原康政の娘)でした。

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さて、「一条教輔」と「徳川家光の娘・通姫」(実は池田光政の娘・輝子)との婚礼を伝える「池田家履歴略記」には、慶安二(1649)年三月に岡山→江戸へ移り(将軍の“養女”とするため)、折り返し十一月~十二月に江戸→京へと輿入れした一行に御伴した「家老以下十数名の池田家家臣」の名前が記されていますが、その中に「塩川源五左衛門」が含まれています。これも偶然ではなく、おそらく「人選」があったものと思われます。

繰り返すように、源五左衛門の実父「塩川源助」は、塩川長満の子であり、塩川家滅亡後は「京都ニ浪人仕居」した後に、姫路の池田輝政に仕官している(「塩川搾?奉公書」、連載第3回参照)ので、彼の仕官は当時健在だった「一条内基」の斡旋によった公算が高いと思われるからです(*補注3)。“一条家ゆかりの家臣”というわけで、要するに「塩川系家臣」は、備前・池田家と一条家を結ぶ掛け橋でした。

(*補注1)

「塩川八右衛門」のキリシタン告発に関しては、尾山茂樹氏による“手書き印刷”の高著(!)「備前キリシタン史」(1978)、及び、柏木輝久氏によるこれまた大著(!)「大坂の陣 豊臣方人物事典」(2016)中の「塩川信濃」(長満の子、キリシタンの「明石掃部頭」組下だった)の項にも引用、考察されています。なお後者は「川西市中央図書館」に蔵書がありますので、是非ご参照下さい。また、塩川八右衛門はこの時「自害」を申し出たものの、引き止められたようです(池田光政日記)。そして、池田光政個人は時代柄、キリシタンを処罰はしましたが、憎悪した様子はなく、こののち彼の憎悪はむしろ、既得権益層たる仏教寺院に向けられていき、これは今回の連載後半部の展開に大きく関わっていきます。

(*補注2)

「井上筑後守」と聞いて俳優“イッセー・尾形”さんの顔がパッと浮かんだ人は、歴史ファン、というよりむしろ映画ファン、あるいはマーチン・スコセッシ監督のファンの方が多いのではないでしょうか。そうです。彼はアメリカ映画「沈黙 –サイレンス-」(2016、原作:遠藤周作)にキリシタン弾圧を指揮する“幕府の怖い奉行”として登場しています。

史実における「井上筑後守政重」当人が、あのキャラクターであったかどうかはわかりませんが、尾山茂樹氏が高著「備前キリシタン史」において分析、呈示された、池田光政と井上筑後守の間でやりとりされた書状等からは、私はアメリカ連邦警察FBIの捜査官とか、ドラマ「逃亡者(1963)」(”The Fugitive”、David Janssen主演)に登場する「執拗なジェラード警部」(演:Barry Morse、声:加藤精三)を連想してしまいました。

池田光政は「塩川八右衛門は「自害」を申し出たぐらいだからキリシタンではなかろう」(池田光政日記)などと彼を擁護しようとしますが、井上筑後守は、全国的に藩領を超えた情報を収集、それらの整合性を分析した上で塩川八右衛門の容疑を固めており、強気な池田光政に更なる調査を要求して追い詰めていきます。その結果、八右衛門は「限りなく黒に近い灰色」と判断されたように見受けられます。

塩川八右衛門は結局、終身的に「拘禁」(座敷牢)されてしまうわけですが、柏木輝久氏(大坂の陣 豊臣方人物事典)も言及されていますが、彼の身は、上役の池田数馬忠義(池田由之の子)→池田美作信成・佐兵衛父子(元信の子および孫)の「預かり」となり、のち八右衛門の子「源之丞」は池田佐兵衛の組下として、ちゃんと家督を相続されています(塩川文八郎奉公書)。一方「八右衛門の母」の方は、彼女の“甥”にあたる「塩川源五左衛門預かり」という、要するに「塩川一族」の監視下(共に扶持米下賜)に置かれました。また、妹(湯浅半右衛門妻)の方は無罪とみられたようです。

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(“吹けば飛ぶよな男だが”)

意外と「甘い判決」にも見えますが、あるいは映画「沈黙」の見過ぎ、という側面もあるかもしれません。

「井上筑後守」の書状を分析された尾山茂樹氏(備前キリシタン史)はこういった処置について、「塩川八右衛門」が告発された寛永二十一年(正保元年・1644)末における幕府側の「キリシタン処罰の方針転換」、つまり「刑死」、「拷問死」させるより、生かして「情報源」とした方が全国的な捜査に有効性があることに気付いて刑罰を緩和させた点、を指摘されています。

一方「政治的」には、繰り返しになりますが、「塩川八右衛門」という“吹けば飛ぶよな存在”は、京の五摂家の一人、「一条昭良」によって「キリシタンでは無い旨」が保障された上で「池田光政」の家臣として斡旋されたわけです(池田光政日記、池田家文書)。

そしてこの頃、「池田光政」の義理の親にあたる、「天樹院(千姫)」と「徳川家光」は、朝廷への懐柔を図るべく、光政から娘「輝子、通姫」を差し出させて「徳川家光の娘」とした上で「一条昭良」の嫡子「一条教輔」との縁談を計画、実現させており、この両事件はまさに「同時進行」しているのです。

もし、幕府が「塩川八右衛門」を惨死させたならば、「一条昭良」との関係は当然破綻し、幕府による「朝廷懐柔計画」も空中分解するわけです。

つまり「塩川八右衛門」はこの時一瞬だけ「日本史の中央ステージ上」に立ったのです。もっとも、彼が“拷問死”していたならば、映画「沈黙」にも登場出来て「世界のシオカワ」になったかもしれませんが…。

そして、これらは結局、彼の伯母(「妹」)が「池田家」と「一条家」の双方に嫁いでいたことが大きな要因だったでしょう。(表題は山田洋二監督の松竹映画から。偶然ながら“カトリック”が関連しています)

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(*補注3)

連載第3回において、塩川源助が元和八(1622)年に「岡山」で病死としたのは、「鳥取」の間違いでしたが、矢島浩(ゆたか)氏が「岡山キリシタン類族帳の研究」(1974)で紹介された、貞享五(1688)年の「備前国キリシタン并類族死人帳」においては「右(キリシタンとして告発された塩川)八右衛門伯父 一 塩川源助 此者元和八(1622)年戌ノ七月四十八歳ニテ病死 宗旨浄土 京都百万遍之寺二而(にて)葬申候」とあるので、彼は京で客死(?)したのか、「百万遍知恩寺」(「知恩院」ではない)に葬られたようです。なお、その没年齢から源助は「天正三(1575)年生まれ」ということが判ります。となると、彼の家譜「塩川搾?奉公書」中の「信長公御他界以後 源助四歳ニ而 在所罷出 京都二浪人仕居申」における、不思議な「四歳」という記載は、「十四歳の脱字」であったことが判明し、彼が「在所を罷り出」た年は、まさに「高代寺日記」の記した「天正十六(1588)年の塩川氏廃絶」の年と符合しています。

[池田光政と一条家との腐れ縁、そしてクーデターにも…]

ともあれ「輝子」の婚礼は、一応「将軍・家光の娘」という建前なので、当初は池田光政も、一条家に構うなと釘を差されて接触を遠慮していましたが(池田光政日記)、徳川家光はこの婚礼後わずか1年半後に薨去するので気兼ねもなくなり、結局池田光政が「一条教輔」の事実上の「舅」として、参勤交代の途中には“愛娘”に会うべく一条家に立ち寄るようになり、もはや腐れ縁というか、財政傾く一条家を経済援助するハメとなりました。

加えてこの後、一条家は隠居した恵観(昭良)と教輔の父子が、家督と主導権、財産分与をめぐって確執を呈しており、池田光政は「天樹院」の協力を得て「息子夫婦」である教輔・輝子サイドをバックアップ。万治三(1660)年には、今や浪費著しい「老害」と化した大御所・恵観をなんと、一条家の「家政」から閉め出すという「クーデター」に成功しました。

一条家の本流は、教輔の子「弁君(のち冬経)」が継ぐこととなり、恵観の晩年の子「二郎君(のち冬基)」は後に「醍醐家」として分家される結果となりました。(松澤克行氏「あるプリンスの晩年 一条昭良置文案」(日本古書通信881)、及び同氏「茶道宗偏流不審庵所蔵「冬経卿記」」(東京大学史料編纂所紀要・2013)。なお、前者の情報は眞田憲氏よりご教示頂きました。)

そんなわけで、現在鎌倉市にある優雅な「一条恵観山荘」は、晩年の一条昭良が本家から、言わば「放逐された西賀茂の別宅」であり、備前領内の財政改革に邁進する池田光政にとっては「顔をしかめた」金食い虫的な存在だったでしょう。

ともあれ、当「塩ゴカ」としましては、かつて塩川浪人を援助してくれた一条昭良には感謝の念を捧げたいと思います。そして京都を訪れるなどの際は、是非一条家の塔頭、「東福寺・芬陀院(ふんだいん)」にもお参り下さい。昭和44(1969)年に再現された恵観の茶室があり、彼の木造が訪問客を迎えてくれます。

[備前・池田家と一条家の縁戚関係は幕末まで続いた]

宝永二(1702)年九月十日、一条教輔と輝子(通姫・靖巌院)の子、冬経(弁君、内房)が両親に先立っで薨去します。

「宝永二年 乙酉 一條前関白様薨去ニ付 御焼香御名代御使者被仰付 十月六日着京 同十三日帰岡」。

これは「諸士勤書摘録」(岡山・池田家文書)中の「池田佐兵衛」に関する記事です。「佐兵衛」は「池田元信」の孫で、要するに「妹」から見て「曾孫」にあたります。

一条冬経の薨去に際して、備前・池田家の「名代」として、藤原姓を拝受した「池田・美作」家の佐兵衛が、京・一条家に「お悔やみ」を述べに出向いているのです。葬儀は東福寺(下段画像右)で執り行われたものと思われます。「妹」のかつての一条内基との“縁”が、こうして備前・池田家の中で生きていました。

「備前・池田家」と「一条家」との不思議な縁戚関係は、元助未亡人・「妹」の再嫁に始まり、塩川八右衛門、一条昭良、徳川家光の3者を「触媒」として一気に結束を強め、結局幕末まで継続したのです。

③「妹」の墓は備前に搬送された?

[妙心寺「護国院」は既に存在しない]

さて、話を再び京・妙心寺境内の“池田家の墓所”に戻しましょう。

冒頭でも少し触れましたが、「妹」(塩川長満娘)や、彼女の息子「池田元信」が葬られたという塔頭、「護国院」(「備前池田家譜」、「由之・由成系譜」)は現在存在しません。「護国院」は慶安元(1648)年、失火のために焼失してしまい、その後再建されませんでした。

こういった知見は平成13(2001)年、最初に岡山大学附属図書館を訪れた時に知りました。当時、姉「寿々」の墓には大津市坂本の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)でご対面出来たのですが、「妹」の墓の方は、妙心寺境内が広大である上に、“非公開”の塔頭も多く、もはや今生では見ることが出来ないだろう、と漠然と諦めていて、特にこの件で動いたりはしませんでした。

「護国院」焼亡から140年後の寛政年間(1789-1800)に、岡山藩士「斎藤一興」が執筆した「池田履歴略記」には「護国院」の跡地について「国清公(輝政)興国公(利隆)の御墓地の跡は今も石を以作之其寺内に存せるなり」とあるので、更地状態で、石碑などがあったのでしょう。また、川上弧山の「増補・妙心寺史」によれば、「護国院」の旧地は「大心院の北 東林院の西」とあるので、現在の妙心寺境内の東南部、(山名禅高が眠る)「東林院」の西~北西に隣接する竹薮や墓地のあたりであったと思われます(下段画像中央下の竹薮。今回「福寿院」様のご協力で初めて見ることが出来ました)。

[鳥取城時代の池田光政が創設した塔頭「天球院」]

なお、妙心寺には境内の北西角にもうひとつ、寛永八(1631)年に当時、鳥取→岡山に移封直前であった若き「池田光政」によって塔頭「天球院」が設立され、これは現在に至っています(境内は特別拝観日以外非公開)。

「天球院」とは池田恒興の娘の法名で、彼女は光政の「祖父(輝政)の妹」にあたり、かつての摂津・三田城主であった「山崎家盛」の元夫人です。彼女は晩年、実家に戻って鳥取城の「天球丸」(“球形”の「巻石垣」で知られるのは偶然?)に住んだと言われ、鳥取城時代の幼い池田光政を政治的に支援し、最終的に、(岡山に居た)徳川氏系の池田光仲が「因幡・鳥取城主」に、(鳥取に居た)中川氏系の池田光政が「備前・岡山城主」に落ち着いたのは、彼女のサポートの賜物であったらしく、池田光政はこれを感謝して彼女の為に一塔頭を設けたのでした(増補・妙心寺史)。なお上記「護国院」が廃絶したのち、鳥取、岡山の「両・池田家」と「妙心寺」との関係は、正式にはこの「天球院」とのみになるようです。

さて、「妹」(慈光院)や「池田元信」の墓の所在については、2001年頃に「天球院」に電話で問い合わせたりしましたが、やはり無いとのことで、私は彼らの墓石は、何処かに人知れず無縁仏となって埋もれているのだろう、とずっと思っていました。

なお偶然、かつ余談ながら、この「天球院」境内は、8世紀末の「平安京プラン」の、まさに「北西角」(右京北辺四坊五町・八町)に位置しています。(最末尾の補注参照)

[新星 “池田光政”の登場]

しかしながら冒頭でも触れたように、数年前から私は「護国院」廃絶時に「妹」や「池田元信」を含めた池田家の墓石や遺骨の類は悉く、岡山藩主「池田光政」の指示によって備前の国に移されてしまったのだろう、と思い直すようになっていました。その大筋を早急に知りたいと思う方は取りあえず「和意谷池田家墓所」(国指定史跡)で検索してみて下さい。

「池田光政」は、江戸時代前期の岡山藩を藩政改革した「名君」として、歴史の教科書にも登場する巨人です。光政に関しては既に「薮井八右衛門の仕官」、「池田元信の仕官」、「塩川八右衛門のキリシタン疑惑事件」、「京・一条家との縁戚関係構築」、及び「妙心寺塔頭「天球院」の創設」と、計五回もご登場いただいていますが、今六たび「護国院廃絶→和意谷墓所創設事件」というククリでご登場頂かなくてはなりません。

なお私は個人的に、「塩川八右衛門事件」、「一条家縁戚事件」、「護国院廃絶事件」の3つを、池田光政における「塩川がらみ3大事件」と呼んでいます。

つまり、この「護国院廃絶→和意谷墓所創設事件」においても、光政の「塩川系の家臣」が重要な役割を担っているということで、このあたりの説明がスルー出来ず、本稿がかように膨らんでしまった(いつものことですが…)要因となりました。

なお、「池田光政」という、この江戸前期の超エネルギッシュかつ、特殊な偉人についてはとても書ききれませんが、出来れば皆様各自で色々お調べ頂いて、その「本質」を感じて頂ければ幸いです。書籍としては、吉川人物叢書の「池田光政」(谷口澄夫・1961)は多くの自治体図書館に備わっていますし、近年では倉地克直氏の「池田光政 –学問者として仁政行もなく候へば-」(ミネルヴァ日本評伝選2012)がお勧めです。倉地氏の副題から窺えるように、光政は陽明学の思想家でもあり、しかも積極的な実践者でした。

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なお、光政による領内の「教育行政」を象徴する存在が「閑谷(しずたに)学校」(特別史跡、国宝)です。上記「和意谷池田家墓所」と共に、出来れば“画像検索”してみて下さい。備前焼の屋根瓦なんか、ちょっとインパクトあります。そして「和意谷」同様、どこか“桃源郷”めいています。こうしたヴィジュアルには、言葉では言い表せない本質が含まれていると思います。

なお「閑谷学校」の創設にも、塩川長満の孫「塩川源五左衛門」が中間管理職くらいで関わっています(吉備温故秘録)。

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また光政自身、大名でありながら詳細な自筆の日記を書き残しており、これは「池田光政日記」として「国書刊行会」から翻刻されています(藤井駿、水野恭一郎、谷口澄夫編・1983)。近隣では吹田市の中央図書館にもあります。ほかにネット上では「和意谷 儒教 池田家墓所」で検索ヒットする「ごちゃごちゃサイト from okayama」さんのページにも、光政の心理や行動が詳述されています。

また池田光政は、その名から判るように、将軍「徳川家光」の時代を生きた人物でもありました。彼の妻、「勝子」の実母は「天樹院」こと「千姫」(秀忠と江の娘)であり、徳川家光は天樹院の弟であったことは、上記「一条家との縁戚」の項で触れました。池田光政は、積極的に岡山に「東照宮」を勧請するなど、幕府役人が「そこまでされなくても…」とドン引きするくらいの「幕府忠誠派」といった側面もありますが、財政改革、宗教改革に関しては積極的に自説を意見し、実践、衝突も厭わぬ「熱い男」であったようです。一方彼の「日記」からは、彼の“冷静なリアリスト”としての観察眼も窺え、その「肖像画」からも判るように、「新太郎」さん(池田光政の通称)は明晰でありながらも、人間味も溢れる、魅力的な人物だったのでしょう。もっとも、変化を好まない配下達には困った主君であったと思われ、その嫡男「綱政」とさえも、確執があったようです。光政の下で実務を担当した「仕置家老」の「池田出羽守由成」なども、引退後は光政に反発的であった模様です(三百藩家臣人名辞典)。

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[「池田由之・由成系(出羽守)おさらい」]

ここでちょっと「おさらい」です。「荒木略記」において「壱人(塩川長満の娘「妹」)は 池田三左衛門殿(輝政)之兄 庄九朗(元助)室にて御座候 池田出羽守継母(ままはは)にて御座候」と記された「池田出羽守」とは、池田元助の最初の正室「伊勢貞良の娘」の嫡男で、のち播磨・利神城~備前下津井城主となった「池田由之」のことです。そして、「荒木略記」の作成された寛永十八年頃における「池田出羽守」とは、池田光政の下で、伯耆・米子城代を務め、光政の備前・岡山移封後には光政の「仕置家老」を務め、備前・天城陣屋を宛がわれた二代目「池田由成」のことが意識されています。なお「池田由之」は父、池田元助が「小牧・長久手」に戦死した時は、わずか八歳でした。由之が成人していたなら、池田輝政ではなく、彼が岐阜城主として家督を継いでいた可能性もあったでしょう(腹違いの弟「元信」については、既に触れましたが、元助の戦死時はまだ「妹」のお腹の中でした)。光政と由成の“主従関係の微妙さ”がお分かり頂けるかと思います。

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さて、火災で全焼した妙心寺「護国院」が何故廃絶されたのか?。理由はともかく、元々は仏教寺院に帰依し、妙心寺においては塔頭「天球院」の創設者として知られる池田光政ですが、この「護国院」焼失事件を契機に、彼は陽明学者「熊沢蕃山」を重用していくなど、急激に儒学へ傾倒してゆき、それと反比例に、領内の仏教寺院とは反目を深め、やがて「寺院淘汰」、「神社整理」といった仕分けや、「キリシタン神道請」(寺請け制度ではなく)といった政策を断行し、仏教勢力と敵対する存在となりました。こうした、彼の有名な側面は、「護国院焼失事件」が転換点となって顕在化したようです(倉地克直氏前褐書)。こうした「光政の異常なまでの儒道尊信は、反面において、出世間主義の仏教に対する厳しい批判となって現れた」(谷口澄夫「池田光政」(吉川人物叢書・1961))という彼の後半生における「廃仏興儒」政策は、二百数十年後の「廃仏稀釈」に少し似ています。

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(脱線コラム:中川清秀の“顔”)

さる1月18日、俳優の「宍戸錠」さんが亡くなられました。ここで余談、と言うと不謹慎かもしれませんが、すこし話題を「摂津衆」に絡めて脱線したいと思います。

池田光政がかつての摂津衆、茨木城主だった「中川清秀の曾孫」にあたることはあまり知られていません。光政の祖父、池田輝政(当時「照政」・兵庫城主か)は最初、中川清秀の娘「糸姫」を正室として娶っていたのでした。おそらくその婚礼の時期は、輝政の長男「利隆」が天正十二(1584)年に美濃・岐阜城で生まれている(寛永諸家系)ことから、まさに塩川長満の娘(妹)が池田元助に嫁いだのと同時期、天正八年から十年の間と思われ、この婚姻は、荒木村重滅亡後における(当然ながら「人質」をも兼ねた)“織田家側(池田氏)”と摂津衆との結束を高めるという意図があったでしょう。

なお、「摂津から嫁ぐ」→「美濃・岐阜城で子供が生まれる」というパターンは、

①「寿々」(徳寿院)と織田信忠→織田秀信(三法師)が生まれる

②「「妹」(慈光院)と池田元助→池田元信が生まれる

③「糸姫」(中川清秀の娘・高照院)と池田照政→池田利隆が生まれる

という三者が不思議にシンクロしています。

(そして繰り返しになりますが、天正期・岐阜城におけるこれら3名の「正室」の「実家の家紋」には、いずれも「牡丹」が意匠として使われている点、つまり彼女たちの「女紋」であった可能性を、「濃姫の金箔瓦」にされてしまいそうな「逆風」の中で強調したいと思います。)

ところで「中川清秀」は、茨木・梅林寺に有名な肖像画が残されていますが、私は「中川清秀の顔」といえば、どうしても小学校以来、この肖像画よりも「宍戸錠さんの顔」が優先されて浮かんでしまいます。というのは、最初に戦国時代にハマった小6の時に放映されていたテレビドラマ、「新書太閤記」(NET・1973、主演:山口崇)における宍戸さんの配役がまさに「中川清兵衛清秀」だったからです。やはり子供時代の“第一印象”というのは強烈です。しかも宍戸さんは、同時期に放映されていたNHK大河ドラマ、「国盗り物語」では「柴田勝家」の役もやられていて、こちらの“髭面”も存在感抜群でした。つまり、私は今だにこの両人共「宍戸錠の顔」で浮かんでしまうのです。

そして中川清秀といえばご存知のとおり、賤ヶ岳の前哨戦「大岩山の戦い」で「柴田勝家軍」と戦って戦死するわけで、「新書太閤記」では、「中川清秀の首実検をする柴田勝家」のシーンもありました。「新書~」における柴田勝家役は「小池朝雄」さんがやられていましたが、小学生には“宍戸錠勝家”ほどの存在感が感じられず、なんか宍戸錠が宍戸錠の「首実検」をしたようなヘンな後味が残りました。なお小池朝雄さんはこの翌年、「刑事コロンボの声」として大ブレークするので、それ以降であれば“小池コロンボ勝家”として印象付けられたかもしれませんが。

しかも、このシーンでの「中川清秀の首」はハリボテではなく、宍戸さん自身が「眠るような表情で」演じられていたのです。これも子供心に、どう見ても「生首」には見えず、明らかに(よく手品でやるように)台の下から首だけ出している、のが感じられ、1歩間違えたら「ゲバゲバ」になりそうな緊張感をもはらんでいました。そう、私にとって「中川清秀の顔」とは、この時の「宍戸さんの眠るような表情」が47年間網膜に焼き付けられているのです。多分死ぬまで。

安らかなご冥福をお祈りいたします。(宍戸さんは本当に「摂津国」のお生まれだったようです。)

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[慶安元(1648)年、「護国院」火災により全焼]

さて、妙心寺「護国院」の焼亡に関しては「池田家履歴略記」が「慶安元(1648)年失火にて堂塔はいふに及す御位牌等も皆焼失せり されは御位牌は送られ妙心塔中桂昌院に預られぬ」と伝えています。岡山の池田光政も衝撃を受けたでしょう。

なおこの時期の光政は、上述したごとく、4年前(寛永二十一年)から例の「塩川八右衛門」(一条昭良による斡旋で仕官)及びその母親、妹を含む家臣や領民に関する「キリシタン疑惑」を幕府の「井上筑後守」(イッセー・尾形さんのヒト)から追求されており、同時に幕府からは翌年婚礼予定の「“徳川養女”として一条教輔へ嫁がせる娘「輝子」の指し出し」を要請されていました。言わば二つの「一条家関連問題」に追われる上に、さらに「京」に関する問題を突きつけられた、という状態でした。

ところで、上記文中における、池田家の位牌を預かった妙心寺「桂昌院」とはいったい何なのでしょう。実は妙心寺には「護国院」「天球院」以外に、池田家に関係するもうひとつの塔頭があったのです。

[「養徳院(大ち様)」の菩提を弔った「桂昌院」]

「桂昌院」は文禄二(1593)年に、当時三河・吉田(豊橋)城主であった「池田輝政」が祖母「養徳院」自身の為に創設した塔頭でした。つまり養徳院による「護国院」創設とほぼ同時期であり、池田家としては最初、妙心寺境内に「この二つの塔頭」を持ったということになります。

蔵知矩編「池田勝入斎信輝公小伝」(池田家岡山事務所(1934)・国立国会図書館コレクション)によると、「養徳院(大ち様)」は「慶長十三年十月十六日、御年九十四にて逝去し給ふ。法名を養徳院盛岳桂昌大姉と申」とあるので、この「桂昌院」という塔頭名の由来は、既に「石川光重」が妙心寺境内に天正十一(1583)年に創設していた「養徳院」という彼女と同名の塔頭があったのでこの名称を避け、彼女の法名の後半から採られたのでしょう。また、九十四歳まで生きた養徳院は足掛け16年間もこの「桂昌院」で余生を過ごしたことになります。そしてWikipediaの「養徳院」の項には、「岡山市国清寺所蔵」とある彼女の“生けるが如き木像”が掲載されていますが、これはもともと「桂昌院」にあったもののようです。

そして「護国院」の火災時の「堂塔はいふに及す御位牌等も皆焼失せり されは御位牌は送られ妙心塔中桂昌院に預られぬ」(池田家履歴略記)という記述から、「桂昌院」の場所は不明(後述)ながらも、「護国院」から一定の距離をおいた(火災を受けていないので)境内の何処かに健在で、また、「護国院」の焼失直後であるこの時点においては、池田光政にまだ「護国院再興」の意思があり、そのために取りあえず岡山から新しい位牌を妙心寺「桂昌院」に送って預けた、ということがわかります。

[光政と「護国院」が決裂→廃絶決定]

この後、池田光政と「護国院」との関係が決裂して同院の「廃絶」が決定される経緯については、池田文庫における複数の文書や寛政期に編纂された「池田履歴略記」の「護国院住僧請再興」の項に記されており、それらは倉地克直氏の「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」(岡山地方史研究122・2010)や、同氏の「池田光政 –学問者として仁政行もなく候へば-」(ミネルヴァ出版)にまとめられています。

手短にダイジェストさせて頂くと、火災は慶安元(1648)年のことでしたが、その後「護国院」住僧の「大用」から池田家に再興願いが出されたので、6年後の承応三(1654)年に池田家側で火災時の状況を調査すると、火災の「其日住僧大用をはしめ 寺内残不く打つれて遊山と出ける跡にて火おこりしかは御位牌まて焼亡しけるにそありける 此旨烈公(光政)聞しめて 頓て(やがて)大用をは追放せらる 再興の儀もとゝめられぬ」(池田履歴略記)という事態となったということです。火災当日は塔頭の全員が「物見遊山」に出かけていて留守番も置かなかったので「位牌の救出」すら出来なかったうえ、「護国院」側が池田家に無断で再興に動いたことも光政の逆鱗に触れたようです。

さらに12年後の寛文六(1666)年「護国院の観首座が岡山に来て再興を願った。「廃仏興儒」の方向に大きく楫を切っていた光政は、これを機に同寺に納めてある先祖の遺骸を回収することにした」(倉地克直「池田光政」)。こうして“仏教と決別した儒教式”の「和意谷敦土(あづち)山墓所」(岡山県備前市)を造営すべく、あらたな改葬事業が始まったのです。

[遺骨、墓石の回収担当奉行は、なんと「池田美作守信成」]

「和意谷池田家墓所」の敷地の選定や、のちの墓地の造営事業には「津田重次郎永忠」という藩士が奉行したことが知られていますが、その“前段階”として「護国院」の墓地から遺骨、および墓石を回収、整理し、無事に備前国まで陸路、水路を用いて送り届けるという工程があり、こちらの奉行としては「池田美作守信成」と「稲川十郎右衛門」の両名が任命されました。

池田信成は、既に何度か名前が出ていますが、「池田美作守」家の二代目で池田元信の子、要するに「妹」の孫です。

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(脱線コラム:両「池田元助」系の“交わり”)

実はこの二代目「美作」こと「池田信成」は、池田光政の「仕置家老」でもあった「池田出羽守由成」の娘を娶っています(池田由之・由成系譜)。「成」の字は「由成」からの拝受でしょう。そしてここに、天正以来の池田元助の「伊勢氏系(出羽守)」と「塩川氏系(美作守)」の血が、再び一体となったというわけです。めでたしめでたしであります。なお、妻の名は「夏子」でした。彼女が「燃えろいい女」だったのかどうかは定かではありません。←(どうか許して下さい)

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さて、「池田履歴略記」にはこの遺骨回収事業を「此度烈公(光政)みつから其趣を書給ひて美作江渡し給ふ 左に記す」として、以下十五箇条にわたる回収の手順、マニュアルが詳細に書き写されています。ここから二人の行動がいかなるものだったが凡そ判るばかりではなく、池田信成がこのミッションの「筆頭奉行」だということも判り、和意谷墓所創設にも、光政の「塩川系の家臣」が重要な役割を担っている、と申し上げたのはこのことだったのです。

以下「池田勝造奉公書」、「諸士勤務摘録」、「家中諸士家譜五音寄」から、池田信成は鳥取生まれ。父「元信」が寛永七(1630)年に亡くなって家督(「番頭」・高三千石)を継いだ時は「六歳」でしたから、この遺骨回収時である寛文六(1666)年では四十二歳でした。

もう一人の奉行「稲川十郎右衛門」は「城代近習」「御内証方」で「高三百石」(諸士五音寄)とあり、この遺骨回収時はなんと七十一歳でしたから、こちらは「頼りになる経験豊富なタタキあげ」といったところでしょうか。

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(コラム:池田信成と塩川八右衛門)

池田信成の経歴でちょっと気になるのが、備前領内の港「牛窓」で正保四(1647)年九月二十日~十月三日迄。及び「下津井」で翌、慶安元(1648)年十月五日~十一月八日迄、領内を通過する「井上筑後殿御通之節、御馳走ニ被遣候」とあることです(家譜五音寄)。

「井上筑後殿」とは、例のイッセー・尾形さんが映画「沈黙 サイレンス」で演じた、大目付・宗門改役の「井上筑後守政重」のことです。なお正保四年の七月~八月、井上筑後守は長崎に来航した不審な「ポルトガル使節船」を調査、視察している(松竹秀雄「徳川時代の長崎警備と正保四年(1647)のポルトガル使節船事件」・長崎大学)ので、前者の「牛窓」寄港は江戸への帰還途中だったのでしょう。ともあれ、池田信成にとっては緊張感を伴なう接待だったと思われます。これは停泊期間の長さから、備前国内におけるキリシタンの取り調べやその情報交換も兼ねていたと思われ、何よりも今、彼の親戚「塩川八右衛門」が、3年前から「井上筑後守」によってキリシタンとして告発されて拘束取り調べ中なのです(尾山茂樹「備前キリシタン史」)。なおこの24年後、池田信成は自宅の「座敷牢」に塩川八右衛門を預かることになります。そして塩川八右衛門は結局「軟禁状態」のまま、信成(延宝二(1674)年五十歳で没)よりも長生きし、彼の身柄は子の「池田佐兵衛」(一条冬経のお悔やみに派遣された武士)が引継ぎ、天和三(1683)年、七十一歳で亡くなります(塩川文八郎奉公書)。尾山茂樹氏によれば「実に三十九年間、一生の半分以上を籠獄で生活したのである」(備前キリシタン史)とのことです。

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[遺骨及び墓石搬出の経緯]

さて、「護国院」の搬出作業の話に戻りましょう。

「諸士五音寄」では、池田信成は「寛文六(1666)年午京妙心寺江御使ニ被遣候、十二月二日ニ致出船、同二十七日ニ罷帰候」とあるので、備前から往復26日間の任務でした。

同記の「稲川十郎右衛門」の項には、幾分詳細に「寛文六年十二月三日ニ、京都妙心寺御墓之義ニ付、池田美作一所ニ御使ニ罷登候、京都ニ而 牧野佐渡殿御内 梶田杢迠内意窺候得ハ、別状有之間敷候、若坊主共何とそ申候者 御心得被成候御内意ニ付、則妙心寺江参、光林(香林)へ申談、輝政様 武州様(利隆)奉取御骨、海陸無恙(つつがなく) 同月廿六日ニ片上江御着船、明ル廿七日 八木山御宮江供奉奉仕候、御一門方御骨・御石塔も一所ニ片上へ御着船ニ御座候、以上」 とあります。

「牧野佐渡」は京都所司代の「牧野親成(ちかしげ)」。「光林」(香林)は「桂昌院」の住職。「片上」は備前東部(現・備前市)の港で、「備前焼」の搬出港として知られています。文中から、池田光政の直系にあたる「池田輝政」と「利隆」の遺骨だけをまず「八木山御宮」(現・鏡石神社)に奉納することが「最優先の任務」であったことがわかります。

さて私としましては、着目すべき事はむしろ「御一門方御骨・御石塔も一所ニ」の方であり、この記述から、「池田元助の妻」(「妹」)と「池田元信」の遺骨、墓石も一緒に備前・片上まで搬送されたのだろう、と判断してしまいました。なにしろ、担当奉行が元信の子、池田信成自身であったわけですから、父や祖母の分を京に置き去りにするはずはない、と思ったのです。

ともあれ、池田信成、稲川十郎右衛門両名としては、ここまでの任務であり、翌、寛文七~九(1667-69)年にかけての和意谷墓所造営に関しては、上記、津田永忠が引き継ぐこととなります。

[搬出時の詳細、及び「実際」は?]

現在この遺骨・墓石の回収過程が、ネット上などにおいても比較的詳細に語られたりするのは、寛政期の「斎藤一興」が「池田履歴略記」において「烈公(光政)みつから其趣を書給ひて美作江渡し給ふ」十五箇条にわたる回収の「覚書」(指示書)を書き写してくれているからです。

この「覚書」は詳細に練られており、池田光政が実務に臨む際の、「事前の計画性の高さ」を窺えるものです。以下、ダイジェストさせていただくと、

* 一~二条は、今回の「護国院」の廃絶に伴なう遺骨、墓石の撤収行為をまず京都所司代に申請、その承諾を得よとの趣旨で、これは稲川十郎右衛門の担当としています。

* 三~六条は塔頭「桂昌院」の住職「香林」への報告、相談に関するもので、特に六条においては、香林から「妙心寺方丈 并 役者」(妙心寺本部)へ、寺地の返還と「護国院」の寺号停止の申し入れをさせるように指示しています。(「天球院」は全く登場しません)

以後、十四条までは、具体的な作業工程に関する指示が並び、

* 七条は、両奉行とも「上下(かみしも)」を着用し、美作(池田信成)は焼香すること。

* 八条は(高位の者と思われる)火葬された骨壷に関するもので、壷はそれぞれ箱に入れて名前を記し、輝政と利隆の分はひとつの半櫃(はんびつ)に入れ、それ以外の分は残らず一つの半櫃に入れて守ること。半櫃とは、厳重な鍵付で金物を多用した金庫に似た木箱です。

* 九条は最も困難と予測される(下位の)「土葬之分」の回収指示で、やや長めです。なるべく桶ごと、形を崩さずに回収せよという趣旨で、とりあえず板に載せて(?)仮の箱として「釘付」するか、別の(?)桶に入れるかして、目立たないように「莚包」して回収せよということです。

* 十条は、伏見港までの陸路においては半櫃を護持する者も「普通の旅立ちの躰」を装い、さりげなく目立たぬように行動せよとのことです。

* 十一条は墓石類の移動に関する指示で、石塔(五輪塔、宝篋印塔)は(そのまま立てた状態で)上を莚で覆い、卵塔(無縫塔、丸みを帯びている)は崩して(分割、寝かせて)、これらは車で伏見港まで運ぶこと(そこから大坂までは舟で淀川を下るわけです)。

* 十二条は「御関船へは於京都認候躰ニ而 直(すぐ)に移可申事」。関船とは大坂に停泊中の藩の御座船のことで、今回は遺骨類を乗船させます。幕府には京都所司代に許可を得る予定だから、大坂で再び乗船許可を覗う必要はない、という意味だと思われます。

* 十三条は、石塔、卵塔の方は「荷舟」に積み、大坂からは関船と同時に出港せよ、航海中は関船に遅れをとっても構わない、とあります。「荷舟」とは、基本構造的には一般の「弁財(べざい)船」のことと思われます。当然ながら、墓石は重たい上に喫水も沈んで船足が遅くなることを考慮しています。

* 十四条は「大坂迄御着之刻 御出船の左右(様子)注進可仕候事」。これは、海上交通は何が起こるかわからないので、大坂で出港を見届けたら、陸路で状況を報告せよ、という意味でしょう。

* 十五条「何幾(?) 片上江着船可仕候事」。なんとしてでも(?)片上港まではたどり着け、ということでしょうか。

以上のように詳細で、あたかも回収の光景が目に浮かぶようです。しかし注意しなければならないのは、この「覚書」はあくまで「事前における指示書」であるという点です。

[搬出後の妙心寺]

こうした経緯を経て、倉地克直氏の「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」(岡山地方史研究122・2010)には 「妙心寺では住僧が護国院の跡地に自身で一寺を建立し、盛岳院と号した。この寺と池田家が関係を持つことは、一切なかった」 とその末尾で締めくくられていたので、私は

* 「盛岳院」は「護国院」の跡地に創設されたが、「池田家とは無関係」の塔頭であり、その後いつしか廃絶された。

* 「桂昌院」(位置不明)には「養徳院」の墓があり、池田家の新しい位牌も預かっていたが、いつしか岡山・国清寺に移され、廃絶した。(廃絶時の状況は不明)

* 鳥取、岡山の両「池田家」と妙心寺との関係は、これ以降「天球院」のみが継続して現代に至る。

という認識でいました。

[「妹」の墓石を捜し求めて…]

それでは「備前に運ばれたはず」である「妹」や「元信」らの墓や遺骨は今何処にあるのでしょう?。

少なくとも、「和意谷池田家墓所」には「池田恒興」や「池田元助」とその「妻」(「妹」)、「池田元信」の墓などが無いことだけは判っていました。池田光政としても、ひとまず自分の直系の祖父(輝政)と父(利隆)を、仏教から切り離して儒式で改葬したかっただけで、それを他者には強制していません(倉地克直「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」)。

つまり、他の多くの池田家縁者は、「備前の仏教寺院」に改葬されたのであろう、と思われました。

そして「由之・由成系譜」の「元信」の項の末尾にはちゃんと、「位牌岡山国清寺。子孫別ニアリ」とあるではありませんか!。となれば、回収奉行「池田信成」が父(元信)と、祖母(妹)の墓を、自らの菩提寺である岡山城下の「国清寺」に移した可能性が高いでしょう。

広大なうえに非公開の塔頭の多い「妙心寺」境内とは違って、国清寺の境内であれば「妹」たちの墓石をなんとか捜し当てられるのではないか、という新たな希望が湧いてきました。

加えてWikipediaの「養徳院」に掲載されている晩年の彼女の木像も「岡山国清寺所蔵」とあるではありませんか。この木像については、蔵知矩編「池田勝入斎信輝公小伝」(1934)には「京都妙心寺塔頭護國院に、白き帽子を冠らせ給へる御かたちの木像を納めありしが、後年護國院焼失の為、盛岳院に納め、故ありて更に之を移して岡山國清寺に安んじ現今に及べり」とあって、彼女に関しては、どうやら妙心寺「盛岳院」というワンクッションを経て、最終的にこの国清寺に「合流」したものと思われました。(なお、「国清寺」という寺院自体も、実は独自の複雑な変遷、移転を経ています。)

「国清寺」さんには2018年の10月30日に訪れました。事前に電話で墓の事を問い合わせましたがやはり不明とのことで、結局境内において墓石は確認出来ませんでした。

なお余談ながら国清寺は、岡山城下の東を南流する「旭川」の「川東の橋頭堡」とも呼べる位置にあり、しかも山陽道の「折れ」の背後に潜むように占位していて、私はなぜか戦争映画「遠すぎた橋」を思い出してしまいました。

[岡山駅北の「岡山空襲展示室」で気づく]

いったん岡山駅に戻り、駅の北に隣接する「岡山シティミュージアム」の「岡山空襲展示室」を訪れてみました(無料)。ここはとても質、量共に高い展示内容なのに、私の来訪時には他の見学者が殆んどおらず、とても残念な気がしました。

そして壁に引き伸ばされた大きな空中写真を見て私は今更ながら気付きました。岡山城天守をも失った、昭和20年6月29日未明の「岡山大空襲」によって、岡山市の旧市街地はほぼ壊滅。確実な死者だけで1737人とあり、国清寺もまた、本堂を含む、境内の北半分を焼失していたのです(下段画像左下はパンフレット「1945年6月29日 岡山市空襲の記憶(米国国立公文書館蔵、工藤洋三氏提供)」から)。国清寺の南門は古いままでしたので気が付きませんでした。

この空襲で国清寺にあった「過去帳」や「位牌」、そして「養徳院木像」なども失われました。それで「本堂」がコンクリート製の新しい造りだったのか…。それでWikipediaの「養徳院木像」は「モノクロ写真」だったのか…、と今更ながら合点がいきました。「遠すぎた橋」どころではなかったのです。そういえば境内においては表面がボロボロ剥落して文字が読めない墓石が結構あったのは、焼夷弾で焼かれたせいでもあったのかもしれず、もはや「妹」の墓の確認も不可能であるように思われました。天寿をまっとうした養徳院の像も、「護国院」の火災時には無事だったのに、岡山まで来て焼失するなんて不思議な運命です。“この世界”は全てが関連し合っているというか…。

なお、この岡山大空襲の下で逃げ惑っていた一人が、後年映画「火垂るの墓」を手がけた、少年時代の「高畑勲」氏でした。この時の空襲体験が、映画における「神戸空襲の焼夷弾の描写」に再現されました(DVD所収のインタビュー)。なお、この「神戸空襲」時のB-29は、投弾の2分40秒後に「山下上空」を通過、目撃されたことは、当連載の番外編⑤においても触れています。

[池田恒興・元助父子の墓は備前・天城「池田出羽守」家が引き取った?]

この日少し時間が余ったので、墓石の手掛かりが掴めなかった私は、念のために倉敷市「天城」にも出向いてみました。それというのも、倉地克直氏の「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」において、池田光政が「護国院」廃絶後の「池田恒興」の遺骨の扱いに関して

「勝入様(恒興)之宗領ハ紀伊守殿(元助)ニ而御座候、其敵(ママ)伝ハ 池田出羽(由成)ニ而候ヘハ、若(もし)勝入様御骨御座候者、出羽方へ引取 可然候半与(しかるべくそうらわんと)存候事」

と打診していたことが紹介されていたからです。要するに、池田光政が仕置家老の「池田出羽守由成」(元助の孫)に対して、「恒興→元助と続く惣領の家系はそなただから、恒興の遺骨があれば、引き取るべきだろう。」と記しているのです。

私はこの記述から、池田恒興・元助父子の墓と、ひょっとしたら元助の妻であった「妹」(慈光院)の墓も含めて、池田出羽守家の陣屋であった「天城」(倉敷市)に移された可能性も一応あるかもしれないと踏んだわけです。そして天城陣屋近くの「池田・出羽守家」歴代藩主墓所や、城下の菩提寺「海禅寺」の、結構荒れ果てた墓地を捜しまわってはみたものの、結局確認出来ませんでした。なお海禅寺は「備前・池田家譜」に元助の「位牌アリ」と記されていた寺院ですが、すでに無住となっており、位牌の存否は確認出来ていません。

今、冷静に考えてみると、池田由成が父(由之)の「継母」(ままはは、「荒木略記」)であった「妹」の墓を引き取るわけはなく、当日の私は“ワラをも掴む思い”だったのでしょう。今となってはこの無駄足も「思い出深い記憶」として熟成されていますが。

そして今回の連載はここで 「つづく」 と終了するはずだったのです…。

④妙心寺に残されていた池田家の墓たち

[ドンデン返し:突然知った妙心寺「慈雲院」の池田家墓所]

さて、冒頭や画像でも触れたように、結論から申せば「妹」や彼女の息子「池田元信」の墓は、妙心寺境内のさらに別の塔頭「慈雲院」に残されていました。これは本当に本稿「アップ直前の1月11日の晩に、岡山大学附属図書館が公開している、あるPDFファイルを「別件の参考の為に」ダウンロードして突然知ったことでした。PDFファイルとは、やはり倉知克直氏が執筆された「岡山シティミュージアム」で開催された「平成三十年度企画展 池田文庫絵図展 岡山藩と寺社」の展示パンフレットでした。

その中に「美濃龍徳寺及京都各墓所略図書類等」という、「明治20(1887)年に池田家職員(記録方・調度方兼役)三宅貞久が美濃と京都にある池田家ゆかりの寺院に参詣した報告書類」が掲載されており、そのうち「京都妙心寺塔頭天球院・慈雲院境内御墓所之図」という絵図に「池田元信」(元助の子)の墓があることが指摘されていたのです。(ゴーン!)←鐘の音

絵図をよく見ると、「慈雲院」の「共有墓地」内に「柵」で囲った小さな一郭があり、描かれた巨大な五輪塔の上に「池田美作守元信墓」と注記されています。元信は「護国院」(由之・由成系譜)から備前国ではなく、この「慈雲院」に近距離移動しただけだったのか、とガクゼンとしました。そして「柵内」にはもうひとつ、小さな「五輪塔」(というより、“墓”を示す“記号”らしい)が描かれています。と、いうことは、「柵」は「池田美作」家墓所の区画であり、もうひとつの墓石とは、同じく「護国院」に葬られた(備前池田家譜)彼の母親、「慈光院」こと「妹」の墓かと思われました(!)。

なお「共有墓地」内にはこのほか、基壇が設けられた上に「恒利命」と「信輝命」(恒興)と記された比較的小さな「五輪塔?」の墓石が並んで描かれており、共に「戎号アリ」とあります。「池田恒利」(法名は「宗伝」か)の墓の話は初めて知りましたし、「池田恒興」(法名は「護国院」)の墓が妙心寺内に残されていたというのは、私にはものすごく意外でした。

あわててネットで検索してみると、妙心寺「慈雲院」には上記「池田恒興」のほか「養徳院」の墓があることを報じたブログが幾つかありました。(ゴーン!)

「護国院」にあった池田家の墓石や遺骨の悉くが「備前に移された」と思い込んだ私が「岡山シティミュージアム」を含めた岡山~倉敷を訪れたのは、2018年の10月14日、及び29~30日のことで、「岡山シティミュージアム」でこの「岡山藩と寺社」展が開催されたのがその直後の11月3日~18日でした。そういえば確か予告ポスターが貼られていたのは覚えています。まさかこんなストレートに「捜していた答え」を呈示してくれる展示だったとは…。まァ、14ヶ月ばかり遅れたけれども「結果オーライ」ではございます(キリッ!)。ともあれ、この晩は驚きと戸惑いで落ち着かず、かといって“良い知らせ”には違いなく、翌、日曜日の早朝、スクーターを飛ばして妙心寺に向かいました。前回に引き続き、またまた「ドタバタと石捜し」の展開で恐縮です(汗)。

[妙心寺塔頭「慈雲院」とは?]

私はこれまで「慈雲院」(冒頭画像)という存在は、全く意識しておらず、ノーマークの塔頭でした。その境内は妙心寺の南西端、南総門を入ってすぐ、「放生池」の西に位置しています。

荻須純道(じゅんどう)氏と竹貫元勝(げんしょう)氏による「妙心寺」(東洋文化社・1977)によれば、「慈雲院」は大坂の「橘屋新兵衛(一空覚心居士)」が承応二(1653)年に、妙心寺の北門の外に創設した「慈雲庵」が母体で、本来は「備前・池田家」とはゆかりのない塔頭でした。それどころか、「妙心寺寺史」には「大阪橘屋新兵衛は彦根藩井伊家一族の故、由來彦根藩香花寺たり」とありました。う~む…、井伊家の足軽の末裔たる私としては、これもなにかの“下命”かと思われました。

そして同書は「(慈雲院の)山内への移建は明治11(1878)年十一月で、現在地は文禄二(1593)年に池田輝政が宙外を開祖に請うて創建した盛岳院(前身は桂昌院と称している)のあった跡地である。」とありました(!)。つまり「慈雲院」は上記の「御墓所之図」が描かれたわずか8~9年前に移転して来たばかり、ということであり、どうやら墓石だけが寺地に残されていたのを「慈雲院」が引き継いだようなのです。

[「慈雲院」の境内が、「桂昌院」→「盛岳院」の旧地だった]

ここで何よりも重要なのが、現「慈雲院」の境内が「文禄二(1593)年に池田輝政が宙外を開祖に請うて創建した盛岳院(前身は桂昌院と称している)のあった跡地である」と記されていることです。私はこれまで、「護国院」と「天球院」ばかりに気を取られて、この「盛岳院」やその前身であるらしい「桂昌院」の旧地ことをあまり調べていませんでした(ちなみに池田輝政に要請された「宙外」は「桂昌院」の開祖でのようですね)。

というのは、「池田元信」の事跡を記した「由之・由成系譜」(鳥取県立博物館蔵・米子市史所収)に「京都妙心寺中護国院・今盛岳院・ニ葬ル 戒号 本源永徹 位牌岡山国清寺 子孫別ニアリ」と記されていたことから、私は「護国院」の跡地に「盛岳院」という塔頭が創設されたが、「盛岳院」も現在は無いうえに、元信の墓は「護国院」廃絶時に「桂昌院」に預けていた位牌と共に「岡山国清寺」に移された、と解釈していたのです(素直に「墓石は盛岳院に移された」と解釈すれば良かった…)。

倉地克直氏の「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」にも、その末尾に「妙心寺では住僧が護国院の跡地に自身で一寺を建立し、盛岳院と号した。この寺と池田家が関係を持つことは、一切なかった」と記されていて、倉地氏も「護国院」跡地に「盛岳院」が再建されたと解釈されています。

しかし今あらためて、倉地氏の記述の元となった「池田履歴略記」(寛政年間(1789-1800))を見直してみると、

「其後此寺地へ住僧自身一寺を建立し盛岳院と号し今寛政に至れりと云 盛岳院の事 池田家より建立あらされは黙してしるさす」

という記述があり、その冒頭の「其後此寺地へ」とは「護国院の跡地」ではなく「妙心寺境内における、それ以外の場所」を意味していたことがわかります。というのは、同記は続けて

「国清公(輝政)興国公(利隆)の御墓地の跡は今も石を以作之其寺内に存せるなり」

とも記しているので、「護国院跡」は、寛政年間には依然「更地」のままであったからです。そして、これも今更ながら気付いたのですが、養徳院(大ち様)の法名は「養徳院“盛岳”桂昌大姉」(蔵知矩編「池田勝入斎信輝公小伝」)なので、「盛岳」の二文字はここから取られていたわけです。

寺僧側が勝手に再興したという「盛岳院」は、「護国院」ではなく、養徳院の菩提を弔う「桂昌院」の後裔だったわけです。岡山・国清寺で焼失した木像が元「盛岳院」にあった、という経緯も今やっと理解出来ました。

それにしても今となればこの「盛岳院の事 池田家より建立あらされは黙してしるさす」と書かれたフレーズも、なにやらイミシンというか、意味するところが“180°違って”解釈されてしまいます。

要するに「盛岳院には、ココだけの話ですが、池田家ゆかりの墓が結構あるのですが、藩の「非公式」の存在だから「池田履歴略記」には書けないのです私としては…」という、まさに「暗黙」の存在であったことがわかるのです。

[池田綱政時代の「雪溶け」?]

2018年に岡山を訪れる前、岡山市内の「護国山・曹源寺」にも「慈光院」や「池田元信」の墓石の存否について電話で問い合わせたことがありました。電話口に出られたのが、どうやら欧米から来られた若い修行僧の方で、さすがにこの込み入った質問は酷だと諦めました。曹源寺は池田光政の「十七回忌」にあたる元禄十一(1698)年、光政の子「池田綱政」が、池田恒興(護国院)と光政の菩提を弔うために新しく建立した寺院です。この大寺院の建立は、今や世代が交代した備前における言わば“仏教の回帰”の象徴でした。なおこの曹源寺を含め、池田家と関わる寺院の多くは「臨済宗妙心寺派」です。

さて、「ごちゃごちゃサイト from okayama」さんという方の「曹源寺」のページにも、わざわざ「妙心寺との関係修復」という一項が設けられていて、曹源寺建立時の、備前の社会状況がわかり易く解説されています。

また、「この寺(妙心寺・盛岳院)と池田家が関係を持つことは、一切なかった」と記された倉地克直氏も「池田光政」(ミネルヴァ出版)の中で「(池田)綱政は極端な「廃仏興儒」政策にも批判的で、延宝二(1674)年十二月には宗旨請は「勝手次第」との触を出し、キリシタン神職請は事実上放棄された。儒教よりは仏教を尊崇した」と述べられています。なお「光政の菩提」を謳いつつも、曹源寺境内には「和意谷」に眠る「光政の墓」自体はありません。また、目当ての池田恒興、元助の墓石も無さそうでしたので、結局この寺院には未だ訪問せずに至っています。

ともあれ備前・池田家としては、光政の死後、綱政の治世において、妙心寺「盛岳院」とは、関係がやや修復され、「勝手次第」というか、「非公式レベル」においては、結構繋がっていたのではないか?とも推定されます。それではいよいよ、この「盛岳院」跡地の「池田家墓所」を引き継がれた「慈雲院」さんを訪ねてみることにしましょう。

[「慈雲院」境内の池田家墓所]

「慈雲院」様には、突然の私の怪しい訪問に快く対応頂き、この場でお詫びと御礼を申し上げます。「慈雲院」には結局3度ほど伺いました。(下段画像)

さて、その墓地は、上記「明治時代の絵図」に描かれた如く、境内の西部、「妙心寺通」の築地塀を挟んだすぐ北側に位置しています。おそらく「桂昌院」時代の基本的な配置が踏襲されているのでしょう。現在墓地の南東寄りに、塀で囲われた一郭があり、古くて巨大な墓石群がオーラを放っていてその入口脇に「備前藩池田氏之墓」と彫られた石標が立っています。ご住職によると、これらは比較的近年に、墓地内にバラバラに分散していたものを集めて整備されたということです。合計で十五基の墓石が並んでいます。ここで肝心な点は、この墓石群が全て「護国院の焼亡以前」のものであるということです。それ以降の池田家の死者は、やはりこの墓地には葬られていないようです。そして、やはりこれまで何度か、備前・池田家ゆかりの方や、歴史研究者の方の訪問があったようです。

池田家墓所の区画内は、参道を挟んで“T字”形に3つに区分されており、それぞれが同種、同系統の墓石でまとめられています。以下、被葬者が比較的明らかな墓のみ、推測をも混じえてご紹介していきます。なお「年代」は一切墓石上に確認出来ておらず、「慈雲院」に伝わったものか、被葬者の比定から当方が照会したものばかりです。

[参道奥の、小ぶりで慎ましやかな最古の「宝篋印塔」群](下段画像上左ほか)

正面の基壇上には、護国院(池田恒興)、養徳院の墓を含む、小ぶりな“和泉砂岩製”の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が六基、及び“花崗岩製”の燈籠形の墓(年代不明)が一基並んでいます。

お目当ての「妹」(慈光院)の墓は左端の手前側にあって、全十五基の墓石中、刻字が最も明瞭で、真っ先に目に飛び込んで来ました(会えた!!)。やはり「絵図」に描かれた、池田元信墓の脇の小さな墓石は、彼の母親のものだったのでしょう。なお上述したように、彼女の正しい戎号も「慈雲院殿花生永春大禅大姉」と判明した次第です。

池田恒興(護国院)の墓石は、文禄年中(1592-95)「護国院」創設時の、当墓所においては最古のものと思われ、他の「宝篋印塔」の年代も、「慈光院」の墓(寛永十四(1637)年)以外はすべて「慶長十五(1610)年以前」の墓石らしいことから、こうした砂岩製の小さく慎ましい墓石が、妙心寺における「初期の池田家墓所の様式」であったのでしょう。

そして、少なくとも池田恒興の墓と「妹」の墓は「護国院」からの改葬組であり、一方少なくとも養徳院(慶長十三(1608)年没)の墓石だけは「桂昌院」に立てられたはずなので、彼女はずっとこの境内墓地内に居たことになり、近代の「盛岳院」廃絶時に「木像」だけが岡山に引き取られたのでしょう。

[参道東側の「五輪塔」群]

一方、参道の東側には、大ぶりな花崗岩製の「五輪塔」が、五基並んでいます。やはり「護国院」から移されたと思われるこれら五輪塔群は、上記の「宝篋印塔群」に比べて、あたかも「別の民族か」と思うばかりの大きさです。これら寛永期(1620-30年代)の墓石は、まさに前回お伝えした「矢穴」による花崗岩採石技術が爆発的に浸透した時代の様式を呈しているのでしょう。

(「池田元信」の墓)

「池田元信」の墓石は、明治の「絵図」に描かれていた通り、まさにこの「大形五輪塔」の形式でした。戒号は五基いずれも極めて不明瞭ながら、列の最も奥(北)の墓石の「地輪」(立方体の部分)中央に、かすかに「本源永徹」(由之・由成系譜)の文字列が窺え、これが元信の墓石(寛永七年(1630)没)かと判断されました(下段画像上)。ちょうど参道左奥に「東面」している母親の墓と、「顔が向き合った」配置となっています。

ともあれ、遺骨を回収した奉行、池田美作信成は、祖母と父の墓石をこの旧「桂昌院」の地に移転させたものの、備前には持ち帰っていなかったことが確定しました。池田信成は“自分の家”に関しては「位牌と“分骨”だけを持ち帰る」にとどめたのでしょう。そして明治の絵図に「柵で囲った」彼らの墓所がキッチリ描かれているということは、池田信成が直々に「桂昌院」に供養を依頼したものを「池田美作」家、「盛岳院」に引き継がれて明治に至ったのではないでしょうか。

(赤穂藩主「池田政綱」の墓)

このほか、比定は出来ておりませんが、残り四基の五輪塔のいずれかに、「寛永十一(1634)年」に没した池田輝政の(徳川氏系の)五男「池田右京大夫政綱」の墓がある模様です(なお政綱の没年は「寛永四年」(諸家系図伝)、「寛永八年」(寛政重修、系図纂要))。

池田政綱は「播州・赤穂」城主で、「最古の赤穂の地図」として知られる彼の時代の「松平右京大輔政綱公御時代之絵図」等には、八割方完成された近世赤穂の都市区画や、慶安~寛文年間に拡張、改装される以前の「初期赤穂城」の「縄張」が見てとれます(小野真一「赤穂城絵図展」図録、赤穂市歴史博物館・2000)。なお彼の家系は政綱の死後は「無嗣子」の為に「絶家」となった模様です。

倉地克直氏の「池田光政の「妙心寺ノ事因州ヘ申遣書付」について」によると、「護国院」の廃絶が決定された後、鳥取藩主「池田光仲」が岡山藩主「池田光政」からの打診への返答として、「右京殿(池田政綱)御骨之儀 其元江御引 右近殿(池田輝興)御一所葬可被成之由 御尤存候」、つまり「池田政綱」と「輝興」の遺骨を「護国院」から備前に引き取るという光政の打診に対して、光仲が「ごもっとも」と承諾を与えています。これは光仲、政綱、輝興はいずれも「徳川氏(督姫)系」であるからです。よってこの両名の「遺骨」自体は備前まで搬出されたのでしょう。「寛政重修諸家譜」によれば、政綱は「備前岡山の少林寺に葬る」とあります。しかしながら、彼の墓石は「桂昌院」に残されて現在に至ったのでしょう。

(池田氏最後の赤穂藩主、「池田輝興」の墓は??)

なお、上記池田光仲の書状に記された「右近殿」こと「池田輝興」は、政綱の弟にあたります。彼は政綱の死後に播州・赤穂に入部、安定した冶政をおこなったようですが、のちに江戸で正室(黒田氏)と侍女を斬殺するというショッキングな「乱心」のため改易されてしまいます。そして身柄を池田光政預かりとされたまま、正保四(1647)年に岡山で没した模様です。戒名「少林院松巌英秀」(系図纂要)。彼の遺骨は「和意谷」の「六のお山」に改葬されています。「慈雲院」に彼の墓石が残留しているかどうかは不明です。

なお余談ながら、この池田輝興の改易により、慶長五(1600)年の池田輝政以来の、「池田氏による赤穂支配」は終焉を迎え、赤穂には正保二(1645)年、常陸・笠間から「浅野長直」が入部します。現在見られる赤穂城の石垣等はこの浅野長直時代に大改修されたものです(赤穂城絵図展)。そして長直の孫が、有名な「浅野匠頭長矩」です。言わば、池田輝興の「乱心」が、半世紀後の浅野長矩の「乱心」(赤穂事件)の“無数の遠因”の一つでもあるわけで、やはりすべての事柄は互いに関連し合っているのだと判ります。

[池田輝政、利隆の墓石は?]

なお、wikipediaに「池田輝政」の墓が妙心寺・慈雲院にあるというのは、なにかの間違いなのでご注意ください。池田光政が最重要視した池田輝政、利隆の二つの墓石だけは「池田履歴略記」が記した如く、伏見~大坂を経て船で搬出されたとは思います。もっとも光政の意向としては、祖父と父のこの「仏式」の墓石は「特に忌むべき存在」ではあったと思われ、岡山県では見つかっていません。池田輝政の墓を追跡された佐伯慈海氏による「不動院」(姫路城下の寺院、市内山野井町)サイト中の「池田輝政公」では、この移動中に墓が海中に沈められた可能性も指摘されています。あるいはキリシタンの墓の如く、どこか地中に埋められている可能性もあるのではないでしょうか。

[この他、「慈雲院」に墓石を残している可能性のある“仏”について]

備前・和意谷墓所「七のお山」の被葬者の内、以下の三名も「護国院」廃絶以前の死者、つまり、かつて「護国院」に墓があったと思われる人物なので、彼らも「慈雲院」に墓石を残している可能性があります。その三名とは

* 池田政貞。池田利隆三男。民部少輔。光政家臣。寛永十(1633)年没。

* 池田政虎。池田輝政七男。加賀守。光政家臣。寛永十二(1635)年京にて没。

* 池田利政。左近。摂津守。光政家臣。寛永十六(1639)年京にて没。Wikipediaによると戒名は「法清院殿月桂浄秋大居士」

そして各々の没年代から、彼らの墓石も、大ぶりな花崗岩製の五輪塔であったと思われます。

[参道西側の、巨大な「宝塔群」]

そして池田家墓所内というか、慈雲院墓地全体において、最も人目を引くと思われる墓石が、参道西に三基並ぶ巨大な花崗岩の「宝塔墓」です。これらは池田恒興の三男であった池田長吉―長幸―長常 系統の墓です。

「池田備中守長吉」は鳥取城主で慶長十九(1614)年没。

「池田備中守長幸」は、鳥取→備中・松山(高梁)城主で寛永九(1632)年没。

「池田出雲守長常」は寛永十八(1641)年に三十三歳で没し、備中・松山の池田家は「絶家」となっています。

またこの「宝塔」は、各一基に最大「三名合祀」されているようで、少なくとも池田長吉墓には、彼に二ヶ月先立って逝った夫人「趙州院」が、池田長常墓には殉死した?家臣「仁叟宗怒居士」がそれぞれ合祀されているようです。

そしてこれら巨大墓もまた、元和~寛永における採石技術の勃興を反映した様式といえましょう。

しかしながら、回収担当奉行「池田信成」にとっては、「今回の回収は困難…」と頭を抱えて国元に指示を仰いだのではないか?と思われる程の大きさです。その結果、「取りあえず…」という感じで「護国院」から撤収して「桂昌院」まで移されたのではないでしょうか。

なお、この「池田長吉」家は大名としては「断絶」したものの、その縁者が池田家の家臣となっており、この点は、信成の「池田・美作」家と同様です。「和意谷」に「池田長吉」系統の墓が無いのは、あるいは彼ら縁者も“儒教式”の改葬を望まなかった可能性があるでしょう。かといって、備前の仏教寺院まで、これらの巨大宝塔を移動するのはリスクがあり過ぎ、また「無縁仏」とするにはあまりにも巨大過ぎます。

これも「池田・美作」家と同様、ひとまず「桂昌院」に置かれたものが「池田綱政時代」以降に、池田長吉系の縁者によって、「桂昌院」を引き継いだ「盛岳院」の檀家として、密かに?明治維新まで供養が続けられたのではないでしょうか。

[池田恒利の墓は?]

上記、明治20年頃の「絵図」に記載された「池田恒利」の墓は今回確認しておりません。おそらく砂岩製の「宝篋印塔」様式と思われ、「絵図」には「戎号アリ」ということなので、塔の基礎あたりに「宗傳」の文字が刻まれているとは思うのですが。

[謎に包まれた「池田元助」の墓の所在]

さて、目下「慈雲院」境内において、「妹」の主人であった「池田元助」の墓も、確認しておりません。池田元助の「影の薄さ」については、上記“「之助」-「元助」問題のカルチャーショック”においても触れましたが、これは彼の墓や戒名に関しても言えることです。

備前・池田家にあっても、彼の実名が誤って「之助」とされてしまったのみならず、江戸中期以前の文書でも、その戒名が記されておらず、彼だけが、例えば、恒興→「護国院」、輝政→「国清院」といった諡(おくりな)で呼ばれることもなく、せいぜい「紀伊守殿」といったところでした。彼の戎名は「護国院」が「堂塔はいふに及す御位牌等も皆焼失」(池田家履歴略記)した混乱の際に失われたのでしょうか。(なお池田恒興は天正十(1582)年の織田信長の死に際して剃髪し、通称を「勝三郎」から「勝入」へ変えており、この頃に「紀伊守」の受領名も元助に譲られていたのでしょう。)

そして近世の池田家が、中世以来の本貫地、美濃・池田郡本郷村の「龍徳寺」に(恒興と共に)残されていた、元助の墓や戒名「顕功永節大居士」の存在を知るのは、安永八(1779)年という後世のことでした((谷口眞子「小牧・長久手の戦いの記憶と顕彰」)。美濃・龍徳寺は中世においては、池田氏の菩提寺であったらしく、文政四(1821)年に境内から、「天文七(1538)戊戌年」に没した「池田恒利」の墓石が出土していますが(上同)、元助の戒名の判明が、“18世紀末”であるということはやはり気になります。

なお判明した彼の戒名から、池田家ではどうやら「新たな位牌」が作られたらしく、「備前・池田家譜」によれば、「之助」の位牌が、「妙心寺・天球院」(2020年現在は無い模様)、「岡山の国清寺」(空襲で焼失)、「備前・天城の海禅寺」(今回無住にて未確認)、「鳥取の龍峯寺」、「高野山・悉地院」等にアリと記されています。私はこの他、天正十三年に「岐阜城」を引き継いだ池田照政(のち輝政)が父兄の菩提を弔うべく建立したという、岐阜城下の「護国寺」(岐阜市木造町)や、小牧・長久手で戦死した恒興、元助父子の遺体が運ばれて葬儀が執り行われた伝承を持つ「龍福寺」(岐阜県富加町)にも「元助の戒名」を問い合わせてみましたが、わかりませんでした。

[元助の??謎の「紀伊守」の墓石]

しかしながら、廃絶した妙心寺「護国院」は、元々養徳院が「小牧・長久手」で死んだ息子、池田恒興(護国院)の菩提を弔うべく建立した塔頭であったわけですから、恒興と一緒に死んだ嫡男であり、既に「紀伊守」を称して家督まで継いでいた当主、養徳院の孫でもある「池田元助」を弔わないはずはありません。元助の墓は絶対にあったはずです。よって、恒興の墓石同様、元助の墓石も「桂昌院」に移されてのち、「盛岳院」→「慈雲院」へと引き継がれた公算は大きいと思われます。

そして、「慈雲院」には一応、「紀伊守」と伝わる不思議な墓石があるにはあるのです!。

それは、砂岩製の「宝篋印塔」のひとつで、偶然ながら「妹」(慈光院)の右隣(?!)にある「西江院殿」と彫られた墓です(下段画像中央右)。「慈雲院」さんによれば、この「池田紀伊守」は「慶長五年十月十日」に没した人物と伝わっているとのことです。

「慶長五年十月十日」とは時期的には「池田輝政」がまだ三河・吉田城主であり、いわゆる「関ヶ原の合戦(庚子争乱)」後の混乱がまだ継続中の頃です(石田三成らの処刑は十月一日)。

(なお、池田輝政は八月二十三日に皮肉なことに、かつての自領であり、織田信長、信忠、池田元助、そして最後は「寿々」の息子である織田秀信が城主であった「美濃・岐阜城」を制圧しています。)

そして池田家の系図の類(寛永諸家系、寛政重修、系図纂要)には、この「紀伊守」のことは記されていません。加えて、池田家にあって「紀伊守」とは、恒利―恒興―元助と受け継がれた「嫡流」を表わす、ただならぬ受領名ではあります。さらに、死期が「関ヶ原」の混乱期という点も気になります。この人物自体の情報が後世に伝わっていないか、あるいは「慈雲院」さんに伝わった情報も、災害や、引継ぎの連続によって交錯しているかもしれず、「実は池田元助の墓石」が誤伝された可能性もあるのでは?と思います。

[「慈光院」の墓のサイズは、夫や父に合わせたか?]

ところで、慈雲院の池田家墓所の中で、「妹」(慈光院)の墓石だけは、寛永十四年七月十日没(備前・池田家譜)という「新顔」でありながら、慶長以前の小さな砂岩製「宝篋印塔」群と同じ仕様であるのは、15基中「唯一の例外」なのです。これは、彼女の意思も反映された可能性もありますが、また、一条家に再稼したという“遠慮”もあったかもしれませんが、なによりも彼女が「池田元助の妻」であり、「池田恒興の娘」であることから、かつての「護国院」の墓所に納められる際に、その位置やバランスを考慮して「同様の仕様」に決められたものと思います。

そして現在、彼女の墓が近年に「慈雲院」さんによって整備され、参道の奥、「池田恒興」と同じ基壇上の「左端」にあり、かつて彼女の面倒を見てくれた「養徳院」(池田勝造奉公書)に近い位置で、彼女の向かって右隣には謎の「紀伊守」(元助??)が肩を並べ、向かって左隣には「小牧・長久手」で命拾いした弟「長吉」の宝塔があり、参道を隔てて息子「本源永徹」(元信)と「向き合って」いるのは、とりもなおさず「天正期・池田ファミリー」が集っていて「最良の配置」といえるのではないでしょうか。

[「天球院」の池田忠継、忠雄の墓]

一方、塔頭「天球院」についても少しみてみましょう。

上述した明治20年の「京都妙心寺塔頭天球院・慈雲院境内御墓所之図」における「天球院」境内の描写においては、三基の大きな「宝塔」に「天球院殿」、「忠継公」、「忠雄公」と記されており、もう一基、記載の無い巨大な「五輪塔?」が描かれていました。塔頭「天球院」に、徳川(督姫)系の池田忠継(元和元年岡山没)、池田忠雄(寛永九年岡山没)の墓があるのは、幾分不自然であり、やはりこれらも「護国院」に分骨された墓があったものが、寛文六(1666)年末の「池田信成」による撤収時に「天球院」に引き取られたのではないでしょうか。これら墓石の年代等については、また「特別拝観日」にでも確認してみたいと思います。

[まとめ:「池田履歴略記」に記された「墓石搬出」の記事を見直す]

さて、今回「慈雲院」(天球院にも?)に意外にも多く残されていた墓石たちから、寛文六年(1666)末に「池田美作守信成」らを責任者として行われた「護国院」からの遺骨、墓石の「回収作業」のあらましも、今や軌道修正をする必要を感じます。

これまでの見解は、寛政期の「斎藤一興」が書き写した「池田履歴略記」おける十五箇条にわたる池田光政による「覚書」や家譜類における記述内容が、「そのまま事実とされた」きらいがあります。

光政による「覚書」は詳細に練られており、それを書き写してくれた「斎藤一興」にも敬意を感じますが、これはあくまで「事前の指示書」、「設計図」であって、実際の「施工現場」はさらに「複雑で多様」、「実現が困難」だったであろう、ということです。

例えば「慈雲院」に残されている「池田長吉」らの巨大な三基の宝塔なども、現場レベルで「取りあえず今回の搬出は無理」と急拠、指示を仰いだのかもしれませんし、あるいは「桂昌院と相談」して移動したのかもしれません。

また、回収担当奉行、「池田信成」にとって、個人的に重要だったはずの祖母(「妹」)や父「元信」の墓石なども、立場的、優先順位的にも「残留組」とされた可能性があり、あるいは彼の「本音」としては、「これで京に残しておける大義名分が出来た」と喜んだのかもしれません。

そしてこれら「残留組」の墓石は、ひとまず「桂昌院」に(一部「天球院」にも?)移されたのでしょう。

「桂昌院」の故地は「妙心寺南総門の西」であり、境内はその後、時期不明ながら「盛岳院」に引き継がれ、明治11年以降は「慈雲院」に引き継がれて現代に至ったということです。

そしてこれらは「池田光政」の死後、「池田綱政」の「雪解け」時代以降に黙認されて、池田家が非公式に、あるいは遺族が「家臣レベル」で供養したのではないでしょうか。少なくとも三基の宝塔などは「無縁仏」とするにはあまりにも大き過ぎますし、池田家としても体面上、放っては置けないでしょう。

明治20年頃の「京都妙心寺塔頭天球院・慈雲院境内御墓所之図」における「慈雲院」境内には、池田恒利、恒興の墓がちゃんと「基壇上」に奉られており、池田元信の墓所も柵で囲われていることから、少なくともこれらは「無縁仏」ではなく、ちゃんと供養されていたことがわかります。また、完全ではないものの、「慈雲院」には、おそらく「盛岳院」から引き継いだ「過去帳」が伝わっていた可能性もあります。

最後にもう一度、斎藤一興の「池田履歴略記」に記されたフレーズを噛み締めてみましょう。

「其後此寺地へ住僧自身一寺を建立し盛岳院と号し今寛政に至れりと云 盛岳院の事 池田家より建立あらされは 黙してしるさす」

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[追記:相国寺の「善応院」(池田元助、輝政の実母)の墓]

さて、池田恒興は家臣、「荒尾善次」の娘を妻としており、彼女は元助、輝政、長吉、長政(家臣となる)の母親でもありました(寛永諸家系)。「妹」にとっては「姑」にあたります。

池田輝政は慶長九年に亡くなったこの母の菩提を弔うため、京の相国寺に塔頭「善応院」(彼女の法名)を創設しており、彼女の墓は、上記明治の「美濃龍徳寺及京都各墓所略図書類等」中の「京都相国寺塔頭善応院境内御墓之図」にも描かれています。

塔頭「善応院」は明治後期に至って足利義輝の菩提を弔う「光源院」に吸収合併されましたが、彼女の墓は今も「光源院」の墓地に見ることが出来ます。位置的にはかつての「善応院」の墓地を踏襲しているようです。去る1月16日、この善応院の墓にも参ってみました。

彼女(善応院)の墓は、やや大ぶりの花崗岩製の「宝篋印塔」で、妙心寺の宝篋印塔に比べて“新しい”印象を受けました。基礎の正面に「善応院殿松岩寿真(?)大姉」と戒名があり、背面は「慶長九(1604)歳甲辰七月六日…」と命日がありましたが、向かって右側面には「此寳塔為百年遠複(?)建立…」「元○十四(?)…七月…」とありましたので、「百年遠忌」(元禄十六(1703)年が相当)に際して、建て替えられたものでしょう。なお元禄十四年は、赤穂藩主の浅野長矩が江戸城で吉良義央に斬りつけて切腹、改易となった年です。

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[エピローグ・「妙心寺」と「平安京」とのオーバーレイ]

余談ながら今回、妙心寺の境内を“不審人物”の如く怪しく歩きまわった私ですが、そういえば27年前も同じような事をしていた(汗)事を思い出しました。1993年秋、私は妙心寺境内の、特に北側と西側の「地形の段差」に夢中になって、やはり怪しく写真に収めたりしていました。もちろん「段差の観察」という行為が人々から理解されて、その一般向け関連本が出版される世の中が到来するなんて、全く思いもよらない昔のことです。(しかも44年前に夢中になっていた、”Monty Python”を紹介する日本番組のラストコーナーで5分間“ハナモゲラ”などを演っていた不思議な人物によって。ちなみに”Monty Python”のTerry Jones氏もこの1月21日に亡くなりました(合掌)。この方も中世史に造詣深く、今世紀に入ってからもBBCで“Terry Jones’ Medieval Lives”(「テリー・ジョーンズの”中世の様々な人生“」といったところか)というユニークな歴史番組などを手がけておられ(youtubeで見られます)、不肖私などもこういう”ケッタイなスタイル“に憧れたものです。)

さて、あまり知られてはいませんが、14世紀以来の禅寺である妙心寺境内は、8世紀末にプランされた「平安京」の条坊のグリッドを若干踏襲しています。その北総門は、平安京の北端を画する「一条大路」を踏襲した「一条通」に向けて開いており、また南総門は、やはり平安京の「近衛大路」を踏襲した「妙心寺通」に向けて開いています。そして境内の西端は、平安京の西端を画する「西京極大路」ラインにほぼ相当します。要するに「妙心寺境内」は、8世紀末の「平安京の北西角」のプランを占位しているわけで、平安中~後期の「花園離宮」の“後裔の地”でもありました。私は妙心寺まで「平安京(の痕跡)を見に」行っていたのです。問題は、10世紀初頭の「延喜式」に規定された平安京「大路」の幅が、側溝も含めると「十丈」(約30m)もあったことでした。そして、「平らな都市」と思われがちな平安京ですが、その北西端に位置する妙心寺周辺には、明らかに平安以前の、地質時代に形成された「坂」や「段丘崖」、河川の穿入(せんにゅう)谷が存在していて結構「3次元的凹凸」を形成しており、それらの「段差」や「崖」は、必ずしも想定される「大路」ラインとは整合していません。つまり、段差を観察した目的は、よくイラストやCGなどで復元されていた「整然とした平安京の北西角プランは実在したのか?」を検討するためでした。と、いうのは、当時、数ヶ月後に完成させなければならない「平安京模型」(縮尺1/1000)上に、そのエリアを「3次元的」に再現する必要に迫られていたからです。結局、このエリアにおける「十丈巾の大路」は、それこそ「現代の高速道路」並に、相当な「盛土」もしくは「削り込み」を加えるか、あるいは「半・高架道路状」にしなければ、実現が難しかったと思われ(正直ドキドキしながら)その一部は「現実的な」幅10m程の「小路」規模で妥協されたのであろう、という解釈での模型表現となりました。その3年後の1996年、当エリアのさらに南二町にあたる、JR花園駅周辺の「平安京」~西に隣接する「法金剛院跡」の発掘調査等において、「幅十数mに狭められた」平安後期の西京極大路が京都市埋蔵文化財研究所によって検出され、私は「もっと西京極大路を狭めておいてもよかったか…」と少し後悔したものでしたが。ちなみにJR花園駅の高架下からは、「法金剛院」の広大な「池」が検出されており、花園駅の南数十mの市街地中には、今も平安時代の「庭園の築山」が「墓地の小山」と化して残存しています。

ともあれ、“上意”による「完璧ながらも幾分極端な仕様書」が、現場の担当者によって、「より現実的な仕様に修正、妥協」して施工された点においては、この同じ場所で展開された「8世紀末の平安京造営プラン」と、「17世紀後半の護国院墓地の備前への撤収プラン」は“符合”しています。

つづく。(文責:中島康隆)

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