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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第四回

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シリーズ・「摂津国衆、塩川氏の誤解を解く」 第四回
寿々(鈴)姫と三法師の周辺③
~塩川家は多田源氏の末裔??~

今から24年前の平成4年、岐阜市で発行されている「郷土研究・岐阜 62号」に郷土史家の松田亮さんによる
「織田信忠の内室寿々(鈴姫)  ―摂津多田山下城主塩川伯耆守国満の娘―」
という論考が掲載されました。
この発表は近年、「塩川伯耆守(実際は長満)の娘が織田信忠に嫁ぎ、三法師を産んだ」という史実が見直され始めた嚆矢と言えるでしょう。
松田氏は「織田氏系図(群書類従本)」、「荒木略記(同)」を基本史料とし、他に「信長公記」「川西市史」の引用から、彼女の墓のある大津市の坂本の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)や川西の塩川利員氏への取材までされています。(なお、文中の彼女の位牌銘に「徳美院」とあるのは「徳寿院」の間違いです。)
この論考が世に出た後、新聞の川西版でもこの話題が紹介されたそうです。しかし現在、残念ながらこの話が地元にしっかり根付いているとは言いがたい状況です。

ともあれ、基本史料を見ていきましょう。

まず「織田系図」ですが、これは川西市中央図書館にも置いてある「続群書類従」の第六巻上に掲載されています。146ページの織田信忠の項に

「娶(めとる)塩川伯耆守(摂州多田城主)女」

とあります。信忠の女性関連の記事はこれだけです。彼女だけなのです。
なお系図の「秀信(三法師)」の項(同ページにある)には「天正八年戌辰生濃州岐阜城」とあります。荒木村重の乱時に織田信長、信忠、塩川長満の3者がもっとも接近する天正七年三~四月(信長公記)の、まさに翌年に三法師が生まれていることは記憶されてよいでしょう。
「織田系図(群書類従本)」は甲田利氏の「群書解題」によると、彰考館(徳川光国が設立した歴史書編纂施設)の編纂による諸家系図纂巻十三所収からの写しで、原本は尾張の法華寺所蔵にあったのを元禄九(1696)年に彰考館のスタッフが写したもののようです。

続いて「荒木略記」における「塩川伯耆守」の記事を見てみましょう。同記の冒頭近くに、

「天文弘治之頃(1530~60年頃)。摂津国之城主、池田之城に池田民部大輔勝政。伊丹之城に伊丹兵庫頭。有馬郡三田之城に有馬出羽守。能勢郡に能勢十郎。多田に塩川伯耆守。高槻之城に和田伊賀守。」

と、摂津の国人領主(国衆)たちの紹介をしています。池田勝政と伊丹兵庫頭以外は行間に注釈が書かれており、このうち塩川伯耆守の分が最も長い注釈になっています。

「塩川伯耆守。是は満仲の子孫と申伝へ候。それ故伊丹兵庫頭(忠親)妹の腹に娘二人御座候。壱人は信長公嫡子城之助殿(信忠)の御前。壱人は池田三左衛門殿(輝政)之兄庄九朗(元助)室にて御座候。池田出羽守(由之)継母にて御座候。後に城之助殿御前は一條殿(一条内基)北之政所。庄九朗後家は一條殿之政所に成申被れ候」

まず「満仲の子孫と申伝へ候」から塩川氏が多田源氏の末裔を称していたことが重要でしょう。平安末期以来、多田の地は鎌倉の源頼朝、執権北条氏らに撹乱され、実際の「多田源氏の嫡流」は残り様がなかったと思われますが、少なくとも鎌倉時代後期以来、塩川家は源満仲の廟所である多田院の荘園(多田院が経営する領地)の筆頭管理者ではありました(多田神社文書)。
また、「高代寺日記」の記述は、塩川家が源満仲の曾孫である源頼仲の子孫である事を示唆しています。

そして、獅子山城でみつかる軒平瓦には「桔梗紋」が刻印されています(写真参照)。これは平成12(2000)年に山下町の藤巴力男氏らが植樹の際に発見されたものです。
塩川氏の文献には全く桔梗紋の情報がなく、「高代寺日記」には「獅子牡丹」を用いたことだけが記されていたのでこれは大きな驚きでした。さらにこれは日本最古の家紋瓦ではないかと思います。

沼田頼輔氏の「日本紋章学」によれば、桔梗紋は源頼光(満仲の子)の子孫を称する家に多く用いられており、江戸時代には頼光自身が用いていた伝承が残っていました(「見聞諸家紋」)。
桔梗紋といえば一般には「水色桔梗」で知られる美濃の土岐氏がルーツであるかのように思われていますが、これは「太平記」の記述から有名になりすぎたきらいがあります。現代では歴史ドラマなどで土岐氏の一族とみられる明智光秀が用いていて(根拠は「明智系図」。沼田頼輔氏による)、「桔梗紋」=「土岐氏」は超有名な概念になってしまいました。
しかしそもそも土岐氏は源頼光の孫、国房が美濃土岐郡に住み着いた美濃源氏がルーツであり、そういう意味では源頼光自身の荘園であった当地、多田こそが「桔梗紋」の本家である可能性も出てきたのです。
ともあれ、塩川氏による城での桔梗紋の使用は、我こそが源満仲の子、源頼光の子孫であることをアピールしていた事の表れと考えられます。

「信長公記」によると、天正七(1579)年三月七日、荒木村重の有岡城包囲網のなか、いったん安土に帰っていた織田信長が再び塩川長満の守る「古池田」の陣城に戻って来ました。信忠もすぐ隣の賀茂(川西市)の陣城を拡張します。

「三月十四日、多田の谷御鷹つかはされ候。塩河勘十郎一献進上。其時御道複(服、どうぶく)下され頂戴。忝(かたじけな)き次第なり。」

信長が鷹狩のため、川西盆地に入りました。ホストを務めた塩河(川)勘十郎は「高代寺日記」に出てくる家老、安村勘十郎と同一人物と思われます。(余談ながら彼の子孫は鳥取藩池田家家臣として明治維新まで「塩川勘十郎」を代々襲名します)
信長の鷹狩は視察や観光地巡りを兼ねることが多いのですが、この時はどこを巡ったのでしょう。鼓ヶ滝や平野温泉も考えられますし、織田風スタイルの獅子山城天守や城下町を遠望したかもしれません。が、なにより私は源満仲の廟所である多田院は外せなかったと想像しています。
多田院はおそらく荒木村重の反乱の初期、まだ信長が救援に到着する前の天正六(1578)年十一月初旬頃に荒木村重方によって火を放たれたと思われるので、信長が訪ねたとすれば、無残に焼け崩れた状態だったでしょう。
しかし、荒木方に屈さず、孤軍で支えた塩川家が、まさに当地における「源氏の末裔」となれば、
「信忠との婚姻もさほど不つり合いではあるまい…(一応織田家は平氏の末裔を称していた)。」
信長にとって、そういった値踏み、大義名分を構想しながらの鷹狩だったのではないでしょうか。

(以下、余談ながら、)
なお信長が鷹狩の途中に民家に立ち寄って、塩川伯耆守の民政の評判を尋ねた云々の話は「信長公記」にはなく、同記をベースに脚色、創作した小瀬甫庵の「信長記」に記されているエピソードです。
塩川の領民から「伯耆守こそ毎物淳直を事とし給ひて万民穏やかなる事をのみ好ませ給ふなれ」と聞いた信長が感心して森乱(いわゆる森蘭丸)らを派遣して塩川に「銀子千両」を与えたというものです。
原本である太田牛一の「信長公記」には簡潔に「四月十八日、塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候。御使森乱、中西権兵衛相副へ下さる。過分忝き(かたじけなき)の由候なり」とあるだけです。
褒賞の理由が「過分忝き(かたじけなき)の由」、つまり「大変なお働きがかたじけなかったので」とありますから、これはまず今回の軍役に対しての感謝でしょう。(さらに余談ながらこれは森乱(成利)の史上デビュー記事です)
甫庵は「太閤記」の作者として有名ですが、とにかく話を勝手に「道徳話」に変えたり、「盛ったり」する常習犯で油断が出来ません(有名な例として、長篠の合戦での織田軍の「鉄炮千挺ばかり」(信長公記)が甫庵によって「鉄砲三千挺による三段撃ち」に誇張され、このウソが歴史の教科書にまで載ってしまった)。そんな甫庵ですから私もうっかり「銀子百枚」を「銀子千両」に盛られた、とこの稿の初稿で書いてしまいましたが、これは当方の不勉強で、「秤量銀貨」では「一枚」が「十両」(161g)にあたるそうで、甫庵は金額的には本当の事を書いていました(汗)。謹んで訂正致します。なおこの時、信長から褒美に与えられた銀は16kgですから、塩川時代にはまだ多田鉱山での銀の生産はほぼなかったことがわかります。
不幸なことに良質な太田牛一の「信長公記」は世間に知られず、B級ドラマである甫庵「信長記」が江戸初期のベストセラーになりました。「高代寺日記」や「多田雪霜談」の作者もこの話を」甫庵「信長記」から引用しています。「川西市史」で「「多田雪霜談」は「信長公記」の影響を受けている」とあるのは、明らかに間違いで、実際は甫庵「信長記」を通じた「孫引き」に他なりません。)

(④につづく)

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