「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第26回
天文十年(1541)以前の塩川氏の拠点「平野・新田村」、及び、平野、笹部に勧請された「源氏の氏神・平野神社」(導入部)
天文「二十年辛亥(1551)正月大庚寅(元旦)国満 其家人五十余輩ヲ集 平野馬場ニ馬揃 与力三十余人 此催促ニ応ス」
皆様、明けましておめでとうございます。
令和三年も当「塩ゴカ」を、何卒宜しくお願い申上げます。
ところで皆様はもう「初詣」は済まされましたでしょうか。
さて、冒頭に呈示致しましたのは、今からちょうど470年前にあたる「高代寺日記」における塩川国満による「初詣」というか、正月行事の様子です。
この「馬揃」(うまぞろえ)とは馬を使った一種の「パレード」で、本稿においても「足ソロへ(賀茂競馬足揃)」(近衛信尹の「三藐院記」慶長六年(1601)五月一日条)や、「織田信長」の主催による天正九年(1581)の京における「馬揃」(信長公記ほか)の記事をご紹介しています。なお「明智光秀」を担当責任者とした後者「馬揃」には、織田信長自身の指名により、塩川長満の二大家老「塩川吉大夫」と「塩川勘十郎」も参加しています。
しかし冒頭に示したように、その30年前の「塩川国満」もまた、地元で「馬揃」を開催していたのですね。
この時点の「塩川国満」は、既に笹部村の「獅子山城」(いわゆる山下城)に移転して十年目にあたるのですが、ここに記された「平野馬場」とは、私は、現在の川西市平野の「多太神社」前の段丘面上に見られる「北東―南西方向に伸びた不自然な直線道路」がその名残か?と推測しています(後述)。
要するにこの記事は、かつて「平野明神」と呼ばれた現・「多太神社」における正月の神事を記したものと思われます。
ところでこの「川西市・平野」地区ですが、どうして「さほど平らかでもない地形」なのに、「平野」という地名が付いているのでしょうか??
また「平野」といえば、「東谷ズム」のイベント会場でもあった「平野神社」が思い起こされますが、どうして「川西市・笹部」地区に「平野神社」があるのでしょうか??(「平野」地区にではなく)
どうやらこの「問い」を解く「鍵」は、「塩川国満」が活躍した400年以上前の「戦国時代」、及び、「源満仲」が「多田荘」を開発した1000年以上前の「平安時代」にあるようです。
今回はこのテーマをまず、かつて「戦国1日博物館・第2会場」において展示していた「地図」や「空中写真」から辿ってみたいと思います。
それでは第2会場(リンク)に移るとしましょう。
(2021,1,1 文責:中島康隆)