秀吉は、塩川国満の領地多田庄の銀山を我が手に収めんとして、天正14年、大軍を発した軍勢は、多田荘に乱入して、獅子山の城(山下城)を包囲した。然し破竹の勢いの秀吉軍の前には、歯が立たず、遂には城主塩川国満以下一族郎党は、枕を並べて自刃し、塩川家は無惨なる最後を遂げ滅亡したのである。
此の激戦のさなか、国満が平素可愛がっていた一羽の小鳥を、情け容赦なく敵軍の手で無惨にも城内の井戸に投げ込まれ、悲鳴と共に身を渉した。しかし、鳥にも人間の温かさを忘れない美しい心情がある。正月が訪れる毎に此の鳥は主人を思い出すかのように城山山頂で「国破れて山河あり」と鳴く声が訴へるかのように高く鳴き続けたと伝わる。
又、落城の時、一人娘の姫が腰元を連れ、山を下り、落ち延びんとしたが、猪名川の畔まで来た所、雲かのような続く秀吉の大軍を望んで最早逃げるすべなく観念して、川に身を投げ自殺したといわれる今の猪名川上流にある姫が淵(ひめがふち)、うら乙女が自ら命を絶った最古の場所とされている。
もう一つ不思議な事は、此の山下住民は、七日に家を出て九日帰宅する事
は大凶として禁じ、七日家を出た者は、どんな事があっても九日には帰らない言い伝えが残っている。城主が七日城を出、九日帰城討死したと云う悲運に基づいたもので、皆が名君を慕ふ国満を思う城下住民の心情が今も形となって残っている。
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